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第171話
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3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた 第288話
八雲がそう言った時の声色は、明らかに嘲りを含んでいた。言い終えると、彼は横に立つ葵を含むように見つめ、視線には軽薄な色がよぎった。その目つきが、私はあまりにもよく分かっている。八雲が誰かに情を寄せたときにだけ見せるものだ。葵もそれに気づいたのだろう。大きくて綺麗な瞳にまず驚きが宿り、次に恥じらうように男のあからさまな視線から逃げ、唇の端をそっと上げて、女らしい羞じらいを完璧に演じてみせた。そして最後に、ちらりと私を見た――その目の奥に浮かぶ得意気な光を、私ははっきりと見た。葵はわざとなのか、本当になのか分からないけれど、このタイミングで八雲の腕を軽く引き、中指にはめられた大きなダイヤの指輪を見せつけるようにして、恥じらいながら言った。「八雲先輩、水辺先輩もすごく大変なんだよ。先にお二人でちゃんとお話された方がいいんじゃないの？」「葵の用事より大事な用事なんてあるか？」八雲は口角を上げ、私を軽蔑するように一瞥し、続けた。「水辺先生はいつも気が利く。何をすべきか分かってるだろ？」八雲が、私を追い返すつもりなのは明らかだ。しかも三、四時間も二人に付き添って国際プラザを歩き回らされたあとで。故意じゃないと言っても、自分でも信じられないくらいだ。でも――人に頼む側なのだから、態度は示さなければならない。そう思って私は頷き、最大限の理解を示した。「分かりました。では紀戸先生、今夜はゆっくりご用事を。明日の朝、またお話ししましょう」まさか私がここまで物分かり良く引き下がると思っていなかったのか、八雲の黒い瞳に一瞬だけ意外そうな色が浮かんだ。だがすぐに表情を戻し、葵と並んでマンションのエントランスへ消えていった。二人の姿が視界から消える直前、八雲が葵の耳元に何かを囁き、葵が口元を手で覆って笑った――まるで恋人同士のように、親密で幸せそうに。夜の気温は低かった。薄いダウンジャケット一枚で、私は八雲の車のそばに立ち、ビルに灯る無数の明かりを見上げる。一段、また一段と目で追い、視線は最後に葵が住む階の明かりに止まった。きっと、今ごろ二人は部屋の中だろう。そう――まだ法的には私の夫であるはずの男が、彼の「新しい恋人」と、私の目の前で同じ屋根の下にいる。この先の展開なんて、考えなくても分かる。頭では何度もシミュレーション
3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた 第287話
二人が食事を終えるのを待っていたところ、八雲から電話がかかってきた。「ものを取りに来い」そう言うと、すぐに切れた。私は最初かなり戸惑っていたが、ブランド店の前で二人にばったり会ってやっと理解した。八雲と葵はすでに食事を終え、今は葵を連れて買い物をしているのだ。葵の足元には、すでに五、六個のショッピングバッグが置かれている。これが八雲が葵に物を買ってやるのは初めてではない。私はもう驚きもしない。使用人の役でもするつもりで、二人の後ろについて荷物持ちを引き受けた。幸い、箱は多くても重くはなく、一通り歩きまわってもそれほど疲れはしなかった――八雲が葵を連れてジュエリーショップへ入るまでは。葵はショーケースの前で左を見たり右を見たりし、最後にダイヤの指輪を一対選んで試着した。八雲は興味深そうにその様子を見守っている。葵の表情から、彼女がそのデザインを気に入っているのは分かった。だが彼女は店員の前で指輪を外し、「可愛いけど、今の私にはまだ必要ありません。ありがとうございました」と説明した。そう言うと立ち去ろうとしたが、八雲に引き止められた。その直後、私は彼がジュエリーボックスからその指輪を取り出し、皆の前で葵の中指にはめるのを見た。葵は驚いた表情で、慌てて八雲を見つめた。「八雲先輩、これはどういう……？」「気に入ったなら、つけておけ」八雲は彼女の白い指先を見つめ、目を上げて柔らかく言った。「どうせいずれ買うものだろう？」葵の瞳に浮かんだ喜びが、突然私の胸を刺した。私は慌てて背を向けた。瞳の涙を見られたくない。本当に、情けない。八雲と結婚したときの指輪を思い出してしまったのだ。それは医大の近くのアクセサリー店で、数百円で適当に買ったシルバーのペアリングだった。でも当時の私は、その数百円が何よりも尊く、かけがえのないものだと思っていた。だが今になって突然気づいた。それは尊さではなく、安っぽさだったのだと。まるで、私がこの八年間彼が好きだったことが、彼の目にはただの「価値のないもの」としか映っていなかったかのように。彼が本当に大切にする存在は、葵のように、彼に選ばれ、丁寧に扱われる子なのだ。二人はショッピングモールが閉まるまで歩きまわり、私が大きな袋を抱えて車に乗ると、八雲は「花レジデンス」とだけ告げた
