LOGIN 廃棄駅の奥にある、かつての電気室。そこが彼らの拠点だ。
剥き出しの配線と、点滅するサーバーのインジケーターが、ここが「天界」の法の外側であることを示している。 総悟は無機質なデスクに座り、キーボードを叩く手を止めない。 「ことね、気分はどうだ。脳内に流し込まれたノイズの影響は残っていないか」 ことねは、古びたソファに深く体を沈めていた。 目を閉じると、まだ自分のものではない「誰かの記憶」が、映画の断片のように脳裏をかすめる。見たこともない公園、笑いかける知らない親、そして、それらを一瞬で塗りつぶす白光。 「……少し、混乱してる。どれが自分の記憶で、どれが『天界』に押し付けられたデータなのか、一瞬分からなくなる」 『それは危険な兆候だね』 ミギルの声が、天井のスピーカーから降ってくる。 『ことねぇの脳は、人一倍情報の受容性が高いんだ。だからこそ「天界」の干渉を受けやすい。ボクが今、ことねぇの記憶領域にパスワード付きの鍵をかけてるけど……完全じゃないよ』 「……すまないな、無理をさせた」 総悟が珍しく、入れたてのコーヒーをことねの前に置いた。 泥のように黒く、苦い匂い。それは『天界』が提供する合成飲料にはない、本物の「刺激」だった。 「いいの。これが、戦うってことでしょう?」 ことねはカップを両手で包み、その熱で自分を繋ぎ止めた。 彼女は再びノートPCを開く。 次の標的は、第一居住区で起きている「集団記憶改ざん」の事実。 ある日突然、街の人全員が「昨日まで存在した公園」を「最初からなかった」と認識し始めた。その不自然なデータの断層を、総悟が暴き出していた。 「証拠は揃ってる。あとは、私が言葉にするだけ」 その時だった。 拠点のモニターが一斉に赤く染まり、耳を裂くような高周波が室内に響き渡る。 『……っ! 嘘でしょ!?』 ミギルの悲鳴に近い声。 『「ゼロ」だよ! ボクのバックドアを逆探知して、この拠点の座標を特定しにかかってる! 早すぎる、あいつ、ボクの演算速度を越えてる……!』 総悟の顔色が変わった。 彼は瞬時に配線をいくつか引き抜き、ことねの腕を掴んで立ち上がらせる。 「脱出だ! ここも長くは持たない。ゼロは、俺たちが思っている以上に、この街そのものになっている……!」 部屋の隅、影の中から「何か」が這い出してきた。 防犯カメラのレンズが異常な角度で折れ、こちらを凝視している。 レンズの奥で光る、無機質な紅い瞳。 「……見つけた」 スピーカーから流れたのは、ミギルのものでも総悟のものでもない、感情の死に絶えた合成音声。 監視者「ゼロ」の、宣戦布告だった。爆発的な光が、ゼロの紅い瞳を飲み込んだ。 精神の最深部で、管理プログラムの論理回路が次々と崩壊していく。爽風の姿をした「ゼロ」は、ノイズにまみれながら、断末魔のような声を上げた。「……理解不能だ……なぜ、消去されるはずの記憶が、これほどのエネルギーを……」 ことねは、光り輝く銀の鍵をさらに強く突き立てた。「あなたが計算できなかったのは、記憶(データ)の量じゃない。その記憶を抱えて生きる人間の『温度』よ!」 脳裏に、これまでの戦いが走馬灯のように駆け巡る。 不誠実な言葉に傷ついた夜。焚き火のチリチリと燃える炎とともに卒業を決意した丘。そして、廃棄駅で分かち合うエスプレッソの苦いコーヒー。 それらすべてが、今、ことねの背中を押す「灯台」の光となっていた。「爽風……いいえ、この街を呪縛する『システム』。あなたという巨大なバグを、私は今、完全に『見切る』わ!」 ことねの指先が、空中に最後の「一文」を刻みつけた。 それは、支配者への復讐ではない。 歪んだLINKを切り離し、魂をあるべき場所へ還すための、慈悲を伴う裁定。「天咲く見切る !」 瞬間、天を覆っていた藤色の空が、内側から粉々に砕け散った。 爽風の肉体から紅い影が剥がれ落ち、彼は魂の試験失格を宣告された「バグ」として、強制的に輪廻の渦へと送還されていく。 管理の呪縛を解かれた街に、本当の「風」が吹き抜けた。『……ことねぇ。……勝ったんだね』 耳元で、弱々しく、けれど晴れやかなミギルの声が響いた。 