|華 閻李《ホゥア イェンリー》が行く先を決めた直後、昼休憩として緑にまみれた村を|訪《おとず》れていた。
村の人口はおよそ数十人で、非常に小さな村である。
建物は|蔦《つた》や|苔《こけ》で|覆《おお》われており、幻想的な雰囲気があった。この村は枸杞(クコ)という名で、|杭西《こうせい》へ向かう途中の休憩所としても使われることが多い。
村を囲むのは緑|溢《あふ》れた山々で、隅には|運河《うんが》が流れていた。それは|京杭《けいこう》大運河であり、どこまでも続いている。
そんなのどかな村の入り口からすぐ近く。小さな飲食店があった。看板はボロボロになっていて名前は読めないが、年期の入った家屋である。
三人はそこへ足を伸ばし、昼食を交えながらこれからについての話し合いを始めた。
「──え? 先生、一緒に行かないんですか?」
二段構えの丸い机を囲み、彼らは各々が食べたいものを注文していく。
窓際に|華 閻李《ホゥア イェンリー》が座り、壁側に|全 思風《チュアン スーファン》。そして扉側には|爛 春犂《ばく しゅんれい》が腰を落ち着かせていた。
「うむ。私は先代皇帝、|魏 曹丕《ウェイ ソウヒ》様の|命《めい》で動いている。目的は知っての通り、各地で起きている|殭屍《キョンシー》事件の|全貌《ぜんぼう》だ」
机の上にある|烏龍《ウーロン》茶を飲む。ゆっくりと口に入れていき、コトリと音をたてて|茶杯《ちゃはい》が置かれた。
「私は一旦、王都へと戻る。現王である|魏 宇沢《ウェイ ズーヅァ》様の真意を探るためにな」
「……わかりました。じゃあ僕たちは、|杭西《こうせい》へ行きます。そこであの兵のお母さんに、真実を伝えようと思います」
「そうしなさい。それがいいのか悪いのかではなく
枸杞(クコ)の村で昼食をすませた後、|爛 春犂《ばく しゅんれい》と一旦別れた。男を見守りながらふたりは|杭西《こうせい》へと向かうため、村の隅にある|京杭《けいこう》大運河へと|訪《おとず》れる。 |京杭《けいこう》大運河の向こう|岸《ぎし》は山になっており、降りれる場所はなかった。 |運河《うんが》自体は深く、大人でも足をつけることが困難なほどである。|汚染《おせん》されていない河は水面が|透明《とうめい》で、泳ぐ魚や底が見えていた。 そんな河には運搬船のみならず、観光客を乗せた船も行き交っている。「ねえ|思《スー》、ここから船で行くの?」 小型で美しい髪を持つ、端麗な少年──|華 閻李《ホゥア イェンリー》──は頭の上に|躑躅《ツツジ》を。両腕で|白虎《びゃっこ》を抱きしめていた。 小首をかしげる様は、その見目も相まって非常に愛らしい。二匹の動物も合わさると、さらに|儚《はかな》く見えて、|全 思風《チュアン スーファン》の中にある|庇護欲《ひごよく》をそそった。「うん、そうなるかな」 抱きしめてしまいたい気持ちをこらえ、肩にかかる三つ編みを|払《はら》う。 木で作られた足場に向かい、小舟を棒で引きよせた。片足を足場に。もう片方を船の上に乗せ、動くのを防ぐ。「あそこに山があるだろ? あの山は、かなり道が細くなっててね。馬車では通れないんだ」 山道は険しいため、馬では進むことが難しい。凸凹道もあり、旅に慣れていない者には|厳《きび》しい道ゆきにしかならなかった。「それに、ほら」 空を指差す。そこには海のように|蒼《あお》い空があった。しかし目を|凝《こ》らしてみれば、何かの集団のようなものが飛んでいる。 |華 閻李《ホゥア イェンリー
枌洋(へきよう)の村、そして蘇錫市(そしゃくし)。そのどちらにも疑問が残るかたちとなった。 ただひとつ。わかっているのは、どちらも白き服の者たちが関わっていたことだった。 ──|小猫《シャオマオ》のいう事は|尤《もっと》もだ。だけど何もわからない以上、考えてもしかたないんだろうね。 よしと、気を取り直して棒を動かした。「それらについては、情報を集める必要があるんだろうね。最終目的地は王都だ。そこに行くまでに、何かしらを得られるかもしれない」 少しばかり跳ねた水を浴びながら、|垂直《すいちょく》に舟を進ませる。 「とりあえずはさ、|杭西《こうせい》へ行こう。そこで情報を得られればいいんだけど……」 「そう、だね。あ、見て! 花売りだよ」 たくさんの舟が行き交うなかで、たくさんの花がふたりの元へとやってきた。