本来なら、離婚した身で再び田中家に足を踏み入れるべきではない。けれど、長年にわたり田中家は菅原麗への不信を次第に信頼へと変えた。たとえ離婚しても、彼女は田中家の内情を誰よりも把握し、きっちりと仕切ってきた。人徳で人を動かす彼女に、今も家中の者たちは頭が上がらない。実のところ、田中仁のためでなければ、菅原麗はこんなに口を出すこともなかった。すべては、彼が田中家でしっかりと地位を固められるようにと考えてのことだった。そんな彼女が急ぎ足でやってくると、三井鈴が田中陸の隣に座っているのを目にし、途端に警戒心を露わにした。「鈴ちゃん!」三井鈴はすぐに顔を上げた。「麗おばさん」「来てるなら一言知らせなさいよ。こんな隅っこに隠れて、外の人に見られたら、うちがあなたを虐げてると思われるじゃない」菅原麗は田中陸をまるで視界に入れず、彼女の手をしっかりと握った。三井鈴は何も言えなかった。田中仁から来るなと釘を刺されていた以上、公の場に顔を出すわけにはいかなかった。「ちがうの……私と田中……」「あなたと彼がどうなろうと私には関係ない。でもね、あなたは私の名義上の娘でもあるのよ。出入りするときは堂々と正面から来なさい。裏口なんて、まるで格下の家みたいじゃない」そう言いながら、菅原麗は田中陸に冷ややかな視線を投げた。誰に向けた言葉かは、明らかだった。田中陸はどこ吹く風といった様子で、にこやかに答えた。「菅原さん」菅原麗は彼のスマホ画面をちらりと覗き込んだ。「新しい彼女かしら?」田中陸は画面を閉じ、肯定も否定もしなかった。「気をつけなさい。あなたのお母さん、あちこちで縁談を探してるって聞いたわ。その期待を裏切っちゃダメよ」田中葵は田中陸のために名家との縁談を進めようとしていた。それは彼にとって大きな後ろ盾になるはずだった。だがこの世界には、暗黙のルールがある。正統な跡取りは正統な家の娘と、私生児は私生児と、養子でさえも飾りにしかならない。誰も私生児に正妻の座は与えない。だから田中陸は、ずっとその輪の外に置かれてきた。田中陸は背もたれに身を預け、テーブルに肘をついたまま髪をかきあげた。「関係ないさ。兄さんはもう別れたんでしょ?だったら私が誰か見つけるのは簡単なことですよ」その言葉の矛先が三井鈴に向けられているのは、誰の目
田中仁は、もう抑えきれそうになかった。両手で三井鈴の腰を抱き寄せ、もっと深くキスしたくて、もっと彼女を求めた。このまま彼女を抱きかかえ、彼女を寝室へ連れて行きたい。だが、三秒も経たないうちに、田中仁は彼女を突き放した。肩で息をつき、低く重い声で言い放つ。「三井鈴、自重しろ」彼がそんなふうに「自重しろ」と自分に言ったのは、三井鈴にとって初めてだった。何度も拒まれ続けたその言葉に、彼女のプライドは深く傷ついた。すぐに彼から手を離し、気まずそうに黙り込んで、その場に座り込んだ。「君の家の警備にはもう連絡した。すぐ迎えが来るはずだ。それと数日後の式典、君は来なくていい。私たちのことは田中家でも理解している。誰も責めたりはしない」田中仁はそのまま立ち上がり、背を向けた。三井鈴は黙ったまま、何も言わなかった。返事を待っていた田中仁は、ついに振り返った。三井鈴は涙を拭い、すでに顔は冷たくこわばっていた。「もうあなたなんて大嫌い」幼いころと同じだった。欲しいものが手に入らないとき、わがままを言って、怒って、必ずこう口にした。「もう大嫌い」田中仁、あなたなんて大嫌い。彼は彼女に「嫌い」と言われるのが何よりも嫌だった。だからいつも、そう言われるたびに心が揺らぐ。このときも例外ではなかった。だが今回は何も言わず、彼女を慰めることもせずに背を向けた。門の向こうにはすでに警備の姿が見えている。田中仁はそのまま田中家へ戻り、門を背にして、指先で唇を強くぬぐった。そこにはまだ、彼女の味が残っていた。三井家のお嬢さまである三井鈴にとって、欲しいものを手に入れることはあまりにも簡単だった。ほんの少し手を伸ばすだけで、何もかもが彼女のもとに集まった。田中仁に関しても、それは同じだった。何も言わずとも、彼はずっと傍にいた。けれど、今回は違った。三井鈴はわかっていた。二人の間に横たわるものは、秋吉正男と寺で顔を合わせた、ただそれだけの問題ではない。「別れたくない」と言ったのも、ただの甘えや駄々ではなかった。田中家の式典の日。式典は盛大そのもので、車は通りの端から端までずらりと並んでいた。日本人の家系である田中家は、こうした行事も本国の作法に則って執り行われていた。広々とした屋敷には人があふれ、一人ひとりが線香と菊を手に、順番に祀壇へと
