冷たい夫より、甘いシェフを選びま

冷たい夫より、甘いシェフを選びま

last updateHuling Na-update : 2026-09-24
By:  6jayIn-update ngayon lang
Language: Japanese
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夫の暴言と支配で、食べることすらできなくなった紗月。そんな彼女の前に現れたのは、夫が雇った一流シェフ・蓮だった。彼の料理と優しい口づけに触れるたび、閉ざされた心と味覚がほどけていく。やがて夫の裏切りを知った紗月は、自分の人生を取り戻すため、甘く危険な恋と反撃を選ぶ――。

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Kabanata 1

1話. 乾いた唇と見知らぬ侵入者

皿に盛られていたのは、冷えきった侮辱だった。

「またちまちま食べてるのか。一日中、家でごろごろしてるくせに、帰ってくる夫の食事ひとつ満足に用意できない。それで好き嫌いまで言うつもりか?」

食卓の向こうで、結城貴之がうんざりした顔で箸を投げた。陶器にぶつかった箸が、耳障りな音を立てる。

結城紗月は、血の気のない唇をそっと噛んだ。旧姓は白石。けれど、この家でその名を呼ばれることはない。

食卓では、慣れない手つきで半日かけて作った牛肉と大根の澄まし汁や、青菜の和え物が冷めかけていた。

「油の匂いだけで、吐き気がして……ごめんなさい」

「悪いと思うなら食えよ。潰れかけたおまえの親父の会社を、誰が助けたと思ってる。こんな料理で恩を返したつもりになるな」

貴之は舌打ちをして席を立った。書斎のドアを叩きつける音が、静まり返ったペントハウスの廊下に響く。

一人残された紗月は、吐き気を押し殺し、汁をひと匙すくって口に運んだ。

だが、舌に触れた途端、喉が強張った。

「うっ……」

流しへ駆け寄り、胃液を吐く。何も食べていない胃からは、黄色い胆汁の混じった酸っぱい液しか出てこなかった。床のタイルに、ぽたぽたと落ちる。

拒食症。

3年にわたる夫の暴言と監視。そして、人形のように完璧であれという圧力が、紗月の喉を閉ざして久しかった。

どんな食べ物も砂粒のようで、飲み込むことそのものが罰だった。

翌日の午後、リビングにはいつもと違う緊張が漂っていた。

「今週末、フランスの提携先の役員が来る。おまえが料理するなんて考えるなよ」

ネクタイを直しながら、貴之が冷たく言い放つ。

「予約が半年待ちだという出張シェフを呼んだ。パリのミシュラン3つ星で働いていたそうだ。余計にキッチンをうろついて、恥をかかせるな」

貴之が出勤したあと、インターホンが鳴った。

モニターを確認してドアを開けると、初秋の風とともに、見知らぬ男が目の前に現れた。

「初めまして、奥様。本日からキッチンの動線と食材の確認を担当いたします。一ノ瀬蓮と申します」

思っていたより、ずっと若い。

187センチはありそうな長身に、しっかりとした肩。黒いコックコートを隙なく着こなし、落ち着いた目をしている。

ほのかに、摘みたてのハーブとほろ苦いシダーウッドの香りがした。

「あ……結城常務が、おっしゃっていた……」

「はい。今夜、事前のテイスティングを行う予定です」

低い声が耳に触れた。

蓮は、紗月の青白い顔と震える唇に、短く目を留める。

「ご主人のお帰りは遅いと伺いましたが」

「はい。会議が長引くそうで……準備は、お一人で大丈夫です。私は部屋にいますから、ご自由に使ってください」

逃げるように背を向けた、そのときだった。

「奥様」

蓮は一歩近づきかけて止まり、キッチンを示した。

「料理は、召し上がる方の好みに合って初めて完成します。少しだけ、お付き合いいただけませんか」

