LOGIN京都、町家の静かなカフェ《結》。 タロットを扱う年下の占い師と、過去に傷を抱えた転勤者。 「未来は見える。でも、恋だけは視えへん」 交わす言葉は少なくても、ふたりの距離は確かに変わっていく。 壊れた心が、茶の湯気の中で、少しずつ解けていく。 過去と未来の狭間で、見つめ合うのは今この瞬間── 占いに委ねていた人生を、自らの手で選ぶとき、 そこに待つのは“恋”という名の再生か、それとも…。 静かに胸を打つ、情感スローバーンBL。 あなたも、心の一枚をめくってみませんか。
View More夜の窓は、外の景色を写すことなくただ黒く沈み、鏡のように彼の輪郭を曖昧に映していた。天井に走る薄明かりの筋が、壁に伸びては揺れ、息をするたびに消え入りそうな静寂を孕んでいる。
尾崎は、スーツを着たまま、ベッドに背を沈めていた。ネクタイも緩めていない。シャツの襟が喉元に張りついているのに、煩わしいとも感じなかった。着替えるという行為が、あまりにも日常的すぎて、自分の今とは違う世界の話に思えた。足元の床には、蓋の開いたスーツケースがひとつ置かれていた。衣服も書類も詰められたそれは、まるで空になった自分の代わりのようだった。冷蔵庫の音が規則的に響く。壁にかかる無意味な絵が、彼に背を向けるようにそこにある。
ベッドサイドのローテーブルには、三つのものが置かれていた。
一つは、京都支社への異動を命じる封筒。開封された口元が乱雑に折れ曲がっており、それを指で撫でても何も感じなかった。 一つは、東京本社のIDカード。社員番号と顔写真の入ったそれは、もう自分を通す扉のどれひとつとして開けてはくれない。 そしてもう一つは、名刺。一枚だけ、なぜか捨てられなかった。黒い文字で印刷された「鈴木慶吾」の名は、照明の下で光を吸い込みながら無言のまま、尾崎の視界の端にあった。指先でその角をかすかに持ち上げてみる。が、すぐに手を離した。少しの風で滑って、テーブルの端に寄った名刺は、それでも落ちることなく留まっていた。ふと、自分の体の感覚が希薄になっていることに気づいた。重たいのではない。あるはずのものが抜けている。そういう感覚だった。
天井を見上げる。視線は焦点を結ばず、ただ灯りの反射が瞳の中を横切っていくだけだった。何かを思い出そうとしても、思い出せない。言葉が浮かんでも、すぐに霧散する。
泣けるのかもしれないと、一瞬だけ考えた。泣ければ、少しは楽になるのかもしれないとも。でも、もうそのための力が残っていなかった。涙を流すには、どこかに火種のようなものが要るのだと知る。
心はとうに冷えていた。それを自覚しても、驚くことすらできなかった。息を吐く音が、部屋の静けさに混ざってゆっくりと消えていく。
それを聞いているのは、自分しかいなかった。佐野は穏やかな声で、「どうぞ」と新たな客を奥の間へと誘った。畳を踏む足音が遠ざかっていくなか、尾崎は再び椅子の背にもたれ、視線を中庭へと戻した。障子越しの光がいくらか強まり、白椿の花がひときわ鮮やかに浮かび上がっている。風が枝をゆるやかに撫で、葉のあいだから射す光が花弁に細かく散った。その瞬きのような揺らぎが、時間の輪郭をぼかしてゆく。この場所は変わらない。静けさ、茶の香り、湯気の温もり、柔らかな光。そのすべてが、初めてこの扉をくぐったあの日と変わらずそこにあった。けれど、そこに身を置く自分自身が、もう以前の自分ではないことを、尾崎ははっきりと感じていた。誰かの顔色を伺いながら、必要とされることを自分の居場所だと錯覚していた頃の自分。その癖は、今も完全には消えていない。仕事の場では、気づかぬうちに笑顔を貼りつけることもある。けれど、それでも、あの夜から少しずつ、確かに何かが変わったのだ。佐野と目を合わせるようになった。言葉にしなくても、彼の視線の先にいるのが自分だということが、確かな実感として心のなかにある。