LOGINそれからの日々、私は自分のために生きる練習を始めた。新しい服を買って、髪型も変えて、インターネットも使えるようになった。ネットで旅行サイトを見て、全国をあちこち見て回る計画を立てた。この間、美咲が時々会いに来てくれた。でも彼女はあまり話さず、ただ黙って掃除を手伝い、少しそばにいてくれるだけだった。年末年始は海外旅行に行くことにした。出発する前に、お別れを言おうと思って美咲の家へ向かった。美咲はドアを開けて私を見ると、一瞬きょとんとして、それから家にあげてくれた。部屋の中は、なんだかガランとしていた。美咲は水を一杯いれてくれると私の向かいに座った。そして長い沈黙の後、小さな声で聞いてきた。「私、間違ってたかな?ただ、あなたみたいな女性にはなりたくなかっただけなのに」私は顔を上げて美咲のことを見つめ、その目元をゆっくりと眺めた。記憶が、ふと30年前に飛んだ。この子がちょうど歩き始めたころだ。黄色の小さなワンピースを着て、リビングの向こうからよちよちと駆け寄ってきた。小さな手には食べかけのクッキーが握られていて、私の胸に飛び込んできたとき、甘えた声で「ママ」って呼んだ。でも、目の前にいる美咲は、目元にうっすらと疲れを浮かべていた。話し方にも、今まで見たことのない戸惑いがにじんでいるようだ。この子は、間違っていたのだろうか。多分、そうなのでしょ。慎吾や誠と一緒になって私に隠し事をしていたことや、誕生日に私を一人で置いていったこと。それに、あんな冷たい言葉で私を傷つけたことは間違いだった。でも、私にも悪いところはあった。自分は兄弟と比べられてつらい思いをしたから、この子には精一杯、一番いいものを与えようと、いつもそう思っていた。でも、その「一番いいもの」が、この子が本当に欲しがっていたものなのか。私は一度も聞いてあげない。そしてもっと大きな間違いは、私がこの子に、いい父親を選んであげられなかったことだ。その時、ふと以前に慎吾が彼の友達に言っていた言葉が脳裏をよぎった。「彩花って名前、彩り豊かで綺麗だろ?だから娘にも、彩花みたいに美しく、彩り豊かな人生を送ってほしいなって思って、『美咲』にしたんだ。『美』も『咲』も、綺麗な花を連想させるし、彩花の名前とも響きが合うかなって思ったんだよ」あ
心臓がどきんと鳴ったけど、それ以上は考えなかった。ただ、あの人たちからできるだけ遠くへ行きたい、そう思った。……ホテルに着くと、部屋を一つとって弁護士に電話した。離婚協議書をできるだけ早く送ってほしいと頼んだ。やるべきことをすべて終えて、やっとソファに崩れるように座り込めた。窓の外を行き交う車を、ただぼんやりと眺めていた。ポケットの中でスマホが震えた。美咲からのメッセージだ。【お母さん、どこにいるの?お父さんも私も、必死で探してるんだよ】メッセージを見つめ、しばらく画面の上で指をさまよわせた。そして、やっと一言だけ返信した。【私は大丈夫だから、心配しないで】ホテルに隠れればしばらくは安全だと思っていた。でも、夕方になって、やっぱり面倒なことになった。夕食を買いに外へ出て、ホテルから一歩踏み出したところで、黒いパーカーを着た男二人に行く手を阻まれた。男たちは私の両脇を固めると、一人が口をふさぎ、もう一人が腕をつかんで近くの路地裏へ引きずり込もうとした。必死にもがいて男の手に爪を立てた。でも、壁に強く突き飛ばされ、後頭部を打ちつけて激しい痛みが走った。「おとなしくしろ!さもないと痛い目にあうぞ!」男の声はしゃがれていて、脅すような響きがあった。目を凝らして見ると、男たちの襟元に小さな銀色のバッジがついているのに気がついた。あれは昔、誠が働いていた工事現場で配られていたバッジだった。慎吾と誠が差し向けた男たちだと気づき、心臓が凍りついた。その時、一台の白い原付バイクが突然突っ込んできて、そのハンドルが男の一人の腰に激突した。男は痛みにうめき声をあげ、私をつかんでいた腕を放した。私はその隙に後ろへ下がり、原付バイクに乗っていた人を確認した。美咲だ。髪はぼさぼさで、顔にはほこりがつき、手にはスパナを握りしめていた。声は震えていたけれど、その口調はとてもきっぱりしていた。「母から離れて!さもないと警察を呼ぶわよ!」「なんでお前がここに?」私を捕まえていた男は、彼女が現れるとは夢にも思っていなかったようで、一瞬呆気に取られていた。美咲は私をかばうように原付バイクを横付けし、スパナを高く振り上げた。「あなたたちのこと、つけてきたの!父と誠に言われて、母を捕まえに来たんでしょ?