無理強いする声ではなかった。

キッチンへの道を塞がず、ただ待っている。

紗月は迷った末、アイランドカウンターの前に立った。

蓮がナイフを取り、レモンと新鮮なイチジクを薄く切っていく。

まな板を叩く規則正しい音に、妙に胸が落ち着かない。

ほどなく、銀色のボウルに淡いクリーム色のソースができあがった。爽やかな柑橘と、濃いバニラの香りが広がる。

「どうぞ」

小さなスプーンを差し出され、紗月は後ずさった。

喉がからからに乾く。昨日の吐き気が、またせり上がってきそうだった。

「私……食べられないんです」

「食べられないのですか。それとも、食べたくないのですか」

「胃の調子が悪くて……匂いを嗅ぐだけで吐いてしまうんです。だから、夫の好みに合わせてください」

顔を背けると、蓮は近づきかけた足を止めた。

「無理に食べさせるつもりはありません」

それ以上距離を詰めず、ソースの入ったボウルを置く。

「まず、香りだけ。気分が悪くなったら、そこで終わりにしましょう」

「どうして、あなたが決めるんですか」

「終わりにするかどうかを決めるのは、奥様です。私は温度と香りを合わせるだけです」

蓮は人差し指の先に、ほんの少しだけイチジクのクリームを取ってみせた。

「スプーンがお嫌なら、この程度でも。どちらにするかは、お任せします」

今すぐ背を向けるつもりだった。

なのに、鼻先に触れたレモンとイチジクの香りで、胃がむかつかなかった。

いつもなら、油を使っていない果物の匂いでさえ、みぞおちが強張るのに。

口の中に、わずかに唾液がにじんだ。

自分の体を疑うように、紗月はもう一度息を吸う。

「……一度だけ、です」

蓮は手を動かさずに待った。

紗月のほうから顔を傾け、その指先に唇を寄せる。

冷たいクリームが、ひび割れた下唇に触れた。

「酸味と甘み、どちらが先にきますか」

「甘みです。そのあとに……レモンの味が」

「いいですね。では、飲み込めそうな分だけ」

そっと舌を動かすと、イチジクの種がぷちぷちと弾けた。

吐き気の代わりに唾液がたまり、喉がほんの少し、ほどける。

こくん。

蓮は、その喉の動きを見逃さなかった。

「奥様」

いっそう低い声で、彼が尋ねる。

「こんなにはっきり味がわかるのに……これまで、どれほど我慢してきたんですか」

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1話. 乾いた唇と見知らぬ侵入者
皿に盛られていたのは、冷えきった侮辱だった。「またちまちま食べてるのか。一日中、家でごろごろしてるくせに、帰ってくる夫の食事ひとつ満足に用意できない。それで好き嫌いまで言うつもりか?」食卓の向こうで、結城貴之がうんざりした顔で箸を投げた。陶器にぶつかった箸が、耳障りな音を立てる。結城紗月は、血の気のない唇をそっと噛んだ。旧姓は白石。けれど、この家でその名を呼ばれることはない。食卓では、慣れない手つきで半日かけて作った牛肉と大根の澄まし汁や、青菜の和え物が冷めかけていた。「油の匂いだけで、吐き気がして……ごめんなさい」「悪いと思うなら食えよ。潰れかけたおまえの親父の会社を、誰が助けたと思ってる。こんな料理で恩を返したつもりになるな」貴之は舌打ちをして席を立った。書斎のドアを叩きつける音が、静まり返ったペントハウスの廊下に響く。一人残された紗月は、吐き気を押し殺し、汁をひと匙すくって口に運んだ。だが、舌に触れた途端、喉が強張った。「うっ……」流しへ駆け寄り、胃液を吐く。何も食べていない胃からは、黄色い胆汁の混じった酸っぱい液しか出てこなかった。床のタイルに、ぽたぽたと落ちる。拒食症。3年にわたる夫の暴言と監視。そして、人形のように完璧であれという圧力が、紗月の喉を閉ざして久しかった。