いいこは怒らせると怖いですよ?

いいこは怒らせると怖いですよ?

last updateTerakhir Diperbarui : 2026-06-10
Oleh:  和成ソウイチBaru saja diperbarui
Bahasa: Japanese
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井伊こより、26歳。通称・いいこちゃん。 嫌いな言葉は「真面目な奴ほど馬鹿を見る」。 かつて非情な実業家の祖父に売られ、信頼した婚約者・一条怜央に裏切られたこより。 すべてを失った彼女を救ったのは、中学時代の恩師・楓だった。 だが、その楓さえも怜央の手によって絶望の淵に追いやられていると知り、こよりは決意する。 「もう一度高校生をやり直して、楓先生を救う。そして、怜央に復讐する」 圧倒的な実力と人脈を備えた大人の主人公が、周囲の生徒や教師たちを巻き込んで元婚約者に対峙する、現代の勧善懲悪物語! いいこは怒らせると怖いですよ?

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Bab 1

第1話 絶望の中の希望

 私――井伊こよりは強く思う。

 真面目な人間が損をする。

 正直者が馬鹿を見る。

 そんな世の中、私は大嫌いだ――と。

「う、く……」

「ほらほら、『いいこちゃん』! 何か言ってごらんよ。いつもみたいに、さ!」

「あぅっ!」

 思いっきり頬を叩かれ、私は唇から血を流した。

 全身ぼろぼろだ。殴られ、蹴られ、水をかけられ……眼鏡もフレームから折れてしまった。

 そんなに、あなたは私のことが気に入らないのか。私のことを認められないのか。

 私はまだ高校1年生だけど、生徒会副会長としてやれることをやってきた。

 決して日の当たる役割じゃなくても、それでも皆のために頑張ってきたつもりだ。

 なのに今、先輩の金髪女子を中心にした集団に、寄ってたかって暴行を受けている。

 理由は――何となくわかっている。副会長として、彼女を何度か注意したのだ。

 年上だからって関係ない。不良には、それ相応の態度で臨まなければいけないと私は考えていた。

 私のこのスタイルを、仲間たちは「真面目だね」「さすが井伊さんだ」と評価してくれていた。

 その結果が、今だ。なんだこれ。

「なぁ、綺羅良きらら。こいつ金持ってねえの?」

「ああ、ダメダメ。いいこちゃんの家、詐欺られてマジヤバなんだって。親が馬鹿だと子も馬鹿になるんだねぇ」

「……っ!」

 両親を悪く言うな。

 あの人たちは、ちょっと生きるのが不器用なだけなんだ。

 殴られて朦朧とする中、私はリーダー格の金髪女を睨んだ。彼女はにやりと笑う。

「そうそう、いいこちゃん。あんた今日で退学なんだって?」

「……それは」

「噂になってるよ。身内のじーさんに、借金のカタに売られるんだって? 今どきそんなのある? マジヤバいんだけど」

 がっ、と髪をつかまれた。

「つーわけで、あんたとも今日でお別れ。あたしらが企画したお別れ会、楽しかった? いいこちゃん、友達いなくてかわいそうだからね。今まで··になったお礼よ」

「先生は……楓先生は、何て」

「あのオバサン? 何かいろいろ抗議してたみたいだけど、後の祭りよ。めっちゃ悔しそうな顔がウケたわ。規則なんて無視すりゃいいのに、真面目な奴らってホント馬鹿よね」

「先生……」

「世の中ね、馬鹿正直でクソ真面目な奴ほど損をするようにできてんの。その証拠にほら、誰もあんたを助けに来ない。みんな、自分が可愛いんだよ。わかってないのは、あんただけ」

 金髪女が私の頬を軽く叩く。傷よりも胸の方が痛んだ。

「ああ、そうそう。あんたがいなくなって、ずいぶん風通しがよくなったって生徒会の奴が言ってたよ。面と向かって言いにくいから、代わりに言っといて、だってさ。あたしって『いい生徒』だよねぇ。そう思わない? いいこちゃん?」