三井鈴はその目で見下ろされた瞬間、胸の奥を鋭く刺されたように感じた。田中仁は黒いシャツを身にまとい、上のボタンを二つ外していた。夜の闇にその存在感は際立ち、男らしい威圧感を放っていた。彼は近づき、ただひとり、路肩のベンチに座る彼女を見つけ、眉をひそめた。「処分しろって言っただろ」「あなたの手で処分して」三井鈴はそう言って、書類を彼の手に押し込んだ。田中仁は書類を開き、中を一瞥した。そこにあったのは何枚かの白紙。彼は眉を上げ、上から彼女を見下ろした。「嘘よ。あの日、書類なんて取り違えてない」彼はそのまま背を向けて歩き出した。だが彼女はそっと彼の裾を掴んだ。まるで子猫のように、必死に離そうとしなかった。男の体格に彼女の力では到底敵わず、歩みの勢いに引きずられるように三井鈴は転んでしまった。鈍い音とともに地面に倒れ込み、腕にはすぐ赤い擦り傷が滲んだ。田中仁はすぐに立ち止まり、振り返った。片手で彼女を引き起こし、元の場所に座らせる。身を屈め、怒りで胸を上下させながら、鋭い目を向けた。「教えてくれ。三井鈴、君は一体何がしたいんだ?」三井鈴は痛みに顔をしかめながら、荒い息をついて言った。「あなたに会いたかった。話がしたかったの」「何を話すって?」田中仁は彼女の頬を指で挟み、無理やり自分の漆黒の瞳を覗かせた。「その男のために、足をひねってまで周りに誤解させて、私を利用して話題作りした。今さら何を言うつもりだ?」無理やり顔を上げさせられ、目の端が熱くなる。三井鈴は唇を噛み、込み上げる悔しさと涙を必死に堪えた。「彼のためじゃない。私はただ、何が本当なのか知りたかっただけ。私が悪いの?」二人とも賢い。わざわざ言葉にしなくても、互いに何のことを話しているのかはわかっていた。「それで?もう全部わかったなら、あいつのところに戻るつもりか?」田中仁の指先は冷たく震えていた。その震えには抑えきれない衝撃が宿っていた。三井鈴は首を振り、彼の手をじっと見つめた。「震えてる。あなた、そんなに怖いの?」田中仁はほとんど感心していた。こんな状況でも、彼に問いかけ、挑発できるのは三井鈴だけだった。「気にしない」その言葉を一語一語はっきりと言い切ると、彼は彼女を離し、背を向けて歩き出した。「田中仁!」三井鈴は叫んだ。しかしすぐ
しばらく宥め続けたあと、祖父はようやく機嫌を直した。「次はこんなこと、許さないからな」三井鈴は救われた気持ちで、真理子にティッシュを差し出しながら笑った。「でもおじいちゃん、人を叩いちゃだめだよ……」「叩いてなんかいない。ただ少し言っただけだ。そしたら勝手に泣き出したんだ」真理子は今にも泣きそうな顔で声を震わせた。「おじいちゃん、迫力がありすぎて、怖くて泣いちゃったんです……」三井鈴は困ったように苦笑した。そのとき、祖父の三井蒼が杖でコツコツと床を叩きながら口を開いた。「もうすぐ田中家の祖霊祭が百周年を迎える。旧知の家柄も多く招かれていて、三井家もその一つだ。お前の兄さんは大事な仕事で出られん。うちからは俺とお前、どちらかが顔を出さねばならん。さて、俺が行くべきか、お前が行くべきか」田中家の祖霊祭が百年の節目、田中仁が帰国した理由はきっとそのためだったのだろう。彼は昔からほとんど本家に顔を出すことがなかった。三井鈴には祖父の意図がわかっていた。こうした名家同士の大きな式典には、きちんと顔を出す者が必要で、部下に任せて済む話ではない。「おじいちゃんは体のこともあるし、ここ何年も外には出てないんだから。こういう場は私が行くよ」少し考えた末に、そう答えた。「世の中のことには関わらないようにしてきたが、お前のこととなると話は別だ。