舟の上に乗っている花たちは|彩《いろとりど》りで、|牡丹《ぼたん》や|薔薇《バラ》などが積まれている。 舟員は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の弾んだ声が耳に入ったようだ。微笑みながら近づいてくる。「おやおや、とっても可愛い子だね。どうだい? お花、買っていくかい?」 花売りは|老婆《ろうば》だった。子供の無邪気な笑顔に気をよくし、いくぶんか割引をしてくれるよう。 |全 思風《チュアン スーファン》が子供にどの花を買うのかと問えば、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は両目をキラキラとさせた。まるで宝石箱でも開けるかのような、期待に満ちた眼差しである。 しばらくすると花売りの老婆が乗った舟は、ふたりから離れていった。 代わりに、彼らの舟は花でいっぱいになっている。 花びら
|京杭《けいこう》大運河の中枢から少し離れたところに、大きく横に広がった場所がある。縦に長く続く河、|両脇《りょうわき》には人の力では到底登れぬ崖があった。 そんな河を陣取るように、二種類の船が横に並んでいる。ひとつは|杭西《こうせい》、もう片方は枸杞(クコ)の村側へと背を向けていた。 |杭西《こうせい》側を陣取る船の先端には、|朱《あか》の鳥が描かれた旗が掲げられている。 枸杞(クコ)を背にする船はひとまわり小さいが、反対側に浮くものよりも数が多かった。先頭をいく一隻には、緑の亀が|刺繍《ししゅう》された旗が立てられている。 そのどちらもが互いを睨み、冷戦状態となっていた。しかし……「──矢を放て!」 誰かの|一声《いっせい》が場に|轟《とどろ》く。瞬間、|朱《あか》き旗を持つ側から、無数の矢が放たれた。 ひとまわりも小さな船に向かって|疾走《しっそう》する矢は高く上がり、勢いをつけて落下。先頭にいた緑の旗を|携《たず》える船が|沈没《ちんぼつ》していった。 されど、緑の旗の者たちも負けてはいない。弓という飛び道具を使用せずに、剣や槍などで弾いていった。 それでも生身の人間であることにかわりない。|懸命《けんめい》に|応戦《おうせん》するが、次々と弓矢に体を|貫《つらぬ》かれてしまった。 |朱《あか》旗側の圧倒的すぎる力、それがこの場を|収《おさ》めていく。これでは緑の旗を|維持《いじ》すること叶わず。誰もが、絶望色に顔を染めていった── |瞬刻《しゅんこく》、|形勢《けいせい》を|有《ゆう》していた|朱《あか》旗の船に|悲劇《ひげき》が|訪《おとず》れる。 突然、彼らの周囲に波が現れたのだ。|朱《あか》旗の船は波に|拐《さら》われ、ひっくり返ってしまう。何|隻《せき》かは無事だったものの、被害は大きい。 先ほどまで|優勢《ゆうせい
黒の一族、|黒《こく》。術を得意とし、戦略に長けた者が多いと|云《い》われていた。そのなかでも|長《おさ》である|黒 虎静《ヘイ ハゥセィ》は、群を抜いて素晴らしい才能を持つと云われている。 そしてその弟である|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は兄にこそ|及《およ》ばぬものの、それでも|黒《こく》族のなかでは優秀な分類と噂されていた。 しかしあるときを|境《さかい》に、弟である|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は反旗を|翻《ひるがえ》したとされる。理由は不明、今どこにいて何をしているのか。それすら謎とされていた──「──|他族《たぞく》の事だから、僕も詳しくは知らない。だけどあの人は|獅夕趙《シシーチャオ》なんていう、二つ名まである」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は嘘でしょと、大きな目をさらに広げる。「ああ、その二つ名なら私も聞いた事はあるかな。確か、獅子のように|獰猛《どうもう》だけど、場の空気を変える力があるって理由で、そういった名前になったとか何とか」 |全 思風《チュアン スーファン》自身、膝の上に乗せて守る子供以外には興味などなかった。しかし人間の住む世界にいる以上は、嫌でも何かしらの情報が入ってくるというもの。 