全 思風(チュアン スーファン)は愛する者を、二度と失わないために。 華 閻李(ホゥア イェンリー)は花の力を使い、優しさを失わないために。 彼らは動き出す── とある地に禿(とく)王朝という、膨大な國があった。表向きは平和そのもの。しかし蓋を開けてみれば、悪の巣窟のように数多の闇が蔓延っていた。 それを象徴するのが殭屍(キョンシー)と呼ばれる死体である。悪意が働いた瞬間、殭屍は生者を襲っていった。 化け物である殭屍に対抗できるのは不思議な力を持つ仙人や道士だけ。しかし彼らもまた、一枚岩ではなかった。内輪揉めはもちろん、何の力を持たぬ人間すら巻き込む。 無断転載禁止です。
View More耳をそばだてて聞いた話をしよう。
"月のない丑の|刻《こく》になれば美しき銀の|舞姫《まいひめ》が現れ、使者に抱かれて空を飛ぶ。"のだと。
そう、誰かが|囁《ささや》いた──
「──怒らないでおくれよ」
夜空にふたつの影がある。そのうちのひとつが、眉をひそめていた。
それは闇夜に溶けてしまいそうな髪を、三つ編みにした男だ。月明かりがない暗闇のせいか、どんな表情をしているのかはわからない。
ふと、隠れていた月が、ゆっくりと顔を出す。
男が月明かりに照らされた瞬間、姿がはっきりと映しだされた。
腰までの黒髪を三つ編みにしているのは、|瓜実顔《うりざねがお》の美しい男だ。しかし目鼻立ちが整った男は、眉を少しばかり寄せている。
男の両腕に抱えられているのは人形か……|可憐《かれん》な、|輪郭《りんかく》の整った、美しい者だ。何より、月光をそのまま落としたような……とても薄い髪色をしている。
「……ねえ|小猫《シャオマオ》、機嫌なおしてくれないかい?」
可憐な人物の機嫌を取ろうと、三つ編みの男は頼りなく声をかけた。
薄い髪色の者は男か女か。可憐かつ、中性的な顔立ちの人物を見れば、心なしか頬を|膨《ふく》らませているようにも感じた。
「……怒っているのかい?」
暗い空を背に、三つ編みの男の眉が苦く曲がる。彼は目鼻立ち、それら全てが整っていた。けれど困惑を含む眉根だけは情けなさを持っている。
「いい加減、|小猫《シャオマオ》呼びはやめてほしい。僕は、|華 閻李《ホゥア イェンリー》って名前なんだから」
横抱きに対する不満ではなく、呼び名への苦情。これには三つ編みの男は微笑みを通り越して、大笑いしてしまう。 しばらくすると笑い声は止まり、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の頬をつついた。もちもちとしている柔らかい頬に触れ、三つ編みの男は微笑する。
「……ふふ、ごめんごめん。でも私にとって君は守りたい者であり、唯一無二の存在なんだ」
だから怒らないでと、愛し子の額に優しい口づけを落とした。
|華 閻李《ホゥア イェンリー》は乙女のように恥じらう。それでも彼の腕から逃れようとせずに、甘んじて優しさを受け入れているようだ。
「……ねえ、|思《スー》。どうして僕を守ってくれるの?」
おずおずと。大きな瞳を彼へと向ける。
三つ編みの男は笑顔を浮かべた。何だ、そんなことかと微笑しながら再び|華 閻李《ホゥア イェンリー》の|額《ひたい》に口づけを落とす。
「──私の目的は達成されたんだ」
「目的?」
「君に会って、ともにいる事。どんな時でも|小猫《シャオマオ》を守れるだけの力、そして権力を身につける事。それが私の目的だ。だけど、それはもう果たせたからね」
微笑みを落とし、指を子の長い髪に巻きつけた。
「果たせたの?」
「うん、そうだよ。私は君の側にいる。誰にも渡さない。それが私の願いだ」
笑顔を浮かべた美しい顔は、宝石のように|煌《きら》めく。それは愛し子へ向けられた|至高《しこう》の笑みであり、|偽《いつわ》りのない瞳だった。
「……変なの」
「あはは、そうかい? あ、そういう|小猫《シャオマオ》はどうなのさ?」
|華 閻李《ホゥア イェンリー》の|膨《ふく》らんだ頬をつついた。心なしか子の耳は、先っぽまでタコのように真っ赤になっている。