どんな食べ物も砂粒のようで、飲み込むことそのものが罰だった。翌日の午後、リビングにはいつもと違う緊張が漂っていた。「今週末、フランスの提携先の役員が来る。おまえが料理するなんて考えるなよ」ネクタイを直しながら、貴之が冷たく言い放つ。「予約が半年待ちだという出張シェフを呼んだ。パリのミシュラン3つ星で働いていたそうだ。余計にキッチンをうろついて、恥をかかせるな」貴之が出勤したあと、インターホンが鳴った。モニターを確認してドアを開けると、初秋の風とともに、見知らぬ男が目の前に現れた。「初めまして、奥様。本日からキッチンの動線と食材の確認を担当いたします。一ノ瀬蓮と申します」思っていたより、ずっと若い。187センチはありそうな長身に、しっかりとした肩。黒いコックコートを隙なく着こなし、落ち着いた目をしている。ほのかに、摘みたてのハーブとほろ苦いシダーウッドの香りがした。「あ……結城常務が、おっしゃっていた……」「はい。今夜、事前のテイスティング
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2話. キッチンカウンターの背徳
舌先に広がる感覚は、戸惑うほど鮮烈だった。蓮の指先から受け取ったクリームが、体温でたちまち溶けていく。長いあいだ食べ物を拒んできた胃は、驚くほど静かだった。イチジクの甘さのあとに、レモンの酸味が短く残る。喉が、ひとりでに動いた。こくん。紗月は驚いて、自分の喉に手を当てた。「……飲み込めた」「はい。一口、飲み込めましたね」蓮はすぐに手を引き、清潔な布を差し出した。赤く熱を持った下唇に、透明な唾液と薄桃色のソースが、薄い膜を張っている。味が消えるより先に、遅れてきた羞恥がこみ上げた。震える手で口元を拭い、紗月は荒く息をつく。「どうかしてます。私が誰だか、わかってこんなことをしたんですか?」「この家の奥様で、結城貴之常務の奥様。結城紗月さんです」蓮は布で手を拭きながら、まっすぐに紗月を見た。「私から提案し、奥様は一度だけ、と了承されました」「でも、指を……口に触れさせるなんて」「不快にさせたのでしたら、謝ります。今後、許可なく触れることはしません」一歩近づきかけた蓮は、紗月が身を引くと、その場で止まった。「ご主人に話していただいてもかまいません」布を置き、何もしていないと示すように両手を開く。「ただ、常務は私の行動より先に、奥様を責めるかもしれません。それが心配です」「あなたに、何がわかるんですか……」「病気のことを、勝手に決めつけるつもりはありません。ただ、今、一口飲み込めた。それも事実です」彼の目が、ソースのとろみと紗月の唇を順に確かめた。「体が受けつける温度と香りを探せば、次の一口につながるかもしれません。それ以上は、医師の判断することです」目頭が熱くなった。貴之なら、病気を言い訳にするなと言っただろう。この男は初めて、無理なものを無理なのだと認めてくれた。「どうして、私にそこまで……」「食べられずにいる人を、料理人として見て見ぬふりはできません」蓮はコンロへ向き直った。「あと一品だけ、選んでください。スプーンか、フォークか。それとも、ここで終わりにするか。奥様が決めてください」紗月は出口を確かめた。蓮は道を塞いでいない。玄関へ続く廊下にも、誰もいなかった。いつでも戻れる。それでも、その場を離れなかった。「フォークにします。口に運ぶのは、自分で」「承知しました。焼き加減はミディアムレア、ソー
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3話. 唇で渡されたひと口