3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた 第286話
結果は予想していたはずなのに、実際にその知らせを耳にした瞬間、胸の奥がぐっと沈んだ。私は自分で八雲を探しに行くつもりだ。だが、浩賢や看護師長には何も告げなかった。神経外科に着いた頃には、八雲はすでに退勤した。「うちの葵と食事の約束があるんだって」薔薇子は顎を高く上げ、にこにこと私を見つめながら言った。「もう地下駐車場に向かったでしょう」私はすぐに携帯を取り出して八雲に電話をかけたが、応答はなかった。急いで階段を駆け下り、地下駐車場に着いた瞬間、ちょうど八雲のメルセデス・Gクラスが遠くを走り抜けていくのが見えた。雅典の言った「四十八時間」が頭をよぎり、腕時計を見て、私は歯を食いしばると走り出した。地下駐車場の出口で、私は八雲の車を強引に止めた。男は急ブレーキを踏み、苛立ちを露わに車から出てくると、数歩で私の目の前まで来て、不機嫌そうに言った。「水辺先生、これは一体何のつもり？」私は助手席に座る葵をちらりと見て、申し訳なさそうに言った。「すみません紀戸先生。おじの容体について、その……」「俺は忙しい」八雲は私の言葉を最後まで聞かず、冷たく言い放った。「水辺先生、無駄な努力はやめてください」拒絶は鮮やかで、容赦がなかった。しかしICUに横たわっているのは、他でもない私のおじだ。今さら私自身の体面などどうでもよかった。私は必死に頼み込んだ。「紀戸先生を困らせることは承知しています。ですが……おじの手術をしていただけるなら、紀戸先生のおっしゃること、どんな条件でもお受けします」八雲はドアノブを握ったまま、動きを止めた。ゆっくりと顔を上げ、私を見下すように、侮蔑を込めた視線を向けてきた。「水辺先生、本気でそう言ってる？」私は彼をまっすぐ見つめ、迷わず頷いた。その瞬間、彼の目に軽蔑の光が走るのがはっきりと見えた。「いいだろう。これから葵と一杯飲みに行く」八雲は助手席に目を向け、続けた。「水辺先生、運転を頼むよ」こうして私は、訳も分からぬまま、八雲と葵の「運転手」になった。バックミラー越しに、葵が大きな無垢な瞳でこちらを見つめ、遠慮がちに言った。「本当は水辺先輩にお願いしなくてもいいの。あとで代行を呼べばいいだけだし……水辺先輩のご家族はまだ入院中だし、八雲先輩、こういうの……よくないんじゃないのかな？」八
3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた 第285話
「でも、ご存じのように、現在の患者は俺が担当していますし、紀戸先生は非常に多忙な方で、必ずしも手が空くとは限りません」去り際に、雅典は辛抱強く念を押した。「それに、海外の類似ケースでは、二度目の手術から四十八時間以内に三度目の手術を行いました。ですから、もし紀戸先生に頼みたいのであれば、早めに動いたほうがいいと思います」四十八時間――つまり、私たち患者家族に残された時間は一日にも満たないということだ。つまり、八雲に手術を頼みたければ、この一日のうちに彼の同意を得なければならない。その現実に気づいた瞬間、加藤さんは胸を叩いて嘆き、慌てて私の腕をつかんだ。「優月、八雲くんは……おじさんを助けてくれると思う？優月、私が悪いのよ、あの時、紀戸家本家になんて行かなければ……私が……」「お母さん」私はすぐ言葉を挟み、落ち着かせるように言った。「おじさんの手術自体が非常に複雑なの。まして三度目ともなれば、難易度も技術要求もさらに高い。紀戸先生が引き受けても、断っても、どちらも理解できる範囲内だよ。お母さんの責任じゃないわ」「どうして責任がないなんて言えるの！」加藤さんは突然声を荒らげ、何度かぶつぶつと呟いたあと、まるで覚悟を決めたように言った。「いいわ、今すぐ彼のところへ行ってくる。私が彼の前に土下座することになったとしても……おじさんを助けてくれるようお願いしてくる……！」言うが早いか彼女は立ち上がりかけたが、浩賢と看護師長に止められた。「加藤さん、落ち着いてください」看護師長は根気よく説明した。「聞いたところでは、紀戸先生は今、外来のはずです。こんなふうに突然押しかけても効果はありませんし、それに、考えたことありますか？本来、第三回目の手術は、現在の主治医である佐伯先生に任されるべきものなんですよ。でも見ての通り、佐伯先生ほどの腕前でも患者さんの状態には慎重にならざるを得ない。そうなると、紀戸先生に助けを求めるとしても、焦っては逆効果ですよね？」「看護師長の意見には俺も賛成です」浩賢もすぐ続いた。「八雲の性格は、おばさんも知っていますよね。頼みごとをするにしても、こうして突っ走っては通りません」「じゃあ……どうしたらいいの？」加藤さんは、ソワソワして落ち着かない。「浩賢くんは、何か方法はないの？」浩賢は少し考え、こう提案した。「こうしま
