LOGINミーシャが仕込んだもう一つの悪魔に気づく事が出来ない姫柊《ひめらぎ》は微量《びりょう》な音波により、思考がぐちゃぐちゃと混ざりあっていく。
今の状況を把握《はあく》していたはずなのに、全てが崩れていく。歪《ゆが》んでいく思考を止める方法も分からない。当たり前の感覚を手にしていたはずなのに、人間らしさを手放していった。 「があああ」 両手で頭を抱え込み、呻《うめ》きをあげる姿は人間とは呼べない。メアリーは大きく口を開くと聞いた事のない言葉を口にしていく。何て言っているのか聞き取る事が出来ない。それもそうだろう、彼女の呟きは超音波によって作られた新しい言語なのだからーー ガタガタと全身の骨が砕《くだ》け始める。姫柊《ひめらぎ》は痛みを感じる様子もない。両足が反対方向に折れ曲がっている。自分で屈折《くっせつ》させているように見えた。 口からは涎《よだれ》を垂《た》れ流し、瞳からは大量の血が涙のように溢《あふ》れている。ここまで人の精神と肉体に作用《さよう》を起こす事が明らかになる。その光景をモニター越しで確認する事が出来たミーシャは悦楽《えつらく》の表情を綻《ほころ》ばせ、全身に流れる快楽に身を任せた。 「凄い! こんな効力《こうりょく》があるなんて。なんて……素晴らしいの。想像以上の結果だわ」 はぁはぁと呼吸を乱しながら、興奮が頂点に達する。思う存分楽しむ事が出来た彼女は、嬉しそうに舌なめずりをした。 人間の言葉さえも、自分が人だった事も忘れてしまった姫柊《ひめらぎ》は、モンスターにしか見えない。両足の次は両手が明後日の方向に折れ曲がり始める。獣のように吠え続ける彼を絞《し》める為に、首がぐりんと後ろに折れ曲がった。 元々宗教を広める為に昔作られた脳内チップを参考にしただけ。それが別の方向でも役に立つ事が分かった。それだけで彼女にとっては大きな収穫《しゅうかく》。 「あっけないわね、姫柊《ひめらぎ》。人の手柄《てがら》を奪おうとした罰よ。私も利用しようとしてたでしょ……全部分かっているから」 姫柊《ひめらぎ》と会話を交わす事は二度とない。動く事のない彼の死体に言葉を投げつけながら、今までの鬱憤《うっぷん》を晴らしていく。そんな事で彼女の気分が晴れる訳ではない。 全ての演出は彼女にとってご馳走《ちそう》なのだーー 「彼が最後に連絡したのは誰なのかしら? 記録を見ればすぐに分かるのに……どうしてそんな事も理解出来ないの?」 姫柊《ひめらぎ》の持っていたアクセス権を自分のものにしていたミーシャは全てのログを確認し始める。この研究室は姫柊が使っている場所ではない事実を知ると、納得したように頷《うなず》く。 何かを隠すように本来のログの上から隠蔽工作《いんぺいこうさく》がされているようだった。表のログの矛盾《むじゅん》に気づいた彼女は、自分のパソコンを機械と繋《つな》げてると、分析を開始する。 「ここの管理者は余程《よほど》警戒心が強いのね。それか表に出せないものでもあるのかしら」 ミーシャは化け物になったメアリーの事を脳裏《のうり》から切り捨てると、次の標的《ひょうてき》の正体を暴《あば》こうとしていた。 □□ 名栗《なぐり》研究所に着いた二人は小さな駐車場に車を置くと、急ぎ足で研究施設へ入っていく。緊急の事を予測していた銘刀はスペアキーを所持していた。いつもなら研究者達が忙しそうにしているのだが、休日のせいか誰もいない。 「……勝手に入っていいのか?」 「大丈夫だ。許可を貰っていないとスペアキーなんてくれないだろう?」 刑事と言う立場もあり、念の為に聞いただけ。風間は内心、銘刀の自信に満ちた言葉にうんざりしながらも、彼の背中をついて行く。 「この施設には俺の研究データーの一部が保管されている。そのデーターを使えば、姫柊《ひめらぎ》を救う事が出来るかもな。裏で別のシステムを起用しているから、誰かがあちらにアクセスした時点で情報が連動《れんどう》するようにしている」 急に説明をし出す銘刀は活き活きとしている。研究が絡むと少年のように瞳を輝かせながらおもちゃで遊んでいるよう。 そんな銘刀にミナミを紹介した過去の自分を否定したい風間は、苛立ちを隠すように頭を掻《か》いた。 複製《ふくせい》したカードキーを翳《かざ》すと、ロックされていた部屋は息を吹き返したように動き出した。自分の部屋のように何の躊躇《ためら》いもなく入ると、全ての機械を起動《きどう》していった。 「起動には五分程度かかる。