彼にとって興味の対象外であった。けれど風の噂というものは自然と耳に届く。それがいいか悪いかではなく、印象に残る何かがある。 ──|小猫《シャオマオ》を探している最中、あの男の二つ名を何度か耳にした。兄と|喧嘩《けんか》をして家を飛び出したとかいう話だったな。 それかなぜ、このようなところにいるのか。いったい|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》という男に何があったのか…… ──うん。全く、興味ない。 |全 思風《チュアン スーファン》にとって、完全に興味
|京杭《けいこう》大運河での戦争を目の当たりにしたふたりは、急いで|杭西《こうせい》へと向かった。 到着した町は銀の世界となっていた。 |杭西《こうせい》の中を流れる|河《かわ》には舟が浮かんでいる。河の両脇には家屋が並び、屋根の上に雪が積もっていた。ゆらゆらと揺れる|提灯《ちょうちん》の明かりが、白銀の景色と重なって幻想的に見える。 しかし|肝心《かんじん》の人の姿がなく、町は静まり返っていた。 置き捨てられた|籠《かご》、水|浸《びた》しになった|漢服《かんふく》など。|数刻《すうこく》前まではそこに誰かがいたであろうという、生活感のある風景が置き去りにされていた。「……誰もいないね?」 町の中にある河を進みながら、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は小首を|斜《なな》めに動かす。呼吸をするたびに白い息が生まれ、はーと吹きかけては両手を温めた。 白い獣である|白虎《びゃっこ》を|暖《だん》として抱きしめる。寒いなあと、体を震わせた。「すぐ近くで|戦《いくさ》があったからね。多分その|影響《えいきょう》で皆、家の中に閉じこもってるんじゃないかな?」 それに雪も降ってるからねと、彼は優しく説明をする。ただ口ではそう言っていても、彼自身、町中での戦争がないことを願うことしかできなかった。 河から確認できる建物をひとつひとつ、|黙視《もくし》していく。 建物が壊れた様子はないので、町の中までは戦争の被害が及んでいないだろうと|推測《すいそく》できた。そのことにホッと胸を撫で下ろしながら、舟を進めていく。 ふと、行き止まりに差しかかった。ここから先は舟では進むことが不可能のようで、ふたりは降りることを決める。「──さあ、私の|小猫《シャオマオ》。転ばぬよう、手を」「ふふ。本当に|思《スー》って優しいよね?」 先に舟から降りた|全 思風《チュアン スーファン》が、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の手を取った。 パラパラと|粉雪《こなゆき》が降り続き、ふたりの頭や肩などに落ちて溶けていく。 ときおり足元にいる|白虎《びゃっこ》の鼻にかかり、|虎《とら》はイヤイヤと顔をぶるぶるさせていた。 そんな|白虎《びゃっこ》を両腕で抱き、子供はふふっと|微笑《びしょう》しながら雪を払う。「はは。|牡丹《ボタン》は雪嫌いなの?」「|牡丹《ボタン》?
屋根の上を飛び移りながら、ふたりは|杭西《こうせい》の西へと進んでいた。 冬の風と、空から降る雪がふたりの体を打ちつける。|全 思風《チュアン スーファン》は平気なようだが、|華 閻李《ホゥア イェンリー》はそういかなかった。 子供は彼の|漢服《ふく》を頭から被ってはいる。それでも体力のなさは変わらずで、寒さに震えていた。|艶《つや》のあった唇は紫色に変色している。白い肌は土気色に、体温はぐっと下がって指先から冷たくなっていた。「……|小猫《シャオマオ》、大丈夫かい!?」 子供の体調が心配で足を止める。横抱きにした|華 閻李《ホゥア イェンリー》の様子が少しおかしいことに気づき、彼は慌てて下へと降りた。 近くにある|廃屋《はいおく》の|外壁《がいへき》に隠れ、子供の熱を測る。幸いなことに少年に熱はなかった。けれど顔色を見るに、このまま外で行動するということは避けるべきだと判断する。「|小猫《シャオマオ》ごめんね。君が寒さに弱いって知ってたらこんな……」 自身の|不甲斐《ふがい》なさを悔やんだ。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は紫になった唇のまま、無理やり笑顔を作る。大丈夫だよと、彼の|逞《たくま》しい手に触れた。 ──本当にこの子は優しいな。私に心配かけまいとして、辛いのを押して笑っている。 力があっても、王になっても、大切な子供ひとりすら守れない。そんな自分が憎く、そして情けないとすら感じた。 彼は唇を噛みしめる。「……|小猫《シャオマオ》、辛いときは無理して笑わなくてもいいよ」 「……っ!」 そう言った瞬間、子供の瞳が|潤《うる》んだ。体を両手で包み、その場に|踞《う
