『番を奪われた狼の娘は、呪われた王の記憶を預かる』

『番を奪われた狼の娘は、呪われた王の記憶を預かる』

last updateLast Updated : 2026-10-19
By:  常陸之介寛浩Updated just now
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
Not enough ratings
20Chapters
25views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

七年間支えてきた婚約者ガレスに、群れの祝祭で番を拒絶されたリヴィア。彼は有力者の娘との婚約を発表したうえ、彼女に物資横領の罪を着せて追放する。逃げ延びた国境でリヴィアを拾ったのは、満月の夜に得た記憶を夜明けとともに失う「灰冠の狼王」エイドリアンだった。王の記録係となった彼女は、翌朝には自分を忘れる彼と、少しずつ心を通わせていく。彼は番の印を求めず、彼女が望む距離で待ってくれた。だが、ガレスが偽造した帳簿を追ううちに、王の呪いと自分の追放が同じ陰謀につながっていると知る。捨てた女が王の隣に立ったと知ったガレスも、今さら彼女を取り戻そうと動き出す。

View More

Chapter 1

第1話 祝祭の夜、彼は私を拒絶した

祝祭の広間には、焼いた鹿肉と林檎酒の匂いが満ちていた。春の終わりに次のアルファを迎えるのは、私たちの群れでは二十年ぶりのことだ。扉の脇では子どもたちが花輪を取り合い、長老たちは誰がどの席に座るべきかで、式が始まる前から小声の言い争いをしている。

 私はその間を縫って、壁際に立つガレスを探した。祝いの席で仕事の話をするのは気が進まなかったが、明日の朝に配るはずの保存食が帳簿の数と合わない。倉庫番の数え間違いなら、今夜のうちに確かめて安心したかった。

 ガレスは銀糸の入った上着を着て、何人もの祝い客に囲まれていた。見慣れない服のはずなのに、襟を留める留め金だけは私が選んだものだった。彼は堅苦しい飾りを嫌うから、裏に小さな革を縫いつけて、首に当たっても痛くないようにしてある。

 そのことが妙に嬉しくて、私は抱えていた帳簿を持ち直した。

「リヴィア、今夜くらい仕事を置きなさいよ」

 声をかけてきたのは、配給所で一緒に働くイーダだった。彼女は私の手から帳簿を奪おうとして、私が強く抱えているのを見ると諦めた。

「明日の分が足りないかもしれないの。ガレスに少しだけ確認したら、ちゃんと祝うわ」

「あなたの『少しだけ』を信じたこと、一度もないんだけど。でも今日は彼の大事な日よ。食事くらい二人でゆっくりなさい」

 イーダは私の髪に触れ、留め具からこぼれた一房を耳の後ろへ戻した。私が夜遅くまで帳簿を見ていたことも、式のために珍しく髪を結ったことも知っているのだろう。その優しさに礼を言いかけたとき、広間の奥で鐘が鳴った。

 人々が演壇のほうへ向かう。ガレスは私を見つけ、祝い客の肩越しに片手を上げた。私は帳簿のことを一度忘れ、同じように手を上げ返した。

 七年前、彼が初めて私に「君がいると、俺はちゃんと考えてから物を言える」と告げた夜を思い出す。頼りにされるのが嬉しかった。頼られているうちに、彼の仕事と私の仕事の境目は曖昧になったけれど、二人で群れを支えるつもりだったから、不満を口にしたことはほとんどない。

 演壇には三人の長老が並び、その前にガレスが立った。彼が人々に向かって挨拶を始めると、ざわめきは自然に収まっていく。誰かの名前を呼んで笑いを取るのも、力の弱い群れには先に礼を言うのも、彼らしい振る舞いだった。私は何度となく、その気遣いを好きだと思ってきた。

「今日から俺がこの群れを率いることになります。父のやり方をそのままなぞれば安心する者もいるでしょうが、国境の情勢は変わっています。守るべきものを守るために、変えなければならないこともある」

 頼もしい声に拍手が上がった。私も帳簿を片腕に寄せて手を叩く。

 ガレスの話が終われば近づける。明日の配給については、そのあとでいい。

「そして、もう一つ。この場で皆に伝えておきたいことがある」

 ガレスがこちらを見た。周囲の人が道を空け、私の背中を押すような視線が集まる。イーダが隣で笑い、私の肘を軽くつついた。

 私は歩き出しかけたが、演壇に続く階段の前で足を止めた。ガレスの横には、淡い青の衣をまとったセレス・マーロウが立っていたからだ。有力な群れの長の娘で、数日前から祝祭の客として滞在している。彼女がガレスに何度も話しかけていたのは知っていたし、私も彼女の宿泊の手配をした。ここへ呼ばれる理由は、私には分からなかった。