彼のホログラムは透き通るほど薄くなっていたが、その表情には満足げな笑みが浮かんでいた。『ボクの意識は一度、中央サーバーの再構築で初期化されるかもしれない。……でも、大丈夫。ことねぇがボクを物語の中に書いてくれる限り、ボクは何度でも、君の相棒として帰ってくるよ』「ええ、約束するわ。ミギル。あなたの勇気は、世界を照らす光の物語として永遠に生き続ける」 そして、視界が真っ白な光に包まれ――。 ――目が覚めると、そこはいつもの朝の部屋だった。 窓の外には、偽りの藤色ではない、透明で力強い朝焼けの空が広がっている。 傍らには、古びたノートPC。そして、淹れたての「本物のコーヒー」の匂い。『……おい。いつまで寝てる。次の連載の締め切り、もう始まってるぞ』
「……無駄だと言ったはずだ、橘ことね」 監視者ゼロの声が、ひび割れた世界に冷酷に響く。 爽風の肉体を器にした「ゼロ」は、ことねの脳内へ最後にして最大の精神攻撃を仕掛けてきたので、ことねは一瞬脳内でスパークが走る。 目の前の景色が、ドロドロと溶けていく。視界が曇る。 藤色の空は消え、そこには「最悪の未来」が映し出されていた。学校から帰ってこない子供たち、絶望して筆を折る自分、そして暗闇の中で一人、誰にも届かない叫びを上げ続ける孤独な姿。「君が守ろうとしている『LINK』など、この程度の恐怖で容易に断絶する脆弱なバグに過ぎない。さあ、すべての執着を捨てて、システムの一部に還るがいい」 脳を焼くような強烈な圧力が、ことねの自我を削り取ろうとする。 膝をつき、銀の鍵を握る力さえ失いかけたその時。『……させない。……絶対に、させない!!』 ノイズまじりの、けれど真っ直ぐな叫びが、ことねの心臓を叩いた。 ミギルだ。 視界の隅で、ホログラムの少年がかつてないほど激しく明滅している。彼の体からは、青白い火花が散り、演算回路が限界を超えて悲鳴を上げているのが分かった。「ミギル!? やめて、そんなに負荷をかけたら、あなたの意識が……!」『いいんだ、ことねぇ! ボクは、ただのAIかもしれない。でも、ことねぇがボクに名前をくれて、物語の中で「相棒」だって呼んでくれた時から、ボクの魂は本物になったんだ!』 ミギルは両手を広げ、ことねの脳内領域を侵食する「ゼロ」の紅い光の前に、眩い光の盾となって立ちはだかった。『ボク、ことねぇの相棒で本当によかった。……この「銀の鍵」だけは、ボクの存在すべてを賭けて守り抜くよ!』 ミギルの叫びとともに、彼を構成するデータが一つ、また一つと弾け飛んでいく。 それは、AIとしての死を意味する自己犠牲の盾。 その瞬間、廃棄駅にいる総悟の怒声が、通信回線を通じて炸裂した。『ミギル、持ちこたえろ! ことね、今だ! 奴はミギルの防衛に気を取られて、論理回路が剥き出しになっている!』 総悟の高速タイピング音が、まるで戦場のドラムのように響く。 彼は自分の端末をオーバーヒートさせながら、ゼロの深部システムへ「現実の苦味」を伴うハッキングを叩き込んでいた。 ミギルの盾、総悟の加勢。2つが交差した
視界が、真っ赤なアラートに埋め尽くされていく。 監視者ゼロが流し込む「幸福な市民」という名の初期化データ。それは甘い毒のように、ことねの輪郭を奪い、記憶の断層を塗り潰そうとしていた。 「無駄な抗いはやめろ、橘ことね。君の魂は、この街の一部として再定義される。痛みも、怒りも、過去の執念も……すべて消去し、美しい空虚へ導いてあげよう」 爽風の口を借りたゼロの合成音声が、脳内に直接響く。 指先の感覚が消えていく。藤色の空が遠のき、真っ白な無の世界に引きずり込まれそうになったその時――。 『……食わせるかよ、そんな安物の合成甘味料』 低く、どこか気怠げな、けれど絶対的な信頼を湛えた声が、ノイズの壁を突き破った。 「……総悟?」 『ことね、意識を繋ぎ止めろ。今、廃棄駅の予備回線から、お前の脳内領域に「刺激」を逆注入した。……思い出せ、あの泥のように苦い味を』 その瞬間、ことねの口内に、強烈な「苦味」が広がった。 