|関所《せきしょ》を守りぬいた兵がいた。彼は|母親《オモニ》の足を治療するため、そして誰かを守りたいという想いから兵へ志願する。 母親はそんな息子を|誇《ほこ》りに思い、子の夢を止めることなどできなかった。けれど代わりにと、祝いの品として一本の|蝋梅《ろうばい》の木を送る。「それが、この枝の元の|蝋梅《ろうばい》。あの男の人に大切に育てられて、あなたの……|母親《オモニ》が息子を想う気持ちがこめられている。それがこの木に力を与え、あなたの元へと届けてほしいって願ったんです」 花や植物の気持ちなと、誰もわかりはしなかった。けれど|華 閻李《ホゥア イェンリー》という少年は花の心を伝え、想いを力にする能力を持つ。それは仙術のようで違う。けれど、それを成し|遂《と》げるだけの力を有していたのは間違いなかった。 もちろん眼前にいる中年女性には、そのことなどわかりはしない。 だからこそふたりは|頷《うなず》き合った。子供の隣に|全 思風《チュアン スーファン》が立ち、その細い肩を支える。 |廃屋《はいおく》に|避難《ひなん》している人々は何が始まるのかと、興味|津々《しんしん》に彼らを見た。「──僕は、あの人の想いを全て届けられるわけじゃない。だけど、知ってほしいんです。あの人がどんな想いで亡くなったのか。最後に願った事は何だったのかを……」 子供の声が|廃屋《はいおく》の中を泳ぐ。 両手を胸の前に、そっと置いた。そして枝に|丁寧《ていねい》なまでの口づけをする。すると|華 閻李《ホゥア イェンリー》の体が優しい光に包まれていった。それは|蛍火《ほたるび》のように小さな|粒《つぶ》で、夕焼けのように美しい。 そのときだった。子供の背中から、ひとつの大きな|彼岸花《ひがんばな》が現れる。けれどそれは花びらを散らし、姿、種類すらも変わっていった。 一本の大きな木
息子の想いを届けることに成功した翌日、|全 思風《チュアン スーファン》は、ふっと目を覚ました。 ──あれ? 私はいつの間に寝てしまったのか。……ああ、眠るなんて行為、本当に久しぶりだ。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》という|愛《いと》しい子を隣に置くだけ。たったそれだけなのに、彼は安心して眠ることができた。そのことにほくそ笑みながら上半身を伸ばす。「……あれ? そういえば|小猫《シャオマオ》は?」 キョロキョロと、周囲を見渡した。ふと、|廃屋《はいおく》の奥にある台所に目が止まる。 そこには愛してやまない少年が立っていた。後ろ姿ではあったが、|一際《ひときわ》目立つ銀の髪が頭部でひと|縛《しば》りされている。 いつもと違う髪型に首をかしげつつ、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の元へと近よった。 子供の髪から|薫《かお》るのは|薔薇《ばら》か。とても落ち着く、品のある|薫《かお》りである。ふわりと|靡《なび》く銀髪は、壁の隙間から差しこむ太陽の光を受け、|黄金《こがね》色に見えた。 |全 思風《チュアン スーファン》は子供の|神々《こうごう》しさに両目を見開く。「──あ、お早う|思《スー》。よく寝てたみたいだね。もう起きるの?」 彼の視線に気づいたようで、子供はくるりと振り向いた。昨日のように青ざめた顔色ではない。血色のよい、薄い紅色を頬に浮かばせていた。 そんな少年は、顔のところどころに|煤《スス》をつけている。 いつもは服で隠れてしまっている白い細腕や首|筋《すじ》が見え、|妙《みょう》に|色香《いろか》を|漂《ただよ》わせていた。「|思《スー》。今、朝ごはん作ってるから、ちょっと待っててね」「|華 閻李《ホゥア イェンリ
