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059 帰還

last update Last Updated: 2025-05-26 19:00:15

 一か月ぶりに外の空気を吸った大地。

 しかし病院の敷地から出るまでに、かなりの時間がかかった。

 海が肩を貸し、「大丈夫、大丈夫だから」と何度も促す。だが大地は首を振って拒んだ。

 僅か一か月の隔離が、ここまで大地を追い込んでしまったんだ。海の中に後悔が渦巻いた。

 浩正〈ひろまさ〉がすぐ傍まで車を移動し、海と共に支えて乗せた。

 * * *

「ご飯、どうしますか? 大地くん、お腹が空いてるんじゃないですか」

 運転しながら浩正が話しかける。しかし大地は足元を見つめ、怯えた様子で首を振った。

「じゃあ大地、宅配にしようよ。早く家に帰りたいだろうし、その方が落ち着くよね」

 微妙な空気をどうにかしようと、海が必要以上にはしゃいでみせる。

「そうですね、その方がいいかもしれません。じゃあ、このまま真っ直ぐ戻りましょう」

「お寿司なんてどう? 今の内に注文しておくね」

 そう言ってスマホを操作する海の指は震えていた。

 * * *

「……」

 久し振りの我が家。

 大地は中に入ると真っ直ぐベッドに向かい、横になった。

「疲れちゃった?」

 傍らに腰掛け、そう言って大地の髪に指を通す。

 かなり汚れてる。油分がたまってる、そう思った。

「もうすぐお寿司も来るし、とにかく食べよ? それからお風呂に入ってさっぱりして、今日はゆっくりしようね」

 しかし大地は壁を向き、何の反応も示さなかった。

 * * *

 結局大地は何も口にしなかった。海の声掛けにも反応せず、気が付けばいびきをかいて眠っていた。

「浩正さん、その……色々ありがとうございました」

「いえ、これぐらいのお手伝いはさせてください。それからとまりぎ、しばらく休んでもらって大丈夫ですよ」

「本当、すいません」

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