 痛すぎて、涙も出なかった。

 その後、私は高校を退学した。模範的生徒が、あっという間に中卒だ。

 笑うに笑えない。泣くに泣けない。そんな元気も湧かなかったからだ。

 だけど、本当の地獄はここからが始まりだった。

 私の祖父は、いくつもの会社を手がける実業家で、資産家だった。祖父の家に引き取られた私は、表向き、何不自由のない生活を送った。

 食生活は劇的に改善したし、着る服の値段は1着5桁を下回ることがなくなった。学生時代にはいっさい興味のなかった化粧も、すぐにプロ顔負けの技術を身につけるまでになった。

 それらはすべて、祖父が私を、一人前の『駒』として使うためだ。

 ――2年後。私は18歳になった。

「以上が、本社からの指示になります。退去は一両日中にお願いします」

「ま、待ってくれ。いくら何でも急すぎる! お願いだ、会長に繋いでくれ!」

「ダメです。規則ですので」

「……この、人でなしが!」

 私よりも二回りは年上の男性が、青筋を浮かべて私を怒鳴りつける。

 高級スーツに身を包んだ私は、冷たく事務的な微笑みを浮かべて、ただ淡々と、真面目に職務を遂行する。

 祖父が用意した私の使い道――それは、関連企業の中で最も「闇が深い」と噂される会社のエージェントだった。

 高校中退から約2年。その間、私は祖父から帝王学さながらの教育を受けた。そして成人すると同時に、この会社に押し込められたのだ。

 私に拒否権はなかった。

 真面目だけど生き方が下手な両親を、これ以上経済的に困窮させるわけにはいかなかった。

 地上げ、債権回収、スキャンダルの封じ込め、あるいは掘り起こし……。業務内容は多岐にわたりすぎて、とてもまとめられない。

 だが、あえてひと言で表現するならば、『他者を絶望に叩き落とす仕事』であった。

 私の愚直なまでの真面目さが、情を斬り捨て、ひたすら後ろ暗い仕事に邁進することを可能にした。

 地獄を突き進むことに向いていたのだ。

 一生知りたくない適正だった。

 私はこの2年で、普通に学生をやっていたのでは決して知り得ない知識や幅広い人脈、そして度胸を手に入れることができた。

 その代償として、私はアオハルという言葉にピンとこない女に成り下がってしまった。青い春? それより目の前の職員を青ざめさせることの方が得意よ。

「私って、いったい何なの? 何のために生きてるの?」

 誰もいなくなったオフィスで、私はこっそりと泣いた。思いを溜め込めば苦しいし、口に出せばもっと涙が出る。

 おそらく、ひとり暗い室内にいても泣かなくなったら、私は終わりだと漠然と思っていた。

「また泣いているのか」

「一条さん……」

 同僚に声をかけられ、私は慌てて身体を起こす。

 デスクに、湯気の立つコップが置かれる。甘い香りがした。コーヒーが苦手な私のために、ピーチティーを淹れてくれたのだ。

 私はカップを手に、同僚の男性を見上げる。

 一条怜央れおさん。180センチを超える引き締まった身体に、俳優並のルックス。清潔感のある着こなしに、スマートな立ち居振る舞い。私より3つ年上なだけなのに、すでにエリートの雰囲気を身にまとう男性だった。