必要とあらば動くつもりだ」三井蒼は意味深げにそう言った。「私が行く。ちゃんとやってみせるわ」三井鈴はそう言って、口元に微笑みを浮かべた。三井家のテラスには花と緑がいっぱいに植えられていた。真理子はブランコに腰かけていた。「本当に行くの?元カレと顔を合わせるんだよ。絶対、気まずいんじゃない?」三井鈴はさっきの門のところでの出来事を思い出し、返す言葉がなかった。実際、会えるかどうかさえ怪しかった。彼は明らかに、会いたくないと思っている。だから三井鈴は、式典が始まる前に、一度彼に会っておこうと決めた。夜も更けた頃。彼女は昼間真理子が座っていた場所に腰かけ、携帯を抱えて彼にメッセージを送った。――座談会のとき急いでいて、あなたの書類を間違って持ってきてしまった。返しに行くわ。しばらく返事はなかった。待っている間、三井鈴はもどかしく胸がざわつき、空を見上げて星を数えて時間
それにしても、三井鈴は足を捻挫する回数が少し多すぎた。あの日の座談会でも、ただ田中仁の同情を誘いたかっただけだったのに、本当に足をひねってしまい、そして本当に泣いてしまった。そのことを知った祖父は心配でたまらず、名医をいろいろと探していた。三井鈴がもう浜白に戻ってきていることなど知らずに、今も三井家中を探し回っていた。真理子は三井鈴の部屋で取り繕っていたが、すぐに三井正非に見抜かれた。「正直に言いなさい。鈴は一体どこに行ったんだ!」真理子は泣きそうな顔で答えた。「その……お出かけの用事があるって……」「足を怪我してるのに、運転手も護衛もつけずに、どうやって出かけるっていうんだ!」脅されて耐えきれず、真理子はついに泣き出してしまい、その泣き声は通り中に響いた。ちょうどそのとき、田中家の本宅近くを通りかかった田中仁は、その泣き叫ぶ声を耳にした。車に同乗していた菅原麗も聞いてはいたが、深く気に留めず、三井鈴の声だと思い込んでいた。「三井家は何をしてるの?もう大人なのに体罰なんて。ちょっと見てくるわ」菅原麗が車のドアに手をかけたそのとき、田中仁がそれを制した。「子供の頃からずっとだ。三井家が彼女に手をあげたことなんて一度もない」菅原麗は一瞬きょとんとして、すぐに納得した。ちょうどその時、後ろの車がクラクションを鳴らした。かなり急いでいる様子だったが、田中仁の車が動かないのを見て、運転席の窓を下ろし怒鳴った。「いつまで止まってるの?早く動きなさいよ!」それは、三井鈴の声だった。真理子から連絡を受けた三井鈴は、急いでフランスへ戻ってきた。あと少しで着くというのに、目の前で道を塞がれている。足を捻挫していなければ、とっくに車を降りて歩いて行っただろうに。「鈴ちゃんだわ!」菅原麗はうれしそうに声を上げた。田中仁はフランスではレクサスには乗らず、車を替えていたため、三井鈴は彼だと気づいていなかった。相手の無礼さに腹を立て、運転手に言い放った。「ぶつけていいわよ。壊れたら私が弁償する」運転手は驚いた。三井鈴に支払える力があることは疑っていなかったが、その車のナンバーは見覚えがあった。「前の車、田中家の長男の車ですよ」三井鈴はその言葉に固まった。そんなはずはと思いながらナンバーを確認すると、案の定、ゾロ目の「666」
フランス。豊勢グループ幹部会議室。「国内は今、大騒ぎです。安田悠叶が生きていた。それを知っていながら報告しなかったと、鈴木さんが上からひどく叱責されました」広く明るいオフィス。田中仁は赤司冬陽に背を向けたまま、本棚から一冊の本を取り出していた。驚いた様子はまったくない。「大崎家が裏で彼を匿っていました。もう二度と警察に戻ることはないでしょう。これからは恐らく実業家として生きていくはずです」赤司冬陽はそう分析した。田中仁はそれについて何も言わず、次の報告を静かに待った。「それと……三井さんが浜白に戻りました。この件、彼女がどこまで把握しているかは……」ときに、言葉を濁すことが一番雄弁な答えになる。田中仁の手がページをめくる途中で止まった。だが、それもさして驚いた様子ではない。「ここ数日、恋に傷ついて家にこもって出てこないなんて芝居をメディアの前で見せていたのは、すべてこの日のためだろう」赤司冬陽は一瞬きょとんとした。