「桜井綿、俺がお前を愛するなんて妄想するな!」
男は彼女の首を掴み、ソファに押しつけながら憎々しげに叫んだ。
「もう限界だ。おとなしくしてろ。半年後、絶対離婚してやる!」
「陸川嬌を突き落としたのは私じゃない……彼女が自分でプールに落ちたの!」
桜井綿の声はか細く震え、全身びしょ濡れのまま、痩せた体が絶えず小刻みに揺れていた。先ほど水に落ちた恐怖から、まだ抜け出せずにいた。
「言い訳はやめろ!お前は嬌ちゃんと長年の友人だろ?彼女が水を怖がるのは、一番知っているはずだ!」男はさらに力を込める。まるで「嬌に何かあれば、お前も同じ目に遭わせてやる」とでも言うような、凶悪な表情だった。
「長年の友人」――その一言で、彼女の罪は決まった。
綿の瞳は薄く霞み、一筋の涙がゆっくりと頬を伝い落ちた。心が砕ける音が、自分にだけ鮮明に響く。
他の女のために、自分を責めるこの男が夫だなんて――信じたくなかった。
彼女は高杉輝明を四年間愛し、三年間、彼の妻だった。三年前、彼と結婚できると知ったときの喜びは、言葉にできないほどだった。
――だが、輝明と結婚してから知った。
この結婚には最初から、彼の愛なんてなかったのだと。
輝明の母は、たとえ何があっても、彼の想い人である陸川嬌を家に入れないと決めていた。それで綿は、陸川が彼のそばに居続けるための「道具」にされたのだ。
陸川がプールに落ちたとき、みんなが彼女を助けに行き、必死で取り囲んだ。
――けれど。
綿がプールに落ちたときには、誰一人、気にも留めなかった。冷たい水の底で、ただ一人、死にかけていた。輝明は陸川が水を怖がることを覚えていた。けれど、彼女も同じく水を恐れていることは忘れていた。
必死に築き上げた結婚が、ただの空っぽな殻だったと気付いた瞬間、綿は思わず笑ってしまった。ソファに座ったまま、乾いた笑みをこぼす彼女を見て、輝明は軽蔑の色を浮かべる。そして、冷たく言い捨てた。
「……狂ってるな。」
――そう。彼女は、狂っていたのかもしれない。
輝明と結婚するために、彼女は何度も父に逆らい、桜井家を混乱に巻き込み、ついには父と決裂した。その結果、父は病で倒れ、入院することになった。
父は彼女に言った。
「愛してくれない男と結婚しても、苦痛なだけだ。君は、勝てない」
――けれど、彼女は信じていた。
「彼が私を妻に迎えることこそが、最大の承認だ」と。
「彼の心を、いつか愛で溶かせる」と。
そして彼女は父に誓った。
「この結婚は私が勝つ」と。
――だが、彼女は間違っていた。
愛してくれない人の心は、氷のように冷たいのだ。その前では、息をすることすら罪だった。勝敗を決めるのは、彼女ではなく、輝明だったのだ。
ジリリリリ~ン
静かなリビングに、けたたましい着信音が響いた。輝明のスマートフォンが鳴る。
ディスプレイに映し出された名前を見た瞬間、彼の顔から怒りがすっと消えた。
リビングには微かに、電話の向こうの甘い女性の声が漏れている。
輝明は視線と落とし、そばに置いてあったスーツのジャケットを手に取った。険しい表情はすっかり消え、代わりに柔らかな笑みが浮かぶ。
「大丈夫、すぐに行くからね」
綿の息が詰まる。
彼は電話を切ると、ただ綿を一瞥するだけで、何の未練もなく部屋を出て行った。
「輝明……」
掠れた声で男の名前を呼ぶ。少しでも、ほんの少しでも、引き止めたかった。
「私も、水が怖いの……」
その言葉に、輝明は足を止めることすらしなかった。馬鹿げている、としか思わなかった。
嬌が水を怖がるのは、彼が幼い頃誘拐されたあの日、海に落ちて彼を助けようとしたことが原因だった。その出来事は、彼女に深い傷を残したのだ。
一方、桜井綿はダイビングの資格まで持っている。そんな彼女が、水を怖がる?