 彼はなぜか、よく私に話しかけてくれた。

 怜央さんといると、私は不思議と心が安らいだ。

 一番は、彼の『目』だ。

 優しさや真剣さの中に、暗い感情がかすかに混じっている。一見完璧な彼の濁り具合を見て、「ああ、この人も同じなんだ」と私は思うのだ。

 理不尽への静かな怒りが、怜央さんを支えている。私と同じように。

 どうやら、一緒にいて安心できるのは怜央さんも同様だったらしい。

 仕事中は氷のように冷徹な彼が、私の前では時々笑う。

「ふっ……鬼の目にも涙だな。いいものが見れた」

 こんな風に。

「いつか、一条さんの泣き顔も見てやります」と私が生意気な口を利くと、怜央さんはまた笑った。

「俺はお前が他人とは思えないよ。生意気な妹を通り越して、まるで鏡を見てるみたいだ」

「私だって、鬼畜な兄を通り越して、頑固な自分自身を見ているみたいです。おあいこですよ。ほんと最悪」

 笑いながら私は言った。笑うと気持ちが楽になる。心に熱が戻ってくる。

 私はカップに口を付けた。甘い物をちゃんと『甘い』と感じられたのは久しぶりだった。

 日々の地獄を生きる私にとって、怜央さんはわずかに差し込んだ陽の光だった。

 怜央さんにとっての私も、そういう存在であった。

 少なくとも、私はそう信じていた。

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第1話 絶望の中の希望
 私――井伊こよりは強く思う。 真面目な人間が損をする。  正直者が馬鹿を見る。  そんな世の中、私は大嫌いだ――と。「う、く……」 「ほらほら、『いいこちゃん』! 何か言ってごらんよ。いつもみたいに、さ!」 「あぅっ!」 思いっきり頬を叩かれ、私は唇から血を流した。  全身ぼろぼろだ。殴られ、蹴られ、水をかけられ……眼鏡もフレームから折れてしまった。 そんなに、あなたは私のことが気に入らないのか。私のことを認められないのか。  私はまだ高校1年生だけど、生徒会副会長としてやれることをやってきた。  決して日の当たる役割じゃなくても、それでも皆のために頑張ってきたつもりだ。 なのに今、先輩の金髪女子を中心にした集団に、寄ってたかって暴行を受けている。 理由は――何となくわかっている。副会長として、彼女を何度か注意したのだ。  年上だからって関係ない。不良には、それ相応の態度で臨まなければいけないと私は考えていた。  私のこのスタイルを、仲間たちは「真面目だね」「さすが井伊さんだ」と評価してくれていた。 その結果が、今だ。なんだこれ。「なぁ、綺羅良。こいつ金持ってねえの?」 「ああ、ダメダメ。いいこちゃんの家、詐欺られてマジヤバなんだって。親が馬鹿だと子も馬鹿になるんだねぇ」 「……っ!」 両親を悪く言うな。  あの人たちは、ちょっと生きるのが不器用なだけなんだ。 殴られて朦朧とする中、私はリーダー格の金髪女を睨んだ。彼女はにやりと笑う。「そうそう、いいこちゃん。あんた今日で退学なんだって?」 「……それは」 「噂になってるよ。身内のじーさんに、借金のカタに売られるんだって? 今どきそんなのある? マジヤバいんだけど」 がっ、と髪をつかまれた。「つーわけで、あんたとも今日でお別れ。あたしらが企画したお別れ会、楽しかった? いいこちゃん、友達いなくてかわいそうだからね。今まで世話になったお礼よ」 「先生は……楓先生は、何て」 「あのオバサン? 何かいろいろ抗議してたみたいだけど、後の祭りよ。めっちゃ悔しそうな顔がウケたわ。規則なんて無視すりゃいいのに、真面目な奴らってホント馬鹿よね」 「先生……」 「世の中ね、馬鹿正直でクソ真面目な奴ほど損をするようにできてんの。その証拠にほら、誰もあ
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第2話 希望からの裏切り
