『WOは脳が求める本能の恋』 慶愛大学で講師を務める向井理玖はonlyであることを隠して仕事をしている。人付き合いは当たり障りなくと毎日を過ごす理玖だが、一つだけ楽しみにしていることがある。毎日午後二時、理玖の研究室に雑用のために来る事務員の空咲晴翔との何気ないやり取りは、理玖にとって心地が良い。 新年度が始まり晴翔との距離が縮まる中で、晴翔に抱き締められた理玖が大量のフェロモンを発してしまう事件が起きる。 本人たちも気が付かないうちに大きな問題に巻き込まれる理玖と晴翔。解決を追いかける先には、思いもよらない巨悪が待ち構えていた。 ※WOバースは作者の創作です。(オメガバースの派生です)
View Moreまた四月になった。
突風が少しずつ柔らかくなって、頬を冷やす空気が暖かに変わっていく季節。
この時期が、理玖はあまり好きではない。
いつものように大学の門をくぐる。
やけに賑やかだと思ったら、バスケ部が朝練していた。向かいのコートにはサッカー部もいる。新入生に声を掛ける学生の姿も見られた。
(そういえば、この時期は色んな部活が新入生をスカウトしているって空咲君が話していたっけ)
慶愛大学は他校に比べ部活動が盛んなイメージだ。水球部が特に有名で、全国大会でも上位に入り、よく取材されている。
その他にもボート部やバスケ部、科学実験部やロボット部がテレビ取材を受けていた。
一際大きな歓声が上がって、理玖は目を向けた。
バスケのコートでゴールを決めた男性が、部員たちとハイタッチしている。聞こえた歓声は取り巻きの女子たちだったらしい。
上着を脱いだスーツ姿で学生と笑顔でハイタッチする男性は、明らかに学生ではない。
立ち止まって眺めていた理玖と目が合って、男性がスーツの上着を片手に小走りに駆け寄った。
「|向井先生、おはようございます。今、ご出勤ですか?」
爽やかな笑顔に少々の汗を滲ませる彼は、空咲晴翔。大学事務員だ。
イケメンで明るく優しい、絵にかいたような王子様キャラで、学生たちには男女問わず人気がある。
「おはよう、空咲君。学生さんより目立っていたよ」
歩き出した理玖に合わせて、晴翔も歩き出した。
「バスケ部の部員が朝練遅刻で人が足りないっていうから、助っ人に入ってました。バスケとか久々で、筋肉痛になりそう」
腕を回しながら笑顔で語る晴翔を、ちらりと眺める。
「君だって最近まで学生だった歳でしょ。僕と違って、まだまだ大丈夫だよ」
晴翔は確か二十四歳、慶愛大に就職して二年目の職員だ。
理玖と同じで去年の就職だったと記憶している。
「先生だって、歳なら俺と変わらないでしょ。見た目で言ったらきっと、俺より学生さんに見えますよ」
自覚があるだけに何も言えない。
理玖は二十七歳で晴翔の三つ年上だが、童顔と低身長のせいで、いまだに学生に間違われる。
(でも三つ年上! 僕の方が三つも上だから! もうすっかり大人だから! ちょっとは大人っぽく見えるように、眼鏡だってしてるのに)
心の中で強く抗議する。
何となく、眼鏡を押し付けて、表情を引締めた。
「俺がゴール決めた瞬間、見てくれました? 格好良かった?」
そんな理玖の心情など全く気が付かない晴翔がワクワクした顔で、理玖を見詰める。
「瞬間は見てないけど、皆とハイタッチしている姿は見たよ」
相変わらず人気者で囲まれているね、とは思っても言わない。
誰にでも好かれる晴翔がわざわざ理玖に声を掛けてくる理由も、いまいちよくわからない。
目を逸らした理玖の前に、晴翔が手を出した。
「じゃ、向井先生ともハイタッチ」
さっきと同じようにワクワクしながら手を出してくる晴翔に嫌とも言えない。
大きな手を眺めながら、理玖はほんの少しだけ、指先だけで触れるようなタッチをした。
「朝からお疲れ」
眼鏡を上げながら短く声を掛けると、研究棟二階の、自分の研究室に向かう。
「今日も午後の二時に先生の部屋に行きますね! 今日はウォーターサーバーの水が届くはずなんで!」
手を振る晴翔を横目にして、小さく頷く。
晴翔は反対側の事務職員の控室に走って行った。
自分の部屋に入り、扉を閉める。
理玖はその場に蹲った。
(さ……、触っちゃった! 晴翔君の手に、自分から触っちゃった!)