自分で許したはずなのに、唇が触れた瞬間、紗月の肩は反射的に強張った。蓮はすぐに動きを止めた。腰を支える手にも、それ以上力を込めない。「やめますか?」熱い息が触れ合う距離で、そう尋ねられた。紗月は彼の胸に手を置いたまま、何度も呼吸を整えた。「いいえ。まず、お肉を……飲み込ませて」蓮が、ひどくゆっくりと顔を傾ける。紗月が避けないのを確かめ、温かな肉汁と一切れの肉を、唇越しに渡した。豊かな肉汁。赤ワインとバルサミコの濃厚な風味。香ばしいバターとほのかなローズマリーが、唾液と混ざり合って、喉の奥へ熱く流れ込む。この一口では、吐き気が来なかった。いつも真っ先に強張るみぞおちが静かなことが、信じられない。肉を渡し終えても、蓮はすぐには離れなかった。紗月が噛む速さに合わせ、口づけの力を緩める。荒い息と濡れた唇に、体の隅々まで痺れるような感覚が走った。二人の呼吸が絡まり、カウンターのそばに、密やかな音が落ちる。「噛んでください、紗月さん」口づけの合間に、低い声がした。奥様ではない。初めて、自分の名前で呼ばれた。それだけで心臓が大きく跳ねる。紗月の顎が、痺れから覚めるようにかすかに震えた。奥歯のあいだで、柔らかな肉がほどけていく。噛むたび、旨みがにじんだ。味そのものより先に、凍りついていた体に感覚が戻る驚きが押し寄せる。喉が開き、自然に飲み込めた。こくん。一切れの肉が、食道を通って落ちていった。紗月は、すぐに次の反応を待った。みぞおちが締まらないか。胃がひっくり返らないか。数秒たっても、胃は静かだった。蓮も、その時間を急がせなかった。彼の服をつかんでいた手から、力が抜ける。掌に残った布の感触まで、鮮明だった。たった一口、食べただけ。それなのに、体の感覚が一度に戻ってきたようだった。「はぁ……」蓮が唇を離した。浅い息が、二人から同時に漏れる。紗月はカウンターに手をつき、何度も息を吸った。唇は燃えるように熱く、心臓は肋骨を突き破りそうだった。飲み込めた。私、本当に……ちゃんと噛んで、飲み込めた。そう思った瞬間、堪えていたものが堰を切った。目にたまっていた涙が、頬を伝い落ちる。こらえようとしても、止まらなかった。毎日のように浴びせられた、夫の冷たい言葉。――食事ひとつ作れない、役立たずの人形が。――お
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4話. 閉ざされた喉をほどく手
がちゃり。重い玄関ドアが開く音に、紗月の全身が凍りついた。「夫……夫です!」顔から、さっと血の気が引く。貴之が帰ってきたのだと思った。今の姿を見られたら、何が起こるかわからない。夫は、病的なほど潔癖で、何もかも支配したがる男だった。妻の唇は赤く腫れ、若いシェフの襟元は乱れている。そんな二人が身を寄せ合うところを見たら、何をするだろう。怯えて息を詰まらせた紗月に、蓮がカウンター奥の収納棚を示した。「あの奥なら、玄関からは見えません。歩けますか」紗月は必死にうなずいた。蓮が倒れないよう腰を支え、収納棚の内側へ導く。そこはリビングから死角になっていた。広い背中が、紗月の視界を塞いだ。狭い隙間で向き直った彼の胸に、細い体が再びぴたりと重なる。「息を小さく」蓮が耳元で囁いた。口元へ手が上がると、紗月は先にうなずいた。掌が慎重に口を覆う。バターの残り香と、彼の体温。そのとき、玄関の大理石を踏む靴音が、リビングを横切って近づいてきた。「奥様。いらっしゃいますか?」貴之の声ではなかった。夫の個人秘書、森田室長だ。蓮は紗月を奥に残し、何食わぬ顔でキッチンから半身を出した。「結城常務のお宅ですが、どちら様でしょうか」低い声が廊下に響く。書類鞄を手にリビングのテーブルへ向かっていた森田が、驚いて足を止めた。「ああ、今週末の会食を担当される、一ノ瀬シェフですね。常務秘書室の森田です。常務から至急の機密書類を書斎に置くよう言われまして」「そうでしたか。奥様は気分が優れないそうで、お部屋で休んでおられます」「それはそれは。キッチンの点検でお忙しいところ、失礼しました」落ち着いた応対に、森田は特に疑いを持たなかった。