「結婚しよう」 ベッドの中で、お互い一糸まとわないまま、そう言われた。 私は23歳になっていた。 そして彼を、『怜央』と呼び捨てにできるほどの関係になっていた。 そんな中での、怜央からのプロポーズだった。 行為の後の、少し気だるい空気。身体の熱が程よく冷め、互いの汗や体液が少しひんやりと感じられる。 同棲のために引っ越したばかりのマンションに、同じく買ったばかりのダブルベッド。引っ越しのために一般的な会社員の平均年収分を費やしても、怜央はまったく気に留めた様子がなかった。 私は、怜央の手に指を一本一本絡めて、「うん」と答えた。「婚姻届、もらいにいかなきゃ。証人、誰にしよう」 「先に指輪だろう」 「お父さんやお母さんにも話をしないと。お祖父様にも……そうね、例のプロジェクトの債権回収を先に片付けて、手土産にしましょう」 「君は本当に『いいこちゃん』だな」 空いた手で私の前髪を撫でながら、怜央が言う。いつもなら気にならない私のあだ名が、このときだけはなぜか、妙に刺さった。 だが、その違和感もすぐに忘れてしまう。 心臓が、微睡みの中にあるようにゆっくりと脈打つ。私の心と身体が、これ以上ないほどリラックスしている証だった。(ああ。これでようやく解放される) 私は思った。 怜央は私のことを理解してくれている。 怜央がいれば、私はここ数年の地獄から抜け出せる。5年前は考えもしなかった転職だって可能だろう。 もしかしたら、『あの夢』も叶うかも――。「ねえ怜央。私ね、やってみたいことがあるの」 「『学校に通いたい』だったか」 「うん。それもね、高校に行きたい。できるなら、お世話になった楓先生のところに行って、あの人のもとできちんと卒業したい」 「お前なら大丈夫だろう。何せ、出会ったころからまるで見た目が変わってない」 「なに、それ。子どもっぽいって言いたいの?」 恋人つなぎをした手に、きゅっと力を込める。 怜央は握った手をほどくと、私の薬指を撫でた。そこに嵌めるべき指輪を、今から想像しているようであった。 男のほうが気にするなんて、ちょっとおかしい。「……早いほうがいいな」 「じゃあ仕事のスケジュールを調整しなきゃ」 「そういう意味じゃない」 私は顔を上げる。怜央が、いつもの目を私に向けていた。優しげで、い
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第3話 いいこは怒らせると怖い
 私は入院した。  左膝は手術が必要なほどの怪我を負い、消えない痕が残った。術後は心身の痛みで一睡もできなかった。 入院中に、私は職場を解雇されたことを知った。ただでさえ祖父のことで会社が揺らいでいるところに、『痴話喧嘩』で醜聞を流したというのが、その理由だった。  ずいぶんといい加減な話だ。まともな会社ではまずありえない。ありえないからこそ、私が今までどんな環境にいたかを思い知らされた。 これまで限りなく裏社会に近い場所で働いてきた直感で、私は自分が『切り捨てられる側になった』と悟った。  怜央と私とを天秤にかけて、上層部は怜央を取ったのだ。 もともと社会的にグレーな職場だ。まっとうな手当や福利厚生など望むべくもない。 入社した経緯も最悪なら、放り出された経緯も最悪だった。「何も話したくない。出てって」 「こより……」 「出てって!」 病室のベッドで、私はすさんでいた。  自分たちも大変な状況の中、わざわざ見舞いに来てくれた両親も、私はきつい言葉で追い払った。 誰も信じられなくなっていたのだ。 味方は捨てた。  収入もない。  居場所さえ失われた。 退院すれば、さらなる地獄が待っているだろう。私にとって、1日1日は地獄へのカウントダウンでしかない。 どうせなら、理性も良心も全部かなぐりすてて生きてやろうかと思った。涙もいらない。人として終わってもいい。  あの憎き怜央のように。 そんなときだった。「……久しぶりね、こよりさん」 「楓、先生」 私が怪我で入院したという話をどこかから聞きつけた楓先生が、見舞いにやってきたのだ。  桜庭楓先生。私が通っていた私立黎明館学園で、中学・高校と担任だった女性だ。  真面目一辺倒で孤立しがちだった私に、いつも寄り添ってくれた恩師であった。 けれど、私は素直に喜べなかった。「遠路はるばる、ご苦労様です。それで、今日はお説教ですか? 先生に叱られるのは8年振りですね。相変わらず教育熱心で尊敬します」 口が勝手に辛辣な皮肉を吐く。地獄で磨いてきた鋭利な言葉が恩師の顔を曇らせるのを見るのは、正直言って快感だった。  同時に、私はさらなる地獄に自ら片足を突っ込んだのだと悟った。自覚するともう何もかもどうでもよくなった。 しかし、楓先生の反応は予想と
