LOGIN支配されて、快楽だけが残った身体に、もう一度、愛を教えてくれた人がいた。 ――女社長に壊された心と身体が、愛されることを思い出すまで。 藤並蓮は、家族を守るために自分を売った。 支配され、壊され、快楽だけを刷り込まれた身体。 それでも、心の奥には「愛されたい」という願いが残っていた。 湯浅律は、その手を離さなかった。 守るだけではなく、共に並ぶことを選んだ人。 ただ抱かれる夜ではなく、「生きていい」と思える夜を、藤並に与える。 支配か、自由か。 快楽か、愛か。 壊れたまま終わるか、もう一度、立ち上がるか。 これは、傷ついた心と身体が、 「好きだ」と言っていい未来を選ぶまでの物語。
View More小雨が降っていた。
四月の終わりとは思えないほど肌寒い日で、ホテルのロビーには湿った空気が籠もっていた。藤並は、冷えた指先で資料を抱えながら、経営者向け講演会の控室へと足を運んでいた。黒いスーツの上着は肩のラインがきちんと整えられ、ネクタイも完璧に締められている。だが、胸元につけた名札の裏で、藤並の心は静かに擦り切れていた。
「藤並 蓮」と書かれた名札は、白地に黒文字のシンプルなものだった。名札の文字を何度も指先でなぞりながら、彼は思っていた。
自分は、名前で呼ばれることなんてほとんどない。ただ「顔がいい」と言われるだけだ。面接でも、企業説明会でも、いつも決まって同じことを言われる。
「君は華があるね」
「営業に向いているよ、顔で得するだろう」何度その言葉を聞いただろうか。最初は受け流していたが、だんだんと胸の奥に澱のように溜まっていった。
「顔だけで選ばれるなら、いっそ商品になればいいのに」と、ふと心のどこかで思うことがある。
資料を抱えた腕に、かすかな汗が滲んだ。冷たいのか、熱いのか、自分でもよくわからない。会場のドアの前で立ち止まり、深呼吸を一つ。口角を上げる。それが、藤並の「就活用の顔」だった。
ガラス越しに見える外の景色は、ぼんやりと滲んでいた。小雨が窓を伝い、しずくがゆっくりと滑り落ちていく。その動きを眺めながら、藤並は思考を止めた。考えれば考えるほど、足が動かなくなるからだ。
「…失礼します」
低い声で控室のドアを開ける。中には、講演会を終えた経営者たちが談笑していた。スーツの色は濃いネイビーやブラック。時計は高級ブランドのものばかりだ。湿った空気の中で、あの人たちだけが別の時間を生きているように見えた。
「こちら、次の資料になります」
藤並は丁寧に資料を配る。目線は胸の高さ。相手の目は見ない。見れば、何を考えているかすぐにわかってしまうからだ。
「君、学生さん?綺麗な顔してるね」
やっぱり、そう言われた。にこりと笑って「ありがとうございます」と返す。これも就職活動の一環だ。ボランティアスタッフとして働くことも、業界の空気を知るためだと自分に言い聞かせていた。
けれど、心のどこかが冷えていくのを感じた。
何をしても、俺は商品にしか見られない。
顔を褒められるたびに、内側が削られていく。資料を配り終え、最後の一冊を抱えて立ち止まる。鏡に映った自分の姿が視界の端に入る。整った顔立ち、細い首筋、柔らかそうな唇。それが「営業向き」と言われる理由だとわかっていた。
「俺は…」
心の中で呟く。けれど、その先は出てこなかった。
名札の重みが、やけに胸に食い込む。名札の裏には、自分の指の跡が残っている。小さな名札一つに、自分という存在が押し込められている気がして、ふと吐き気がした。
「お茶をお持ちします」
そう言って、藤並は控室の奥へと足を踏み入れた。会場の空気は柔らかい香水とコーヒーの香りが混じっている。けれど、その匂いは彼にとってはただの異物だった。
