Masuk明治四十一年、秋。植物学者・神坂修五郎は、稀代の園芸家・鏡見久我が建設した「硝子庭園」の内覧会に招かれた。七つの区画に分かれたその庭園には、世界中から集められた有毒植物が配置され、精巧に計算された硝子の屈折が、万華鏡のような美を生み出していた。 翌朝、園芸師・柊木の遺体が中央区画で発見される。完全な密室。死因はストリキニーネ中毒。しかし現場には不可解な点が多すぎた──なぜ彼は扉を内側から施錠したのか? なぜ足跡が不自然なのか? 調査を進める神坂は、植物配置に隠された驚くべき暗号に気づく。錬金術の象徴「ヘルメスの薔薇十字」。そして光の屈折が創り出す「幻の植物」。暗号が示すのは不老不死の霊薬か、それとも──?
Lihat lebih banyak明治四十一年の秋、私は一通の奇妙な招待状を受け取った。
差出人は稀代の園芸家として知られる鏡見久我という人物である。彼の所有する「硝子庭園」の内覧会に招かれたのだ。招待状には次のような文言が添えられていた。
「貴殿の博物学的素養を見込み、この度完成した硝子庭園の鑑定をお願いしたく存じます。庭園には世界中から蒐集した有毒植物を配しており、学術的価値も高いものと自負しております」
私、神坂修五郎は当時、東京帝国大学で植物学を講じる傍ら、警視庁の嘱託として毒物鑑定に携わっていた。そうした経歴から招待を受けたのだろう。
指定された日時に訪れた鏡見邸は、東京郊外の小高い丘の上にあった。洋館の背後に聳える巨大な硝子の構造物は、まるで水晶宮のように陽光を反射していた。秋の午後の光が、その透明な壁面で幾重にも屈折し、虹色の光彩を放っている。近づくにつれ、その壮麗さと同時に、どこか不吉な印象を受けた。美しすぎるものには、常に危険が潜んでいる。
執事に案内され硝子庭園の入口に立つと、そこには既に数名の客が集まっていた。鏡見久我本人――五十代半ばと思しき痩身の紳士――が一人一人に声をかけている。
彼の容貌は印象的だった。切れ長の目は深い知性を湛えているが、同時にどこか常軌を逸した情熱の炎が燃えているように見える。銀色の髪は丁寧に撫でつけられ、黒いフロックコートに身を包んだ姿は、学者というより魔術師を思わせた。
「ようこそ、神坂先生。お待ちしておりました」
久我の声には奇妙な響きがあった。まるで硝子に反響するような、冷たく透明な音質である。その声を聞いた瞬間、私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「本日お集まりいただいたのは、それぞれの分野で卓越した方々です。医師の橘先生、化学者の芦名博士、そして植物画家の椿夫人」
私は他の客に会釈した。
橘は四十代の温厚そうな医師で、丸い眼鏡の奥の目は穏やかだった。彼は東京の下町で開業しており、庶民の信頼が厚いと聞いている。
芦名は六十過ぎの白髪の学者で、背を丸めた姿からは長年の研究生活が窺える。帝国大学の化学科で教鞭を執っており、特に有機化合物の分析において第一人者として知られていた。
椿夫人は三十代の美しい女性だった。深い緑色のドレスに身を包み、繊細な顔立ちには芸術家特有の鋭敏な感性が宿っている。彼女の描く植物画は写実的でありながら、どこか幻想的な美しさを持つことで評判だった。
「それから、こちらが庭園の管理を任せている園芸師の柊木です」
久我が紹介したのは、四十代の無骨な男だった。日焼けした顔に鋭い目を持ち、土の匂いがした。粗末な作業着姿ではあったが、その立ち姿には独特の威厳があった。植物と共に生きてきた者だけが持つ、自然への深い理解が滲み出ている。
「柊木は二十年来、私の植物蒐集に付き合ってくれている。この庭園の植物の配置も、すべて彼と相談して決めたのです」
柊木は無言で一礼した。その目には、久我への深い忠誠と、同時に何か複雑な感情が混じっているように見えた。
「それでは、皆様をお待たせしました。硝子庭園へご案内いたしましょう」
久我が大きな鍵束を取り出した。七つの鍵が連なっている。それぞれに異なる刻印が施されており、惑星の記号のようにも見えた。
それから一年が経った。 私は東京帝国大学で、相変わらず植物学を講じている。時折、警視庁から毒物鑑定の依頼を受けることもある。 しかし、あの硝子庭園のことは、決して忘れることができない。 久我は執行猶予の身で、今も鏡見邸に住んでいる。しかし、硝子庭園には二度と足を踏み入れていないという。 庭園は完全に封鎖され、植物は誰の手入れも受けずに成長を続けている。いずれ、硝子の壁を突き破って外に出てくるかもしれない。 しかし久我は、それを恐れていないようだった。「植物は生きています」 彼は私に手紙で書いてきた。「たとえ人間が管理しなくても、彼らは自分の道を見つける。そして、この庭園が崩壊する時、それは私の罪が許される時かもしれません」 私は時折、鏡見邸の近くを通ることがある。丘の上から、硝子庭園が陽光を反射して輝いているのが見える。 その輝きは美しく、しかし同時に悲しい。 ある日、私は橘医師と偶然再会した。「神坂先生、あの事件以来ですね」 橘は言った。「私はあの日、硝子庭園で何かに気づくべきだったのかもしれません。医師として、柊木の異変に」「あなたの責任ではありません」 私は答えた。「誰も、柊木の本当の思いに気づくことはできなかった」「しかし……」 橘は遠くを見つめた。「美しいものには、必ず代償がある。あの庭園は、それを教えてくれました」 私は頷いた。 美と毒は表裏一体。それは自然の真理だ。そして、知識もまた同じだ。 知を求めることは人間の本質だが、それが過ぎれば狂気となる。 賢者の石。不老不死。人間は何千年もの間、それを追い求めてきた。 しかし、真の不死とは何か? 私は今、一つの答えを持っている。 それは、記憶の継承だ。 鏡見久明の精神は、硝子庭園という形で残った。柊木の情熱も、その庭園の中に封じ込め