心臓が口から出るんじゃないかと思うくらい、ドキドキしている。頻脈で心室細動でも起こしそうだ。
若干、汗ばんだせいか、眼鏡がずり落ちた。
(あの流れで触らない方が不自然だ。感じの悪い奴にはなりたくない。何より、変な断り方してバレたら、マズい)
自分の手を眺める。
触れた右手が、小さく震えていた。
(特に意味なんかない。誰とでも同じようにするハイタッチだ。只の無意識だ。晴翔君はonlyでもotherでもない。きっとnormalだから)
他者との些細な触れ合いを恐れたりしない。
誰とでも普通に触れ合える。
好きになった相手に素直に好きと言える性の持ち主だ。
「僕とは、違う。僕が好きになっちゃ、いけない人だ」
onlyの自分が近付いて良い相手ではない。
絶対に迷惑をかける。
(今のままの距離感で、何となく仲良しな職場の人同士でいられたら、それでいい)
この距離感が崩れないように、毎日晴翔の笑顔が見られたら、それでいい。
心の奥に小さく芽吹く想いが咲かないように、理玖は目を閉じた。
一年前の五月、ゴールデンウィーク明け。 大学前の公園の桜がすっかり葉桜になり、新緑が色濃く萌える頃。 理玖は慶愛大学にやってきた。 慶愛大学医学部医学科自然健康科学群内分泌内科WO専攻講師。 国立理化学研究所の研究員だった向井理玖が新たに得た肩書だ。 (学術機関での研究ってどうなんだろう。大学はどこの国でも資金難で研究自体が難しくなってきているけど) 最近、注目を集めるWO研究と言えど、不景気な社会で最初に削られる経費には違いない。理研でそれなりに自由にやりたい研究をさせてもらえていただけに、不安なところだ。 (それ以上に、講師ってどれくらい学生と関わるのかな。日本の大学って、よくわからない) 高校を飛級してロンドンのカレッジで医師免許を取得し、院で|博士《ドクター》まで習得した理玖には、日本の学校のシステムが実感としてわからない。 (あまり深い関わりは、したくない。距離が近付けば、バレる率も上がる) 学生であろうと職員であろうと、一定の距離感を保っていたい。onlyだとバレる
理玖の研究室を飛び出した晴翔は、近くにあった資料倉庫に逃げ込んだ。 鍵をかけて部屋の奥に向かう。「はっ、はぁ……、はぁ」 頭がくらくらして足元もおぼつかない。 ピアスを耳に押し付けながら、飛びそうな意識を、なんとか保った。 一番奥の窓際の壁に、へたり込んで背中を預けた。 さっきの理玖を思い出すだけで、股間が反応してしまう。「勃ちすぎて、痛ぇ……」 それでなくても既にフェロモンでぎちぎちに勃起している。 更に反応しないように抑え込んだ。「可愛い、ヤバい、あんなの狡い。普段は塩対応なのに甘えると可愛いとか。声も仕草も顔も全部可愛いから!」 突然、下の名前で呼んだかと思ったら、自分から晴翔に身を寄せて、顔を擦り付けて、体をくっ付けて。まるで甘えるような仕草を甘えた顔でされたら、耐えられない。(スリスリってしてピタってくっつく仕草、めっちゃ可愛かった。リスみたいだった。俺を見上げた顔だって) 蕩けた顔がキスを催促しているようで、吸い付いてしまいそうだった。 頭を何度も振って、大きく息を吸い込む。何とか呼吸を整えた。 自分の胸に手を当てる。(手も体も、熱い。心臓、まだ早い。意識、保てて、良かった) 抱きしめた腕の中で晴翔を見上げた理玖の顔が頭から離れない。 何より、花の蜜のように甘く薫るフェロモンが、普段の比ではなかった。(やっぱり理玖さんはonlyなんだ。触れるようになった途端にビックリするくらいフェロモンが増えた) この一年、理玖に直に触れるのは、極力避けてきた。そのせいか、理玖からフェロモンを感じなかった。恐らく、阻害薬の効果の範疇で対応できていたんだろう。理玖自身も抑制剤を飲んでいたはずだから余計だ。(一年前の、初めて会った日に御姫様抱っこした時は、フェロモンなんか感じなかった。あんなにがっつり抱きあげたのに) だから、理玖がonlyであると確信が持てなかった。薬の効果で感じないだけなのか、そもそもフェロモンを放出していないのかが、判断できなかった。 しかし二回目の今は、これだけ体が反応している。理玖がonlyなのは確定だ。(しかもフェロモン量が多くて特殊な、例の希少種の可能性が高い。噂は本当だったんだ。あんなの、薬じゃどうにもできない) 耳のピアスに触れる。 即効性の抑制剤を仕込んだピアスはボタン式の皮下注射で
