無事に新年度の初回講義を終えてから、一週間が経過した。
理玖の一年生の講義は基本が月曜日の午後、追加で金曜日の午前に枠が設けられている。
春は週二回で講義が組まれているが、夏頃になれば週に一回でペースが定まる。
(去年は夏前に、すっかり学生が減ってたけど。今年はどうかな)
手応えとしては、去年より熱心な学生が多い印象だ。ちょっと嬉しくなった。
午前中の講義でも、質問が多くて楽しかった。
(次回以降は質問の時間を多く設けよう。そういえば、積木君がパワポを資料で欲しいっていっていたっけ。どうせなら毎回、配布しようかな。晴翔君に相談して、準備してみよう)
去年は考えなかった工夫をする気になる。
ワクワクと考えていたら、あっという間に昼になった。
鞄の中の弁当を探す。
いつも弁当箱を入れている小さめの保冷バックが見当たらない。
「お弁当、忘れてきちゃった……」
鞄に入れたような記憶があるが、気のせいだろうか。
朝は眠いから、自分の行動に自信がない。
どんなに探しても見つからないので仕方がなく、学食に行くことにした。
白衣を脱ぐと、財布を持って、外に出た。
研究室のドアに鍵を差し込む。うまく回らない。
慶愛大学は歴史のある学校だが、その分、建物も古い。
数年前の建直しで学生棟は最新の建物らしいが、理玖の研究室がある第一研究棟は大学の中で最も古い建物だ。
「趣があって良いかもしれないけど、鍵が昭和のまま時を止めてる感じは、いただけないな」
思いっきり蹴り飛ばしたら開いてしまいそうな鍵とドアだ。
ガチャガチャと抜き差しを繰り返す。ドアを手前に引きながら締めたら、何とか締まった。
「折笠先生の研究室がある第二研究棟は綺麗だしスマートキーなのに。この建物だけタイムスリップしたみたいに古い」
しょんぼりしながら愚痴をこぼした。
第一研究棟は規模も小さく、稼働数も少ない。二階は理玖の研究室しか、使用者がいない。五階建ての建物は、三階以上が七割埋まっている。一階は部屋数が少ないからか、誰も入っていない状況だ。
八階建ての第二研究棟と第三研究棟は満室で、入れなかった講師が第一研究棟を使用しているらしい。今時、講師が個室を貰える時点で有難い待遇だが。
(室内はリノベーションしてくれているし、そこそこ広いし、待遇も准教授並みだから、古い程度で文句も言えない)
講師で呼ばれた理玖の待遇は准教授並みというより、研究者の扱いだ。研究の合間に講義を受け持っているといって過言でないくらい、大学職員としての仕事が免除されている。
折笠に無理やり呼ばれたとはいえ、鍵の一つくらいで、文句など言えない。
部屋のついでに鍵もリノベーションしてくれたらいいのに、と秘かに思いながら、理玖は学食のある学生棟に向かった。
(コンビニにしようかな。けど、コンビニに行くには学食の前を通るし、メニュー見て決めようかな)
四月は新入生で学食が込み合う。
学食の前を通らないと、学内にあるコンビニにも辿り着けない。
つまりは人混みの中を抜けること必須だ。
理玖にとっては少しだけ都合が悪い状況が起きやすくなる。
小さく息を吐いて覚悟を決めると、理玖はエレベーターを降りた。
学食のメニューの前には案の定、人だかりができていた。
人の隙間から今日のランチを確認する。
(A定食は既に売り切れか。大人のためのお子様ランチ……、食べてみたかった。B定食は酢豚定食……。うーん、久々にラーメン食べたいけど)
メニューを確認する理玖の後ろの方から、何となく視線を感じる。
「ねぇ、あの人でしょ? WOの権威とか言われてる内分泌の講師」
「えぇ? 若いね。学生かと思っちゃった」
噂話に何となく耳を傾けながらメニューを眺める。
「二十七歳にして日本で随一の研究者らしいよ。大学が売りにしてる感じ。ホームページにもでかでか載ってるし」