リビングの飾り棚に分厚い封筒を置き、軽く頭を下げる。「書類を置いていきますので、常務がお帰りになりましたら、お伝えください。では、失礼します」靴音が遠ざかり、玄関ドアが閉まった。電子錠の施錠音がする。ペントハウスに静寂が戻った。紗月は膝から力が抜けた。蓮が肘を支え、カウンター前の椅子まで連れていく。冷や汗に濡れた額に、細い髪が張りついていた。蓮は棚から布を出してぬるま湯に浸し、額と赤く腫れた下唇を、そっと拭いた。脈や呼吸を確かめるように、その手つきは急がなかった。コンロに鍋を置き、澄んだだしに、なめらかにつぶし
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5話. 夫の帰宅と消えない痕
夜の11時を回っていた。広いリビングには、息苦しいほどの冷気が漂っている。紗月はソファの隅に座り、黄色い封筒を震える手で握りしめていた。しわの寄った紙の文字を追うほど、指先が冷えていく。【白石物産 担保権実行および強制売却推進計画書】【債権者:天城ホールディングス株式会社 常務・結城貴之決裁】「実家の会社を助けてもらった恩くらい、わきまえろ」「飯もまともに作れない女を、誰が拾ってやったと思ってる」3年ものあいだ、毎日のように紗月を締めつけてきた声が、耳によみがえる。実家を救ったという話は、すべて嘘だった。資金繰りに苦しむ義父の会社を担保に取り、安値で売却し、裏金を動かす窓口にする。それが貴之の狙いだった。――全部、わかってたのね。最初から私を、人形としか思ってなかったんだ。涙の枯れた目に、怒りだけが残る。ひどい思い込みを植えつけられ、自分は役立たずなのだと責めてきた。ひと匙のご飯さえ、飲み込めなかった日々。病気の始まりが、今ならわかる気がした。毎日食卓に並べられた侮辱と恐怖が、何かを飲み込むたび、喉を締め上げていたのだ。ピピッ――がちゃり。時計が午前0時を回った直後、玄関ドアが乱暴に開いた。強い洋酒と湿った煙草の匂いが、廊下を流れ込んでくる。結城貴之だった。ふらつく足で入ってきた夫は、ネクタイを乱暴に緩め、ソファへ近づいた。「まだ起きてたのか。電気もつけずに、何を辛気臭い顔してる」ジャケットを床に投げ捨て、苛立った声をぶつける。紗月は素早く書類をクッションの下へ滑らせ、立ち上がった。「お帰りなさい」「水。喉が渇いて死にそうだ」キッチンへ行き、グラスに冷水を注いだ。カウンターを通り過ぎると、昼間のシダーウッドとバターの香りが、記憶のように戻ってくる。――私も座る食卓だから、私の口にも合うか確かめた。そう言えばいい。ふと浮かんだ言葉を胸の内で繰り返すと、震えていた脚に力が戻った。差し出した水を、貴之が一気に飲み干す。グラスを乱暴に置いたその視線が、不意に紗月の顔で止まった。「……?」酔いで濁っていた目が、細くなる。しつこい視線が、唇に突き刺さった。いつも白く荒れて、ひび割れていた唇。それが今日に限って、赤く、潤いを帯びて膨らんでいる。誰かに長く口づけられたあとみたいに。「おまえ、唇どうした?」疑
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6話. 真夜中のキッチンで
画面を消しても、胸の鼓動は速いままだった。紗月は寝室のドア越しに、荒いいびきを確かめた。酔いつぶれた貴之は、朝まで起きないはずだ。それでも、すぐ上の階に夫がいる。その事実だけで、全身の神経が張り詰める。――帰ったんじゃなかったの?薄いシルクのガウンを羽織り、そっとドアを開けた。絨毯敷きの廊下を抜け、暗い階段を足音を忍ばせて下りる。下階のキッチンには、月明かりが長く差し込んでいた。冷蔵庫とカウンターのあいだ。柔らかな間接照明の下に、見覚えのある大きな影が立っている。一ノ瀬蓮。コックコートではなく、気楽な黒いシャツを着ていた。袖をまくった腕に浮かぶ筋と、整った黒髪。