彼女は、そんなことで彼の気を引けるとでも思っているのか?
愚かにもほどがある!
扉が押し開けられる。その背中を見送りながら、綿の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。これまで一度も輝明に選ばれたことがない。そう気づいた瞬間、心が引き裂かれるように痛んだ。
「……この七年間、少しも私を愛したことがないの?」
全身の力を振り絞り、赤くなった瞳で問いかける。
こんな瞬間でさえも、もしかしたら彼の中に、自分への感情がほんのわずかでもあるのではないかと、どこかで幻想を抱いていた。
輝明はついに足を止め、振り返る。そして冷え冷えとした嘲笑を浮かべた。次の瞬間、彼が放った言葉は、綿にとって何よりの屈辱だった。
「お前が愛を語る資格があるのか?桜井綿、その哀れな顔を引っ込めろ。気持ち悪いんだよ!」
怒りを帯びた鋭い視線と刺さるような言葉が、ナイフのように綿の心をえぐった。
輝明はそんな彼女を見下ろしながら、心の中で嘲笑った。「愛」だと?自分に結婚したい相手が別にいると知りながら、それでもあらゆる手を尽くしてこの結婚を勝ち取った。そんなものを、愛と呼べるとでも?
綿は衣服の端をぎゅっと握りしめると、爪が食い込め、血の気が失せて白くなっていくのがわかった。そのとき、頭に浮かんだのは友人の森川玲奈の言葉だった。
「皆から愛されている桜井家のお嬢様の綿が、なぜ高杉輝明にこだわる必要があるの?」
――なぜ、私は彼に、こんなにも執着してしまったのだろう。
綿自身にも、それがわからなかった。
多分、それは十七歳のとき、いじめられた自分を必死に庇いながら、彼が言ったあの言葉のせいだろう。
――綿ちゃん、怖がらないで。
でも、今になって綿は気づいた。
「怖がらないで」なんて、誰にでも言える慰めの言葉に過ぎなかったのだ。
綿は静かに目を閉じる。涙が頬を伝い、音もなく落ちた。胸の奥にある痛みも、もう麻痺し始めていた。
この三年間、彼女が経験した痛みは、すべて彼女が最も愛した人――輝明からのものだった。
彼の目には、綿は冷酷で残忍な女にしか映っていなかった。彼の想い人を排除しようとする、忌まわしい毒婦として。
七年。
どんなに冷たい相手でも、七年も一緒にいれば多少は信頼を得られるはずだった。けれど、彼は最後まで綿を信じなかった。
ならば、もういい。お互いに傷つけ合うくらいなら、早く終わりにした方がいい。
彼が嫌悪するこの結婚を、彼女ももう続けたくなかった。一分一秒でも、もう耐えられない。
綿は涙を拭い、彼の背中を見つめながら淡々と言った。
「私たち、離婚しましょう」
その言葉が部屋に響き渡った瞬間、輝明の足が、一瞬止まった。彼は驚いたように振り返り、綿を見つめる。彼の目には、一瞬の戸惑いが浮かんでいた。
彼は信じられなかった。綿が、そんなことを言うなんて。
この三年間、彼女はいつも良き妻を演じ、慎重に二人の関係を守ってきた。
どんなに彼が冷たくあしらおうと、どんなにひどい言葉を投げかけようと、彼女は一度も「離婚」なんて言葉を口にしなかった。
これは何の芝居だ?輝明は喉を少し動かし、眉をひそめる。そして、冷たい声で告げた。
「桜井綿、その幼稚な手はやめろ。すぐに病院に行って、嬌ちゃんに謝れ!」
綿は唇を噛み、完全に心が冷え切った。
もういい。彼女は、もう、弱さを捨てる。
深く息を吸い、初めて――トゲのある言葉を口にした。その声は、氷のように冷たかった。