「でも内分泌って、そもそもマイナーだって医学部の彼が言ってたよ。今、流行のWOだから持て囃されてるだけだって」
「そうなんだ。てか、彼氏できるの早くない? いつの間に出会ったわけ?」
女子学生の興味は友人の恋人に向いたらしい。
とりあえず一つ、息を吐く。
(あの程度はいつもの感じだけど。やっぱりコンビニかな。視線と雑音がうるさい)
何となくチラチラと視線を向けてくるのは、噂をしていた女子学生だけではない。
視線にもうんざりするが、声を掛けられたりしたら、もっと面倒だ。
歩き去ろうとした理玖に、後ろから声が掛かった。
「向井先生? 学食って珍しいですね。いつもお弁当なのに」
晴翔がいつもの様子で話し掛けてくれた。
胸に安堵が降りた。
「うん、持ってきたつもりが、鞄に入っていなくて。忘れちゃったみたい」
一際、大きな学生集団が学食に歩いてきた。
「あ、有名人がいる」
「有名人なんか、この大学にいんの?」
「WOの権威とか呼ばれてる先生、大学のホームページにでっかく紹介ページ載ってた」
「ああ、あれか。学部違うし興味ないけど。サインとかもらったら売れんのかな」
「売れねぇだろ。只の学者だし。大学が売りにしてるだけだし」
仲間内のひそひそ話というのは、存外漏れ聞こえるものだ。
他意のない会話も、理玖にとっては鬱陶しい雑音に感じる。
晴翔の目が、ちらりと集団に向いた気がした。
「定食、売り切れているみたいだし、コンビニに行こうかな」
「だったら、今日は俺に付き合ってくれません? オススメがあるんです」
コンビニに向かって歩き出した理玖の腕を晴翔が掴んで歩き出した。
ドキリとしたが、引っ張られるまま理玖は歩き出した。
「空咲君、オススメって? どこに行くの?」
「行ってからのお楽しみ」
振り返ってニコリとした晴翔の王子様スマイルがあまりに格好良くて、理玖はそれ以上、何も言えずに腕を引かれて歩いた。
「二人には他にも、栗花落さんを守ってもらう仕事があります。彼にはRISEに潜入捜査してもらいますから」 國好が、あからさまに顔を顰めた。「理玖さん、流石にそれは酷すぎます。あの状態の栗花落さんをRISEに行かせるなんて」 鈴木のフェロモンに犯されて意に反した決断をしていた栗花落を、國好の名を呼んでいた栗花落を、理玖は見ていない。 あの姿を見たら、そんな提案はできないはずだ。「恐らく、正気を戻した栗花落さんは自分からRISEに行くでしょう。退職届を出してね。僕は栗花落さんを失う気はない。今の彼が出来得る仕事を宛がうべきです。RISEへの違和感のない潜入は、今の彼にしかできません」 理玖は國好を見詰めた。 國好の顔に戸惑いが浮いている。「しかし、鈴木のフェロモンで正気を失えば、臥龍岡の操り人形になりかねません」「それも込みです。RISEには佐藤さんがいます。本気の犯罪に栗花落さんを巻き込みはしません」 國好の顔から、否定の色が消えた。「恐らく、RISEでの栗花落さんの扱いは人質止まりです。臥龍岡先生が栗花落さんを連れ戻したい本当の理由は、彼の口から実体験が語られることの阻止。リアルな現実をこれ以上、僕らに知られないために、栗花落さんに自分の意志でRoseHouseに恭順させたいんです」 晴翔は、鈴木とのさっきのやり取りを思い出していた。(栗花落さんを通して理玖さんに、ある程度の情報を得させようとしたけど、思った以上に栗花落さんが突っ込んだ事実を知っていて、それを理玖さんに話してしまったから。これ以上は放置できないと考えたのか) 秋風から栗花落礼音の存在を聞いて調べるのは臥龍岡にとっては簡単だ。 晴翔を呼び出す前に、栗花落をレイ