|全 思風《チュアン スーファン》の手の中にあったはずの|彼岸花《ひがんばな》が、光の|粒子《りゅうし》となって|消滅《しょうめつ》していった。 彼は|悔《くや》しさを|壁《かべ》にぶつけ、何度もたたく。そのとき、壁がガコンッという鈍い音をたてて前へと倒れてしまった。「うわっ! ……っ!? これは……隠し通路か!?」 奥へ続く道が現れたが、明かりひとつもない場所となっている。しかし彼は元々|夜目《よめ》が利く。明かりなど必要ないと|云《い》わんばかりに、暗黒しかない空間へと足を|踏《ふ》み入れていった── □ □ □ ■ ■ ■ 部屋の|隅《すみ》に、大きな台座がひとつある。台座のいたるところには札が貼ってあり、常に光っていた。 部屋の中を見渡せば、食器棚や勉強机も置かれいる。 そして何体もの|殭屍《キョンシー》が、部屋を囲うように|等間隔《とうかんかく》に立っていた。この者たちには一枚ずつ、札が|額《ひたい》に貼られている。それが、やつらの動きを封じているようであった。 |殭屍《キョンシー》らに囲まれるようにして部屋の中央では、男がふたり。互いに剣をぶつけ合っていた。 ひとりは扉側に、もうひとりは台座を背にしている。『……安心しろよ。|黄《こう》家の|跡取《あとと》りは、俺がしっかりとやってやるからさ』 上は|黄《き》、下にいくにつれて白くなる|漢服《かんふく》を着るのは|黄 沐阳《コウ ムーヤン》と、もうひとり。彼とまったく同じ顔をした男が語りを入れてきた。 難しい顔など一度もせす。人を|小馬鹿《こばか》にするような笑みを浮かべ続けていた。勝ち|誇《ほこ》ったようにケタケタと笑い、|黄 沐阳《コウ ムーヤン》を力任せに剣ごと|薙《な》ぎ払う。 そんな男の後ろ
|全 思風《チュアン スーファン》の心は不安で押し|潰《つぶ》されていった。大切な存在である子供が危険に|曝《さら》されているからだ。 そう思うだけで、死んでしまいたい。精神がバラバラになりそうだと、|唇《くちびる》を強く|噛《か》みしめる。「──|小猫《シャオマオ》、無事でいて!」 屋根の上を飛び続け、目的地の屋敷へと到着した。危険を|省《かえり》みず、扉を|豪快《ごうかい》に壊す。 中に入ればそこは玄関口だった。 一階は入り口近くに左右の扉、奧にもふたつある。部屋の中央には|朱《あか》の|絨毯《じゅうたん》を|敷《し》いた階段があり、天井には異国からの輸入品だろうか。大きな|枝形吊灯《シャンデリア》がぶらさがっていた。「……最初に|侵入《しんにゅう》したときは地下からだったからわからなかったけど、もしかしてここは、元|妓楼《ぎろう》なのか?」 心を落ち着かせようと、両目を閉じる。 ──ああ、聞こえる。|視《み》える。ここで何が起きたのか…… |全 思風《チュアン スーファン》が目を開けた瞬間、彼の瞳は|朱《あか》く染まっていた。そして映し出されるのは、今ではなく過去の映像である。 建物の|構造《こうぞう》、中の物の配置などは同じだ。違いを見つけるとすれば、人の姿があるかないかである。 そして過去の映像には、きらびやかで美しい衣装を|纏《まと》う女たちが行き交いする姿が視えていた。 数えきれぬほどの美女、そんな彼女たちと金と引き|換《か》えに遊ぶ男たち。仲良く腕組みしている男女もいれば、女性に言いよっては出禁を食らう者。年配の|妓女《ぎじょ》の言いつけで|掃除《そうじ》をする若い女など。 当時、この|妓楼《ぎろう》で暮らしていた女性たちの姿が、ありありと映っていた。
|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は重たい口を開いていく。 |友中関《ゆうちゅうかん》は|黒《くろ》と|黄《き》、互いの領土の中間にある。そこで働く兵たちはふたつの勢力から選ばれた者たちだった。どちらか一方が多くならぬよう、均等に両族から|派遣《はけん》させる。それが、この國が始まりし頃からの決まりごとであった。 しかし、互いの勢力がそれで手を取り合うというわけではない。度々いざこざが起き、そのたびに|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》や|爛 春犂《ばく しゅんれい》などが出向いて|仲裁《ちゅうさい》していた。