「リヴィア・フェン」

 ガレスは私の名を呼んだ。いつもの二人きりのときより、少し硬い声だった。

「ここへ来てほしい」

 人々が私のために開けた道は、広間を半分に割っていた。途中で立ち止まるわけにもいかず、私は演壇の下まで進んだ。手の中の帳簿が急に重くなる。

「あなたに確認してほしいことがあるの」

 声を落として言うと、ガレスは首を横に振った。

「先に俺の話を聞いてくれ。時間はかけない」

 私はうなずいた。ガレスは演壇を降りてこないまま、セレスに一度目を向け、それから人々へ顔を戻した。

「リヴィアと俺には、幼いころから月の共鳴があった。将来は番の誓いを結ぶものだと、皆も思っていただろう。俺も長いあいだ、そう考えていた」

 胸の奥がざわついた。これから誓いの日を告げる人の言い方ではなかった。私はガレスを見つめたが、彼の視線は広間の後ろまで届くように上げられている。

「けれど、共鳴だけを理由に生涯の相手を決めるのは、互いのためにならない。俺はリヴィアとの番の誓いを結ばない。この場ではっきり、彼女を拒絶する」

 誰かが息を呑み、少し遅れて、広間の隅で子どもの泣き声がした。何が起きたのか分からなくても、大人たちの顔が変わったことは伝わったのだろう。

 ガレスの言葉は聞き取れていた。それでも私は、演壇の上にいる彼と、昨日まで私の家で夕食を食べていた彼が同じ人だと思えなかった。昨夜は豆が硬いと文句を言いながら、最後には鍋の底までさらっていた。式が済んだら一緒に帰るつもりで、彼の上着も私の家に置いてある。

「どうして、今ここで言うの」

 思ったより静かな声が出た。泣いたり怒鳴ったりすれば、彼が私に向き直ってくれる気もしたが、まずは答えを聞きたかった。

 ガレスは唇を一度結んだ。人前で私に説明する言葉を探しているように見えた。

「先延ばしにすれば、もっと傷つける」

「昨日、うちで食事をしたときなら話せたでしょう。今夜だって、広間に来る前に私を呼べたはずよ」

 後ろで誰かがガレスの名を小さく呼んだ。彼はそちらを見ず、私に向かって言った。

「君と二人になると、結局また言えなくなる。これまでもそうだった」

 答えとして受け取るには、あまりにも勝手だった。ただ、その弱さには覚えがある。ガレスは難しい話を始める前、いつも私に茶を頼んだ。茶を飲み終えるころには、私が先に彼の言いにくいことを察していた。今夜もそうしてほしかったのかもしれない。私にはもう、彼を助ける言葉が見つからなかった。

 ガレスは私から顔を逸らし、セレスの手を取った。

「俺はセレス・マーロウと婚約する。彼女の群れと協力し、この土地を守っていく」

 セレスは広間を見渡してから、私を見た。勝ち誇った笑みを向けられたら、こちらも腹を立てられただろう。けれど彼女は困ったように口元を引き締めているだけだった。私への申し訳なさなのか、自分がこんな場に立つと知らされていなかったのか、表情からは分からない。

 イーダが私のそばまで来て、肘に触れた。広間を出よう、と言いたいのだと思った。私もここに立ち続けたくはなかったが、手に抱えた帳簿が腕に食い込んでいる。明日の配給は、私が出ていけば誰かが何とかしてくれる話ではない。

「ガレス。明日の保存食が、出庫記録より少ないの。倉庫の鍵を持っている人を確認したい。あとの話は、外で聞くわ」

 彼の顔から、わずかに血の気が引いた。

 初めて、ガレスが私をまっすぐ見た。その反応だけで、帳簿の数字が単なる数え間違いではないのだと分かってしまう。私は続けようとしたが、演壇にいた長老の一人が進み出た。