私は当せん証明書を受け取って、ざっと目を通した。間違いがないのを確認すると、職員に「ありがとうございます」と言った。誠が真っ先に態度を変えた。さっきまでバカにしたように笑っていたのに、途端に媚びるような笑顔になった。彼は私のそばに駆け寄ってきて、腕を掴もうとした。「お母さん!本当に宝くじが当たったんだね!いやあ、すごいね!この前は、俺が悪かった。あんなひどいことを言ってしまって……どうか、気にしないでね」私は一歩うしろに下がって、その手をよけた。誠の手が宙で止まり、笑顔が少し引きつった。でも、彼はすぐにまたにこやかな表情を作った。「お母さん、当せん金を受け取ったばかりで、疲れただろう?家まで送るよ。それに家には、あなたの大好物の料理もあるし。美咲に作らせるから」慎吾も近寄ってきた。でも、彼は誠みたいに、あからさまに機嫌を取ろうとはしなかった。ただ眉をひそめて、何かを言いかけたように口を動かしただけで、結局言葉にはしなかった。その目には、ためらいの色が浮かんでいた。私の手にある当せん証明書と、彩花を交互に見て……どうやら頭の中で何か計算しているようだ。その時、彩花は慎吾のそばへ歩いていくと、そっと彼の腕に自分の腕をからめた。「慎吾、あなたと茜さんはまだ離婚してないでしょ?この当せん金は夫婦の共有財産になるはずよ。法律上は、あなたの分が半分あるんじゃないかしら?」その言葉は、慎吾と誠にとって、まるでカンフル剤のようだ。慎吾はぱっと目を輝かせ、すぐに背筋をぴんと伸ばした。そして、急に強気な口調になった。「そうだ!茜、俺たちはまだ離婚してない!この金は俺の分が半分あるんだ!お前一人で独り占めはさせないぞ!」誠も、それに乗っかってきた。「そうだよ、お母さん!このお金はあなたとお父さんの共有財産じゃないか。俺たちは口出しすることじゃないけど、あなたが一人で全部持っていくのを見過ごすわけにはいかないよ。それに、俺と美咲にはまだ家のローンが残ってるんだ。だから、そのお金を少し分けてもらえたら、俺たちも助かるんだけどね」私は、彼らの浅ましい顔つきを見ながら、心の中で冷たく笑った。ついこの間まで、私を家から追い出して、さんざんバカにして、見下していたくせに。宝くじが当たったと知った途端、きれいごとを
娘の言葉には答えず、私の視線は、慎吾と彩花が握り合っている手に釘付けになっていた。慎吾は一瞬かたまり、思わずその手を放しそうになった。でも、すぐに何かを思いついたみたい。急に開き直った態度で、私に向かって怒鳴った。「おい、聞いてるのか!茜、なんでお前がここにいるんだ?まさか、俺たちの後をつけてきたんじゃないだろうな?」すると誠が、人を馬鹿にしたような口ぶりで話しかけてきた。「いい歳して、若い子みたいに人の後をつけるなんて。もしかして、お父さんから離婚されるって聞いて、何か弱みでも探して慰謝料をふんだくろうって魂胆なのか?」彼の声は大きくないけれど、ちょうど周りで換金を待っている列の人たちには聞こえるくらい、絶妙な声量だ。案の定、周りから好奇の目が一斉に向けられた。その視線は、私の洗いざらして白っぽくなったTシャツに突き刺さった。でも私は、彼らが思ったであろう気まずさを全く感じず、とても落ち着いていた。私が口を開こうとした時、彩花は、慎吾の腕を軽く引っぱった。「慎吾、ここは外だよ。そんなに大声を出したら、周りに笑われちゃうじゃない」しかし、口ではそうやって慎吾をなだめているけど、彼女の私に向けられたその目には、隠しきれない優越感が浮かんでいた。そこでようやく美咲が口を開いた。その声はものすごく不機嫌なものだ。「お母さん、一体こんなところで何してるの?昨日だって一晩中帰ってこないで。うろつき回って、何かあったらどうするつもり?」彼女も口では心配しているふりをしているようだけど、その目には心配の色なんて少しもなかった。あるのは、ただ「面倒なことになった」という苛立ちだけのように見えた。私はぐっと息を吸い込み、落ち着いた声で言った。「当せん金を受け取りに来たの」「当せん金?」慎吾は、ぷっと吹き出した。そして、ホールの壁で流れている当選案内の表示を指さした。「まさか、あの一等賞の10億円が当たったとでも言うつもりか?夢を見るのもいい加減にしろよ。スーパーで10円でも安い野菜を探して駆けずり回って、同じTシャツを20年も着続けているようなお前が、なけなしのお金で宝くじなんか買うもんか?」すると周りにいた人たちも、つられて笑い出した。その一つ一つの笑い声にこもった悪意が、私の耳に響いた。もちろ
