Mag-log in「八万円ですって?」久恵は思わず声を上げた。「美紗、いくら何でも高すぎるでしょう!」「だって、プロ仕様なんだもん!」美紗はスマートフォンの画面を見せた。そこには、高級な絵の具や筆、キャンバスがセットになった商品が表示されていた。「いい道具を使えば、いい絵が描けるに決まってるじゃない!」「でも、あなた、まだ絵を習い始めてもいないでしょう?」「だから最初からいいものを揃えるんでしょ!」美紗は不機嫌そうに唇を尖らせた。「香子だって、勇樹さんに高い画材を買ってもらってるんじゃないの?」「……そうかもしれないわね」久恵は眉をひそめた。「まったく、あの子ばかりいい思いをして……」「でしょ? だから私にも買ってよ!」久恵はため息をついた。八万円は決して安い金額ではない。だが、美紗に何度もせがまれるのも面倒だった。「……今回だけよ」「やった!」美紗は嬉しそうに購入画面を開いた。「これで香子より上手な絵が描けるわ!」数日後。美紗は大量の画材を抱えて、青葉美術アカデミーを訪れた。「……すごい荷物ですね」担当講師が驚いた。「はい! 全部プロ仕様なんです!」美紗は得意げに笑った。「これだけ揃えたんだから、すぐに上達しますよね?」「道具に慣れることも大切ですが、まずは基本から始めましょう」講師は穏やかに答えた。「今日は静物デッサンをしていただきます」「……デッサン?」美紗は顔をしかめた。机の上には、リンゴと白いカップが置かれていた。「これを鉛筆で描くんですか?」「はい。形や光の当たり方を観察してみましょう」「えー、絵の具は使わないんですか?」「まずは鉛筆で練習しましょうね」美紗は不満そうに椅子に座った。せっかく高い絵の具を買ったのに、リンゴを鉛筆で描くだけなんて。それでも仕方なく鉛筆を動かし始めた。ところが、思ったように形が取れない。何度描き直しても、リンゴが歪んでしまう。「……何これ」美紗は苛立たしげに消しゴムを手に取った。隣の生徒の画用紙には、立体的なリンゴが描かれている。「……どうしてそんなに上手なんですか?」「私、もう一年くらい通っているので」生徒は笑って答えた。美紗は唇を尖らせた。「……一年もかかるんだ」その後も、講師に何度か描き方を教わったが、美紗はすぐに飽きてしまった。授
「私の絵は十万円で売れると思うんです!」廊下に響いた美紗の声に、香子は思わず肩をすくめた。小野寺が苦笑する。「……元気な妹さんだね」「……すみません」「鷹宮さんが謝ることじゃないよ」小野寺はそう言って、自分のキャンバスに向き直った。香子も筆を手に取ったが、なかなか絵に集中できなかった。美紗が、どうして突然絵画学校に来たのだろう。しかも、わざわざ同じ学校に。そんなことを考えているうちに、授業が終わってしまった。「……今日は、あまり進みませんでした」香子が呟くと、小野寺が笑った。「そういう日もあるよ。また次回、頑張ろう」「……はい」香子は道具を片づけ始めた。そのとき、教室の扉が開いた。「お姉ちゃん!」美紗だった。「……美紗」「ねえ、私もここに通うことにしたから!」香子は驚いて顔を上げた。「……そうなの?」「うん! さっき申し込んできた!」美紗は得意げに笑った。「お姉ちゃんと同じクラスにしてもらおうと思ったんだけど、空きがないんだって。残念!」「……そう」香子は少しだけほっとした。すると、美紗は香子の描きかけの絵を覗き込んだ。「これが次の作品?」「……ええ」「ふうん。地味だね」香子は何も答えなかった。美紗はさらに続けた。「でも、勇樹さんに紹介してもらえば、また売れるんじゃない?」「……美紗」香子は静かに顔を上げた。「私、絵を売るために描い
「……美紗が?」香子はスマートフォンを見つめた。小野寺から届いたメッセージには、確かに妹の名前が書かれていた。『鷹宮美紗さんっていう方なんだけど』同姓同名の別人という可能性もある。けれど、香子には嫌な予感がした。「どうしたの?」勇樹が尋ねた。「……あの、私の通っている学校に、美紗が見学を申し込んだそうなんです」「妹さんが?」「はい……」香子は困ったように俯いた。「どうして、同じ学校に……」勇樹は少し考えた。「絵に興味を持ったのかもしれないね」「……そうでしょうか」香子は首を傾げた。美紗が絵を描くのを楽しんでいるところなど、見たことがない。それどころか、香子が絵を描いていると、よく馬鹿にされたものだった。『そんなの描いて、何になるの?』昔の美紗の声が蘇る。「……私、学校では静かに絵を描いていたいんです」香子が小さく言うと、勇樹は頷いた。「うん。今はまだ、見学を申し込んだだけなんでしょう?」「……はい」「だったら、今から心配しすぎなくてもいいと思うよ」「……そうですね」香子は小さく息を吐いた。翌日。青葉美術アカデミーでは、いつもどおり授業が行われていた。香子は新しいキャンバスを前に、次の作品の下描きを始めていた。「鷹宮さん、今度は何を描くの?」小野寺が尋ねた。「……今度は、海を描いてみようと思っているんです」「海?」「はい。子供の頃、お祖父様とお祖母様に連れていってい