「その件なら、ちょうど皆に知らせるところだった」

 長老は厚い書類の束を持っていた。あれをいつから用意していたのか、私は見ていない。彼は表紙を開き、何枚かめくった。

「本日の昼、倉庫の検査を行った。保存食だけでなく、冬に備えていた医薬品にも不足がある」

「医薬品も?」

 私は顔を上げた。医薬品の帳簿を最後に確かめたのは三日前で、そのときは数が合っていた。

「あなたの管理する出庫記録には、それらを外へ運ぶ許可が残っている」

「私は許可していません。保存食の不足も、さっき確認したばかりです」

 長老は答えず、一枚の書類を広間に向けて掲げた。離れている私には文字が読めない。近づこうとすると、イーダの指が肘から離れた。彼女も書類を見ようとしていた。

「リヴィア、これはどういうことだ」

 ガレスの問いに、私は思わず笑いそうになった。私が聞きたいことを、彼が先に尋ねている。

「その紙を見せて。私の記録だと言うなら、私にも確かめさせて」

「見れば、皆の前で説明しなければならなくなる」

 彼は私にだけ聞こえる声で言った。壇上から降りてきたわけでもないのに、その言葉は不思議とはっきり届いた。

「説明するわ。だから見せて」

 ガレスの手が欄干を握った。彼の爪が木に当たる音まで聞こえるほど、広間は静まり返っていた。

 長老が書類を持って階段を降りてくる。私の前に差し出された紙には、三日前の日付で保存食と医薬品の出庫が記されていた。行き先は空欄だ。こんな記録を私が通すはずはない。

 ただ、その下には私の署名があった。

 筆の運びまで、よく似ている。息を止めて見つめていると、ガレスが階段を一段降りた。

「リヴィア。今なら、俺から長老たちに話をする。今夜はもう、何も言わないでくれ」

 私の頭をよぎったのは、昨夜の豆の鍋でも、セレスとつないだ彼の手でもなかった。明日の朝、配給所へ来る人たちの顔だった。薬を受け取るはずの子どももいる。その人たちの前で黙っていれば、私は本当に、この紙に書かれたことをした人間になってしまう。

 私は書類を持つ長老に向き直った。

「この署名が私のものかどうか、調べてください。出庫を許可した覚えはありません」

 広間にざわめきが戻った。ガレスが私の名を呼んだが、私は書類から目を離さなかった。三日前、私は確かにこの形式の紙に署名している。あの日、ガレスは出かける間際に一枚だけ書類を持ってきて、急ぎの受領確認だと言った。