少し待っていてくれ」 「……好きにしろ」 部屋一面に広がっている見た事もない機材達が息を吹き返すと、低い音で起動音を吐き出した。パソコンを立ち上げた時のような音が周囲から大合唱のように歌声をあげていく。 こんな事でもないとこの光景を見る事は出来ないだろう。辺りを把握するように見渡しているとあっと言う間に五分が経過していた。 一つのパソコンが機材と連動しているようで、複数のコマンドを打ち込んでいく。銘刀がイソイソと作業をしている様子を後ろから見ていた風間の瞳に、大きな脳みその映像が焼き付いた。 「なんだ……これは」 つい心の声が漏れてしまった風間。そんな彼の声に喜びを感じたのか、語り出す銘刀《めいとう》がいる。 「これは電子で作られた脳みそーー電脳《でんのう》だ。映像に見えるかもしれないが、この脳は生きている。最終的には自我《しが》を持つようにしているが、今は人の記憶と思考を守る為のサポートとして使われている。その原型がこれさ」 科学が作った脳みそ。完結《かんけつ》に言えばそうなのだろう。周囲の機材と繋がっている電脳は全てを支配する事も出来る。暴走しないように銘刀が権限を握っているから、悪用される事もない、今の所はーー 「あの研究室に目をつけたのなら、電脳が目的だろうな。人の壊れた脳細胞を治癒《ちゆ》させる役目を担《にな》っているが、使い方を変えれば人を洗脳《せんのう》する事も出来るだろう。後は電脳に人の意識と記憶と記録を保存して、体との繋がりを切断《せつだん》する事も出来るからな」 「そんな危ないものを……何故作った?」 風間は目の前にいる人物が自分が思っている以上に危ない存在と認識《にんしき》すると、言葉を投げかけた。 語る事を止めた銘刀《めいとう》はタイピングを繰り返しながらニヤリと微笑んでいく。風間からは彼の表情は見えない。銘刀の背中は見えない圧力を作り出していった。過去の出来事は時間の経過と共に消えていく。なかった事にされた事実を知る者は中心人物として動いていた組織にしか分からない。一人の脳科学者ミーシャ・オン・レインが残した記録によると、元々は平和な世界だったらしい。その事に関して彼女個人の感想が書かれていた。他の人は資料を飛ばし飛ばし読んでいる為、見つける事が出来なかったのだろう。 他の資料にはきちんとした筆跡で書かれているのに、彼女の心情が描かれている所はミミズのような文字になっていて、読みにくい。何度も解読を試み、やっと一年の月日をかけて読み解く事に成功した。 「ゾンビ化って……映画じゃないんだからさ」 表現の仕方に対してツッコミをいれると、本当にミーシャと言う人物は脳科学者なのだろうかと疑問を抱くしか出来ない。もっと違う呼び方があったはずなのに、完結に簡略している。自分が彼女の立場ならもっと複雑な用語を使うし、作り出す。本人と話せる事はないのに、頭の中で彼女の妄想を膨らませていくと、笑うしかなかった。 「ほーら。皆集まって! そろそろ学校に戻るよー」 この資料館に引率として私達を束ねようとしている先生に同情する。素直に言う事なんて聞かないからだ。目の前に珍しいものが沢山あるのだから、そっちに興味を惹かれてしまう。気持ちは分かるが、話が聞こえない程没頭出来るのが少し羨ましく思えた。 「ほらほら、貴女も。資料を戻して」 「はーい」 自分は蚊帳の外だと感じていたが、そうそう気づかれてしまった。本当はもう少しこの公開資料を眺めたい気持ちがある。本来なら一般の人達がこの資料館を見る事は難しい。政府の許可が必要だからだ。規定なんてなかったら、家族に無理言って、また来るのに。それが出来ないから悔しい。 そんな私は資料を戻すとため息を
システムを起動しますーー 部屋中に機械音が流れると、警告音に切り替わっていく。何が起こっているのか把握しようとする銘刀は動けない。頭に装置を付けられているから真っ直ぐしか見る事が出来なかった。そんな彼を覗き込むミーシャは右手に持っているスイッチを押す。すると頭に大量の電流が流れ、電脳に負担を掛け始めた。強度には自信がある作りにはしているが、ここまで内部まで流されてしまうと、どうしようもない。 「貴方の記憶と記録は全て電脳のシステムに保存されているのよね。どんな仕組みで作ったのか知りたいわ……だけど残念、取り出せるものを取り出したら、電脳ごと破壊してあげるから。そうすれば貴方は自由になれるのよ」 ミーシャの瞳は邪な考えで満ちている。彼女が何を欲しがっているのか理解出来ない銘刀は反発しようとするがそのたびに電流が流されていく。