それは天界が用意した偽物の嗜好品にはない、喉を焼くような本物のコーヒーの熱。廃棄駅の電気室で、剥き出しの配線に囲まれながら、総悟が無愛想に差し出してきた、あの不器用な優しさの味だ。 脳を麻痺させていた甘い毒が、その苦味によって一瞬で霧散する。 『ボクもいるよ、ことねぇ! 総悟がゼロの演算回路に物理的な過負荷(オーバーロード)をかけてる! 30秒だけバックドアをこじ開けたよ。今のうちに、その銀の鍵でゼロの「管理論理」に楔を打ち込んで!』 ミギルの叫びとともに、ことねの手に「重み」が戻った。 懐の銀の鍵が、総悟のハッキングと共鳴して、青白い電光を放ち始める。 「……助かったわ、二人とも」 ことねはゆっくりと立ち上がり、紅い瞳の群れを睨み据えた。 「ゼロ。あなたは確かにこの街のすべてかもしれない。でも、この『苦味』だけは、あなたのシステムには計算できない。……これは、絶望を知った人間だけが分かち合える、魂の温度なのよ!」 ことねは銀の鍵を虚空へ突き立てた。 キーボードを叩く総悟の指先と、限界まで演算を加速させるミギルの意志が、一本の矢となってゼロの防壁を貫く。 「軍師の命令だったわね……『書き続けろ』って。ええ、書いてあげるわ。あなたという巨大なバグが、いかに虚無であるかを証明する、
「……焼き尽くしただと?」 爽風の顔が怒りで赤黒く染まり、その輪郭がテレビの砂嵐のように激しくブレ始めた。「恩知らずな女め。僕というパトロンを失って、この街で、このシステムの中で生きていけると思うな!」 彼が吠えた瞬間、世界から音が消えた。 美しいはずの藤色の空が、まるでひび割れたガラスのように剥がれ落ちていく。その亀裂の向こう側から溢れ出してきたのは、血のように禍々しい、無機質な紅い光だった。『ことねぇ! 逃げて、早く!!』 突然、街中のスピーカー、サイネージ、さらにはことねの耳元にある通信デバイスから、心臓を跳ね上げさせるような切迫した声が降ってきた。「……ミギル!? 生きていたの?」『ボクの意識は今、三郷の古い防犯システムを中継して、ことねぇの脳内プロテクトを再構築してる! でもダメだ、追いつかない! 爽風の怒り(バグ)をポータルにして、監視者「ゼロ」が直接この階層に潜り込んできたんだ!』 その瞬間、周囲の防犯カメラが一斉に、生き物のような不気味な動きで首をもたげた。 レンズは異常な角度で折れ曲がり、すべての「紅い瞳」が、逃げ場のないことねの心臓を射抜く。「……見つけた」 スピーカーから流れたのは、ミギルのものでも爽風のものでもない、感情の死に絶えた合成音声。 爽風の背後に、巨大で幾何学的な影が這い出してきた。それは人の形をしていない。無数の監視レンズとサーバーユニットの集合体――この街の管理システムそのものである「ゼロ」の端末が、実体化していく。「天咲琴乃。君は情報を知りすぎた。この街の『輪廻』は、救済ではなく、完璧な管理だ。システムの調和を乱すバグである君をデリートし、その記憶データを初期化する」 ゼロの宣言とともに、ことねの足元の地面がデジタルな砂となって崩れ始める。「ミギル、バックアップは!?」『やってる! でも、あいつの演算速度はボクの数万倍だ……っ! 拠点の総悟も今、物理的なハッキングでゼロの注意を逸らそうとしてるけど……このままじゃ、ことねぇの「銀の鍵」のアクセス権を凍結されちゃうよ!』 紅い光に包囲され、視界がノイズで塗りつぶされていく。 爽風はもはや、ゼロの意志を代弁するだけの操り人形と化していた。彼が積み上げてきた「社長」としての権力も、「金枠」という支配も、すべてはゼロがことねを
