LOGIN華やかなサロンの行事がすべて幕を閉じた後、漆黒のセダンの後部座席。 パリの街を彩る黄金色の街灯の光が、窓ガラスの上を滑らかに流れては過ぎ去っていった。 ソユルは手元のタブレットPCを覗き込み、明日修正すべき契約書の条項を確認するふりをしていた。隣の席に腰掛けるドヒョンの熱い視線が、すでに十分近くもの間、自分からたったのの一秒たりとも離れようとせずにいたからだ。「もう……いい加減に見つめるのをやめてください」「『私の男』だと言ったではないか」「事実を申し上げただけです」「『私の男の身なりは私が整える』とも言っていたな」「本部長が隙を見せたりしては、テソングループの対外イメージが失墜してしまいますから」「『私を信じているが、イザベルの判断力は信じていない』とも言った」「すべて、一言の狂いもない正論ではありませんか」 ドヒョンの口元が、ゆっくりと満足げに持ち上がった。「ハン・ソユルチーム長」「何でしょうか?」「嫉妬したのですか?」「あ……ええと……ほんの少しだけ、です」 予想に反してあまりにも素直な返答が返ってきたため、ドヒョンは一瞬、言葉を失って目を瞠った。 ソユルはタブレットの画面を消すと、彼を真っ直ぐに見つめ据えた。「ドヒョンさんが揺らぐなどと疑ったわけではありません。そんなこと、ただの一度たりとも疑ったりしませんでした。ただ……見知らぬ他人が、ドヒョンさんを自分の所有物であるかのように気安く触れようとするのが、耐え難く嫌だっただけです」「ソユル……」「今になって、ようやく理解できました。かつて私が他の男性と一緒にいるたび、ドヒョンさんがなぜあれほど過敏に棘を逆立てていたのかが」「ということは……今後、私の嫉妬をすべて理解してくれるという意味かい?」「それは話が別です。ドヒョンさんの嫉妬は今なお過剰で、制御不能で、時には天災地変レベルの災厄ですから」「随分な差別待遇だな」「その代わり、むやみに嘲笑ったりはいたしません」 ソユルは彼の手を探し当てると、自らの指を絡めて深く恋人繋ぎにした。「好きだからこそ不安になり、あまりにも大切だからこそ他人に一歩の隙も譲りたくないというその胸中を……私も身をもって知ることができましたから」 からかうようだったドヒョンの眼差しが、静かに、優しく蕩けていった。 彼は固く結ばれた手
サロンの前半戦は、目覚ましい大成功に終わった。 ソユルは欧州各国の有力流通企業トップたちを前に、「それぞれの光」キャンペーンの中核ロジックを淀みなく説明し、その場で修正を加えた精緻な詳細シアンまで提示してみせた。アジア市場に不慣れな欧州の株主たちからの鋭い質問に対しても、冷徹な消費者データとリアルな現地事例を引いて寸分の狂いもなく切り返した。当初、彼女をドヒョンの単なる同伴者として見下ろしていた面々の眼差しは、ものの十分も経たないうちに、共同事業を背負う最高責任者へ向けられた真摯な敬意へと塗り替えられていった。「ハンチーム長の起案通りであるなら、アジア全域での先行ローンチを前倒ししても問題なさそうですな」 メゾン・ベルロワの筆頭個人株主であるロマンスグレーの老紳士が、満足げに深く頷いた。「明日の取締役会において、正式承認へ向けて私からも力添えをいたしましょう」「感謝申し上げます。ただし、生産量を無闇に拡大するよりは、初期ロットの品質管理と国別の配送タイムラインを先に確定させるべきかと存じます。年末の物流トラフィックは極めて混雑いたしますゆえ、テソンの既存の欧州網と現地の協力網を並行稼働させる詳細案を、明日お届けいたします」「どこまでも寸分の隙もありませんな」「共に歩んでくださる我が本部長から学ばせていただきましたので」 ソユルがふわりとドヒョンを振り返った。 ドヒョンは会話に割って入ることなく、静かに彼女の凛々しい横顔を見つめ続けていた。自らが前に出る必要など爪の先ほどもないことを、誰よりも熟知している者の眼差し。揺るぎない全幅の信頼と、誇らしげな自負が余すところなく込められた視線だった。 その時、楽団が奏でる優雅な弦楽の調べが、ゆったりとしたワルツへと切り替わった。 イザベルがシャンパングラスを給仕のトレイへと置くと、艶然とした足取りでドヒョンの前へと歩み寄ってきた。「さて、ビジネスのお話はこれくらいで十分なようですわね。サロンの主催者として、最初の一曲をお誘いしてもよろしいかしら?」 彼女は優美な仕草で、すっと片手を差し伸べた。 周囲の視線が一斉に、この三人のもとへと集まる。 しかしドヒョンは、差し出されたその手を一瞥すらしなかった。「私の最初の一曲と、最後の一曲は、すでに定まっておりますので」 彼はソユルへと向けて、恭しく