「私だって、絵くらい描けるんだから!」美紗はスマートフォンをテーブルに置いた。久恵は呆れたように顔を上げた。「急に何を言い出すの?」「だって、香子の絵が一万円で売れたんでしょ? 私だって描けば売れるわよ!」「絵なんて、学校を卒業してから描いていないでしょう?」「そんなの関係ないじゃない!」美紗は不機嫌そうに唇を尖らせた。「どうせ勇樹さんのファンが買ったんでしょ。香子の絵だから欲しいわけじゃないんだから」久恵はスマートフォンの画面を覗き込んだ。そこには、勇樹の投稿を引用した記事が表示されていた。『来栖勇樹、恋人の絵画を絶賛。初出品作が即日完売』「……まったく、大げさね」久恵は鼻を鳴らした。「たった一万円の絵が売れただけでしょう?」「そうよ! なのに、みんな香子のことばっかり褒めてるの!」美紗は画面を指さした。『優しい色使いが素敵』『ほかの作品も見たい』『次の作品展が楽しみ』「……何よ、これ!」美紗はスマートフォンを握りしめた。「香子ばっかり、ずるい!」久恵はため息をついた。「そんなに羨ましいなら、あなたも絵を習えばいいじゃない」「……え?」「香子にできることなら、あなたにだってできるでしょう?」美紗は目を輝かせた。「そうよね!」そして、すぐにスマートフォンで絵画教室を検索し始めた。「……あ、ここ! 香子が通ってる学校じゃない?」画面には、青葉美術アカデミーの公式サイトが表示されていた。「私もここに通おうかな」久恵は眉をひそめた。「わざわざ同じ学校に?」「だって、香子より上手な絵を描いてやりたいんだもん!
「……三人も、ですか?」香子は驚いて聞き返した。「はい。皆さん、来栖さんのSNSをご覧になったそうです」受付の女性は嬉しそうに答えた。「作品を購入したいというお問い合わせが、立て続けに入っているんですよ」「……そんな」香子は戸惑いながら勇樹を見た。「勇樹さん、どうしましょう……」「すごいね。香子の絵を欲しいって人がいるんだ」「でも、三人もいらっしゃるなんて……」香子は自分の絵を振り返った。祖父母の庭を思い出しながら描いた『春の庭』。まさか、知らない人が買いたいと言ってくれるとは思わなかった。「……あの、お値段は一万円にしてあるんですけれど」「はい。皆さん、その価格もご存じです」受付の女性が頷いた。「ただ、一点しかありませんので、販売方法について先生に確認してまいりますね」「……よろしくお願いいたします」香子は深く頭を下げた。しばらくして、講師がやってきた。「鷹宮さん、すごい反響ですね」「……私も、驚いてしまって」「今回は先着順で販売することになっていますので、最初にお申し込みくださった方にお譲りする形になります」「……そうなんですね」香子は少しほっとした。「それでしたら、ぜひ、その方に……」「わかりました。お手続きを進めますね」講師は微笑んだ。「初めての出品で、もう購入希望があるなんて素敵ですね」「……ありがとうございます」香子は頬を赤らめた。それからも、勇樹の投稿には次々とコメントが寄せられた。
「……取材?」勇樹はスマートフォンを耳に当てたまま、眉を上げた。『はい。以前から来栖さんを取材している芸能誌の記者さんです。明日のご予定を聞きつけたようで』「どうして知ってるんだろう?」『作品展の案内は一般公開されていますからね。来栖さんが訪問されるという情報も、どこかから伝わったのでしょう』勇樹は少し考えた。「香子の作品展なんだ。俺が目立って、迷惑をかけるのは嫌だな」『では、お断りしましょうか』「うん。そうしてくれる?」『承知しました』電話を切ると、香子が心配そうに尋ねた。「……勇樹さん、取材というのは?」「明日の作品展に、記者さんが来たいんだって」「……えっ!」香子は驚いた。「私の学校に、ですか?」「うん。でも、断っておいたよ」「……そうなんですね」「せっかくの作品展だからね。香子も、ほかの生徒さんたちも、落ち着いて楽しめたほうがいいでしょう?」「……はい」香子はほっとしたように微笑んだ。「ありがとうございます」翌日。青葉美術アカデミーのギャラリーには、たくさんの作品が並んでいた。風景画や人物画、色鮮やかな抽象画。香子は入口に立ち、緊張した面持ちで会場を見渡した。「……こんなに立派な展示会になるんですね」「うん。すごいね」隣に立つ勇樹が微笑んだ。今日は帽子を深くかぶり、目立たない服装をしている。それでも、すれ違う人が何度か振り返っていた。「香子の絵はどこ?」「……こちらです」香子は勇樹を奥の展示スペースへ案内した。壁には、『春の庭