「……僕は、終わらせたい」
ふと、愛し子の表情に影が生まれた。|儚《はかな》げで|脆《もろ》い。そんな影である。
「|國《くに》の為じゃなく、僕自身の為に。彼らが命をかけて守ったものを、悪用させない為に!」
大きな瞳はまっ直ぐ、三つ編みの男を|見据《みす》えていた。
三つ編みの男は頷き「じゃあ、頑張らないとね」と、|華 閻李《ホゥア イェンリー》とともに夜空を|舞《ま》う。
そんな二人は赤い衣に身を包んでいる。
三つ編みの男は|漢服《かんふく》を。|可憐《かれん》な見目の|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、下半身がふわりとした|漢服《かんふく》を着ている。そのどちらにも、金色の|刺繍《ししゅう》が施されていた──
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|宥損《ゆうそん》三百八年。世界で最も|膨大《ぼうだい》な領土を誇る|禿《とく》王朝は、豊かな|國《くに》であった。
しかしかつては領土が小さく、名すら知られてはいない|國《くに》であった。けれど初代皇帝が|國《くに》の外へと|貿易《ぼうえき》を広げたことにより、多くの者たちに知られるようになる。
|國《くに》にとって幸であったのか、不幸であったのか。誰にもわからぬまま時は過ぎていった。
やがて初代皇帝が死す。
死因は不明。死体の行方もわからず。
同時に、*|直人《ただびと》では解決できぬことが生まれていった。
死した者が動き、人を食らう。人ならざる者が、生きた存在の魂を食いつくすなど。どう|足掻《あが》いても、|直人《ただびと》が解決できるとは思えないものばかりだった。
そんななか、人の身でありながら空を飛び、化け物へと立ち向かう者たちがいる。不思議な力を持った|仙道《せんどう》だ。彼らは人のため、世のために力をふるう。
されど彼らは価値観などの違いから、|一筋縄《ひとすじなわ》ではいかぬ者たちばかり。
それでも彼らは、何の力も持たぬ|直人《ただびと》にとっては救世主であった──
人の姿をした化け物。そう|云《い》われても否定できない何かが、今の|魏 宇然《ウェイ ユーラン》にはあった。 |勇《いさ》ましく剣をふり、敵とみなした者たちを薙ぎ払う。持ち前の|脚力《きゃくりょく》や|腕力《わんりょく》を生かし、鳥の|紋様《もんよう》を持つ者たちを斬り刻んでいった。 剣を下から上へと走らせ、相手の体を|朱《あか》く染める。片足で鳥の|紋様《もんよう》部分を蹴り、横転させた。 |槍《やり》が|眼前《がんぜん》に迫れば剣の|柄《つか》で弾く。矢が|飛来《ひらい》すると、視線だけを動かして軽々と|避《よ》けていった。 美くしいけれど、どこか冷めた視線の男。それがこの|禿《とく》王朝始まりの皇帝、|魏 宇然《ウェイ ユーラン》である。「──なぜ貴殿たちは、あのような男の元に|下《くだ》った!?」 低く、|覇気《はき》すらある|鬼人《きじん》のごとき強さを発揮した彼は、声をはり上げて問いかけた。 一瞬だけ、鳥の|紋様《もんよう》の兵たちは|怯《ひる》む。けれど、数秒後には何事もなかったかのように武器を構えていた。「……何だ、こいつらは?」 ──おかしい。明確なことはわからんが、違和感がある。 普通の人間。けれど何かが、普通ではない。そんな気がしてならなかった。そのとき──「……っ!?」 体を剣で斬られた兵が、ゆらりと立ち上がる。 土気色になった肌に血管が浮かび上がっていた。 血走った眼球に黒目はなく、どこを見ているのかすらわからない。 口からはだらしなくよだれが垂れているが、それすらも気づいていないようだった。 さらには、一体や二体ではない。鳥の|紋様
