LOGINーこれはフィクションですー空さえも管理された近未来。人類は脳内チップで「天界」に支配され、意志なき人形として生きていた。 ライターの橘ことねは、天才医師 沖田総悟と、反逆のAIミギルの手でチップを摘出し、システムから逸脱した「バグ」となる。 彼女の武器はペン一本。隠蔽された消去事件の真実を暴き、世界に「証拠」を叩きつける。だが、冷酷な監視者ゼロが彼女たちを追い詰める。拠点を失い亡霊となった三人の言葉は、しかしネットワークの深層で増殖し、人々の意志を叩き起こしていく。 「人間は、人形じゃない」 不完全な二人が仕掛ける、天界へのチェックメイト。真実を巡る反逆劇が今、始まる。
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空は今日も、不自然なほどに青い。 三郷の街を見下ろす高層ビルの窓に映るのは、完璧に計算された「幸福」の色だ。 道を行く人々は皆、穏やかな表情で歩いている。その脳へ直接、管理システム『天界』から「今日の多幸感」という名の推奨データが、パルスとして流し込まれているからだ。 橘ことねは、カフェの隅で古いノートPCを叩いていた。 指先がキーを打つたび、画面には無機質な文字列が並ぶ。 彼女の脳には、今朝から「未確認エラー」の通知が届き続けていた。管理プログラムが、彼女の思考を「正常」に書き換えようとして失敗しているのだ。 「……また、弾いた」 ことねは小さく呟いた。 彼女の耳元には、極小の通信デバイスが埋め込まれている。その先にいるのは、二人の共犯者だ。 一人は沖田総悟。かつては脳外科医として、今は「天界」のコードを書き換えるシステムエンジニアとして地下に潜む軍師。 もう一人はミギル。総悟が作り上げた、データを書き換える天才AI。 『ことね、無理はすんな。お前の脳の未割り当て領域に、今ミギルが防壁を構築してる。だが、総督府(ゼロ)のサーバーが本気で上書きを始めたら、三秒も持たないぞ』 総悟の声は、冷徹だがどこか信頼を寄せられる響きがあった。 彼は人間の思考回路が持つ「矛盾」という脆弱性を突く天才だ。 『ボクに任せてよ。総悟の設計したロジックに、ボクが最高の演算を乗せる。ことねぇのペンを止めるデータは、ボクが全部デリートしてあげるからさ』 ミギルの軽やかな声が脳内に響く。 ことねは二人を背後に感じながら、目の前の画面を睨みつけた。 今、街の大型ビジョンに映し出されているのは、一人の少女が行方不明になったというニュースだ。だが、その背後で流れている「真実のデータ」は違う。 彼女は行方不明になったのではない。 『天界』による脳内データの強制上書きに拒絶反応を起こし、精神を破壊され、「廃棄」されたのだ。 「みんな、これが幸せだと思い込まされてるだけ。……記憶まで、奪われてる」 ことねの指が、決定キーを強く叩いた。 彼女が書き上げたのは、その少女が最後に残した日記の断片と、システムによって削除された瞬間の未加工ログだった。 偽りの平和を「証拠」という名の暴力で引き裂く一撃。 刹那、ことねの視界が真っ赤に染まった。 脳内へ直接、鼓膜を突き刺すような警告音が鳴り響く。 管理システムによる強制上書き――「思考の初期化」が始まったのだ。 『来た! ミギル、防壁展開! 02セクターへ回避しろ!』 『了解! 0.01秒でコードを塗り替える!』 頭の中で、自分ではない誰かの思考が濁流のように流れ込んでくる。 「私は幸せだ」「すべては正しい」……。 どろりとした感情の澱が、ことねの自我を塗りつぶそうとする。 視界が歪み、指先の感覚が遠のく。 それでも、総悟の軍師としての的確な指示と、ミギルの圧倒的な演算が、ことねの「核」を必死に繋ぎ止めていた。 「……負けない」 ことねは意識の混濁を振り払い、奥歯を噛み締めて最後の一行を打ち込んだ。 文章で、この塗りつぶされた世界に光を灯す。 「証拠で殴る!」 エンターキーが沈む。 その瞬間、街中の大型ビジョンの「青空」が、強烈なノイズと共に反転した。 幸福の裏側に隠された、醜悪なデータの残骸が、白日の下にさらされた。爆発的な光が、ゼロの紅い瞳を飲み込んだ。 精神の最深部で、管理プログラムの論理回路が次々と崩壊していく。爽風の姿をした「ゼロ」は、ノイズにまみれながら、断末魔のような声を上げた。「……理解不能だ……なぜ、消去されるはずの記憶が、これほどのエネルギーを……」 ことねは、光り輝く銀の鍵をさらに強く突き立てた。