 私は内容を読み返さずに、名前を書いた。

 その日の彼の声も、紙を折って差し出した手つきも思い出せる。だからこそ今は、もう一度この書類を、端から確かめなければならなかった。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
20 Chapters
第1話 祝祭の夜、彼は私を拒絶した
祝祭の広間には、焼いた鹿肉と林檎酒の匂いが満ちていた。春の終わりに次のアルファを迎えるのは、私たちの群れでは二十年ぶりのことだ。扉の脇では子どもたちが花輪を取り合い、長老たちは誰がどの席に座るべきかで、式が始まる前から小声の言い争いをしている。 私はその間を縫って、壁際に立つガレスを探した。祝いの席で仕事の話をするのは気が進まなかったが、明日の朝に配るはずの保存食が帳簿の数と合わない。倉庫番の数え間違いなら、今夜のうちに確かめて安心したかった。 ガレスは銀糸の入った上着を着て、何人もの祝い客に囲まれていた。見慣れない服のはずなのに、襟を留める留め金だけは私が選んだものだった。彼は堅苦しい飾りを嫌うから、裏に小さな革を縫いつけて、首に当たっても痛くないようにしてある。 そのことが妙に嬉しくて、私は抱えていた帳簿を持ち直した。「リヴィア、今夜くらい仕事を置きなさいよ」 声をかけてきたのは、配給所で一緒に働くイーダだった。彼女は私の手から帳簿を奪おうとして、私が強く抱えているのを見ると諦めた。「明日の分が足りないかもしれないの。ガレスに少しだけ確認したら、ちゃんと祝うわ」「あなたの『少しだけ』を信じたこと、一度もないんだけど。でも今日は彼の大事な日よ。食事くらい二人でゆっくりなさい」 イーダは私の髪に触れ、留め具からこぼれた一房を耳の後ろへ戻した。私が夜遅くまで帳簿を見ていたことも、式のために珍しく髪を結ったことも知っているのだろう。その優しさに礼を言いかけたとき、広間の奥で鐘が鳴った。 人々が演壇のほうへ向かう。ガレスは私を見つけ、祝い客の肩越しに片手を上げた。私は帳簿のことを一度忘れ、同じように手を上げ返した。 七年前、彼が初めて私に「君がいると、俺はちゃんと考えてから物を言える」と告げた夜を思い出す。頼りにされるのが嬉しかった。頼られているうちに、彼の仕事と私の仕事の境目は曖昧になったけれど、二人で群れを支えるつもりだったから、不満を口にしたことはほとんどない。 演壇には三人の長老が並び、その前にガレスが立った。彼が人々に向かって挨拶を始めると、ざわめきは自然に収まっていく。誰かの名前を呼んで笑いを取るのも、力の弱い群れには先に礼を言うのも、彼らしい振る舞いだった。私は何度となく、その気遣いを好きだと思ってきた。「今日から俺がこの群れを率い
last updateLast Updated : 2026-10-01
Read more
第2話 七年間の帳簿
書類の端を持つ長老の指が、私の目の前でわずかに動いた。取り上げられると思い、私はその手を押さえた。「破いたりしません。確かめるだけです」「皆が待っている。手短に頼む」 長老はそう言いながらも、書類を離さなかった。私は紙の中央にある品目と数量を読み直した。保存食の樽が十二、医薬品の箱が四。受領者の欄は空白で、行き先も書かれていない。このまま倉庫から運び出せば、誰に渡したのか後から調べようがない。 私の署名は最下段にあった。少し右へ傾く癖も、最後の文字で筆を抜く方向も、自分のものに見える。昨夜から考え続けていた不足の理由が、この一枚で説明できるようになってしまった。「三日前に、ガレスから受領確認の紙を渡されました。そのとき署名したのは事実です。でも、私が見た紙には、物資を出庫するという記載はありませんでした」 広間の後ろで、誰かが「見ずに署名したのか」と言った。責められても仕方がない。私も帳簿を預かる者が同じことをしたと聞けば、なぜ読まなかったのかと思う。 ガレスは演壇を降り、私の隣へ来た。いつもなら人前で困った私に肩を貸すときの距離だったが、今夜は一歩近づかれただけで身構えてしまう。「俺が渡したのは、倉庫へ入れる油の受領確認だ。あの書類に署名したことと、これとは関係ないだろう」「油の受領確認だったのね」 私は彼を見た。三日前、彼は出かける間際に折った書類を持ってきた。急いでいるから署名だけしてほしいと言われ、開いた上半分の日付と受領欄を確かめて名前を書いた。油の文字があったかどうか、思い出せない。「それなら、その受領確認はどこにあるの。倉庫に油は届いた?」「届いているはずだ。そんなことを今、俺に聞くなよ」「あなたが渡した書類だから聞いているの」 ガレスは答えず、長老が持つ紙へ目を落とした。私はそれ以上、署名のことを追及しなかった。記憶だけで押し通せる相手ではないし、油については倉庫で確かめればいい。 書類の上端には、綴じ糸を通すための小さな穴が二つ開いていた。穴の周りに薄い擦れがある。私の帳簿では、出庫許可書を一日分ずつ束ね、左上を麻糸で綴じる。これは一度、束から外された紙だ。「この書類は、どの帳簿から取り出しましたか」「倉庫の出庫簿だ。昼の検査で見つかった」 長老は私の手元を見た。私はまだ祝祭に持ってきた帳簿を抱えている。今朝ま