「……うん? 何であんたや、あの|爛 春犂《ばく しゅんれい》なんだ? |黄 茗泽《コウ ミャンゼァ》とか、親玉が出向く方が早くない?」 腰かけられそうなところへ適当に座り、|全 思風《チュアン スーファン》は三つ編みを後ろへとはたく。穴が開くほどに|眼前《がんぜん》にいる男を|注視《ちゅうし》した。 |黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は|瓦礫《がれき》の上に座りながら、空を見上げる。いつの間にか灰を被った色になった雲と、遠くから聞こえてくる雷の音。それらにため息をつき、首を左右にふった。「いや、あの場所は互いの族で二番目に|偉《えら》い者が|視察《しさつ》しに行くという決まりになっていた。兄上はおろか、|黄《き》族の|長《おさ》である|黄 茗泽《コウ ミャンゼァ》ですら|関与《かんよ》してはならないとされているんだ」 |皮肉《ひにく》にも、昔作られた決まりごとが今回の事件を引き起こす切っかけにもなってしまう。そして|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》という男を暴走させる原因にもなってしまった。 男は両手を|太股《ふともも》の上に置き、これでもかというほどに彼を睨む。「……私を睨んだって、しょうがないじゃないか」 今にも殺しにかかる。そんな
|全 思風《チュアン スーファン》は剣を|鞘《さや》に収め、ふっと美しく|笑《え》む。 |眼前《がんぜん》にいるのは先ほどまで場を独占していた男、|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》だ。彼は苦虫を噛み潰したような表情をし、これでもかというほどに怒りを|顕《あらわ》にしている。「……な、んだ。何だこれはーー!?」 その場を支配していた直後、|焔《ほのお》が消化されていったからだ。 何の|前触《まえぶ》れもなく現れた|全 思風《チュアン スーファン》だけでも手に|負《お》えないというのに、上空から降る|蓮《はす》の花。その花から雨のように水滴が降り|注《そそ》いでいるからである。 花は|仄《ほの》かに甘い香りをさせながら|焔《ほのお》を消し去っていった。しばらくすると辺り一面に|焦《こ》げた匂いだけが充満し、|蓮《はす》の花は泡となって天へと昇っていく。「くそっ! どうなっている!? 貴様、何をしたーー!?」 まるで、腹から声をだしているかのような|怒号《どごう》だ。 大剣を強く握り、勢いをつけて地を|蹴《け》る。風のように|疾走《しっそう》し、剣で空を斬った。「|朱雀《すざく》の|焔《ほのお》を消せる者など、この世にありはしないはず!」 |全 思風《チュアン スーファン》を斬りつけようと、|空《くう》に|豪快《ごうかい》な一|閃《せん》を放つ。重みのある大剣が|瓦礫《がれき》を|削《けず》り、|蹴散《けち》らしていった。 しかし、それでも、|全 思風《チュアン スーファン》は何の|痛手《いたで》も負っていない。眠そうにあくびをしながら、右手で持つ剣で応戦した。 互いの剣がぶつかり合い、金属音が響く。「……ふわぁ。ねえ、まだ続けるのかい?」&nbs
町のあちこちは火の海になっていた。|避難《ひなん》民がいる河|沿《ぞ》いも、町の入り口や広場すら、|焔《ほのお》に|埋《う》もれてしまっている。 必死に火を消す兵たち、逃げ遅れて|瓦礫《がれき》の|下敷《したじ》きになっている市民など。町のいたるところでは|紅《くれない》色の|焔《ほのお》とともに、|阿鼻叫喚《あびきょうかん》が飛び交っていた。 そんな事態を引き起こしたのは、黒い|漢服《かんふく》を着た男である。 彼は|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》、|獅夕趙《シシーチャオ》というふたつ名を持つ男だ。 右手に大剣を、左手には|鳥籠《とりかご》を持っている。「俺は|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》。|黒《こく》族の|長《おさ》である|黒 虎静《ヘイ ハゥセィ》の弟だ。