幸せなランチを終えて、フワフワした気持ちのまま理玖は自分の研究室に戻った。 晴翔とは大学受付窓口で別れた。 事務員である晴翔の本来の仕事は受付業務だ。 持ち回りで講師や教授たちの雑用をしてくれている。本来の業務ではないし、事務員からしたら面倒な仕事だろうと思う。 理玖に関しては、昨年赴任以来、ずっと晴翔が面倒を見てくれているから助かっている。(あの言葉、どういう意味だったんだろう。深い意味は、ないんだろうけど) 考えようとすると、胸が痛む。 もし、都合よく解釈して、間違っていたらと思うと、怖い。(百歩譲って、晴翔君が僕に好意を持ってくれていたとしても、僕がonlyだと知ったら、きっと遠くに行ってしまうんだろうな) onlyは、その希少性や有能さから国に重宝されているが、その実、社会性でいえば扱いは弱者だ。特定のotherでなければ妊娠できないonlyは、結婚できない場合も多い。生涯独身で過ごすonlyは少なくない。 onlyがレイプされた報道を見ても「気の毒だが仕方がない」という感覚が暗黙の裡に社会通念化している。理由はonlyが性玩具として都合よく扱われる事実があるからだ。 発情したonlyはotherの快楽を煽る。故に、頗る気持ちの良いセックスができる。 精子を搾り取ろうとする本能が強いから、相手に快楽を与えようと体が変化する。onlyは床上手というのは、悲しい事実だ。フェロモンがなくても、行為だけでも充分快楽を得られるので、onlyをセフレにしたがるnormalもいるほどだ。 onlyを集めて無理に働かせる風俗店が摘発されるなど、珍しくもないニュースだ。 世の中を普通に生きるnormalなら、事件性を秘めた存在であるonlyには近付きたがらないだろう。otherだったとしても、面倒事を嫌うならnormalを選ぶか、国が運営するWO結婚斡旋所を利用するのが安全だ。(生涯を共に生きるための相性ピッタリの相手を見つけるためにフェロモンを出して、子をもうけるために相手の快楽を煽るのに。今の所、総てが悪い方にしか役立っていないのがonlyの生態なんだよな) だからこそ幸せになれない性なのかもしれない。 生涯を共に生きたいと思えるような運命の相手なんて、それこそ物語でもなければ、そう見付かるものではないだろう。(現実は物語じゃない。
大学とは道を挟んだ向かいの敷地に、小さな公園がある。 公園は小さいのに、大きな桜の木が一本、立っている。 四月も中旬になり、ほとんど葉桜になってしまった木の下にキッチンカーが店を出していた。 車の前に置かれた看板には、おにぎりのメニューが並んでいる。「先生、おにぎり好きでしょ? いつか誘おうって思ってたんですよね」 感動した心持でメニューを眺める理玖を晴翔が振り返った。 理玖の顔を見て、晴翔が吹き出した。「誘って良かった。めっちゃ嬉しそうな顔してる」 思わず自分の顔を手で触ってしまった。 自分が今、どんな顔をしているのか、わからない。 恥ずかしくて、ちょっとだけ耳が熱い。 注文してから握るので少し時間がかかるらしい。 一緒に注文したホットドリンクを飲みながら待つことにした。 桜の木の下のベンチに座って、ホット烏龍茶の:蓋(リッド)を開ける。 猫舌な理玖は、リッドの小さな飲み口から飲むのが苦手だ。 懸命にフーフーする理玖を晴翔が楽しそうに眺めていた。「あんまり見られると、恥ずかしいよ」 ばつが悪い気持ちで、じっとりと晴翔に目線を向ける。「だって先生、可愛いから。見ていると飽きないというか。ずっと見ていたいというか」 照れた顔で晴翔をちらりと眺める。 人付き合いが苦手な理玖だが、晴翔を始めとする大学の事務員とはきっかけがあって交流ができた。そのせいか、事務員たちには時々、そういった形容をされる。「僕を可愛いなんて言うのは、事務の皆さんだけだよ。可愛げがない、なら色んな場所で何度も言われているけど」 愛想もなくお世辞も言わない有能な学者は、年上の学者からは疎まれる。 せめて持ち上げる言葉の一つも言えればいいのかもしれないが、全身がむず痒くなる。「見る目がない人が多くて良かったです。向井先生の可愛さは、俺だけが知っていればいいので。事務の皆にバレっちゃったのも、ちょっと悔しいんですよ」 ニコニコする晴翔を、理玖は両眼をひん剥いて見詰めた。(最近の晴翔君は、時々、変なコトを言う。何となく、僕に好意的な表現を……) そこまで考えて、理玖は首をぶんぶん振った。(違う、きっと違う。そんなわけない。僕が自分に都合よく解釈しているだけだ。深い意味はない。きっとない。小動物レベルの話だ。身長が低いからとか、そんな感じだ) 事務