last updateLast Updated : 2026-10-01
Read more
第3話 追放の門
見張りの一人が、私の腕の中にある帳簿へ目を向けた。取り上げるよう命じられているのだろうか。私は表紙に手を置いたまま、彼が何か言うのを待った。「長老のところまで来てくれ。帳簿も持って」「イーダも一緒でいいですか。この帳簿を私と一緒に見ています」「そこまでは止められていない」 見張りの返事に、イーダが私の肩へ自分の上着を掛けた。祝祭に着てきた薄い服では、夜の道を戻るには寒い。礼を言うと、彼女は「返すのは明日でいい」と言った。明日も会えると、今は彼女に言ってほしかった。 私たちは広間には戻らず、その裏手にある集会所へ案内された。食事を楽しむ人々の声が、壁一枚を隔てて聞こえる。こちらの部屋には油の匂いのする灯りが二つあるだけで、昼間は長老たちが会議に使う大机に、先ほどの出庫許可書が広げられていた。 長老は私の家に封印がされたことを、見張りから報告されて初めて知ったようだった。気まずそうに眉を寄せたが、封を解くようには命じない。「調査のため、家の書類も保全することにした。自宅で待てと言ったあとで命令が変わったのは、こちらの不手際だ」「今夜はどこで過ごせばいいんですか」「集会所の奥の部屋を使いなさい。見張りは置くが、罪が決まったわけではない」 その言い方は私を安心させるためなのだろう。けれど、自分の家には入れず、扉の外には見張りが立つ。名前をどうつけても、自由に帰れないことに変わりはなかった。 私は帳簿を机に置き、油の受領記録を開いた。「三日前、油は倉庫番が受け取っています。私の署名はありません。ガレスが言った『私に渡した受領確認』とは、別の書類だったはずです」 長老は頁に顔を近づけ、日付と数量を確かめた。隣からイーダも覗き込み、倉庫番の名を声に出して読んだ。二人が見たことを確認してから、私は帳簿を閉じる。「これは証拠として預かる」「構いません。ただ、どの頁がある状態で渡したか、イーダにも見ていてほしいんです」 長老の顔が強張った。疑われたと思ったのかもしれない。私は言い直すべきか迷ったが、取り消さなかった。今夜の私は、ガレスに渡された紙を確かめず署名した。二度と同じことはしたくない。 イーダが私の横で頷く。「最初の頁から順に見ます。私、数字は苦手ですけど、何枚あるかくらい数えられます」「お前は明日の配給の準備もあるだろう」「だからこそ
last updateLast Updated : 2026-10-01
Read more
第4話 灰冠の狼王
北門を出てから半刻ほど、私は何度も背後を振り返った。二人の騎手が同じ道を来ていたが、こちらへ声をかけることも、急いで距離を詰めることもない。祝祭から帰る客かもしれない。そう思って前を向いても、馬の蹄が石を踏む音が聞こえるたび、外套の下に抱えた帳簿を確かめてしまった。 街道の脇には、国境の村まで続く荷馬車用の道がある。馬車なら夕方には最初の宿に着く距離だが、歩きでは無理だろう。私は昼前に小さな茶屋で水を足し、パンを一つ買った。財布の残りを考えると宿に泊まるより道中の物置を借りたほうがいい。そんな算段をしている自分が、少しだけ可笑しかった。昨日まで、旅に出る予定などなかったのに。 茶屋の主人はパンを包みながら、「北へ行くなら、古い橋は使わないほうがいい」と教えてくれた。春先の増水で板が何枚か外れ、馬を渡すには危ないらしい。私は礼を言い、橋より手前で川沿いの道へ下りることにした。 茶屋を出たところで、後ろの騎手たちも馬を止めた。二人のうち一人が主人に何か尋ね、主人は私の歩いていく方角を指した。 偶然だと思うには、さすがに苦しい。 私は走らなかった。街道にはまだ人目があり、騎手が本当に私を追っているなら、足の速さで勝負しても負ける。橋の手前で川沿いの道へ下り、荷車の轍が深く刻まれた斜面を進んだ。道は柳の茂みに隠れるように曲がっている。騎手は橋へ向かうかもしれないし、私と同じ道を選ぶかもしれない。 靴の底で乾いた枝を踏んだとき、近くの鳥がいっせいに飛び立った。「そのまま進むな」 男の声がした。低く、命令に慣れた口調だったが、大声ではない。私は足を止め、声のした川岸へ顔を向ける。 崩れた石垣の陰に、黒い外套の男が座っていた。片膝を立て、もう片方の腕を胸に当てている。指の隙間から血がにじみ、石垣にも小さな赤い跡が残っていた。年は三十を少し過ぎたくらいだろうか。長い黒髪を首の後ろで束ね、汚れた上着の下には鎖を編んだ防具が見える。 男は私の顔より先に、足元を見た。「二歩先に縄がある。踏めば音が鳴る」 目を凝らすと、枯れ枝の間に細い糸が張られていた。向こう側には小さな鈴まで結びつけてある。私は片足を引き、男を見直した。「あなたが仕掛けたの?」「追ってきた者だろう。俺がここへ下りたときには、まだなかった」 言い終えるまでに、男の呼吸が一度乱れた。血のついた