事件から一ヶ月後、私は再び鏡見邸を訪れた。久我に頼まれて、最後の調査をするためだ。 久我は以前より痩せ、老け込んでいた。しかし目には、どこか安堵したような光があった。「神坂先生、本当に申し訳ありませんでした」 久我は深々と頭を下げた。「私の愚かな執念が、柊木を死に追いやってしまった」「あなたを責めるつもりはありません」 私は答えた。「柊木は自らの意志で、あの選択をした」「しかし、もし私が最初から真実を明かしていれば」「真実は複雑です」 私は言った。「あなたの暗号は、確かに座標を示していた。しかし同時に、錬金術的な儀式の手順も示していた。どちらも正しく、どちらも間違っている」 私は硝子庭園の図面を久我に返した。「この庭園は、記憶の宮殿でした。あなたの兄の記憶、柊木の情熱の記憶、そして錬金術という幻想の記憶。すべてが硝子の中に封じ込められている」 久我は硝子庭園を遠くから眺めた。陽光を反射して輝く、美しい墓標を。「神坂先生、最後に一つだけ教えてください」「何でしょう」「霊薬は、本当に存在しないのでしょうか?」 私は長い沈黙の後、答えた。「それは誰にも分かりません。錬金術師たちは何百年も探求し続けた。しかし見つからなかった——いや、見つけられなかった。なぜなら、彼らは間違った場所を探していたからかもしれません」「間違った場所?」「霊薬は物質ではなく、認識かもしれない。死を超越する方法は、肉体の不死ではなく、記憶の継承かもしれない。あなたの兄は死にました。しかし、この庭園という形で、その精神は残り続ける」 久我は微笑んだ。悲しく、しかし安堵したような微笑みだった。「そうかもしれませんね」 私たちは並んで、硝子庭園を見つめた。 しかし、私にはまだ一つ、久我に話していないことがあった。 それは、柊木の死の真相についてだ。
その夜、私は自宅で硝子庭園の図面を広げ、詳細な分析を行った。 植物の配置、光の屈折率、幾何学的図形。すべての要素を総合的に検討する。 ヘルメスの薔薇十字。七つの惑星記号。そして中心の六芒星。 これらは確かに錬金術の象徴だ。しかし、それだけだろうか? 私は別の可能性を考え始めた。 もし、この暗号が二重の意味を持っているとしたら? 表面的には霊薬の製法を示しているように見える。しかし、その下に別の意味が隠されているとしたら? 私は植物の配置を数値化してみた。各植物の三角形の頂点の座標を、庭園全体を基準とした数値で表す。 そして、それらの数値を特定の順序で並べると—— 数字の羅列が現れた。 最初は意味が分からなかった。しかし、よく見ると——「これは……座標だ」 北緯と東経を示す座標だった。 私は地図を広げた。その座標が示す地点は—— 鏡見邸の敷地内だ。正確には、硝子庭園の真下。 私は翌朝、すぐに鏡見邸へ向かった。 久我に会うと、単刀直入に尋ねた。「久我さん、あなたには双子の兄弟がいましたね?」 久我は顔色を失った。「……どうして、それを」「調べました」 私は言った。「三十年前、あなたの兄、鏡見久明氏が失踪した。公式には失踪ですが、真実は違う」 久我は立ち尽くした。やがて、力なく頷いた。「三十年前、兄は死にました」「あなたが殺した」「いいえ!」 久我は強く首を横に振った。「私は殺していません。兄は自分で……」 彼は椅子に座り、顔を覆った。「私の兄、久明は、同じく錬金術の研究者でした。いや、私以上に熱狂的だった。彼は実際に賢者の石を作ろうとして
私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。「柊木は、それを実行しようとした……」「まさか」 久我は蒼白になった。「そんなはずは。暗号は完全には解読されていないはずです。私でさえ、まだ『七つの毒』が何を指すのか分からないのに」「しかし柊木は、自分なりの解釈をした」 私は推理を続けた。「彼はストリキニーネを『七つの毒』の一つと考えた。そして、幻の植物が見える地点——中央区画の中心——で、その毒を摂取すれば、何かが起きると信じた」「しかし、それは……」「死にます」 私は断言した。「ストリキニーネは致死性の毒です。解毒剤もありません。摂取すれば、確実に死にます」 久我は椅子に崩れ落ちた。「私の責任です。私が暗号に執着したから、柊木は……」 しかし、私にはまだ疑問があった。 柊木は本当に、自分の意志で毒を摂取したのか? それとも、誰かに強要されたのか? あるいは—— 私は新しい可能性を考えた。「久我さん、ストリキニーネの木の土壌について、何か特別な処理をしていますか?」「え?」 久我は顔を上げた。「土壌? いえ、特には……」「本当に?」 私は厳しい目で彼を見た。「私が調べたところ、その土壌には通常ではありえない量の窒素化合物が含まれていました。そして、特殊な菌類も」 久我は観念したように頷いた。「……はい。土壌を調整しました」「なぜ?」「ストリキニーネの毒性を高めるためです」 久我は小さな声で言った。「サン=ジェルマンの文書には、『超高濃度の毒』が必要だと書かれていました。通常の植物では足りな