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第4話 痴漢男に鉄槌を
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第6話 久我龍慈という男
 LHR後の時間は、校内や部活の見学にあてられた。基本的に自由行動だ。「部活どこにする?」「もう帰ろうぜ」といった声を背中に、私は教室を出た。 1年生の教室は4階だ。そこから、職員室等がある1階へと下りていく。 どうやら在校生は短縮日程での登校日となっていたらしい。思ったよりも大勢の生徒たちとすれ違った。 3年生の教室が並ぶ2階に下りたときである。「久我君、来てたんだ! ちょっと意外」「ねえねえ。うちの部まで来てよ。久我君がいれば、新入生ちゃんたちへのいいアピールになるからさ」「ちょっと。久我センパイを客寄せパンダにしないでください! センパイはこれからあたしらとカラオケに行くんですから!」 女子生徒たちのかしましい声が聞こえてきた。(久我君……ってことは、もしかして) 私は廊下を覗き込む。 3年生の教室の前に、5、6人ほどの女子が集まっていた。 その中心に、ひとりの男子生徒が立っている。 180センチを超える長身だから、女子に囲まれていても横顔が見えるし、よく目立つ。 さらさらの髪に、にきびひとつない肌。 長い睫に、すらりと通った鼻梁、そしてちょっと艶めかしい唇。 きっちりと制服を着こなした身体は細身で、ただそこに立っているだけでも絵になる。(相変わらずカッコいいわね) 私が感心していると、彼がふとこちらを向いた。 それまで物憂げというか、つまらなそうにしていた表情が、パッと明るくなる。「井伊サン!」「こんにちは、龍慈君」 私はにっこり笑って挨拶をした。 彼の名前は久我龍慈。 私の友人であり協力者、久我朝菜の弟だ。今年で18歳になる高校3年生である。 文武両道で、一時期はモデルもやっていたほどの、文句なしのイケメンだ。 予想はしていたが、やはり学校では相当モテているらしい。 女子生徒たちや、彼を遠巻きに見るクラスメイトの反応を見
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第7話 再出発のための再会
 私は、次第に脈が速くなるのを感じていた。 1階にたどり着くと、生徒の数はぐっと減る。職員室や事務室などが並ぶこのフロアは、これから新年度を迎えて浮かれる生徒たちにとって、近づきたくない場所だからだ。 だが、私は『ここ』を訪れなければ学校生活をスタートさせることができない。 目的の場所――校長室の前に立つ。ノックをしようとして、身体が固まった。「井伊サン?」 背後の龍慈君が怪訝そうに声をかけてくる。私はゆっくりと深呼吸をして、校長室の扉をノックした。 そのまま、数秒待つ。返事がない。さらに10秒待った。 固まったままの私を見かねて、代わりに龍慈君が声を上げる。「校長先生、いらっしゃいますか? 3年の久我です。入っても構いませんか?」「……龍慈君」「らしくないよ、井伊サン。そんなガチガチになってるなんて」 だから俺が声をかけたんだ、と龍慈君は言った。 私は肩を下げた。頼りになる弟君だ。「……はい。どうぞ」 中から聞こえてきた声に、私は一瞬息を止めた。 だいぶかすれているけど、間違いない。楓先生の声だ。 この中に、楓先生がいる。 私はぐっと顔を上げ、「失礼します」と扉を開けた。 絨毯や木製家具、書籍の匂いが、さらりと鼻をかすめていく。 窓は半分ほどカーテンが閉じられ、室内は思ったより薄暗い。 正面に立派な書斎机があった。 差し込む春の陽光に半分ほど照らされて、楓先生は座っていた。 艶やかだった黒髪は、ほとんど白髪に変わっていた。「動きやすいから」と、10年前はショートカットにしていたのに、今は伸びるままに背中まで垂れている。 肌は血色を失い、白い。陶器というよりは古びた紙のような質感だった。 そして、何より鮮烈な印象を受けたのが、その瞳だ。 希望、情熱、思いやり。そういった、彼女を突き動かしていたエネルギーがごっそりと抜け落ちて、ただ深く、暗い虚無に染
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第8話 楓先生を追い詰めるもの