last updateLast Updated : 2026-10-01
Read more
第5話 保護の条件
王の兵たちは、橋から少し離れた国境警備所へ私たちを案内した。街道沿いの低い石造りの建物で、門には灰色の狼をかたどった紋章が掲げられている。そこへ入るころには日が落ち、戸口で燃える松明の煙が、湿った外套に染みついた川の匂いを追い払った。 エイドリアン王は真っ先に手当てを受けると思っていたのに、兵へ馬と人数を確認している。私が巻いた布には、新しい血が少しにじんでいた。「陛下、先に腕を診てもらってください」 思わず口を挟むと、近くにいた兵がこちらを見た。王は私のほうへ顔を向け、それから自分の腕を見下ろした。「そうする。川では世話になったから、もう一度言われる前に行こう」「最初からそのつもりだったようには聞こえません」「二度目を聞かずに済んだのは確かだ」 彼が奥の部屋へ入ると、兵たちの動きも少し落ち着いた。年配の兵が私を暖炉のそばへ通し、温めた水とパンを持ってきてくれる。私は茶屋で買ったパンをまだ食べていなかった。遠慮するつもりで口を開いたが、空腹で腹が鳴り、兵が笑いをこらえるのを見て諦めた。「いただきます。代金は払えます」「陛下がお連れした客からは取れませんよ。代わりに、川で何があったかは後で聞かせてください」「分かりました。ただ、私にも分からないことが多いんです」「分からないところは、そのまま言ってもらえればいい」 兵はそう言って席を外した。温かいパンを割ると指先に湯気が当たり、自分の手が冷えきっていたことに気づく。朝、イーダが包んでくれた手の感触まで思い出した。無事に宿へ着いたら手紙を出す約束をしたが、ここは宿ではない。私はまだ、どこに泊まるかも決めていなかった。 ほどなくして、先ほどの年配の兵が書くものを持って戻った。名を尋ねると、ダリオと答えた。彼は卓の向かいに座り、王と出会うまでに通った道、追ってきた騎手の人数、聞こえた言葉を一つずつ確認した。「顔は見ましたか」「北門の近くで、遠目にだけ。橋の手前では姿を見ていません。同じ二人だと言い切れないのが困るんです」「服装は?」「二人とも暗い色の外套でした。今思えば、誰でも持っていそうなものですね」「十分です。見えなかった顔を見たことにされるほうが困りますから」 ダリオは私が話す速度に合わせて筆を動かした。ガレスの名を出したときだけ、一度手を止める。「その方が追っ手を出したと思い
last updateLast Updated : 2026-10-01
Read more
第6話 朝には忘れている
ガレスの署名がある引き渡し要求を前に、私は食べかけの煮込みへ手を伸ばせずにいた。彼は昨夜、私が北門から出ていけば調査を広げずに済むと言った。今度は自分が送り出した相手を、逃亡者として連れ戻そうとしている。 エイドリアン王はダリオから紙と筆を受け取ったが、すぐには書き始めなかった。「リヴィア。長老から群れを離れるよう命じられたのは、誰がいる場だった」「長老が二人、イーダ、それに見張りです。イーダは私を北門まで送ってくれました。門番も、止めずに通しています」「命令の文書は渡されたか」「いいえ。口頭でした」 王は頷き、短い返書を書いた。使者の前で読み上げるようダリオに渡し、私にも内容を聞かせてくれる。私が逃亡したという主張と、長老会の退去命令との食い違いを確認すること。北門の記録と、命令に立ち会った者の証言を求めること。それまで身柄の引き渡しには応じないこと。 王は私が無実だとは書かなかった。冷たく感じてもおかしくない文面なのに、私にはありがたかった。確かめられる事実から始めれば、イーダたちの証言も意味を持つ。「これでしばらく時間ができる」と王は言った。「向こうの返事が来るまでに、こちらも帳簿を調べよう」「ありがとうございます。イーダにも、私がここにいると手紙を書いていいですか」「もちろんだ。ただ、その前に使者が帰る。彼女の名を返書に入れたくなければ、『退去命令に立ち会った者がいる』とだけ書き換えられる」 私は彼の持つ紙を見た。イーダはすでに長老たちの前で私をかばっている。それでも、王への返書に名前を出されると、また違う負担がかかるかもしれない。「今は名前を伏せてください。私から先に、彼女へ話します」 王はダリオへそう伝え、一行を書き直した。私が頼んだことが、その場で文面に反映される。昨日、祝祭の広間でどれだけ話しても、誰にも届かないように思えたのを覚えているだけに、不思議な心地だった。 警備所には客用の小部屋が一つ空いていた。案内された寝台に横になると、疲れが急に体へ戻ってきた。枕元にはイーダの上着を畳んで置き、古い帳簿は鞄にしまう。扉の外を兵が通るたび目は覚めたが、それでも、家の封印を見た夜よりは長く眠れた。 翌朝、王の返書と私の手紙がそれぞれ出された。イーダには警備所の場所、食事を取ったこと、手元の古い帳簿から北倉へ届かなかった荷の記
last updateLast Updated : 2026-10-01