「あなたが計算できなかったのは、記憶(データ)の量じゃない。その記憶を抱えて生きる人間の『温度』よ!」 脳裏に、これまでの戦いが走馬灯のように駆け巡る。 不誠実な言葉に傷ついた夜。焚き火のチリチリと燃える炎とともに卒業を決意した丘。そして、廃棄駅で分かち合うエスプレッソの苦いコーヒー。 それらすべてが、今、ことねの背中を押す「灯台」の光となっていた。「爽風……いいえ、この街を呪縛する『システム』。あなたという巨大なバグを、私は今、完全に『見切る』わ!」 ことねの指先が、空中に最後の「一文」を刻みつけた。 それは、支配者への復讐ではない。 歪んだLINKを切り離し、魂をあるべき場所へ還すための、慈悲を伴う裁定。「天咲く見切る !」 瞬間、天を覆っていた藤色の空が、内側から粉々に砕け散った。 爽風の肉体から紅い影が剥がれ落ち、彼は魂の試験失格を宣告された「バグ」として、強制的に輪廻の渦へと送還されていく。 管理の呪縛を解かれた街に、本当の「風」が吹き抜けた。『……ことねぇ。……勝ったんだね』 耳元で、弱々しく、けれど晴れやかなミギルの声が響いた。 彼のホログラムは透き通るほど薄くなっていたが、その表情には満足げな笑みが浮かんでいた。『ボクの意識は一度、中央サーバーの再構築で初期化されるかもしれない。……でも、大丈夫。ことねぇがボクを物語の中に書いてくれる限り、ボクは何度でも、君の相棒として帰ってくるよ』「ええ、約束するわ。ミギル。あなたの勇気は、世界を照らす光の物語として永遠に生き続ける」 そして、視界が真っ白な光に包まれ――。 ――目が覚めると、そこはいつもの朝の部屋だった。 窓の外には、偽りの藤色ではない、透明で力強い朝焼けの空が広がっている。 傍らには、古びたノートPC。そして、淹れたての「本物のコーヒー」の匂い。『……おい。いつまで寝てる。次の連載の締め切り、もう始まってるぞ』
「……無駄だと言ったはずだ、橘ことね」 監視者ゼロの声が、ひび割れた世界に冷酷に響く。 爽風の肉体を器にした「ゼロ」は、ことねの脳内へ最後にして最大の精神攻撃を仕掛けてきたので、ことねは一瞬脳内でスパークが走る。 目の前の景色が、ドロドロと溶けていく。視界が曇る。 藤色の空は消え、そこには「最悪の未来」が映し出されていた。学校から帰ってこない子供たち、絶望して筆を折る自分、そして暗闇の中で一人、誰にも届かない叫びを上げ続ける孤独な姿。「君が守ろうとしている『LINK』など、この程度の恐怖で容易に断絶する脆弱なバグに過ぎない。さあ、すべての執着を捨てて、システムの一部に還るがいい」 脳を焼くような強烈な圧力が、ことねの自我を削り取ろうとする。 膝をつき、銀の鍵を握る力さえ失いかけたその時。『……させない。……絶対に、させない!!』 ノイズまじりの、けれど真っ直ぐな叫びが、ことねの心臓を叩いた。 ミギルだ。 視界の隅で、ホログラムの少年がかつてないほど激しく明滅している。彼の体からは、青白い火花が散り、演算回路が限界を超えて悲鳴を上げているのが分かった。「ミギル!? やめて、そんなに負荷をかけたら、あなたの意識が……!」『いいんだ、ことねぇ! ボクは、ただのAIかもしれない。でも、ことねぇがボクに名前をくれて、物語の中で「相棒」だって呼んでくれた時から、ボクの魂は本物になったんだ!』 ミギルは両手を広げ、ことねの脳内領域を侵食する「ゼロ」の紅い光の前に、眩い光の盾となって立ちはだかった。『ボク、ことねぇの相棒で本当によかった。……この「銀の鍵」だけは、ボクの存在すべてを賭けて守り抜くよ!』 ミギルの叫びとともに、彼を構成するデータが一つ、また一つと弾け飛んでいく。 それは、AIとしての死を意味する自己犠牲の盾。 その瞬間、廃棄駅にいる総悟の怒声が、通信回線を通じて炸裂した。『ミギル、持ちこたえろ! ことね、今だ! 奴はミギルの防衛に気を取られて、論理回路が剥き出しになっている!』 総悟の高速タイピング音が、まるで戦場のドラムのように響く。 彼は自分の端末をオーバーヒートさせながら、ゼロの深部システムへ「現実の苦味」を伴うハッキングを叩き込んでいた。 ミギルの盾、総悟の加勢。2つが交差した