闇の中では、その端正ささえ危うく見えた。「蓮さん……帰らずに、ここで何をしてるんですか」尋ねてから、紗月は自分で言い添えた。「今回は、私が自分で下りてきました。呼ばれたから、仕方なく来たんじゃありません」「覚えておきます。戻りたいのでしたら、今おっしゃってください」「戻りません」彼の目元が、ほんの少し和らいだ。振り向いた深い瞳が、月明かりを受けて青みを帯びる。「明け方に食材の検品があるので、夜のうちにキッチンの準備を終える必要があると、コンシェルジュには伝えてあります」蓮が一歩近づく。大きな影が紗月を包んだ。近くなると、ほろ苦いシダーウッドと、甘い桃の香りがした。彼の目が、顎に残る赤い痕で止まる。「触れても?」紗月がうなずいて初めて、指先が痣のある場所にそっと触れた。「顎を、つかまれたんですか」「はい。でも……あの人にとっては、何でもないことです」首を横に振り、唇を噛んだ。それから、昼間の黄色い封筒について打ち明けた。「蓮さんの言ったとおりでした。夫は……実家を救うつもりなんてなかった。最初から、奪うつもりだったんです」声がかすかに震える。蓮が手を差し出した。紗月がその手を取ると、震える肩を静かに抱いてくれた。掌の温もりに、こみ上げる怒りが少しだけ静まる。「原本はそのままにして、まず写真を残してください。担保権の実行を争う証拠になります」カウンターの前の椅子へ導かれた。上には氷を張った銀色のボウルと、小さなガラスの器が置かれている。透明なシャンパンゼリーに、赤みを帯びた白桃のピューレと、ミントの葉。冷えたグラスについた水滴が、月明かり
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7話. シェフの私的なレシピ
足音は階段の途中で一度止まり、また近づいてきた。一歩、また一歩。紗月の呼吸が凍った。こんな夜更けに、若いシェフと二人きりでキッチンにいる。見つかったら、何をされるかわからない。怯えて震える紗月を見て、蓮が素早く動いた。たくましい腕が腰を軽く抱き、カウンター奥の収納棚の陰へと導く。リビングからも廊下からも、目の届かない場所だった。「息の音も、抑えて」耳元に低く囁き、肩を軽くたたく。そのまま蓮は迷いなく、キッチンのメイン照明をつけた。ぱちん、と明かりがともり、白い光が闇を払う。すぐにエプロンを直し、コンロの上の重い鋳物鍋の蓋を開けた。バターと炒めた野菜、トリュフの濃い香りが、たちまちキッチンを満たした。「……誰だ?」眠そうな目をした貴之が、入口に姿を見せた。パジャマのズボンに、無造作に羽織ったガウン。眉間にしわを寄せ、奥をにらんでいる。「まだ帰ってなかったんですか。ここで何を?」蓮は少しも動じず、姿勢を正して振り向き、頭を下げた。ついさっきまで紗月の唇に触れていた男の危うさは、もうどこにもない。冷静なシェフの顔に戻っていた。「結城常務。お起こししてしまったのなら、申し訳ありません。週末の会食に使う付け合わせとソースのベースを、明け方まで寝かせる必要がありまして」「明け方まで?」貴之が、ふらつきながらカウンターへ近づいた。下で身を縮める紗月の心臓が、潰れそうになる。夫のスリッパが、わずか数十センチ先で止まった。鍋で煮立つ黄金色のだしをのぞき込み、貴之が鼻を鳴らす。香りにだけは、文句をつけようがなかった。自分の面目を立てるために、3つ星出身のシェフが夜通し働いている。その説明に、眉間が少し緩んだ。「まあ、週末にはルミエールの副社長を、あっと言わせないといけませんからね。いい加減なものを出したら、契約金は一銭も払わないと思ってください」「もちろんです。常務のご名声にふさわしい、最高のコースをご用意します」低く揺るがない返答に、貴之は得意げに顎を上げた。浄水器から水を一杯注いで飲み干すと、あくびをしながら背を向ける。「適当なところで切り上げて、電気を消して寝てください。無駄に電気代を使われちゃ、たまらない」スリッパの音が階段を上り、遠ざかった。寝室のドアが閉まって、ようやく張り詰めていたものが切れる。「はぁ