「どうしてです?」「そうでもしないと、彼女の安田悠叶は警戒を解いて法廷に姿を現さなかった」田中仁は本を閉じ、机の上を指先で軽く叩く。その唇にはかすかな軽蔑と自嘲が浮かんでいた。「分かっていても、結局その感情を利用せざるを得なかったんだよ」利用されたその感情は、一体誰のものだったのか。ただならぬ空気に、赤司冬陽はそれ以上突っ込んで聞けなかった。「会議の準備を」田中仁は手にしていた本をゴミ箱に放り投げた。険しい怒りを滲ませながら。赤司冬陽には、今日の会議がかなり厳しいものになると、嫌な予感がしていた。その予感は、見事に的中することになる――三井鈴は思ったよりも長く眠ってしまい、目を開けるとすでに朝日が差し込んでいた。ぼんやりしたままドアを開けると、ちょうど家政婦が食事の準備を終えたところだった。彼女はにこやかに言った。「お嬢さん、目が覚めましたね。ちょうどご飯ができました。今日は暑いですから、涼しくなるようにお粥を炊いておきましたよ」三井鈴は少し気まずそうに苦笑した。泊めてもらっただけでも十分なのに、食事まで世話になるなんて……「木村検察官は?」「書斎にいますよ。呼びに行きますか?」この立場で勝手に書斎に入るのは少し気が引ける。三井鈴はそう思って迷っていると、階段の
「空港まで送って」三井鈴は目を閉じ、車窓にもたれかかって、必死に感情を落ち着かせていた。その言葉に木村明は少し驚いた。「こっちに着いてまだ二時間も経ってないだろ。浜白からフランスまで、六時間はかかるんだぞ。体がもたないんじゃないか?」その口ぶりに心配の色がにじんでいるのを感じ取った三井鈴は、努めて冷静に答えた。「この業界、出張続きなんて普通なんですよ。十何時間飛びっぱなしなんてざらですよ。木村検察官、そんなに気にしないで」「でも顔色がひどい。少し休んだほうがいい」木村明は有無を言わせず、運転手にルート変更を指示した。三井鈴にはもう反論する気力もなかった。考えてみれば、それも悪くない。秋吉正男の正体が明るみに出た今、あちこちに情報が回り、いずれニュースにもなるだろう。木村明は彼女を自宅へ連れて行った。政府から支給された官舎で、二階建てのメゾネットタイプ、独立した庭があり、出入り口は警備員が見張っている。自分では手を貸せないため、彼は家政婦に彼女を下ろすよう頼んだ。「この部屋は来客用だ。しばらくここで休んでくれ。何か足りないものがあれば秘書に言って」きっちり四角く区切られた室内。家具はすべて赤木でそろえられているが、生活感はまったくない。三井鈴はドアの枠に寄りかかりながら、少しおかしくなって笑った。木村明はそれを誤解し、すぐに眉をひそめた。「三井家と比べたら、そりゃあ簡素すぎたな。ホテルを手配しようか?」三井鈴は少しだけ気分が和らいだ。「じゃあ、ペントハウススイートがいいわ。一泊160万」「それ、私の五ヶ月分の給料なんだけど」木村明はあっさりと言った。「無理だな、そんな出費は」「冗談よ」三井鈴は口元に笑みを浮かべて、部屋の中へ入った。「ここで十分。三時間ほど休むわ。起きたら声かける」木村明は一歩下がり、静かにドアを閉めた。その頃、山本哲は一本の電話を受けていた。少し疲れのにじんだ声で言う。「もう知ってる。彼らのほうが、あなたより一歩早かったな」書斎の中、木村明は携帯を握りしめたまま報告した。「当然ですね。本人が法廷で、自分が安田悠叶だと暴露した以上、誰かがすぐ先生に伝えると思っていました」浜白中の誰もが知っている。安田悠叶はかつて山本哲の最も優秀な教え子だった。その行方を彼はずっと密かに探し続け