体に繋がっている電脳が破壊されると言う事はその体は抜け型同然。今までのように生きる事も愚か、心も全て消えていく。もしミーシャがシステムを取り出す為にこのような行動に出たのなら、それは失敗に続く未来しか編み出せない。 痛みを感じる事はないはずなのに、この電流は普通のものとは違うらしい。電脳はまるで本物の脳みそのように震えながら、頭痛を引き起こしていく。この痛みは体と電脳の繋がりが弱体している証拠でもあった。 「それじゃあ、取り出しましょうか」 ふふふと喜びの感情を噛み締めながら、機械に付け加えられているボタンに手をかけた。ゆっくりと押すと視界も感覚も考える脳の存在も最初からなかったように、無の世界へと吸い込まれていく。最後に感じたのは痛みとは程遠い感覚だった。 ピクリとも動かなくなった銘刀を見下ろしながら経過を観察しているミーシャ。機械に備えられているボタンは電脳から記憶と記録を取り出す装置だった。これを起動させる事により、空っぽになった電脳は活動を止め、連動するように肉体も停止した。システムを特殊な構造で作られているパソコンに取り込まれたのを見ると、その中身を一つ一つクリックしていく。 沢山の数字と溢れかえる情報、そして銘刀として生きた証、彼の記憶が映画のように流れていく。ここまで完璧に取り込む事に成功したのは初めてだった。現実世界にそぐわない人間を選別し、牢獄と名付けた仮想空間の世界へ幽閉する。選ばれた人間達は溢れかえったゾンビを
ミーシャのコレクションとして保管されているユメはカプセルの中で存在保っている。この姿を銘刀に見せる訳にはいかない。ゾンビ化の進行を遅らせる為に複数の薬を投与し、観察をしている。研究者の一人、塹壕はユメに対しての権限を一任されている。彼女は菜園として行動を示したユメに鎮静剤《ちんせいざい》を打つと銘刀へとある人物を使者として派遣する。 用心棒でもあり、協力者でもある。沢山の立場を含みながら邪魔する人間を排除する要因として使っている幻狼《げんろう》だった。真っ黒な制服に身を投じている幻狼は、スーツに着替えるとなるべく真面目そうに取繕う。話をしたら全てが台無しになる事を見越して、標準語を話すように指導を受けている。 「俺にこんなしゃべりを求めるん、無理やで」 「無理か無駄になるかは幻狼、貴方次第よ。最悪の場合、話さない」 「……へいへい」 菜園の外見があんな状態になっていなかったら、ユメを行かせただろう。異変に気づかれる可能性は低く、彼女の言葉なら銘刀は安心して言う事を聞いてくれる。彼の近くには皆川刑事がいる。皆川刑事の妹と銘刀が付き合うようになって家族ぐるみの関係性を築き上げてきた過去がある。ある研究を進めていく事で彼女を失うなんて、誰も想像しなかっただろう。 「皆川風間……凄く邪魔ね」 ポツリと呟く言葉を捉えた幻狼はニヤリと微笑みながら、新しいおもちゃを手に入れるチャンスが舞い込んでくる予感を感じていた。銘刀に興味があるのはミーシャだけ。その身近で傍観者として存在している風間に興味を示していく。 「あんたは俺に任せたらええ。邪魔なもんは全て消すだけや」 口ではそう言っているが、本心は違う。その事に彼女は気づいている。指摘も反応もせずに流れるままに委ねていく。時間が限られているから
銘刀《めいとう》は自分の知らない所で何があったのかを把握出来ない。当然だろう……目の前で起こっていない物事を手にする事など出来ない。操られている菜園に違和感を感じる事が出来ない。まるで彼女自身と話しているような演技を展開していた。ミーシャは彼女の名前を切り刻むと、新しい人生を与えるように名前を渡した。 「貴女の名前は今日からユメ……素敵な名前でしょう?」 どんな意味を取り付けて名前を考えているのだろうか。全くの別人としての人生を手に入れたユメは菜園として銘刀の前に出ていく事を決断していく。本来なら自我は発生しないはずなのに、子供のように笑い続けながら全ての景色を楽しんでいる彼女を見て、不思議な気持ちになっていくミーシャがいる。 「……貴女は特別な存在なのね、きっと。あの男を私へと導いてくれたらご褒美をあげましょう」 ご褒美の言葉が何を意味するのかを理解出来ないユメは無表情に切り替わると首をゆっくりと傾げていく。その様子は子供に返ったように見えた。知識も知恵も何もかもを失った彼女をまるで自分の娘のように抱きしめ、囁いた。ユメにとっては魔法の言葉でも、銘刀にとっては破壊を意味する内容だったのだ。 全てを景色は音のように崩れて地面の一部として吸収されていく。それはまるで夢幻楼《むげんろう》のように儚く美しい。投げられたボールは銘刀へと向けられ、叩きつけられていく。痛みがあるはずなのに、彼は全ての感覚を遮断すると、人としての心を捨てるしか方法を編み出せない。 あの通話がこの環境を作り出した要因でもある。どうして気づく事が、見抜く事が出来なかったのだろうと、過去の自分に言いつけない気持ちが膨れ上がっていく。あそこまで本人の話し方や癖、そして会った時の対応の仕方を完璧にコピーしていたユメだから彼を騙す事が可能だった。 ユメは菜園として彼の信用を安定的なものにすると、怪しい