last updateHuling Na-update : 2026-09-24
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8話. テーブルの下の合図
窓から射す朝日が、大理石のダイニングを眩しく照らしていた。紺のストライプスーツを隙なく着た貴之が、上座で脚を組み、英字の経済紙をめくっている。その向かいで紗月は、ベージュのシルクワンピースを着て、静かに席に着いていた。「昨夜、あのシェフが一晩中ごそごそしていた甲斐が、あるといいがな」咳払いをして、貴之が新聞を畳む。ちょうどそのとき、黒いコックコート姿の蓮が、銀のトレーを手に入ってきた。控えめな足取りも表情も、客を前にしたシェフらしく丁寧だった。それでも紗月には、その瞳の奥に揺れる危うい熱がわかった。「朝食をお持ちしました」貴之の前に置かれたのは、焼きたてのブリオッシュと、ポーチドエッグを添えたアスパラガスのグリル。貴之はナイフで卵を割り、黄身を絡めて口へ運んだ。「ふむ……さすが、パリの3つ星でスーシェフをしていただけはある。卵の臭みひとつない。昨日のおまえの料理とは、次元が違うな」噛みながら、息をするように妻を侮辱する。聞き慣れた、紗月を貶める言葉だった。だが今日は、以前のように肩が縮こまらなかった。浮かんだのは、貴之への軽蔑だけだ。蓮が紗月の席へ来る。目の前に、トリュフオイルを垂らした柔らかなスクランブルエッグと、温かな紅茶が置かれた。「奥様。冷めないうちに、どうぞ」丁寧な言葉遣い。誰が見ても、仕事としての態度だった。その瞬間、テーブルの下で革靴のつま先が、紗月の素足の甲にそっと触れた。「……っ」足を引きかけて、蓮を見上げる。彼はスクランブルエッグに目をやり、ごく小さくうなずいた。食べても大丈夫だという、合図。紗月は少し迷ってから、つま先で彼の靴を一度押した。わかりました、という返事だった。蓮はそれ以上動かなかった。それでも、テーブルクロスに隠れた短い接触だけで、頬が熱くなった。「何だ。また朝から手を震わせてるのか」貴之が眉をひそめて、紗月をにらんだ。紗月は唇を噛み、なんとか呼吸を整える。「いいえ……とてもおいしそうで」フォークの先に、卵をほんの少し載せた。蓮の靴は足の甲に触れたまま、動かない。急かしているのではなく、ここにいると知らせてくれているようだった。口に入れた卵を、ゆっくり噛む。昨夜のカボチャのヴルーテのように、柔らかな卵が口の中でほどけ、トリュフの香りが味覚を満たした。こくん
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9話. 暴言のあとに差し出された手
テーブルに抱き上げられ、紗月の呼吸が乱れた。蓮の手が腰を支える。紗月も、彼のコックコートの襟を放さなかった。「肩に力が入っています。やめますか?」「いいえ。ただ……緊張してるだけです」答えを確かめ、蓮が唇へ顔を寄せようとした、そのときだった。どん、どん、どん!玄関を蹴り破りそうな衝撃と、インターホンの警報音が、廊下に響き渡った。「開けろ! 紗月、いるのはわかってるんだ! 今すぐ開けろ!」怒りに満ちた、貴之の声。出勤したはずの夫が、わずか10分で戻ってきていた。紗月の顔から、血の気が消える。心臓が落ち、手足が石のように固まった。ドアガードが掛かっている。それに気づいた夫は、激怒していた。蓮は即座に紗月をテーブルから下ろした。乱れた服と髪を整え、迷わず玄関へ向かう。ロックを外し、ドアを開けた途端、血走った目をした貴之が飛び込んできた。「何で鍵を掛けてやがる! 昼間からシェフと二人で、何をこそこそやってたんだ!」