「小林君のスパイ活動のお陰で、色々知れて助かったよ。恐らく秋風君は今も鈴木君のフェロモンで夢の中だ。そうなると予想していたから、昨日のうちに小林君に助けを求めた。小林君が蘆屋先生にヘルプするとも予想していたでしょうね」 小林が満足そうに得意げな顔をした。 理玖の目が蘆屋に向く。「折笠先生なら、どうすると思いますか?」 理玖の問いかけに、蘆屋が頭を掻いた。「放ってはおかないだろ。折笠にとって臥龍岡先生も圭も大事な愛人だ。薔薇の園の呪いを解くために自殺したのに、これじゃ死に損だからね。まだ死んでないけど」「どういう意味です?」 眉間に皺が寄ったのに、自分でもわかった。「RoseHouseやマザーの教えっていう呪縛を解いてあげたかったんだってさ。孤児とはいえ施設の子供に人殺しさせようとする躾が正しいわけないだろ。だから死んで、わからせてやろうと思う、とか言ってね。いつもの冗談だと思って聞き流したけど、まさか本気だったとは俺も思わなかったよ」 蘆屋の話し方は怠そうだが、表情が悲痛で、晴翔は息を飲んだ。(臥龍岡先生や鈴木君が安倍忠行のクローンだってことも、RoseHouseの実態も、蘆屋先生は知らないんだ。だから孤児って思ってる。いくら友人でも、流石にそこまでは話さないか) 本人たちが間接的な協力者といっているくらいだ。 核心に迫る話はしなかったのだろう。(安倍晴子は自分の子に人殺しをさせようとした。事実はさらに重い) 頼りにしていた大事な人を失っても、臥龍岡は止まらなかった。 目は醒めていないのだろう。 蘆屋がこうして動き出したのも、聞き流してしまった自責なのかもしれない。
「昨日、秋風君に? もしかして、栗花落さんのこと?」 それはつまり、秋風が今日の作戦を悩んでいた証であり、RISEのやり方に疑問を持っている証だ。 小林が眼鏡を上げながら深く頷いた。「秋風はこのままRISEにいるべきか、迷っています。だけど、抜け出せない。彼のしがらみは、髪の毛についてしまったガムよりしつこい。もしくは難易度マックスの知恵の輪です」 分かり易いが、その例えはどうだろうと思った。「小林君は昨日、秋風君にこう相談されたそうだよ。もし自分が栗花落礼音を犯してしまったら、向井先生に助けてって伝えてほしいって」 理玖が小林の話を補足してくれた。「秋風にとって、栗花落さんは大事な友達だそうです。だけど、同じくらい臥龍岡先生や圭が大事なんだそうです。味方でいたいけど、栗花落さんを巻き込むようなやり方だけはしたくないと、そう言っていました」 小林の話に、晴翔は唇を噛んだ。「臥龍岡先生なら、栗花落さんに手を出してくるだろうと、僕は考えていたけど。秋風君にとって、栗花落さんが最後の一線だったようだね」 理玖の言葉に余計、心が詰まった。 秋風もまた、自分の心を潰してRoseHouseに貢献している。「盗聴器やICレコーダーは、その為に?」 晴翔は蘆屋を振り返った。「小林君がやってみたいって、しつこいからさぁ。自分のサークル室に仕掛けるなら違法じゃないし、あくまで遊びのつもりでね。まさか今日の午前中にあの場所でセックスしたり脅迫めいた話をする人がいるなんて思わないだろ」 ふいっと顔を逸らして、蘆屋がべっと舌を出した。「ジェームズ・ボ
部屋の中に入ると、理玖と國好が待機していた。 思わず気まずくて、目を逸らしてしまった。「理玖さん、國好さん……、勝手に動いて、すみません」 歩み寄った國好が、晴翔の背中から栗花落を降ろした。「いいえ。白石襲撃に続き、大事な時に場を離れた俺の失態です。すみませんでした」 栗花落を抱きかかえたまま、國好が頭を下げた。「いえ……。國好さんが理玖さんに付いているって知っていて、俺が出ていったんです。もう少し早くに戻られていたら、俺が困ってました」 理玖に付いていた國好が晴翔を迎えに戻ってから一緒に講堂の片付けに向かう予定でいた。 タイミングとしてはギリギリだったろう。 國好が悔しそうに首を振った。「しかも空咲さんは栗花落を助けるために向かってくださった。警察官が一般人に迷惑をかけるなど、言語道断です」 國好が悔しそうに栗花落を見詰める。 