銘刀《めいとう》は通話ボタンを押すと、ゆっくりと耳を当て確認する。菜園《さいえん》の名前が表示されているが嫌な予感が走って鼓動が落ち着かない。こんな事は今まで一度もなかった。彼女の元気そうな声を聞けばその考えも消えていくのかもしれない。そう思い込む事で自分の安定を保とうとしている様子だった。 「……もしもし」 「やっと出た、遅かったね」 「菜園か?」 「何よ、私の声も忘れちゃった訳?」 普段と変わらない菜園の声を聞いて胸を撫で下ろしている。くるくると変化する銘刀の表情を隣で見ていた風間は、珍しい事もあると想いながらその様子を観察していた。自分から指名しておいて、そこまで過保護になる必要があるのだろうか。銘刀が何を思い、何を考えているのか分からない。不透明な気配の裏側で銘刀達にとっての闇が襲いかかろうとしている事実に気づく事なく、対話を続けていく。 考える事に集中していた銘刀は、思った以上に疲れていたらしくボンヤリと視界が霞んでいる。彼の瞳と彼女の眼差しが重なりながら、スマホの音が襲い来る恐怖を奏でようとしていたーー 彼女の耳奥から入り込んでいったウィルスに感染している生物が菜園の脳みそを書き換えていく。彼女の基本の行動を一つのデーターに纏めると、意識と精神を肉体から分離させ乗っ取っていく。最初は菜園の意識が強く拒絶し、侵入を止めようとしていた。ウィスル生命体カムニバル。脳科学者ミーシャが銘刀の作り上げた研究を形にする為に生み出してしまった存在。 対象となる少人数の人物にチップとして埋め込む事により数分から数時間で感染してしまう驚異的な兵器だ。ミーシャは自分の身を守る為にシャットダウンと呼ばれるワクチンを装着済み。親には決して攻撃をする事はない。シャットダウンを埋め込んでいる人間の思考命令により、自由自在に扱う事が出来る。
菜園《さいえん》の連絡を待っている銘刀《めいとう》は中断された攻撃に不信感を抱いていた。自分の情報を守る為に対応に追われていたが、急に動きが止まった。それから過去の研究資料を探りながら定期的に様子を見ていたが、何のアクションもない。指を動かし続けていた銘刀《めいとう》は、考え込む時間を作る為に全ての作業を中断させていく。「終わったのか?」「まだだ……ちょっとな」誤魔化《ごまか》す言葉も思いつかない様子。そんな銘刀を不思議そうに見つめている風間《かざま》は自分用に買っていたブラックコーヒーを彼に差し出した。「少し休んだ方がいい。姫柊《ひめはぎ》の方は菜園《さいえん》が向かったんだろう? 彼女に任せとけば大丈夫」少しでも不安が残らないようにと配慮《はいりょ》を見せてくる風間《かざま》。そんな彼の言葉に反応を示すと、気に入らないよう。バッと缶コーヒーを掠《かす》め取ると、すぐさま飲み干していく。本来ならブラックは飲まない銘刀《めいとう》だが、こんな状況だからこそ贅沢《ぜいたく》は言ってられない。「おいおい。ゆっくり飲めよ。じゃないと休憩《きゅうけい》出来ないだろ、性格上」「俺に休憩を求める事が間違っている。作業している方がいい気分転換になる」何をムキになっているのだろうか。銘刀の機嫌《きげん》を損《そこ》なう言葉なんて言った覚えはない。振《ふ》り絞《しぼ》る記憶を辿《たど》りながら、一つの可能性に辿り着いた。銘刀はさっきの言葉が気に入らないのではないだろうか。菜園《さいえん》の能力を買って言った言葉が違う意味として捉《とら》えられているのではないか。そう考えると、無機質《むきしつ》な雰囲気を醸《かも》し出している銘刀《めいとう》でも改めて人間だと知る。菜園《さいえん》に対しての信頼が深いからこそ、触れられて欲しくなかったのだ。彼女はそれほど銘刀に認められている存在だった。いつもなら菜園《さいえん》から連絡が入ってくる時間だ。姫柊《ひめらぎ》を助け出す事がメインだが、それ以