「離婚するって言ってるの。わからないの?」
輝明はその冷たい声に驚き、目を暗くした。
彼女はソファのそばに立っていた。近くにいるのに、二人の間には大きな隔たりがあるように感じられた。
輝明は綿をしっかりと見たのは、久しぶりのことだった。
彼女は以前より痩せ、結婚前のあの明るく美しい姿はもうなかった。今では少し陰りを帯びている。
五月の南城はまだ夏には遠い。
綿はプールに落ち、冷たい水に浸かっていたせいで全身が震えていた。その姿が、どこか痛々しく、みすぼらしくすら見えた。
一瞬、輝明の思いは青春時代に引き戻された。
綿は桜井家で愛されて育ったお嬢様だった。ピアノの腕前も素晴らしく、彼女を追いかける男は数えきれないほどいた。
しかし、綿はただ彼だけを愛し、必ず彼と結婚すると言い張っていた。
その頃、母が病気だった。水仕事をしたことのないお嬢様である綿が、スープの煮込み方を学び、マッサージを覚え、気難しい母の世話を完璧にこなしていた。
正直なところ、当時の輝明は綿を嫌ってはいなかった。むしろ、彼女と結婚することを受け入れていた。
――いったい、いつから変わってしまったのだろう?
彼が「嬌ちゃんとしか結婚しない」と決めて、それでも綿があらゆる手を尽くして彼と結婚しようとした、あの時からだ。
輝明は薄く唇を閉じ、低い声で言った。
「離婚を持ち出せば、俺が謝るとでも思ったのか?」
普通なら、綿が離婚を望むと聞けば、喜ぶべきなのだろう。
なのに、彼女の顔を見ていると、なぜか胸が詰まるような感覚に襲われた。
「よく考えたのか。本当に離婚するんだな?」
輝明は綿を睨み、初めて彼女が遠い存在に思えた。
心を尽くして手に入れた結婚を、彼女は本当に捨てるつもりなのか?
輝明はスーツに身を包み、すらりとした長身を誇っていた。端正な顔立ちはひときわ目を引く。特に、漆黒に輝く深い切れ長の目。一重でありながら、冷たさと妖しい魅力を宿っている。
この顔に惹かれ、綿は離れられなくなった。
彼との結婚を続けるために、彼女は何度も冷たい態度に耐え、陸川嬌の存在にも目をつぶった。彼女はこの結婚に対して、誠実だったと自負していた。
――けれど。
結婚は双方向のものだ。一人で支え続けることなんて、できない。
もう、操り人形のように縛られるのはごめんだ。そして、愛し合う二人を引き裂くことにも、疲れた。
「私はもう、答えを出したわ」
綿は微笑みながら言った。その顔には、どこか穏やかな表情が浮かんでいた。
輝明の眉間がひくつく。握りしめたジャケットに、無意識に力をこもる。心の奥底から湧き上がる、不快感と苛立ちが叫んでいる。
「あなたを七年間愛し続けたけれど――」
「高杉輝明、私は負けたの」
綿は涙を飲み込み、心の痛みに耐えながらも、静かに笑っていた。
負けたのだ。彼の心を手に入れることも、溶かすこともできなかった。
以前は、こんな結末なんて想像もしなかった。でも今は、それを認めるしかない。
輝明は彼女の言葉を聞き、胸の奥で苛立ちが膨れ上がるのを感じた。
「……好きにしろ」
どうせ、またいつもの駄々こねだろう。数日無視していれば、また何事もなかったかのように戻ってくる。
バタン――
ドアが勢いよく閉められる。
綿は力が抜けたようにソファへ崩れ落ち、苦笑を浮かべた。
七年間の夢は、もう終わりにしなければならない。
彼女は静かにスマホを取り出し、ある番号を押した――
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