ガラス越しに、また雨粒が落ちるのが見えた。滑り落ちる雫は、誰にも気づかれないまま消えていく。
俺も、そうやって消えてしまえばいいのに。
けれど、身体は動く。口角を上げる。営業スマイルを作る。まるでプログラムされた機械のように、藤並は笑った。
「お茶をどうぞ」
無表情の笑顔。それが、藤並のいつもの顔だった。
部屋の照明は、変わらず淡い光を落としていた。蛍光灯ではない、やわらかな間接照明。白すぎない光が、壁と天井に反射して、二人の影を滲ませている。時間は、夜の底に静かに沈んでいく。湯浅がリモコンを手に持ったまま、ふっと笑った。画面では、芸人たちが笑い合い、次のコーナーに移ろうとしている。けれど、その笑い声とは別に、湯浅の口元がわずかに緩んだだけだった。「くだらねえな」そう呟きながら、湯浅はチャンネルを変えなかった。その声に、特別な意味はなかった。ただ、今そこにある空気を壊さないための、日常のひとつだった。藤並は、その横顔を見つめた。何も言わず、ただ隣にいる。湯浅が笑うと、自分の胸の奥にも同じ形の笑みが広がっていく気がした。心が、静かに満たされる。それは、激しい快楽とも、刹那の興奮とも違う。もっと穏やかで、じわじわと染み込んでくる感覚だった。藤並は、ソファのクッションに手を置いた。その手が、湯浅の膝に触れるでもなく、ただ布地の感触を確かめるだけだった。けれど、その距離感が心地よかった。「これからは、何度でも言える」心の中で、そう呟いた。好きだって、何度でも言える。特別な夜じゃなくてもいい。何かの約束があるわけでもなくていい。洗濯物を畳むときにも、コーヒーを淹れるときにも、ソファに並んで座るときにも、テレビを見て笑うときにも、そのたびに「好きだ」と言える。それは、藤並にとって初めての感覚だった。誰かに愛されることを、許せるようになった。そして、愛することを、自分に許した。「律」藤並は、小さな声で湯浅の名前を呼んだ。「ん?」湯浅はリモコンを持ったまま、視線だけをこちらに向けた。「なんでもない」藤並は笑った。湯浅も、肩をすくめて笑った。それでよかっ
テレビの音が部屋の中で柔らかく続いていた。画面の中では芸人がはしゃぎ、観客の笑い声が流れている。でも、その音はもう藤並の耳にはほとんど入っていなかった。隣にいる湯浅の体温が、肩越しに伝わってくる。その温度が、じわじわと胸の奥に広がっていく。不思議な静けさだった。騒がしいテレビの音とは裏腹に、心の中は驚くほど静かだった。藤並は、ふっと息を吐いた。肩を湯浅に預けたまま、ソファの縁に視線を落とす。クッションの縫い目がきちんと揃っていて、指先でなぞればその手触りがはっきりとわかった。そんな何気ない感覚が、胸にじんわりと沁みていく。ただそこにいるだけでいい。守るために身体を捧げる必要もない。誰かに何かを差し出す必要もない。今は、ただ並んでいるだけ。それだけで十分だと、心の奥から思えた。「……好きだ」思わず、唇から言葉が漏れた。小さな、小さな声だった。藤並は自分でその言葉に驚いた。けれど、すぐに目を閉じることはしなかった。目を開けたまま、湯浅の横顔を見た。湯浅は、微かに息を吸った。でも、何も言わなかった。その代わりに、ソファのクッションを撫でるように、手をゆっくりと動かした。藤並の手には触れなかった。けれど、その動きが答えだった。何も言わなくても、全部伝わっていると分かった。「これが、愛なんだな」心の中で、藤並は呟いた。身体を重ねることでも、傷を埋め合うことでもない。ただ並んで、同じ時間を過ごしている。そのこと自体が、愛だった。守るでも、守られるでもなく、ただ一緒にいる。それが、こんなに安心できるものだとは知らなかった。「好きだ」今度は心の中で、もう一度繰り返した。その言葉は、もう特別なものじゃない。特別な夜でも、特別な出来事でもなく