このたび|黄《き》族の連中が条約を破り、我が|黒族《こくぞく》の|領民《りょうみん》を、|友中関《ゆうちゅうかん》にて|虐殺《ぎゃくさつ》した!」 大柄な体格どおり、とても声が大きい。 |焔《ほのお》が火の|粉《こ》を飛ばす音すら、かき消えるほどだ。 怒りを|携《たずさ》えた瞳で、町の入り口を陣取っている。後ろに控えている兵たちを見ることなく、ただ、言いたいことだけを叫んだ。「──|友中関《ゆうちゅうかん》には俺の心の友、|雪 潮健《シュ チャオジェアン》がいた。しかし彼は|黄《き》族の罠にかかり、命を落としたのだ!」 大剣の先端を地面に刺し、|豪快《ごうかい》な|仁王立《におうだ》ちをする。片手で持つ|鳥籠《とりかご》を顔の前まで上げ、瞳を細めた。「|卑怯《ひきょう》者の|黄《き》族が町を支配するなど、|笑止千万《しょうしせんばん》! 俺の友、|雪 潮健《シュ チャオジェアン》の|怨《うら》みを受け取るがいい!」 彼の|声音《こわね》が合図となり、後ろ
狭い廊下に|襲《おそ》い来る灰色の|渦《うず》を目の前に、三人はそれぞれのやり方で|蹴散《けち》らしていった。 |全 思風《チュアン スーファン》は指先から黒い砂のようなものを出し、それを器用に動かす。|迫《せま》る灰の|渦《うず》を弾き、床へと|叩《たた》きつけていた。 |黄 沐阳《コウ ムーヤン》はそんな彼の腰にある剣を抜く。腰を大きく曲げ、|全 思風《チュアン スーファン》の腕下から剣を突き刺し、切り刻んでいった。 |前衛《ぜんえい》で戦うふたりの後ろでは、|華 閻李《ホゥア イェンリー》が花を意のままに|操《あやつ》る。ふたりが|捌《さば》き|損《そこ》ねた灰の|渦《うず》。これが彼ら目がけて|突貫《とっかん》する。それをふたりに近づけさせまいと、花で|防御壁《ぼうぎょへき》を張った。 それぞれの持ち場を理解している彼らは、互いに|死角《しかく》を|補《おぎな》っている──「|小猫《シャオマオ》、あまり私から離れないでね?」 子供の細腰を抱き、楽しそうに話しかけた。戦闘中であることを忘れてしまいそうな笑顔を浮かべながら、余裕然と灰の|渦《うず》を|消滅《しょうめつ》させていく。 その強さたるや。すぐそばには、剣を使って灰の|渦《うず》を|薙《な》ぎ払っている|黄 沐阳《コウ ムーヤン》がいた。そんな彼の攻撃が赤子と思えてしまうほど、|全 思風《チュアン スーファン》の動きや強さは別格と|謂《い》える。「……うーん、単純でつまらないね」 切っても切っても|沸《わ》いてくる灰の|渦《うず》を見て、飽きたと呟いた。 瞬間、彼の周囲を|漆黒《しっこく》の|砂塵《さじん》が包む。かと思えば『|潰《つぶ》せ』と、低く口にした。 すると彼の命令に従うように、漆黒のそれは廊下全体を押し|潰《つぶ》していく。この場にいる彼らをのぞき、灰の|渦《うず》だけが|犠牲《ぎせい》となっていった。 しばらくすると灰の|渦《うず》は|塵《ちり》と化し、砂粒のようになって消えていく。「終わったよ|小猫《シャオマオ》、怪我はないかい?」 何ごともなかったかのように、腕の中にいる少年の頬を撫でる。子供は慣れた様子で|頷《うなず》き、お疲れ様と、彼を|労《ねぎら》った。 彼はふふっと優しい笑みとともに、子供の|額《ひたい》に|軽《かろ》やかな口づけを落とす。「
扉を開ければ、そこは真っ暗な部屋となっていた。 部屋に到着するなり、|全 思風《チュアン スーファン》は手に持つ|提灯《ちょうちん》を握り潰す。「──ここから先、|提灯《ちょうちん》の灯りは使えない。|提灯《ちょうちん》だけが見えてしまっている状態だからね。使うとしたら術で作った灯り……おや?」 ふと、視界に|橙《だいだい》色の花が飛んできた。それは何かと周囲を見渡せば、銀の髪を揺らす|華 閻李《ホゥア イェンリー》がいる。|橙《だいだい》色の、|提灯《ちょうちん》のような……少し丸みのある、三角形をした花が浮いていた。「|小猫《シャオマオ》、それは?」 どうやら子供が花の術を使い、灯りとなるものを出現させたようだ。ふわふわ浮くそれは、三人の前でくるくると回る。「|鬼灯《グーニャオ》だよ」「……え? でもそれ、|橙《だいだい》色だよね? 私の知ってる|鬼灯《グーニャオ》は、白い薄皮の中に黄色い身が入ってるやつだけど……」 |金灯《ジンドン》、|金姑娘《ジングゥニャン》、|姑娘儿《グゥニャングル》など。地域によって呼び名は様々だが、共通して言えることは、この|鬼灯《グーニャオ》は果物であるということだった。 それを伝えてみると子供は、ふふっと微笑む。「うん、それは食用の|鬼灯《グーニャオ》だね。どっちも元は、|橙《だいだい》色の|鬼灯《グーニャオ》だよ。それを花として見るか、食べ物にするかの違いかな?」 優しい光を放つ|鬼灯《グーニャオ》は、彼らの周囲を回転しながら浮いていた。「……それで|思《スー》、光はこれでいいとして、これから