ぬるい不安を隠すために笑うのではなく、あたたかい気持ちをそのまま表に出せるようになった。そして何より、自分の未来を、他人に委ねずに選ぼうとしている。そのことが、何よりの証だった。障子の影がふと動いた。佐野が奥から戻ってくる気配がする。尾崎は振り返らずにそのまま椿を見ていたが、微かに聞こえる足音に、自然と呼吸のリズムを合わせていた。歩く音が近づくにつれ、部屋の空気に馴染むように、静かな温度が戻ってくる。佐野が再び席に戻ったとき、ふたりのあいだには言葉はなかった。ただ、お互いの存在が、ごく自然にそこにあるという事実だけが、くっきりとした輪郭で空間を満たしていた。ふと視線を向ければ、佐野の表情もまた変わっていた。目元にはあいかわらず穏やかな弛みがあるが、その奥にある深い揺らぎは、以前よりもさらに静かになっていた。「白椿、落ち始めたな」佐野がぽつりと漏らす。その声は日常の延長にある、何気ない響きを持っていたが、尾崎にはどこか名残惜しさのような感情が滲んで聞こえた。尾崎は軽く頷いた。「でも、落ちた花も、綺麗ですよ」それは彼の
引き戸の木がゆっくりと動く音が、春の空気の中にわずかに響いた。微かに軋むその音に、尾崎はふと顔を上げる。佐野も同じように手を止め、そちらへと視線を向けていた。白椿の香りとほうじ茶の余韻がまだ残る中、店の入り口に立っていたのは、見慣れない若い女性だった。ショートボブの髪がわずかに揺れ、眉間にほんの僅かに緊張の影が浮かんでいる。服装は控えめで、袖口を指で掴むようにしながら、躊躇うように一歩を踏み出した。「…こちら、占いもしていただけるんですか?」その問いは思い切ったように発せられたものの、声はか細く、どこか確信を持てずにいた。店内の静けさがその声をすぐに吸い込み、空間に新しい気配だけが残された。佐野は席を立ち、湯のみを盆に戻す手を自然な動きで止めると、女性に向き直る。口元には、いつもの柔らかな笑みが浮かんでいた。光の差す方向が変わったことで、作務衣の袖が少し金色を帯び、彼の輪郭がほんのりと温かく見える。「はい。よければ、お茶でも飲んでからにしましょか」その一言に、店の空気がすっと和らいだ。女性の肩がふと下がり、眉間の緊張が溶けていく。視線を床から佐野の顔へと移した彼女は、戸惑いながらも頷き、そっと履物を脱ぐ。畳の感触に戸惑うように足を運ぶその様子は、初めての場所に馴染もうとする誰かの姿そのものだった。尾崎はそのやりとりを静かに見守りながら、茶をすすっていた手を膝に戻した。自然と目が佐野の背中を追う。細身の肩幅、静かに動く肩甲骨、客へと向かう歩幅の均整。それらすべてが、ごくあたりまえのもののように、場に溶け込んでいた。かつては少し背負いすぎていたようにも見えたその背中が、いまは肩の力が抜け、自然体に見える。女性は店内の空気に少し安心したのか、近くの椅子に腰をかけた。佐野は湯を新たに沸かしながら、声をかけるでもなく、背を向けて準備に取りかかっていた。無言のうちに伝わるものがある。湯が沸く音、茶葉を計る音、そして器を置く音。どれもが丁寧で、日常の一部としてそこに存在していた。尾崎はそっと視線を中庭に移した。椿はまだ咲き誇り、風が枝を撫でている。光が射し、影が動き、ふと風が止まると、白い花弁がひとつ、音もなく地に落ちた。その落ちる様が、何かを終わ
佐野は湯のみを卓に置くと、尾崎の隣の椅子に静かに腰を落ち着けた。窓際の障子から差し込む陽は少しずつ角度を変え、白椿の影を畳のうえに濃淡で描き出している。湯気がまだ細く立ちのぼり、ふたりの視線がその揺らぎの真ん中で柔らかく重なった。ひと呼吸置いてから、尾崎は湯のみをそっと持ち上げた。佐野もほぼ同時に手を伸ばす。口をつけるタイミングまでが不思議と重なり、湯が喉を通るわずかな時間で、短い沈黙がふたりの心拍を揃える。湯の熱が胸の奥におりる。ほうじ茶の香ばしさとほのかな甘みが鼻腔を満たし、それが静かに広がると、昨日までの緊張はどこかに滲んで消えた。