肌が触れ合うほど近いのに、彼は熱く、三井鈴は冷たかった。「事情があって言えなかった、隠していた。それはいいわ。でもそのあと、あの茶屋であなたに会ったときだって、一度も本当のことを話そうとしなかった。これだけ会っていながら、そんな機会すら一度もなかったの?」三井鈴は彼の手を振り払って、身を小さく丸め、まるで敵を見るような構えで隅にうずくまった。何度も、もう少しで真実に手が届きそうだった。でも彼はずっと口を閉ざしたままだった。「昔、私が会おうって言ったとき、あなたは来なかった。あのあとも、私がどれだけ苦しんでいるか知っていながら、ずっと黙って見てた。私のこと、滑稽なバカだと思ってた?」何度も心の中で冷静でいようと繰り返した。でも、さっき電話の向こうで「俺私が安田悠叶だ」と聞いた瞬間、抑えていた憎しみは一気に噴き出してしまった。「あなたのことを、バカだと思ったことなんて一度もない」秋吉正男は一言一言、噛み締めるように言った。「そうじゃなきゃ、私はこんなに長くあなたのそばにはいなかった。あなたは何もかも持ってるお嬢様だ。私は何だ?孤児?警察を辞めさせられた人間?それとも、顔に傷を負った哀れな男か?教えてくれよ。どうやったら私みたいなのが、三井家のお嬢様にふさわしいって言えるんだ!」三井鈴の胸がきゅっと痛んだ。目の前の彼は、安田悠叶としての彼とはまったく違っていた。自信に満ちた安田悠叶ではなく、ここにいるのはひどく自分を卑下する秋吉正男だった。車内に満ちているのは、二人の抑え込まれた息遣いだった。しばらく沈黙が続いたあと、三井鈴は半身を起こし、彼の手をそっと握った。「私は気にしない。もし気にしてたら、あの時あんなふうに安田翔平に飛び込んだりしなかった」秋吉正男の目に浮かぶ涙がきらめいた。苦しげに問いかける。「じゃあ今は?今はどうなんだ?」三井鈴は何も答えず、ただ彼をじっと見つめていた。やがて、ぽつりと問いかけた。「あなたが安田悠叶だってこと、田中仁は最初から知ってたんでしょう?」その名前が出た瞬間、秋吉正男の胸がまた締めつけられた。「……ああ」「やっぱり、そうだったんだ……」三井鈴は呟き、次の瞬間、衝動に任せて本を掴み、車の窓に投げつけた。ガラスが粉々に割れた。秋吉正男は慌てて彼女が怪我しないようにと腕を
すべては計算済みだった。木村明は時間まで正確に読んでいた。秋吉正男は鋭い目つきで睨み、罠に嵌められたと直感した。「木村検察官もこんな不義理な真似をするんだな。噂とは随分違うじゃないか」「会ってみたら、案外感謝するかもしれないぞ」木村明は楽しげに意味深な笑みを残し、そのまま背を向けて去っていった。その言い方はあまりにも意味深で、不穏だった。秋吉正男はその場でしばらく足を止めたが、やがて観念したように歩き出し、停まっているレクサスの窓を軽く叩いた。木村明の愛車は質素な古い型のレクサスだった。長年乗り続けた車体には、ところどころ擦り傷が残っている。中からは何の反応もない。秋吉正男は眉をひそめ、少し苛立ちながら、もう一度ノックした。今度は、ウィンドウが静かに下がった。「こんにちは」秋吉正男は窓の内側を覗き込んだ瞬間、その場に凍りついた。そこに座っていたのは……三井鈴だった!彼女は特に着飾っているわけでもなく、控えめな落ち着いた服装に、まっすぐな黒髪を前に垂らしていた。表情は無機質で感情を読ませない。二人の視線が交わる。目に見えぬ激流がその間を走った。秋吉正男はまるで胸を強く殴られたような衝撃を覚え、思わず足元がふらついた。「どうして浜白に?あなたは……」「今ごろ私はフランスにいて、田中仁との破局に傷つき、静養してるはず、そう思ってたんでしょう?」三井鈴は静かにそう言い、無言で車のドアを開け、彼に乗るよう手で促した。二人の距離が縮まるたび、秋吉正男の全身は痺れるような感覚に包まれた。「ゴシップ記事には確かにそう書かれていた。それを信じたのも無理はないわ。でも、もし私が今日浜白にいると知ってたら、あなたはきっと裁判に出てこなかったでしょう?ねえ、秋吉店長」三井鈴は皮肉めいた笑みを浮かべ、口元をわずかに吊り上げた。「ああ、違った。呼び方を間違えたわ。安田さんだったわね、安田悠叶」その一言はまるで雷鳴のように響いた。彼が思い描いていた再会の光景とは、あまりにも違っていた。秋吉正男の目は血走り、ドアにかけた手は力みすぎて指の関節が白くなっていた。「いつから知っていたんだ」「もしかしたら、あの偶然を装った数々の出会いの中で。あるいは、あなたが何度も私を助けてくれた、その優しさの中で。それとも、安田家