「それにしても、不思議な気分ね。こよりさんとこうしてまた、同じ学校に通えるなんて。でも、こよりさんは本当に変わらないわ。私だけおばあちゃんになったみたい」「私もちゃんと年を取っていますよ」 そう言って如才なく微笑む私。こういう処世術は、10年前は知らなかった。むしろ、少し嫌悪していたくらいだ。 まあ、浮かれていないといえば嘘になるけれど。「楓先生、お疲れでしょう。お茶を淹れますね。一緒にお茶しましょう」「井伊サン、それは俺がやる。井伊サンも飲むんだろ? だったら俺に淹れさせてくれ」 龍慈君が割り込むようにポットの前に立つ。 学園カースト最上位の彼が手際よくお茶を淹れる様子を見ていると、何だか不思議な気分になる。(あのちょっとヤンチャなところもあった弟君が、立派になったものだわ) 私が感心しながら後ろ姿を見ていると、龍慈君がぶっきらぼうに言った。「姉貴にしごかれたからさ。井伊サンのそばにいるなら、これくらいできて当然だって。まったく、余計なアドバイスしかしねぇんだから」「さすが朝菜ね。……ねえ、龍慈君。何だか怒ってる?」「怒ってない」「さっきの楓先生のことなら、私は気にしてないから」「だから、怒ってないっつーの」 淹れたお茶をソーサーごと、少し乱暴にテーブルに置く龍慈君。楓先生の前にも同じように置いた。 やっぱり少し怒っている――というより、拗ねてる? もしかして、私が楓先生のことばかり気にしているから?「ふふっ」 私は龍慈君の隣に立ち、彼の肩の後ろを撫でた。本当は頭を撫でてあげたかったけど、去年あたりから身長差がはっきりしてきたので、こうするしかないのだ。 龍慈君は口元を歪めながら、視線を逸らした。 指先で顎のあたりを軽くかくのは、彼が照れや気まずさを誤魔化すときの癖だ。 まったく、身体は大きくなっても可愛らしいのは変わらないわね、この子。 楓先生が小さく声に出して笑った。私は胸のつかえがひとつ取れ
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第9話 宣戦布告
 私はすぐには振り返らなかった。いや、振り返れなかった。 顔を合わせた瞬間、掴みかかってしまいそうだったから。 大きく息を吸い、そして吐く。よし……落ち着いてきた。「どうした。まさか、惨めに泣いているわけではないだろう。8年前の、あの頃のように」「あなたに昔の私を語ってほしくない」 一度鎮めたはずの怒りがぶり返して、私は勢いよく振り返った。 そこには、元婚約者の姿があった。 一条怜央。 180センチを超える引き締まった身体に、俳優並のルックス。清潔感のある着こなしに、スマートな立ち居振る舞い。 嫌になるくらい、変わっていない。見る者を惹き付けるカリスマ的な魅力が、怜央には備わっていた。 いや、別れてからの3年で、さらに冷たさが増した。職人が鍛え上げた日本刀のように、近づけば一瞬のうちに切り裂かれてしまいそうな危うさが加わっている。 女の本能を内側から抉り返してくるような、危険な香りを漂わせる男に、怜央はなっていた。 私は無意識のうちに呼吸が速くなっていた。息づかいを悟られないよう、口元に握り拳を当て、眉をつり上げる。「……久しぶりね、怜央」「ああ。3年振りだな」 拍子抜けするほど普通の返事だった。 さっきはあんなにも、人を小馬鹿にするような言い方をしていたのに。 嫌い。本当、大っ嫌いだ。 しかし、どうしよう。怜央に会ったら叩き付けようと思っていた罵詈雑言が、まったく浮かんでこない。 まるで宙に浮いた車輪のように、虚しく思考が空回りするだけだ。 ただ、怜央と睨み合う。 ふと、背中で龍慈君の声がした。「校長先生?」 私は振り返る。 執務机に座った楓先生が、椅子の上で上半身をのけぞらせていた。その表情は、ひと目でわかるほど青ざめている。双眸に戻ってきていた意思の光が、再び失われていた。 怜央が冷たく言い放った。「余計なことは言わないことだ、桜庭校長」
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第10話 一条怜央の執着
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