Read more
第7話 王のための一冊目
王の執務室には、机が二つ置かれていた。一つは窓際にある大きな執務机で、もう一つは壁際の、私が座るために用意された小さな机だ。どちらにも灯りがあり、扉の外には兵が立っている。鎧戸を閉めた室内は、昼間よりも狭く感じられた。 私は記録帳に日付を書き、筆先を整えた。満月の夜を記す帳面は机の端に何冊も積まれていたが、今夜のものだけ表紙が新しい。王が毎月使うなら、これほどの冊数になるのだろう。「最初に何を書く?」 王が尋ねた。私に任せると言っておきながら、自分の仕事を始める前にこちらを気にしている。「陛下が執務室に入った時刻です。それから、記録を始める前に腕の傷を一度確かめたこと」「そんなことまで必要か」「明日の陛下は、今夜その腕をどれくらい使ったか覚えていないんでしょう。医師が読めば役に立つかもしれません」 王は包帯を巻いた腕を机に載せた。「なるほど。俺自身にとっては些細なことでも、読んだ者には必要かもしれないな」「要らなければ、明日から書き方を変えられます。今夜は初めてなので、少し細かく残します」 私は二行を書き足した。王は窓際の机へ向かい、昼間に届いた報告書を読み始める。しばらくは紙をめくる音と、筆先が帳面をこする音だけが続いた。 緊張していたのは最初の半刻ほどだった。満月になった途端、王が人の姿を失うわけではない。無理に気を張っている自分が恥ずかしくなりかけたころ、王が書類を置いた。「北倉に届かなかった荷について、昨冬の報告を見つけた」 彼は私の机まで紙を持ってきた。傷めた腕ではなく、無事な手で運んでいる。報告には、雪で道が閉ざされたため薬と保存食の到着が遅れる、と書かれていた。下には北倉の責任者の署名と、その後に現地を確認した王の署名がある。「遅れる、ということは、届く見込みだったんですね」「ああ。だが数日後には、荷が失われたと報告を受けた。谷道で車輪が壊れ、積み荷を運び出す間に雪に埋まったと」「その報告も残っていますか」「探させている。俺は現場へ行ったが、荷車の残骸と雪の下に散った空箱しか見ていない」 私は帳面に、王が今夜その説明をしたことを書いた。その横に報告書の日付も写す。自分の古い帳簿に記された納入票では、荷は北倉で受け取られている。荷車が道中で壊れたという話とは、どちらかが食い違っていた。「現場で空箱を見たあと、陛下は
last updateLast Updated : 2026-10-01
Read more
第8話 拒絶した男からの手紙
満月の夜に使った記録帳は、王の執務室の棚へ収められた。鍵のかかる棚だったが、エイドリアン王は私にも中身を確かめられるよう、鍵の所在をダリオに伝えてくれた。翌朝、自分が読み終えた途端にしまい込むような扱いをされなかったことが、私は嬉しかった。 それから二日、私は北倉の記録係と一緒に、冬の荷が消えた前後の受領簿を調べていた。王城へ来たばかりのころは、私が差し出す紙を受け取るにもためらっていた記録係が、今では私の机に帳簿を置き、「この日付も見てもらえますか」と頼んでくる。信用されたというより、二人で探すほうが早いと認められたのだろう。それでも、仕事の話ができる相手が増えたのはありがたい。 昼過ぎにダリオが記録室へ来て、私宛ての手紙を一通差し出した。差出人を見る前から、封に使われた赤茶色の蝋に覚えがあった。ガレスは急いで書いた手紙にも、群れの長が使う印をきちんと押す。私がかつて、封の端を指でこすってしまう癖を注意したからだ。「警備所を通して届きました。開けるかどうかは、あなたが決めてください」 ダリオは私が受け取ったのを確かめると、記録係へ荷札の照会について尋ね始めた。手紙の中身を知りたがる様子はない。私は机の隅にそれを置き、開いた帳簿の残り二頁を調べてから、記録室を出た。 自分の部屋に戻るつもりだったが、廊下の途中で厨房から煮込んだ肉の匂いが流れてきた。そういえば朝から水しか飲んでいない。マーラに見つかれば、先に食べろと叱られるだろう。手紙を読む前に何か口に入れたほうがいいと思い、厨房へ寄った。「顔色が悪いよ」 マーラは大鍋の底をかき混ぜながら言った。私の手の封書を見ると、それ以上は尋ねず、椅子を引いて小さな皿を置く。「昼の残りだけど、冷めてない。食べたくないなら置いておくから、あとで戻っておいで」「いただきます。読んだあとだと、食べられないかもしれないので」「だったら、読む前に二杯食べればいい」 彼女は真顔で大きな匙を添えた。私は笑い、皿の半分を食べた。味は分かったし、思っていたほど食欲も失っていない。手紙一通に、食事まで奪われるのは悔しかった。 部屋へ戻ってから封を切ると、ガレスの字が現れた。以前なら遠くからでも分かっただろう。語尾を急いで書くため、最後の文字だけ少し上がる。『あの夜、皆の前で話したことは、君を深く傷つけたと思う。先に二人で
last updateLast Updated : 2026-10-01
Read more
第9話 荷車に残った塩