合流した|全 思風《チュアン スーファン》が呼び出した少女は、水の妖怪であった。名を|水落鬼《すいらくき》といい、溺れた者たちの念が姿をとったとされる妖怪である。 そんな少女の姿をした妖怪はにっこりと微笑み、三人の前で両手を大きく広げた。瞬間、|全 思風《チュアン スーファン》たちの体に水が降り注ぐ。けれど冷たくはない。むしろ、お湯のように温かかった。 やがて|水落鬼《すいらくき》は水|溜《た》まりへと変わる。同時に、三人の体を薄い|膜《まく》が包んでいた。「|水落鬼《すいらくき》の水は、人間の視界から見えなくする力があるんだ。最低一日はもつから、その間にやれる事をしてしまおうか」 淡々と語り、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の小さな手を握る。鼻歌を|披露《ひろう》しながら余裕のある顔で広場を横切った。 その|際《さい》、|華 閻李《ホゥア イェンリー》と|黄 沐阳《コウ ムーヤン》のふたりは、見つかるのではとおっかなびっくり。けれど|水落鬼《すいらくき》の水の|膜《まく》が作用し、兵たちの前を通っても武器すら向けられることはなかった。 そのことにふたりはホッとする。「|思《スー》、地下通路に行くのはわかったけど、どうして|廃屋《はいおく》の裏手なの?」 他にはないのと、純粋な眼差しで|尋《たず》ねた。「聞いた話だと、この町はあちこちに地下通路があるらしい。だけど中から鍵がかかってるらしくてね。唯一外から入れるのは、|廃屋《はいおく》の裏手にあるやつだけなんだってさ」 広場にある細道を抜け、何度か曲がる。数分後には、|廃屋《はいおく》のある地区に到着していた。 |廃屋《はいおく》の裏手へと向かえば、河がある。河の近くには|崖《がけ》があり、そこにひとつの穴があった。一見すると洞窟のようなそこには、地下へと続く階段が見える。 |全 思風《チュアン ス
|黄 沐阳《コウ ムーヤン》を説得した|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、彼とともに広場の裏手へと向かった。 そこは野良猫や|鼠《ねずみ》などが|徘徊《はいかい》し、お世辞にもきれいとは言い難い場所である。それでも彼らはここを選び、ふたりで兵たちを観察した。「──|爸爸《パパ》たちはここから見える、あの建物の中にいるはずだ」 |黄 沐阳《コウ ムーヤン》は、広場の先にある大きな建物を指差す。 柱や壁は|朱《あか》い、二階建ての建造物だ。屋根の角は|尖《とが》っており、どことなく独特な雰囲気がある。その建物の前には寺があり、角度によっては後ろの景色を隠してしまっていた。 「あの変わった形の屋根の建物、あそこに|爸爸《パパ》たちが住んでるって話だ」 ただなあと、困った様子で肩を落とす。「建物の|警備《けいび》が|厳重《げんじゅう》で、中には入れねーんだ」「……屋根の上からとか、窓から|侵入《しんにゅう》は?」 子供の提案に、彼は首を縦にはふらなかった。言葉を|濁《にご》し、口を|尖《とが》らせている。「──|小猫《シャオマオ》、それは無理だよ」 ドスンっと、突然、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の体が重くなった。原因を調べようと、子供は急いで振り向く。 するとこそには三つ編みの美しい男、|全 思風《チュアン スーファン》がいた。どうやら彼は子供の両肩に全身を預けているよう。子供が重いと言っても、一向に|退《ど》く素振りを見せなかった。甘えるように少年の腰を後ろから包み、|薫《かお》りを|堪能《たんのう》している。 そんな彼の|唐突《とうとつ》すぎる登場に、|黄 沐阳《