3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた 第284話
私は分かっている。これらすべては浩賢のおかげだと。私はまた、彼に大きな恩を負ってしまった。しかし浩賢は意に介さず、「すべてはおじさんの高潔さのおかげだよ。困っている人を見れば助ける。俺たちはただ、療養病院として当然すべきことをしただけで、俺自身は大した力になれていないよ」と言った。そこまで言われると、私はもう何も言い返せなかった。浩賢が私に逃げ道を作ってくれているのが分かっている。私はただ黙って、この恩を心に刻むしかなかった。ちょうど療養病院のほうですべての処理が終わった頃、突然、看護師長から電話がかかってきた。「優月ちゃん、今どこ？すぐ病院に戻れる？」看護師長の声はかなり焦っている。何か変化があったのだと察し、私は緊張して尋ねた。「おじに、何か急変があったんですか？」「違うのよ」看護師長は声を潜め、困ったように言った。「さっき佐伯先生が回診に来て、加藤患者の状態について話したのを、たまたまお母さんが聞いてしまって……今、少し情緒が不安定で……」看護師長が言い終える前に、受話器の向こうから加藤さんの悲鳴が聞こえてきた。胸がざわりと嫌な予感で満たされ、私はすぐに答えた。「すみませんが、少し母をなだめておいていただけますか？すぐ戻ります」浩賢も事態の異変に気づき、加藤さんの様子を聞くなり、何も言わずに私とともに階下へ向かった。おそらく母は、おじの本当の状態を、偶然知ってしまったのだ。もしそうなら、今の彼女が受け止めきれないのも当然だ。二十分後、私と浩賢はICU前に到着した。一目見た瞬間、ぼんやりとした表情で椅子に座り、苛立ったようにタバコの箱を握りしめている加藤さんの姿が目に入った。指先は真っ白だ。彼女は、もう何年も禁煙しているはずなのに――その落ち込んだ様子を見て、私はそっと歩み寄り、彼女の足元にしゃがみこんだ。私に気づいた加藤さんは、震える唇を動かし、なんとも言えない執念のようなものを滲ませてつぶやいた。「あなたのおばあさんが倒れた時、家計を支えるために働きに出たのは……おじさんなのよ……優月、彼は死んじゃだめ……死んじゃ……」近くにいた雅典も、その言葉に眉をひそめ、困ったようにため息をついた。「俺はただ、『患者さんの状態は特殊だ』と言っただけで、治らないとは言っていませんよ。水辺先
3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた 第283話
たった一言で、八雲は私と加藤さんを皮肉り、いま療養病院で静養している和夫まで、ついでに踏みにじった。あの高圧的な態度で。だが――彼は何様のつもりなの？東市一の名門の御曹司だからって？しかしその栄華が、私と両親にどんな関係があるというの。いまの私と八雲は、離婚を控えた関係にすぎないのに。今日、父の件で早くから動いてくれたことには感謝している。けれど、だからといって、昔みたいに私の尊厳を好き放題踏みにじっていい理由にはならない。そう思った瞬間、私は顔を上げ、八雲をまっすぐ見た。卑屈にならず、淡々と告げる。「紀戸先生、買いかぶりだよ。紀戸先生と私は今、離婚予定の関係。内外問わず、他の人と同じように『お義父さん』ではなく『水辺さん』と呼んでね。余計な誤解を招きかねないから」一度区切り、落ち着いた声で続けた。「それに、私がどんな『立派な人』なのか、紀戸先生が誰に報告する必要もないわ。今日も、これからも」八雲は、私がここまでハッキリ言うとは思わなかったのだろう。表情をわずかに固め、その場で杭のように動かなくなった。さっきより顔も暗い。こちらには彼と口論を続けている暇はない。深く息を吸って言った。「紀戸先生はお忙しいでしょうし、私はこれで失礼します。では」そのままドアへ向けて歩き出したが、横を通りかかった瞬間、八雲が突然、私の手首をつかみ、力任せに壁へ押しつけた。一瞬で距離が縮まった。手首に走る痛みが、彼の怒りの大きさを如実に物語っている。まぶたを持ち上げると、男の黒々とした瞳がこちらを射抜いている。そこには殺気が満ちていて、まるで獲物に狙いを定めた豹のようで、今にも皮を剥いで骨まで噛み砕きそうな鋭さだ。いつもの淡々とした彼の姿とは、まるで別人。胸の奥がひやりと震えた。そのとき、八雲が奥歯を噛みしめた声で言った。「離婚届もまだ出してないのに、水辺先生はそんなに待ちきれないわけ？そんなに『藤原夫人』になりたいのか？」ほらね。こんな時でさえ、結局は私に罪をなすりつける。怖かったけれど、不満のほうが勝った。私は彼の視線を正面から受け止め、彼の皮肉の調子を真似て返した。「待ちきれないとどうなんです？紀戸先生はどんな立場で私にそれを聞いてるんです？元夫ですか？ ……それなら、ちょっとお節介すぎません？」その一言で、八雲
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