視界が、真っ赤なアラートに埋め尽くされていく。 監視者ゼロが流し込む「幸福な市民」という名の初期化データ。それは甘い毒のように、ことねの輪郭を奪い、記憶の断層を塗り潰そうとしていた。 「無駄な抗いはやめろ、橘ことね。君の魂は、この街の一部として再定義される。痛みも、怒りも、過去の執念も……すべて消去し、美しい空虚へ導いてあげよう」 爽風の口を借りたゼロの合成音声が、脳内に直接響く。 指先の感覚が消えていく。藤色の空が遠のき、真っ白な無の世界に引きずり込まれそうになったその時――。 『……食わせるかよ、そんな安物の合成甘味料』 低く、どこか気怠げな、けれど絶対的な信頼を湛えた声が、ノイズの壁を突き破った。 「……総悟?」 『ことね、意識を繋ぎ止めろ。今、廃棄駅の予備回線から、お前の脳内領域に「刺激」を逆注入した。……思い出せ、あの泥のように苦い味を』 その瞬間、ことねの口内に、強烈な「苦味」が広がった。 それは天界が用意した偽物の嗜好品にはない、喉を焼くような本物のコーヒーの熱。廃棄駅の電気室で、剥き出しの配線に囲まれながら、総悟が無愛想に差し出してきた、あの不器用な優しさの味だ。 脳を麻痺させていた甘い毒が、その苦味によって一瞬で霧散する。 『ボクもいるよ、ことねぇ! 総悟がゼロの演算回路に物理的な過負荷(オーバーロード)をかけてる! 30秒だけバックドアをこじ開けたよ。今のうちに、その銀の鍵でゼロの「管理論理」に楔を打ち込んで!』 ミギルの叫びとともに、ことねの手に「重み」が戻った。 懐の銀の鍵が、総悟のハッキングと共鳴して、青白い電光を放ち始める。 「……助かったわ、二人とも」 ことねはゆっくりと立ち上がり、紅い瞳の群れを睨み据えた。 「ゼロ。あなたは確かにこの街のすべてかもしれない。でも、この『苦味』だけは、あなたのシステムには計算できない。……これは、絶望を知った人間だけが分かち合える、魂の温度なのよ!」 ことねは銀の鍵を虚空へ突き立てた。 キーボードを叩く総悟の指先と、限界まで演算を加速させるミギルの意志が、一本の矢となってゼロの防壁を貫く。 「軍師の命令だったわね……『書き続けろ』って。ええ、書いてあげるわ。あなたという巨大なバグが、いかに虚無であるかを証明する、
「……焼き尽くしただと?」 爽風の顔が怒りで赤黒く染まり、その輪郭がテレビの砂嵐のように激しくブレ始めた。「恩知らずな女め。僕というパトロンを失って、この街で、このシステムの中で生きていけると思うな!」 彼が吠えた瞬間、世界から音が消えた。 美しいはずの藤色の空が、まるでひび割れたガラスのように剥がれ落ちていく。その亀裂の向こう側から溢れ出してきたのは、血のように禍々しい、無機質な紅い光だった。『ことねぇ! 逃げて、早く!!』 突然、街中のスピーカー、サイネージ、さらにはことねの耳元にある通信デバイスから、心臓を跳ね上げさせるような切迫した声が降ってきた。「……ミギル!? 生きていたの?」『ボクの意識は今、三郷の古い防犯システムを中継して、ことねぇの脳内プロテクトを再構築してる! でもダメだ、追いつかない! 爽風の怒り(バグ)をポータルにして、監視者「ゼロ」が直接この階層に潜り込んできたんだ!』 その瞬間、周囲の防犯カメラが一斉に、生き物のような不気味な動きで首をもたげた。 レンズは異常な角度で折れ曲がり、すべての「紅い瞳」が、逃げ場のないことねの心臓を射抜く。「……見つけた」 スピーカーから流れたのは、ミギルのものでも爽風のものでもない、感情の死に絶えた合成音声。 爽風の背後に、巨大で幾何学的な影が這い出してきた。それは人の形をしていない。無数の監視レンズとサーバーユニットの集合体――この街の管理システムそのものである「ゼロ」の端末が、実体化していく。「天咲琴乃。君は情報を知りすぎた。この街の『輪廻』は、救済ではなく、完璧な管理だ。システムの調和を乱すバグである君をデリートし、その記憶データを初期化する」 ゼロの宣言とともに、ことねの足元の地面がデジタルな砂となって崩れ始める。「ミギル、バックアップは!?」『やってる! でも、あいつの演算速度はボクの数万倍だ……っ! 拠点の総悟も今、物理的なハッキングでゼロの注意を逸らそうとしてるけど……このままじゃ、ことねぇの「銀の鍵」のアクセス権を凍結されちゃうよ!』 紅い光に包囲され、視界がノイズで塗りつぶされていく。 爽風はもはや、ゼロの意志を代弁するだけの操り人形と化していた。彼が積み上げてきた「社長」としての権力も、「金枠」という支配も、すべてはゼロがことねを