ぼんやりとした街灯の光が、好奇と驚きに満ちた人たちの視線を照らしていた。私は地面に手をついて立とうとしたけど、ひざに鋭い痛みが走った。そして、いつもは会うと挨拶してくれる近所の女たちも、今はまるで別人のように近寄ろうとしなかった。それに伴ったトゲのあるひそひそ話も、耳に入って来るのだ。「まさかあんな人だったなんてね。ずいぶん厚かましいわ!」「幸せな暮らしに慣れすぎちゃって、感謝ってもんを知らないのよ!」「昔だったら大変なことになってたわよ!私だったら、恥ずかしくて生きていけないわ!」次から次へと浴びせられる言葉は冷たいナイフみたいで、私のちっぽけなプライドに突き刺さった。彼女たちだって誰かの妻で、母親で、それぞれ大変な思いをしているはずなのに。それなのに今は、我先にと正義の味方みたいな顔をして、日頃のうっぷんを全部私にぶつけてきているのだろう。私はなんとか体を起こして、弁解しようとした。「浮気なんかしてない!さっきのは……」でも、誠に大声で遮られて、最後まで言わせてもらえなかった。「さっきのは何だって?まだ言い訳をでっちあげるつもり?」その言葉に誘われるように野次馬はどんどん増えていって、マンションの上階の住人までベランダから身を乗り出して見てきた。私は悲しくてたまらなくなって、小声でお願いした。「ねえ、お願いだから家に入って話さない?みんなに笑いものにされたくない……」私が弱気になったのを見て、慎吾はかえって威張るように言った。「家だと?冗談じゃない!お前がどんなに恥知らずか、みんなに知ってもらうんだ!もうこの家には入れさせない。どうせ離婚したいんだろ?ちょうどいい。俺はもうお前みたいな恥知らずな妻はいらない!」そう言い捨てると、慎吾は美咲と誠を連れて、さっさと家に入ってしまった。私は足の激しい痛みをこらえながら、びっこを引いて玄関まで追いかけた。でも、ドアは「バン」という音を立てて、私の目の前で固く閉ざされた。無駄だとわかっていながらも玄関のドアを叩いたけど、中から返事はなかった。外はいつの間にか小雨が降り始めていた。廊下を吹き抜ける風が、骨の髄までしみるように冷たい。結局、私は雨に濡れながら近くのボロい宿を探して、そこに泊まるしかなかった。まず、熱いシャワー
「離婚?」次の日の夜、誠と慎吾はほとんど同時に声を出して、信じられないという顔で私を見た。美咲も一瞬おどろいたようだったが、すぐにふっと鼻で笑うと、また俯いてお椀のお味噌汁をかき混ぜはじめた。それを見ても私は至って平静でいた。そしてお味噌汁をすすりながら、二人の反応を見て見ぬふりした。一方で、それを見た慎吾はイライラを必死でこらえながら、誠と目くばせをした。そしてテーブルの下からくしゃくしゃのビニール袋を取り出した。中には安っぽい腕輪が一つ入っている。それを見てすぐに、私は慎吾が私の機嫌を取ろうとしているのだと気が付いた。これまでも、喧嘩をするたびに、彼はいつもちょっとしたプレゼントをくれた。それは安物のワンピースだったり、お店の宣伝がプリントされたコップだったりした。大した物じゃなくても、私はいつも喜んでそれを受け取って、そしてまた、文句ひとつ言わずにこの家のために尽くしてきた。でも今回に限って、私は受け取ろうとしなかった。その様子を見て、誠もあからさまにイライラした口調で言った。「お父さんがプレゼントを渡そうとしてるのに、何が不満なのか?やっぱり……比べ物にならないな」「なにが比べられないって?」私がさえぎると、誠はおどろいて言葉につまり、こわばった表情になった。すぐに、私は彼から視線をそらして、言葉を続けた。「彩花さんと比べているの?」すると、その言葉にダイニングは一瞬静まり返った。そして、その様子を見た慎吾は、私がここ数日おかしかった理由にすぐに気が付けたようだ。彼はとっさに美咲の方を見た。でも美咲は、お椀をつつくだけで、顔を上げようとはしなかった。見かねて私は言った。「彼女を見る必要はない」慎吾は少し黙っていたが、やがて口を開いた。「お前……どこまで知っているんだ?」私が何か言おうとしたその時、誠が先に口を挟んだ。「お父さん、もう知られちゃったなら仕方ないよ。隠したって意味ないでしょ?それに、そろそろ彩花さんとの関係もハッキリしといた方がいいんじゃない」慎吾はその言葉に後押しされたのか、急に開き直った態度になった。「茜、どうしてそんなことを言うんだ?お前と離婚しようなんて、一度も考えたことはない。この30年以上、お前には妻という立場でのうのう