──なぜ……なぜ、こんなことになった!? 母を庶民にもつ彼は、兄弟の中では一番皇帝の地位から遠い場所にいた。けれど兄弟たちが|不慮《ふりょ》の事故や病気にあい、残された健康な者は彼だけとなってしまう。 そんな彼の目の前に現れた男も、兄弟であった。兄ではあったが性格的な問題を多く抱え、皇帝争いに負けた経緯をもつ。 病気や事故には|遭遇《そうぐう》してはいない。ただこの男は……究極のホラ吹きでもあった。性格が|災《わざわ》いし、皇帝争いでは後宮の者たちから|猛《もう》反対を食らってしまう。 結果としてこの地に追いやられたのだが、蘇錫市(そしゃくし)の者たちはそれを知らなかった。「皆様、よーくお聞きください! この男|魏 宇然《ウェイ ユーラン》は皇帝の地位を利用し、蘇錫市(そしゃくし)を滅ぼそうとしているのです!」 油ぎった顔を歪ませ、不気味な笑みを浮かべる。「今まで顔すら見せなかった皇帝が、なぜ今日になって突然、この町を訪れたのでしょうか!?」 両手を拡げて演説した。|疲弊《ひへい》し、傷を負った民たちの心の|隙間《すきま》へと、男は容赦なく入りこむ。 わざとらしく涙を流した。「その答えは簡単です! ここにいる気味の悪い髪色をした者を使い、蘇錫市(そしゃくし)を滅ぼそうとしているからです!」「な……っ!? |魏《ウェイ》 |固嫌《グゥーシィェン》、貴様!」「……馴れ馴れしく、名を呼んでほしくはありませんなあ」 |魏《ウェイ》 |固嫌《グゥーシィェン》は彼の実兄である。けれど仲がいいわけではなった。むしろ権力争いで、誰よりも皇帝の座を欲した男として知られていた。 ──なぜこの男が、こんなふうに強気でいられるのか。それ以前にこの町の者たちがなぜ、こんな男の言いなりになっているのか。 苦虫を噛み潰したような表情で、男を凝視した。「|此度《こたび》の|襲撃《しゅうげき》事件、皇帝である|魏 宇然《ウェイ ユーラン》が手引きをしたという情報が入りましてなあ。このおん……な?」 少しばかりの困惑を交えながら|華 李偉《ホゥア リーウェイ》を指差す。女でいいんだよなと、彼と対峙するときとは変わってへっぴり腰になっていた。美しい|見目《みめ》の|華 李偉《ホゥア リーウェイ》を直視しては、照れたように顔を赤くさせる。 ──まずいな。こい
バタバタと、数人の|官僚《かんりょう》たちが慌てて彼の元へとやってくる。 黒い|官僚《かんりょう》服に身を包んだ彼らは|魏 宇然《ウェイ ユーラン》の前で立ち止まり、ぜぇぜぇと荒い息をしながら調子を整えていった。 先頭にいる男が布で汗を拭きながら、ふたりへあることを告げる。「た、大変でございます! 蘇錫市(そしゃくし)にて、暴動が起きました! そ、それから……剣が通じぬ、化け物も同時に現れました!」 それを聞いたふたりは顔を見合せ、急いで蘇錫市(そしゃくし)へと向かった。 □ □ □ ■ ■ ■ |魏 宇然《ウェイ ユーラン》と|華 李偉《ホゥア リーウェイ》は、王都の印でもある花の|紋様《もんよう》をつけた|革鎧《かわよろい》を着た大勢の兵を連れて向かった。 けれど蘇錫市(そしゃくし)に着くと、そこは火の海と化してしまっている。逃げまどう人々、戦う兵たち。|焔《ほのお》が燃え広がり、骨組みから崩れていく建物など。 町というものは消え失せ、全てが地獄に成り果てていた。「……これはいったい」 |絶句《ぜっく》という言葉では片づけられない惨状が、彼らの前に押しよせている。 そんな状態を作りだしたのは、町を我が物顔で|徘徊《はいかい》する存在たちだ。身体が透明な者、動物に似た姿だけどかわいらしさが何ひとつとしてない存在。それらは皆、人間とは似て非なる者たちだった。「まさか、あれは妖怪!?」 誰が放った言葉か。それすら探るのも難しいほどに、おびただしい悲鳴と爆音がしている。そこかしこから聞こえ、誰もが耳を塞ぎたくなるような光景になっていた。 それでも|魏 宇然《ウェイ ユーラン》は剣を握り、妖怪たちに切っ先を向ける。「怯むな! 我々は、この町の人々を助けに来たのだ!」 彼のよく通る声が、この場を走った。 兵たちは武器を手に、勢いをつけて妖怪へと向かっていく。けれど実体のない者もいるため、武器というものはあまり効かず。逆に、兵たちが|殺《や》られていった。 「……やはり、武器は通じぬか」 彼らが戦うは妖怪で、人ではない。人を|喰《く》らい、闇へと引きずりこむ。そんな存在だった。妖怪は、いつ現れるかも定かではない。今回のように、町を|襲撃《しゅうげき》するのは珍しいことではなかった。 加えて、妖怪は物理的な攻撃が効きにくいとされてい