栗花落の顔に理玖が手を伸ばした。「僕のフェロモンがもう少し効果があれば良かったんですが。二日も経つと流石に無理だったみたいだね」 フェロモンは短時間で単発的な効果しかないと、理玖は前に話していた。 中々フェロモンが効かなかったと話していた鈴木の言から考えれば、理玖が保険でかけた鎮静フェロモンが全く効果がなかったわけではないのだろうが。助けるには至らなかった。「俺と会う前に鈴木君のフェロモンを相当、吸わされたみたいで。その影響で栗花落さんは警官をやめてRISEに入ると、RoseHouseを守ると話していました」 國好の顔が更に悔しそうに歪んだ。
理玖に頼まれて七不思議解明サークルについて調べていた晴翔が、ギリギリ覚えていた情報。 顧問の蘆屋道行はnormalで、医学部の教授であること。 サークル長の小林裕真はonlyで、RoseHouse出身者で秋風と仲が良いこと。 その他のサークル員四名はRoseHouseとは関わりがないWOだったこと。 「どうして蘆屋先生が、ここに……」 鈴木との話し合いが終わった頃合いでやってきて、理玖に電話連絡をしていたことも。 ICレコーダーを手にしている状況も、全くわからない。 混乱する晴翔に向かい、蘆屋が指をさした。「とりあえず、ずらかるから。その子、背負って一緒に来い。この部屋、鍵かけにゃならん」「はい……」 敵なのか味方なのかも、よくわからない。 だが今は、言う通りにするしかない。 蘆屋に手を借りながら栗花落を背負うと、晴翔は部屋を出た。「俺が君らを見付けて部屋に鍵を掛ける分には問題ないんだよ。今のこの状況なら、君が俺の部屋にその子を連れてくるのも、特に問題ないだろ、多分」「はぁ……」 蘆屋がICレコーダーを晴翔に手渡した。「あの部屋はねぇ、盗聴器ついてんだよ。だから君らが何を話していたか、俺は知ってるんだけど。それを圭は知らない」「どうして、そんなもの……。七不思議解明サークルはRISEじゃないんですか?」「違うよ」 蘆屋がにべもなく否定した。「違うけど、そうでもある。だから、会話の内容は、君が望むなら向井君に内緒にするけど、どうする?」「どう、って。この状態で戻ったら、どの
うつらうつらと寝こける栗花落を抱いて、晴翔は困っていた。 栗花落を理玖の所に連れていけば、鈴木圭のフェロモンを中和してもらえる。 だが同時に、今起こった事態を説明しなければならなくなる。(秘密にしないと、栗花落さんがまた狙われる。今夜の約束も、話せない) とはいえ、いつまでもこの部屋にいるわけにはいかない。 第一研究棟103号室は七不思議解明サークルのサークル室だ。 DollとRISEの協力者と思われる七不思議解明サークルに関わる場所に長居は危険だ。(いくら鈴木君から仕掛けてきたとはいえ、いや、だからこそ危険か。あの得体のしれない感じ、秋風君とは違う意味で違和感だ) 晴翔が知っていた鈴木圭とは明らかに違っていた。(普段は演技で、あの感じが性根なんだろうな。臥龍岡先生にそっくりだ) 人の心の内面まで見透かしたような、その上で掌の上で転がしているような笑い方や話し方、余裕ぶった表情。人当たりが良さそうに笑いながら人を値踏みしている目。全部が気持ち悪い。 窓の外に人影を感じて、見上げた。 清掃員姿の男が背を向けて掃除をしていた。 鍵を開けて、窓を薄く開く。「今日から栗花落さんに一人、付いてくれるか。今夜は理玖さんにも手厚く。一人は俺に」 清掃員が帽子のつばを握って被り直すような仕草をした。 掃除しながら、少しずつ離れていった。(まさかSPがバレていたとはなぁ。素人だからって甘く見ちゃダメか) 理玖に危険が及ばないよう、あくまで身辺警護の意味合いで呼んだSPだ。 身分を明かす前から入れているので、理玖にも警察にも話すタイミングを失ったまま、今に至っている。