会議は二時間近くに及んで続いた。 アジア地域におけるキャンペーンの方向性はソユルの提案した「それぞれの光」で確定し、双方はブランド商標の使用許諾範囲から収益分配の比率に至るまで、大半の条件で合意に達した。残すところはローンチ記念イベントの形式と、契約書の細部条項の文言調整のみとなっていた。「今夜、私の私邸にてメゾン・ベルロワの冬のサロンが催されますの」 イザベルが手元の最終資料をパタンと閉じながら、優雅に口を開いた。「本来は私的な社交行事ですけれど、主要株主や欧州の流通パートナーたちが一堂に会しますわ。その場で合弁ブランドの最初のティザー映像をお披露目できるなら、取締役会の正式承認も遥かに早まるはずです」 ビジネスの観点からすれば、無下に断る理由の見当たらない絶好の提案だった。 ところが、イザベルは胸元から招待状をたった一枚だけ取り出すと、ドヒョンの面前へと滑らかに押し出した。「チャ本部長を、私のエスコートパートナーとしてお迎えしたく存じます」 会議室の空気が、ピシリと音を立てて凍りついた。 テソングループ側の役員たちは一斉に書類へと視線を落とし、息を殺した。二人の女性の間に漂う張り詰めた火花のただ中で、不用意に目をつけられたい者など誰一人としていなかった。 ドヒョンは差し出された招待状を一瞥すらしなかった。「ハンチーム長が同席しない席には、私も赴きません」「実務責任者まで同伴するような類の催しではございませんわ」「その実務責任者こそが、この合弁プロジェクトのアジア戦略を総括する最高責任者です」「それは公的な理由かしら、それとも私的な理由?」 イザベルが挑発的な眼差しで切り込んできた。 ドヒョンは即答する前に、隣のソユルへと視線を向けた。拒絶すること自体は己の役目だが、出席すべきか否かの判断は、本プロジェクトの戦略責任者であるソユルの見解を尊重すべきだと言わんばかりの眼差しだった。 ソユルは瞬時に頭の中で損益を計算した。 メゾン・ベルロワの有力株主と欧州各国の流通トップたちが一堂に会する貴重な機会。ここで私情に流されて出席を放棄してしまえば、イザベルに対して「恋人の立場を優先してビジネスの好機を潰した」という格好の攻撃口実を与えてしまうだけだった。 ソユルが先に口を開いた。「出席いたします」 ドヒョンの端正な眉が、わずか
「プレステージ・ラグジュアリーとは、アンケート調査などで創り出すものではありませんわ」 イザベルは指先でマホガニーのテーブルを軽く、リズミカルに叩いた。「消費者が自ら望んでいると気づいてすらいない潜在的欲望を、先に提示して見せることこそが芸術であり、その欲望に天文学的な値札をつけることこそがラグジュアリーです。無機質な数字が、創作者の至高の直観に取って代わることなどできまして?」「同感いたします。しかしながら、直観が市場の誇りを侮辱してもよい、という意味にはなりません」 ソユルは一歩たりとも退かなかった。「ゆえに私どもは原案を破棄する代わりに、メゾン・ベルロワの類まれなる美学を完璧に生かした代替案をご用意いたしました」 大型スクリーンの画面が切り替わった。 異なる肌の色、そして異なる年代の女性たちが、朝霧に煙るパリの夜明け、煌びやかなソウルの夜景、そして柔らかな京都の木漏れ日の中で、それぞれのありのままの素顔を誇らしげに覗かせていた。光の色彩はすべて異なっていたが、最後にはひとつの優美な香水瓶のようなガラスの器の中へと集約されていく。[それぞれの光は、それぞれの流儀によって完成する。]「『病的な白さという純粋性』ではなく、『それぞれの光』でございます。製品の中核成分が、肌を人工的に漂白するのではなく、肌本来のバリア機能と内側からの輝きを再生させることにあるという点も、より正確に消費者に届きます。先行調査を行った三カ国における購買意向は、既存の試案よりも平均で二十四・二パーセント高く計測されました」 メゾン・ベルロワ側のマーケティングディレクターが、興味深そうに上体を乗り出した。「その映像のマスターデータと詳細なブレークダウン数値を共有していただけますか?」「アジア全域における最終権限の配分に合意いただき次第、直ちに開示いたします」 ソユルの返答は柔らかく、それでいて鉄壁のように堅固だった。 イザベルの口元にかかっていた余裕の笑みが、わずかに色を失った。 その時、沈黙を守っていたドヒョンが口を開いた。「テソン側の公式な立場は、ハンチーム長の提案と完全に一致しております。アジア地域におけるキャンペーンの最終承認権はテソンが専管し、ブランド固有の無形資産を変更する際はメゾン・ベルロワの同意を必須とする相互承認の方式で整理いたしましょう」