|全 思風《チュアン スーファン》の正体は、かつてこの|國《くに》を治めていた始まりの皇帝でもあった。けれどなぜ、そんな彼が|冥王《めいおう》になっているのか。|始《し》皇帝でもある|魏 宇然《ウェイ ユーラン》に何があったのか。 そして、この|夔山《ぎざん》で何があったというのだろう。 誰もが驚きながら彼を見つめ、答えを待っていた。「……どこから話そうか」 そっと呟き、壁にかけられている鎖を触る。ジャラジャラとした音が洞窟の中に響いた。「ただ私は、最初から皇帝ではなかった。元々母が庶民の出でね。父となる男に|見初《みそ》められて後宮入りしたんだ。だけど父には、たくさんの子供がいた。それが後々大変な事になるんだけどさ」 両親が死んだ直後、皇帝の地位は空となってしまう。|國《くに》としては、このまま皇帝なしというわけにはいかなったのだろう。大勢いる子供たちの中からひとり選び、新たな皇帝として迎え入れる。 それが、|官僚《かんりょう》たちの考えであった。「派閥みたいなもの、かな。そういうのが出来ちゃって、私もいつの間にか巻きこまれてしまったんだ」 遠い目をし、手から鎖を離す。|棺《ひつぎ》へと向かい、はめられている剣を手にする。それを|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》へと投げ、持っていろと目で|訴《うった》えた。 |黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は無言で腰に剣を納める。「……いろいろあって、私は皇帝になった。だけど兄弟たちは、そんな私を|快《こころよ》く思ってはいなかったんだろうね」 あの手この手で彼を追いつめ、皇帝の座を奪おうとしていた。それでも彼は皇帝に選ばれたのだからと、真面目に|政《まつりごと》へと取り組む。 その最中、彼はあるひとりの青年と出会った。「彼がどこから来たのかなんて、当時の私は考えもしなかった。だって、唯一の味方として|側《そば》にいてくれたんだからね」 敵ばかりの宮中で、ひとりでも味方がいる。これほど心強いと思ったことはないと、当時の心境を口にした。 † † † † ──ああ、空が高い。こんなにも高く、手の届かない場所にあっただろうか。 男の、長い黒髪が風に遊ばれて揺れる。その髪を押さえる手は|無骨《ぶこつ》で傷だらけだ。 男の名は|魏 宇然《ウェイ ユーラン》。|禿《とく》王朝の初代皇帝になった男である。
木々が、彼らに道を開けていく。 黒い髪を三つ編みにした端麗な顔立ちの男──|全 思風《チュアン スーファン》──が先頭を歩けば、空気が冷たく肌を触る。 彼が歩いた瞬間、草木は|枯《か》れた。地面は沼のようにドロドロになり、土の中で眠っていた虫たちが|骸《むくろ》となって現れる。 彼に手を握られて肩を抱かれながら歩くのは|華 閻李《ホゥア イェンリー》だ。頭の上に|躑躅《ツツジ》、首には|青龍《せいりゅう》をかけている。右肩にはもふっとした白い仔猫、|牡丹《ボタン》がいた。 そして不思議なことに彼の歩いた場所を踏めば、色素を失った草木は|甦《よみがえ》り、元気にまっすぐ伸びる。地は一瞬にして固まり、死んだ虫たちが息を吹き替えしていた。「──ふふ。私が死を呼ぶなら、|小猫《シャオマオ》は生を作り出す存在なのかもね?」「……?」 彼の発言は子供の小首を|傾《かし》げさせる。少年とともにいる動物たちまでもがきょとんとしながら、子供と同じ行動をとっていた。 ──んんっ! |小猫《シャオマオ》、可愛い! ……ああ、そうか。この子は無意識にやってるんだね。 彼の力を浄化する。たったそれだけのことだが、子供が持つ特殊な力が発揮されていた。 けれど少年は、ときおりそれらを無意識に放つ傾向がある。今回もそれだろうと納得した。 そんなふたりの後ろには|黄《き》族の|長《おさ》、|黄 沐阳《コウ ムーヤン》が。|殿《しんがり》を努めるのは|黒《こく》族の新しき当主、|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》がいた。 彼らは壊れては再生されている自然や生き物に驚きながら、これがこのふたりなのだと口を挟むことをしない。 やがて先頭を歩く|全 思風《チュアン スーファン》の足がとまる。子供の細腰に手を回し、抱きよせた。「着いたね。さて……ようこそ、死と闇が眠る地【|夔山《ぎざん》】へ──」 そこは何もない地だった。 それは山と呼べるような場所にあらず。 ただ中心に大きな穴のようなものがある。そして、奥の崖に鉄格子のようなものが挟まっているだけであった。「……な、に、これ……」 彼の腕の中で、美しい顔立ちの子供が怯えてしまう。彼の服を強く掴み、見たくないと|云《い》って目を|背《そむ》けた。泣いてはいないが声に震えが含まれている。 彼は少年に優しい笑みを落とした。柔ら
|爛 春犂《ばく しゅんれい》という名も、|瑛 劉偉《エイ リュウウェイ》という人物すらも、誰も知らない。ただそれだけならば、隠密のような存在として活躍しているということで納得はいくのだろう。 しかし|爛 春犂《ばく しゅんれい》が持っていた八卦鏡(パーコーチン)。今は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の体内にあるが、元は彼が持参していたものだった。「……あれは皇帝ひとりにつき、ひとつだけしか使用を許されない物だ。皇帝がひとりだけ選び、その人に与える。その人が死んだとしても、皇帝が生き続ける限りは、違う誰かが持つなんて事はないんだ」 皇帝が亡くなれば新しい八卦鏡(パーコーチン)が作られ、また、誰かに渡される。けれどその人も、皇帝すらも八卦鏡(パーコーチン)をそれ以上作ることは叶わず。渡すこともできない。 それが|爛 春犂《ばく しゅんれい》が腰にかけていた八卦鏡(パーコーチン)の、最大の秘密であった。「あんたが聞いてきた事が本当なら、|爛 春犂《ばく しゅんれい》が持っていたという事そのものがおかしくなるね」 |全 思風《チュアン スーファン》の瞳は空を見上げる。 陽は沈み始め、空は暗くなっていた。月はなく、星もない。代わりにあるのは上空から降る白い結晶の雪だった。「これは定められている事だ。例え皇帝であったとしても、|覆《くつがえ》す事はできない」 彼の低い声には|覇気《はき》がない。他人事、されど自分のことのように語った。 腰を上げ、|焚《た》き火をしようと提案する。 隣で黙って話を聞いていた|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は|頷《うなず》いた。 □ □ □ ■ ■ ■ バチバチと、|焚《た》き火の|焔《ほのお》が風に|煽《あお》られている。 少し離れた場所にいる馬を見れば、雑草をむしゃむしゃと食べていた。馬の頭の上には|躑躅《ツツジ》が乗り、気持ちよさそうに眠っている。 「……動物は|呑気《のんき》でいいよな? 俺らが生きるために頑張ってるってのにさ」 そんな|愚痴《ぐち》を溢すのは|黄 沐阳《コウ ムーヤン》だ。彼は片膝を曲げて、|焚《た》き火を見つめている。いつもの|漢服《かんふく》を着、深くため息をついていた。「人間の言葉はわからんのだろうさ……それよりも、お前の屋敷にいた|爛 春犂《ばく しゅんれい》。奴は本当に、何者
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