蓮の肩を乱暴に押しのけ、リビングへ踏み込む。車の鍵と一緒に置き忘れた、急ぎの決裁書類。その書類を探そうとした貴之の目が、ソファのクッションからはみ出た黄色い封筒で止まった。嫌な予感に、夫は大股で近づき、書類をひったくった。封筒から出てきた紙を見た瞬間、顔が醜く歪んだ。【白石物産 担保権実行および強制売却推進計画書】振り返った貴之が、キッチンの入口に立つ紗月をにらみつけた。「これを……おまえ、見たのか?」「……」「夫の書類を漁ったのかよ。親父を借金まみれから救ってやったのに、恩を仇で返すのか! この寄生虫が!」逆上した貴之が突進してくる。掌が、紗月の頬へ振り下ろされた。紗月は反射的に目をつぶった。3年間、繰り返されてきた暴力の記憶が体を覆う。だが響いたのは、頬を打つ音ではなかった。鈍い音が、空気を裂いた。「ぐっ……!」貴之の口から、悲鳴交じりのうめきが漏れる。紗月の頬まで、あと数センチ。その手首を、蓮がつかんでいた。「てめえ……何のつもりだ! 放せ! 誰に手を出してると思ってる!」手を振りほどこうと、貴之が身をよじる。蓮は二人のあいだに立ったまま、退かなかった。「契約書、第4条です」声が短く落ちた。「調理区域で暴力や威嚇が発生した場合、作業を中断し、直ちに通報できます。手を下ろしてください
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10話. 食卓の主導権
紗月は冷たい大理石の床に座り込んだまま、しばらく顔を上げられなかった。目を閉じると、さっきの貴之の手が蘇る。床の目地を、目でたどった。指先の震えが少し弱まってから、ようやく蓮へ手を伸ばす。「もう……抱いてください」蓮はそこで初めて近づいて膝をつき、そっと肩を抱き寄せた。厚い胸と、しっかりした鼓動が耳を満たす。「もう終わりました。私が止めましたから」優しい声を聞いた途端、胸の奥から嗚咽がこみ上げた。紗月は黒いシャツの襟を握り、彼の胸に顔を埋めて泣いた。蓮は何も言わず、背中をなでている。力で抱え込まず、紗月が預けた分だけ、体を支えてくれた。長く泣き、ようやく呼吸が落ち着くと、腕を支えられて立ち上がった。カウンターの前に座る。「お腹が空いているでしょう。熱いものは避けて、澄んだ汁物からにしましょう」紗月がうなずくのを待ち、蓮はコンロの火をつけた。小さな鋳物鍋からご飯の湯気が立ち、隣の土鍋では大根と昆布のだしが澄んだ音を立てている。志摩産の活アワビを薄く切り、だしでさっと火を通した。ごま油を一滴と、小ねぎを少し。アワビのお吸い物と、少量の白いご飯。素朴な膳を前に置き、箸と匙を手の届くところへ添えた。「洋食しか作れないと思いましたか?」「少し」蓮の口元が、一瞬だけ和らぐ。「仕返しは、あとで。今はひと匙食べて、体がどう反応するかを見るのが先です」紗月はご飯を少しすくい、口に入れた。長く噛むほど、米の甘みがにじんでくる。続けて、アワビの吸い物をひと口。みぞおちが一瞬強張った。蓮は、もっと食べろとは言わなかった。「ここでやめても、大丈夫です」器を下げようとする手を見て、紗月は匙を握った。「いいえ。今日は、どこまで食べるか自分で決めます」息を整え、あと2口、ご飯を食べた。一膳は空にできなかった。けれど、自分で匙を置くまで、吐き気は来なかった。「これで、十分です」「はい。今日は、紗月さんが決めた量です」温かい水を受け取り、飲む。紗月は残った分より、自分が食べられた数口を思った。蓮はご飯と吸い物を、小さな保存容器に分ける。「2時間後、お腹が空いたら、ひと匙だけ温めてみてください。空かなければ、捨ててもかまいません」「捨てても、いいんですか」「食べ物より、体が大切です。残した量で紗月さんを評価する人間は、こ
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