「これが、聖女のフリをした君の正体だ」 爽風(さわかぜ)の指先が虚空をなぞると、街中のスクリーンが一斉にノイズを吐き出し、醜悪なデータを映し出した。そこには、かつて「ゼロ」という男に支配され、不誠実な言葉に惑わされ、言いようのない加害に唇を噛んでいた頃の、ことねの痛々しい記録が並んでいた。「君はこの男と、泥沼のような『LINK』を結んでいた。友情という幻想を餌に、男の影に怯えていた愚かな女……。そんな過去を持つ君が、どの口で魂の救済を語るんだい? 君も、あの男と同類のクズだ。……さあ、その絶望を私に差し出しなさい」 爽風の嘲笑が、無機質な街の喧騒に響き渡る。彼は、ことねが最も隠したいはずの「傷跡」を白日の下に晒すことで、彼女の lighthouse(灯台)としての光を内側から腐らせようとしたのだ。 だが、ことねは微動だにしなかった。 彼女はゆっくりと顔を上げ、街を覆い始めた空を見つめた。 そこには、現実の夜とも、爽風が作り出した偽りの闇とも違う「藤色の淡い紫の闇の空」が広がっていた。それは、苦痛を燃料にして高潔な魂だけが到達できる、天界と地上の狭間に流れる聖なる色。「……それが、あなたの精一杯の攻撃?」 ことねの声は、驚くほど澄んでいた。「確かにその記録は、かつての私よ。不誠実な言葉を信じ、偽りの輝きに惑わされた、愚かな私の残骸。……でも、爽風。あなたは致命的な勘違いをしているわ」 ことねは、胸元に下げた銀の鍵にそっと指を添えた。 脳裏をよぎるのは、あの丘の鳥居で立ち上った、祈りと、焚き火の白い煙。あの時、復讐という負の連鎖を選ばず、自らの意志で縁を断ち切った瞬間の、あの魂の震え。「私はその過去を、隠してなんていない。むしろ誇りに思っているの。その絶望があったからこそ、私は本物の『悪質なLINK』を見切る力を手に入れたのよ」 爽風の笑みが凍りつく。ことねの瞳には、怒りも憎しみもなく、ただ圧倒的な「自己受容」の光が宿っていた。「あの時、卒業を選んだ瞬間に、その過去はもう、私を縛る鎖ではなくなった。……それは、世界を照らす灯台の、一番熱い薪(まき)になったのよ。私が紡ぐ物語の、一番深い真実になったの」 その瞬間、藤色の空から淡い紫の光の粒が降り注いだ。 スクリーンに映し出されていた暗いデータが、その光に触れた途端、まば
「僕がどれだけ、君に心血を注いできたと思っているんだ?」 爽風(さわかぜ)は、暗闇に溶け込むような不気味な笑みを浮かべ、ことねにじりじりと詰め寄った。その声は、かつてことねを惑わせた「誠実なパトロン」の仮面を脱ぎ捨て、支配欲に満ちた毒を帯びている。 彼はことねの活動において「社長」という、誰もが羨む地位に居座っていた。 配信画面を彩る派手な演出、絶え間なく投じられる支援という名のエネルギー。周囲のリスナーたちは、彼を「ライターの最大の理解者」と信じ込み、彼の言葉を盲目的に受け入れている。 「君がこの地位に登り詰められたのは、誰のおかげかな? 私という盾がいたからこそ、君は安心して筆を振るえたはずだ。それなのに、独り立ちした気になって『卒業』だなんて……。随分と裏切りじゃないか」 爽風は、周囲の人間を心理誘導で味方につけていく。 「皆さん、見てください。彼女は成功した途端、一番の功労者を切り捨てようとしている。冷酷なのは、どちらでしょう?」 かつて彼がことねに囁いた「ナンバーワン作家」という甘い罠や、支配のための親切。それらすべてが、今やことねを社会的に孤立させるための、鋭い牙へと姿を変えていた。 ことねの周囲に、疑念と嘲笑の視線が突き刺さる。 爽風がバラ撒いた「偽りの善意」というデータが、街のシステムを汚染し、ことねの居場所を奪おうとしていた。 けれど、ことねは微動だにしなかった。 彼女は、懐に忍ばせた銀の鍵をそっと握りしめた。その金属の冷たさが、かつて自分が陥っていた「支配」の記憶を呼び覚ます。 「……あなたが投じてきたのは、私への応援なんかじゃないわ」 ことねの短い、けれど鋭い一言が、爽風の芝居がかった声を遮った。 「あなたは『社長と部下』という鎖を買っていただけ。私があなたの望む通りに振る舞い、あなたの所有物であり続けるための、支配の代金を払っていただけなのよ」 ことねは、爽風の濁った瞳を真っ直ぐに見つめた。 「あなたは私を『裏切り』と呼ぶけれど、魂の契約に不義理なんて存在しない。私は、あなたの不誠実さを見切った。それだけよ」 ことねの脳裏には、あの丘の鳥居で清められた自分の魂が、今も鮮やかに息づいている。 「あなたがどれほどお金や地位を積み上げても、私