無事に新年度の初回講義を終えてから、一週間が経過した。 理玖の一年生の講義は基本が月曜日の午後、追加で金曜日の午前に枠が設けられている。 春は週二回で講義が組まれているが、夏頃になれば週に一回でペースが定まる。(去年は夏前に、すっかり学生が減ってたけど。今年はどうかな) 手応えとしては、去年より熱心な学生が多い印象だ。ちょっと嬉しくなった。 午前中の講義でも、質問が多くて楽しかった。(次回以降は質問の時間を多く設けよう。そういえば、積木君がパワポを資料で欲しいっていっていたっけ。どうせなら毎回、配布しようかな。晴翔君に相談して、準備してみよう) 去年は考えなかった工夫をする気になる。 ワクワクと考えていたら、あっという間に昼になった。 鞄の中の弁当を探す。 いつも弁当箱を入れている小さめの保冷バックが見当たらない。「お弁当、忘れてきちゃった……」 鞄に入れたような記憶があるが、気のせいだろうか。 朝は眠いから、自分の行動に自信がない。 どんなに探しても見つからないので仕方がなく、学食に行くことにした。 白衣を脱ぐと、財布を持って、外に出た。 研究室のドアに鍵を差し込む。うまく回らない。 慶愛大学は歴史のある学校だが、その分、建物も古い。 数年前の建直しで学生棟は最新の建物らしいが、理玖の研究室がある第一研究棟は大学の中で最も古い建物だ。「趣があって良いかもしれないけど、鍵が昭和のまま時を止めてる感じは、いただけないな」 思いっきり蹴り飛ばしたら開いてしまいそうな鍵とドアだ。 ガチャガチャと抜き差しを繰り返す。ドアを手前に引きながら締めたら、何とか締まった。「折笠先生の研究室がある第二研究棟は綺麗だしスマートキーなのに。この建物だけタイムスリップしたみたいに古い」 しょんぼりしながら愚痴をこぼした。 第一研究棟は規模も小さく、稼働数も少ない。二階は理玖の研究室しか、使用者がいない。五階建ての建物は、三階以上が七割埋まっている。一階は部屋数が少ないからか、誰も入っていない状況だ。 八階建ての第二研究棟と第三研究棟は満室で、入れなかった講師が第一研究棟を使用しているらしい。今時、講師が個室を貰える時点で有難い待遇だが。(室内はリノベーションしてくれているし、そこそこ広いし、待遇も准教授並みだから、古い程度で文句も言え
「初回の講義はここまでになります。質問など、ありますか?」 講堂を見回すと、数名の生徒が手を上げていた。 今年はやる気のある生徒もいるらしい。 理玖は最前列に座る男子学生を指した。「otherがonlyをレイプする事件が多い印象があります。onlyが発するフェロモンをotherが感知することで、otherが発情するんですよね。お互いに薬を飲んでいても、起こり得るのでしょうか? onlyだけが抑制剤を飲むだけでは駄目なのでしょうか?」 なかなかに鋭い指摘だと思った。 この生徒はちゃんと講義を聞いていたらしい。「メカニズムで言えば、onlyがSAフェロモンを発しなければotherは発情しません。残念ながら今、処方されている抑制剤は完璧ではないので、フェロモン量の多い人等は、薬を飲んでいても微量のフェロモンを放出している場合があります。onlyのフェロモンは個体差があり、かつ感情に左右されて増減するとも言われています。恋愛感情や性的な欲求、興奮が高まると多く放出されるし、その時に薬の半減期を過ぎていた場合、薬効が弱まってフェロモンが出てしまうケースが考えられます。また、otherのPOEフェロモンに触発されてonlyのSAフェロモンが増幅するケースもあり、other側からのモーションで誘発される稀な状況ですが……」 途中ではたと気が付いて、理玖は言葉を止めた。「この辺りは次の講義の内容でした。only、otherともに薬は飲むべきだけど、万能ではないと覚えておいてください」 質問が来たのが嬉しくて、思わずいっぱい話してしまった。 ちょっと恥ずかしくなって、照れた顔を隠すように俯いた。「わかりました。ありがとうございます」 質問した男子生徒は満足そうに、ニコリと笑んだ。「それじゃ、次……」 後ろの方で手を上げている女生徒を、理玖は指した。「onlyがnormalを好きになっても、結婚は出来ないんでしょうか」 ありがちな質問だが、見落としがちな部分だ。 今年の生徒は出来が良い。「男女の組み合わせであれば、法的に結婚は可能です。しかし、子供は望めません。onlyは男性であっても基本、相手を妊娠させることが出来ません。自身が妊娠はできますが相手はother限定です。例外として、男性がonly、女性がotherであった場合、両方の妊娠出産が可
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