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タクシー乗り場、交わらぬ目線

Author: 中岡 始
last update Huling Na-update: 2025-07-09 18:00:18

ホテルの部屋を出ると、廊下にはまだ夜の湿気が残っていた。河内は無言でエレベーターのボタンを押す。すぐにやってきた箱の中、ふたりは壁を背にして立ち、互いの影が床に伸びるだけだった。鏡面にぼんやり映る輪郭を、どちらも意識していないふりをしていた。上着の裾を整える河内の動きに、小阪が少しだけ間を空けて続く。タオルで拭ったばかりの髪が、夜風に当たって乾きかけていた。

ロビーに降りると、ソファに腰かけた若いカップルの笑い声が微かに響いてきた。夜のホテルは、どこか非現実的な静けさに包まれている。河内はカードキーを返却し、足早に自動ドアへと向かう。その間、小阪は数歩後ろをついてくる。会話はなかった。必要な言葉はすべて、もう使い果たしてしまったかのように。

自動ドアの向こう、夜気はしっとりと肌にまとわりついた。雨上がりの舗道には、街灯の明かりが滲み、アスファルトの凹凸に光の粒が散らばっている。タクシー乗り場には、既に二台の車が並んでいた。運転手が窓を開け、こちらを一瞥する。

ふたりは当たり前のように並ぶこともなく、微妙に距離を空けて立った。手元でスマートフォンを確認する河内。小阪はその隣で、バッグのストラップを指で弄んでいる。目線は下がったまま。わずかに夜風が流れ、濡れた髪が額にかかる。

「…じゃあ、先行くわ」

河内はタクシーのドアを開けながら、かすかに言った。別れの挨拶でも、次の約束でもなかった。ただ、会話の名残のようなもの。小阪は一瞬、視線を上げかける。だが、目が合う寸前でそのまま遠くの車のライトに焦点を逸らす。

ドアが開いた瞬間、小阪の身体がごく僅かにこちらへ傾いた。振り向こうとしたのか、それとも無意識に身体が反応しただけなのか、河内には判断がつかない。ただ、その動きがあまりにも一瞬で、すぐに元に戻ってしまった。

河内はタクシーのシートに身を沈め、ドアが閉まるまでの数秒だけ、小阪の立ち姿を横目で見ていた。信号待ちの間に窓ガラス越しに映る、夜の湿った道路。その反射の中に、赤いテールランプが滲んで揺れる。雨上がりの舗道が、まるで水面のように光を呑み込み、車の動きに合わせてかすかにゆらぐ。

「こんな関係、長く続くはずないって、わかってんのに」

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