イ・ヘミン会長がハン・ソユルの襟元へと、テソン家代々のルビーブローチを手ずから留めつけてくれたあの日から、早くも二ヶ月という月日が流れていた。 パリでの生活も、いつの間にか九ヶ月目を迎えていた。 チャ・ドヒョンとハン・ソユルは今や、テソングループヨーロッパ総括支社において何人も否定することのできない公式の公認カップルであり、誰よりも強固なビジネスパートナーとして確固たる地位を築いていた。 出勤した瞬間から、二人は冷徹な総括本部長と極めて有能な企画チーム長へと戻る。会議の席で私的な呼称を用いることなど断じて慎み、たとえ相手の起案書であっても微細な欠陥が見つかれば容赦なく鋭利に指摘した。その代わり、退勤後にペントハウスの玄関扉が閉ざされれば、一日中押し殺していた情熱的な愛情と切なさを寸分も隠そうとはしなかった。 公と私の境界は、誰よりも明白だった。 少なくとも二人自身は、そう信じて疑っていなかった。 午前九時五十分。 ラ・デファンス(La Défense)に聳え立つテソングループヨーロッパ支社の大会議室には、ピンと張り詰めた鋭い緊張感が漂っていた。 本日は、フランスの由緒ある名門ラグジュアリービューティーブランド「メゾン・ベルロワ(Maison Belloy)」との合弁事業の最終条件を確定させる決戦の日だった。テソングループが誇る最先端のバイオテクノロジーおよびアジア全域の流通網に、メゾン・ベルロワのブランド価値と門外不出の調香技術を融合させ、世界最高峰のプレミアムスキンケアラインを立ち上げるという超大型プロジェクト。 想定される年間売上だけでも、実に三億ユーロ(約四百五十億円)規模に達する。 すでに基本合意は取り付けていたものの、ブランドコンセプトの方向性とアジア地域におけるマーケティング専管権を巡り、双方の意見は一歩も譲らず真っ向から衝突していた。本日中に結論を導き出せなければ、年末の生産ラインの立ち上げはもちろんのこと、来春のグローバル同時ローンチにまで決定的な遅延が生じることは火を見るより明らかだった。 ソユルは会議資料の最終ページを入念に点検した後、ノートパソコンを静かに閉じた。 ディープネイビーの仕立てスーツに、一分の乱れもなく整然と束ね上げられた黒髪。そして彼女の左の襟元には、イ会長から直々に授けられたあの深紅のルビーブローチが
「君はすでに、その資格を証明してみせたのだから。韓国で私の下で3年も耐え抜き、パリへ渡ってからは4億ユーロ規模のベル・エポックとの契約を勝ち取った。私が暴走したときは胸ぐらを掴んででも立ち止まらせ、会長すらも数値と論理で納得させてみせた」 ドヒョンの口元に、誇らしげな笑みが深く広がった。「テソングループの女主君の座に、君以上に完璧な人間がいるなら連れてきてみろと言ってやりたいね。私が自ら起案書から検分して差し上げるから」「またそうやって、何でも仕事に例えるんですから」 ソユルはクスッと笑い、ドヒョンの胸元を軽く押し返した。 だが、ドヒョンは彼女を放そうとはしなかった。むしろソユルの腰をさらに深く抱き寄せ、二人の間の隙間を完全に消滅させてしまった。「だが、一つだけ正しておかねばならないことがある」「何ですか?」「会長が君をテソン家の女主君として真っ先に指名してくださったのは喜ばしいが、まだ最も肝心な手続きが残っているだろう?」 ドヒョンの奥深い瞳が、ソユルの左手の薬指へとゆっくりと降りていった。 まだ何もはめられていない、白く華奢な指先。 その眼差しに込められた熱い真意に気づいたソユルの両頬が、瞬く間にポッと赤く染まりきった。「ドヒョンさん……」「ブローチは、会長の流儀による承認だ」 ドヒョンはソユルの左手をそっと持ち上げると、薬指の関節の上へと、極めてゆっくりと唇を押し当てた。「私の流儀による契約は、私が自らの手で整えるつもりだからね」 低く穏やかな美声が、指先を通じてソユルの心臓の奥深くまで染み渡っていった。「今度は14日間などという期限付きでもなく、誰が甲で乙かを争うようなくだらない契約でもない。君が逃げ出す期限も、私が手放す満了日も存在しない、完璧な終身契約でね」 ソユルの目元に残っていた潤んだ雫が、陽光を浴びて宝石のようにきらりと輝いた。「その契約、条件がずいぶんと過酷なようですね」「当然だろう。契約の当事者がこのチャ・ドヒョンなのだから、生ぬるいわけがない」 ドヒョンは傲岸に口元を吊り上げ、ソユルの顎を優しく掬い上げた。「条件は生涯、私の傍らに留まり続けること。対価は私の持つすべての愛。契約期間は無制限。中途解約は一切不可だ」「まだ正式にプロポーズも受けていないというのに、もう条項から定めるのですか?」「事