王の執務室へ入ると、戻ったばかりの巡回兵が地図の上に指を置いていた。そこは灰冠城から南へ向かう街道と、川沿いの細い道が交わる場所だった。私が王と出会った橋より、さらに南にある。「荷車は道を塞ぐように並んでいました。馬はおらず、御者の姿もありません。周辺を探しましたが、暗くなる前に見られたのは川岸までです」 兵の外套の裾から、乾きかけた泥が落ちた。エイドリアン王は報告を最後まで聞き、三台ともその場に残していること、兵が見張っていることを確かめた。「王領の紋章は、どこにあった」「荷台の後ろです。三台とも同じ位置に焼き印があります。一台には荷札も残っていましたので、持ち帰りました」 兵が差し出した木札には、「保存食」と記されていた。行き先は北倉、日付は五日前。私が追っている昨冬の荷とは別だが、届け先は同じだった。「北倉には、五日前に保存食が三台分届く予定でしたか」 王がこちらを見た。私は首を横に振る。「今調べているのは冬の記録です。最近の予定はまだ見ていません。荷札だけでは、中に何を積んでいたかも分かりませんし」「そうだな。今夜は道を守らせる。明るくなってから車体と現場を調べよう」 王はダリオに指示を出し、巡回兵には食事と休息を取らせた。私も同行したいと告げると、ダリオはすぐに返事をせず、王の腕を見た。二日前に傷めた腕は包帯を薄く替えたものの、まだ重い物を持てない。「陛下は城に残ってください。現場には私が行きます」とダリオが言った。「まだ何も言っていない」「お顔に書いてあります。医師には、私から一度注意するだけでは足りないと言われましたので」 王が私を見た。味方を求められたようだったが、川岸で血のにじむ包帯を見た身としては、頷けない。「荷車の跡を調べるなら、腕を使う場面もあると思います。私も帳簿と荷札を比べるために行きますから、陛下は城で最近の北倉の記録を確認していただけませんか」「二人で決めたのなら仕方がないな」 王の言い方に、ダリオが笑いをこらえる。私は自分まで当然のように王の行動を決めていたことに気づき、少し気まずくなった。「同行していい、という意味で受け取ります」「そう言ったつもりだ。だが、川で見かけた騎手の件もまだ分かっていない。護衛から離れないと約束してくれ」「分かりました。荷車の下を見るときも、先に声をかけます」 
last updateLast Updated : 2026-10-01
Read more
第10話 忘れられた夕食
南の集積場から返事が届くまで、思ったより時間がかかった。三台の荷車のうち二台は、届け出どおり保存食を積んで出たという。番号を削られた三台目については、集積場の控えにも記載がない。責任者は「王領の荷車を別の者が途中で加えた可能性がある」と書いて寄こしたが、誰が、どこで加えたかは分からなかった。 さらに車体の使用記録を取り寄せると、今度は南の集積場と北倉で書式が違い、同じ番号を別の欄に写していることが分かった。私はヴィンと机を並べ、古い荷札を日付順に並べ直した。最初は帳簿を抱えて離さなかった彼も、今では私が紙を広げるために、黙って自分の机の半分を空けてくれる。 調査の合間には、イーダから手紙が届いた。彼女は配給所の不足分がひとまず補われたこと、倉庫番への聞き取りが始まったことを書き、最後に「上着は急いで返さなくていい。そちらの冬は寒いでしょう」と添えていた。まだ春の終わりだというのに、返すのが冬になると決めているらしい。私はその一文に笑ったあと、故郷へ帰る日を自分でも決められないことに、少しだけ寂しくなった。 ガレスへの返書は出した。倉庫の調査結果と、逃亡者として引き渡しを求めた理由を尋ねたが、返事はまだない。急かしてきた本人が黙っていることに腹は立つ。それでも私は、手紙を待つ時間まで彼に預けないよう、毎朝記録室へ通った。 空の荷車を見つけてから四週間ほど過ぎたころ、ようやく三台目に使われていた車軸の修理記録が見つかった。車体の番号は削られても、修理した鍛冶場の小さな印は軸の内側に残っていたのだ。印の形を紙に写した兵が戻り、ヴィンは修理記録を探しに別の書庫へ向かった。 その日の仕事が長引いたのは、書庫の帳簿が一冊見当たらなかったからだった。誰かが持ち出したのではなく、雨漏りを避けて別の棚へ移したと、夕刻になって分かった。ヴィンは自分が見落としたように悔しがり、私は「棚を移した人が記録を残していないなら、見つけようがありません」と言った。「あなたに言われると慰められているのか叱られているのか、分かりませんね」「半分ずつです」 ヴィンは帳簿を両腕で抱えたまま笑った。そこへダリオが来て、窓の外を見た。夕闇が山の稜線を隠し始めている。「リヴィア、そろそろ支度を。今夜は満月です」 私は開きかけた帳簿を閉じた。王の夜を記録したのは、まだ一度だけだ。仕事の中でエ
last updateLast Updated : 2026-10-01
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status