佐野は湯のみを卓へ戻し、掌で器の縁を一度撫でてから窓外を眺めた。外の風が再び椿の葉を揺らし、葉陰がかすかなざわめきを立てる。その音を聞きながら、佐野は唇の端をなだらかに上げ、声をひそめるように話し始めた。「せやな、未来って、なんやようわからんからこそ、愛しいんやろな」声は掠れず、けれど低く落ち着いている。語尾にかけてわずかな吐息が混ざり、それが湯気と共に薄く消えていった。尾崎はひとつ息を吸い、湯のみを持ったまま視線を落とす。睫毛の影が頬に落ち、眼鏡のフレーム越しに見える瞳がゆっくりと細くなる。今ではその伏し目は、人目を避けるためではない。静かな照れと、佐野の言葉を胸の内で噛みしめるための所作だった。頬はうっすらと赤みを帯び、それが春の光と相まって柔らかな色を生み、佐野に小さな満足を与えた。尾崎は湯のみを卓へ戻し、卓を挟んでいるにもかかわらず、指先がほんのわずかに佐野の手の近くをかすめる。触れたわけではない。しかし、それで充分だった。ふたりの間にはもう、占いも説明も要らなかった。未来はカードに描かれるものではなく、いま重ねた呼吸の中に、すでに芽吹いているのだと知っている。尾崎は低く笑った。声はほとんど漏れず、喉の奥でころがるだけのかすかな笑い。それでもその音色は、佐野の胸に柔らかな弦の震えを走らせる。湯気が二人の間を漂い、淡い陽がそれを透かして虹色の輪郭を与える。佐野はその靄を指先で掬うように、卓の上で軽く手を動かす。その仕草は茶を点てるときのように滑らかで、尾崎はその動きを視線で追う。追いながら、心の中でそっと呟く。過去も未来も、いまは一度脇に置い
湯の沸く小さな音が途切れ、ほうじ茶の甘い香りがふわりと漂った。奥の厨房から佐野が現れる。淡い藍の作務衣の袖を肘まで軽く捲り、木の盆に湯のみ二客と急須を載せている。歩みは静かで、畳を踏むたびに布の擦れる音がわずかに揺れた。盆から立ち上る湯気は細く白い筋となり、差し込む春の光に触れてほどけ、やがて空気へ溶け込んでいく。尾崎は窓際で帳簿を閉じ、視線を佐野へ向けた。湯気が流れる先で、佐野の輪郭がやわらかく歪む。その影が近づくたび、ほうじ茶の香ばしさがいっそう濃くなる。佐野は盆を卓に置くと、湯のみをひとつ尾崎の前へ滑らせ、もうひとつを自らの席に据えた。湯面に映る椿の白がゆらりと揺れて、淡い金の縁が微光を返す。「白椿、よう咲いとるな」佐野の声は相変わらず穏やかだったが、目尻の皺がいつもより深く、頬の緊張も少しゆるんでいた。長い睫毛の先で光を受け、瞳がほんのりと濡れた茶色にきらめく。尾崎は頷きながら視線を中庭へと戻した。白椿の花弁が朝日を透かし、淡い影を石畳に落としている。緩やかな風が枝を揺らすたび、椿の花はふわりと首を傾け、葉に落ちた露を細く弾いた。「まるで、ここだけ冬と春の境目みたいですね」尾崎はそう言いながら湯のみを持ち上げた。湯気が眼鏡のレンズを曇らせ、彼はゆっくりとまぶたを閉じる。鼻腔に満ちる焙じ茶の香ばしさは土の匂いを帯び、それが温度を伴って胸に降りていく。かつては熱い飲み物でさえ急いで飲み干そうとしていた自分が、いまはこうして香りだけを味わっている。指先に伝わる器の温もりがささやかな安堵となり、肩の力がじわりと抜けた。佐野も湯のみを傾け、軽く唇をつけた。彼は飲み込む前に一度息を含むように口内で湯を転がし、喉へ送る。動作は滑らかで、湯を置く音もわずかだった。盆の縁に指を添え直す仕草がゆるやかで、そこに昨夜まで纏っていた気負いはない。佐野が視線を白椿へと移すと、薄い唇の端がほんのわずか上がった。それは笑みともため息ともつかぬ小さな動きだったが、尾崎にははっきりと伝わった。「椿は冬に咲く花やと思われがちやけど、ほんまは春先に咲く花やね。、季節が混ざり合う瞬間みたいやな」佐野の言葉は、湯気の中で溶けるように静かだった。尾崎は湯のみを卓に戻し、