夜の部屋には、テレビの音が低く流れていた。画面では芸人が笑いながら、くだらないゲームをしている。観客の笑い声がエコーのように響き、それが部屋の隅々にまで柔らかく染み込んでいった。藤並はソファに座り、膝の上に手を置いていた。その手は、もう固くならない。力を抜いて、ただそこにある。隣にいる湯浅は、何も言わずにテレビを眺めている。肩に手を回すこともしない。身体を寄せるでもなく、離れるでもなく、ただそこにいる。それが、藤並には心地よかった。「……」藤並は目を細めた。テレビの画面に視線をやりながらも、意識は湯浅の横顔に向いている。笑い声が流れても、湯浅はそれに合わせて笑ったりしない。けれど、口元がわずかに緩む。その表情を、藤並はこっそりと見ていた。肩が自然と、湯浅の方へと寄る。意識して動かしたわけじゃなかった。気づいたら、肩先が湯浅の腕にかすかに触れていた。湯浅は何も言わなかった。目線を動かすこともなく、ただそのまま、画面を見ている。藤並は、その沈黙に安堵した。これまでなら、触れることに意味を持たせすぎていた。触れられることは、支配されること。身体を預けることは、相手に全てを渡すこと。そう思い込んでいた。けれど、今は違う。肩が触れても、それはただの温度だった。身体の境界が、心地よく並んでいるだけ。誰も奪わないし、誰も壊さない。藤並は、目を閉じなかった。きちんと目を開けたまま、湯浅の横顔を見た。湯浅は相変わらず画面を見ている。薄いシャツの肩越しに、呼吸のリズムが伝わってくる。ゆっくりと瞬きをした。まぶたを上げると、また同じ夜がそこにあった。この時間が特別ではなく、日常になる。それが、嬉しかった。「なあ」藤並は、小さく声を出した。
乾燥機の音が止まった。部屋の中に、洗いたての柔軟剤の香りがふわりと広がる。湯浅がバスケットを持って戻ってきた。何でもない夜の、何でもない時間。「畳むぞ」湯浅がソファの前に座り、Tシャツを一枚手に取った。その動きは、ゆっくりと落ち着いている。几帳面な手つきで、袖を揃え、胸の部分を折りたたむ。「はい」湯浅が畳んだTシャツを、藤並の方に渡した。藤並は自然にそれを受け取った。まるで、ずっと昔からこの作業を一緒にしてきたかのように、何の違和感もなかった。藤並は、膝の上に広げたTシャツの端を揃えた。指先が生地を撫でる。以前なら、こういうとき必ず手が震えていた。何かを壊しそうな気がして、力が入りすぎたり、逆に力が抜けてしまったり。でも、今は違った。洗濯物の感触を確かめるように、端をぴたりと合わせる。その手つきに、無理な力はなかった。湯浅が横で、次のシャツを畳んでいる。二人分の洗濯物が、ゆっくりと小さな山になっていく。その様子を見ながら、藤並は心の奥でひとつ、言葉にならない想いを噛み締めていた。「こういう時間が、欲しかった」それは、いつからか自分の中にあった願いだった。けれど、それを口にすることはなかった。自分には許されないと思っていた。守るために身体を売ることはできても、こういう生活を求めることはできないと、どこかで思い込んでいた。けれど、今はこうして、湯浅と並んで洗濯物を畳んでいる。特別なことじゃない。どこにでもある、生活の一部。でも、その何気ない時間が、たまらなく愛しかった。湯浅は黙って、淡々と手を動かしている。その横顔は穏やかで、口元はわずかに緩んでいる。笑っているわけではないが、どこか優しい表情だった。藤並は、畳んだシャツを積み重ねながら、自分の手を見た。もう、震えていない。自分の身体が
湯浅は、ソファの背にもたれかかったまま、ふと視線を窓から藤並へ移した。部屋には夕暮れの色が満ち始めていた。淡い橙色の光がカーテンの隙間から差し込み、藤並の横顔を照らしている。その横顔は静かで、けれどどこか、考え込んでいるような影があった。湯浅は、特に考え込まずに言葉を落とした。「一緒に暮らさないか」それは、本当に何気ない一言だった。気負いもなく、冗談めかすこともなく、ただそこにあった言葉。藤並は、コーヒーのカップを持ったまま、動きを止めた。その手が、ほんのわずかに固まる。カップの取っ手を持つ指先が、微かに力をこめたのが分かった。まつげがふっと伏せられた。長い睫毛が、カップの縁に落ちた影に混じって揺れる。唇が、ほとんど分からないほどにかすかに震えた。けれど、それは拒絶の震えではなかった。言葉を探すための間だった。藤並は、視線を一度だけカップの中に落とした。黒い液面が、夕陽を映していた。その中に、わずかに揺れる自分の顔が映っている。「……うん」声は静かだった。けれど、迷いはなかった。カップを置き、藤並は湯浅の方を向いた。目の奥に、ゆっくりと温度が宿っていく。その瞳は、もう逃げ場所を探していなかった。「本気で言ってる?」問いかけは短かったが、藤並の声はどこか柔らかかった。湯浅は、微かに口元を緩めた。「ああ」それだけを返す。言葉は少なかったが、それで十分だった。二人の間には、もう余計な説明はいらない。藤並は、心の奥で静かに理解していた。これまでの自分なら、こんな提案は「縛られる」と感じただろう。誰かの家に住むこと。生活を重ねること。それは、支配の始まりだと感じていた。けれど今は違う。湯浅となら、並び立つことができる。
キッチンの隅で、藤並はドリップポットを静かに傾けた。お湯が細い糸になって、コーヒーの粉を濡らしていく。粉がふわりと膨らみ、泡が静かに立った。その様子を見つめながら、藤並は息をひとつ飲み込んだ。湯気が立ち上る。その瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。心臓のどこかがきゅっと縮まる感覚。今、この時間がずっと続けばいいと思った。けれど、同時に、それが壊れる未来も想像してしまう。「……」手元を見つめたまま、藤並は眉をわずかに寄せた。昔から、こういうとき、自分は最悪の未来ばかりを考えてしまう。こんなに穏やかな夜が、いつか終わるんじゃないか。湯浅がいなくなる日が来るんじゃないか。あるいは、自分がまた壊れて、すべてを自分から手放してしまうんじゃないか。そんな不安が、頭の奥でじりじりと蠢いていた。けれど、その不安を打ち消すように、別の声も聞こえた。「終わらせたくない」心の奥で、確かにそう思っている。この時間を、自分で壊したくない。守るために犠牲になる生き方も、壊されるための身体も、もう必要ない。ただ、ここにいたい。コーヒーが落ちきる音が、静かな部屋に響いた。ぽたん、という最後の一滴まで見届けてから、藤並は手を止めた。「蓮」ソファの方から、湯浅の声がした。「コーヒー、まだ?」その声には、何の圧もない。ただ、日常の中の呼びかけだった。「今、持っていく」藤並はそう答えて、マグカップにコーヒーを注いだ。カップの縁から立ち上る湯気が、柔らかく揺れる。その揺れを見つめながら、藤並は小さく息を吐いた。湯浅は、ソファで資料をまとめている。ラフなシャツの袖を肘までまくり、膝に紙を重ねたまま、時折窓の外を見ていた。夕暮れの光が、横顔を淡く照らしている。藤並は、その横顔に目を向けた。
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