LOGIN「国家レベルの暴力に怯え、魔王の救いの手に縋り付く。……そんな飼い犬の思考は、私の脳髄から完全に消え去っていた」
◇
壁一面の巨大なモニターの向こう側で、カン・テジュンが私を見下ろしている。
ソウルの医療刑務所の、水も食料も絶たれた究極の密室。私が送った『真っ黒な泥水の入った注射器』を自らの静脈に打ち込み、狂気のバグに侵されているはずの男。だが、画面の中の彼は、シルクのガウンを泥水で汚しながらも、かつて私を震え上がらせた「絶対的な魔王」の威圧感を、少しも失ってはいなかった。
『お前のお遊戯(ハッキング)や、クォン程度の暴力では、国家レベルの暗殺部隊は防げない。……俺の鎖を解け。一時的に手を組むか、美咲(韓国語)』
静まり返ったペントハウスのリビングに、テジュンの低く、ネットリとした声が響く。
その圧倒的な眼力と、絶対的な説得力。 私の足元で片膝をついていたクォンでさえ、かつての主人のオーラに当てられ、ゴクリと生唾「暴徒と化した大衆を盾にすれば、いくら絶対女王でも手が出せないと高を括っていた。だが、本物の化け物は、人間の命の重さなど、路傍の石ころ程度にしか考えていなかった」◇ 十一月十二日、夕方。 空はどす黒い雲に覆われ、天神の街には冷たいビル風が吹き荒れていた。 十三人もの候補者が乱立する異常な選挙戦。その狂騒の中心地である天神交差点は、仕事帰りのサラリーマンや若者たち、そして各陣営の運動員たちで埋め尽くされ、足の踏み場もないほどの人口密度に達していた。『――不法滞在者を追い出せ!』『――特定の国に媚びを売るスパイ政治家を、我々の街から追放せよ!』 交差点の四方に停められた選挙カーからは、排外主義的なスローガンが鼓膜を劈くような大音量で流されている。 私が絢乃のSNSアカウントから拡散した『外国の武装テロリストが潜入している』というフェイクと真実の混ざった告発により、群衆のボルテージは極限まで達していた。 彼らの目は血走り、スマートフォンを高く掲げながら、自分たちの薄っぺらな日常を脅かす見えない「巨悪」を探して熱狂している。 私は、交差点を見下ろす外資系最高級ホテルのスイートルームの窓から、その光景を眺めていた。「……完璧ね。これでアリンの私兵部隊も、身動きが取れないわ」 私の足元には、恐怖で完全に自我を失い、私の命令のままにSNSを更新し続ける結城絢乃が、豚のように這いつくばっている。 大衆の無責任な正義感と、選挙戦の異常な熱狂。彼ら一人一人は無力でも、数千人という単位の「監視の目」と「スマートフォンのカメラ」が向けられれば、国家レベルの暗殺部隊であろうと白昼堂々手出しはできない。 これこそが、私を守る最強の『肉の盾』だ。 だが。「……女王様。嫌な予感がします。あのアリンという女が、こんなことで引き下がるとは……(韓国語)」 背後に控えるクォンが、窓の外を睨みつけながら低く呟いた、その瞬間だった。 ウゥゥゥーーーーンッ!!
「この狂った街で一番恐ろしいのは、銃を持った暗殺者ではない。顔の見えない無数の『正義』が一つにまとまった時の、吐き気を催すほどの暴力だ」◇ 十一月十二日。 天神の空は、厚く淀んだ鉛色の雲に覆われていた。 だが、地上の熱気は異常だった。警固公園から渡辺通りにかけて、十三人の候補者たちが放つ選挙カーの爆音が、街全体の空気をビリビリと震わせている。 特に耳を劈くのは、保守系の陣営ががなり立てる排外主義的なスローガンだった。『――この美しい福岡を、外国の資本と不法滞在者から守り抜きましょう!』『――特定の国に媚びを売るスパイ政治家を、我々の街から追放せよ!』 広場に集まった群衆は、その言葉に熱狂し、拍手喝采を送っている。 彼らの多くは、日々の生活の鬱憤や、漠然とした将来への不安を、「目に見える異物(外国人)」を叩くことで晴らそうとしているだけだ。 正義という名の、最も安上がりで暴力的な娯楽。 私は、外資系ホテルのスイートルームの分厚いカーテンの隙間から、その群衆の蠢きを冷ややかに見下ろしていた。「……本当に、素晴らしい景色ね」 私の足元では、結城絢乃がボロボロのバスローブ姿で膝を抱え、しゃくり上げている。 昨日、私が頬を張り飛ばし、完全な恐怖で首輪を嵌めた「純白の敗者」だ。「さあ、絢乃ちゃん。あなたのアカウントのパスワードを教えなさい」 私は、絢乃のスマートフォンを取り上げ、彼女の顔の前に突きつけた。 数十万人のフォロワーと、それ以上の数のアンチを抱える、彼女の公式アカウント。 これまで彼女を「中国のスパイ」として社会的に抹殺してきた、あの底なしの悪意の集合体だ。「な、なにを……するの……っ」「簡単なことよ。この街の『熱狂』を、少しだけ方向修正してあげるの」 私は、震える彼女の指を無理やり画面に押し当て、ロックを解除させた。 そして、あらかじめクォンに用意させていた文
「絶対的な暴力によってすべてを奪われた私は、生き残るため、自らが飼い慣らした最も惨めな『純白の敗者』の密室へと這いずり込んだ」◇ 十一月十一日。 天神の巨大な交差点に響く、十三人の亡霊たちによる狂騒の選挙パレード。 私たちは、その無関心な大衆の波に紛れ、路地裏の泥水と血の跡を必死に誤魔化しながら、天神の中心部にある外資系最高級ホテルへと逃げ込んだ。 VIP専用の隠しエレベーター。昨日、私が結城絢乃を脅迫し、絶対的な主従関係(首輪)を結んだ時に使った裏ルートだ。「……女王様。アリンの私兵部隊が、このホテルの防犯カメラのネットワークに侵入してくるのも時間の問題です。長くはもちません(韓国語)」 エレベーターの中で、泥だらけのスーツを着たクォンが、肩の銃創を庇いながら荒い息で告げた。「分かっているわ。……でも、丸腰で野垂れ死にするよりはマシよ(韓国語)」 私は、冷たいステンレスの壁に寄りかかりながら、自分の血と泥に塗れたトレンチコートを見下ろした。 絶対的な女王としてのプライドも、天神の地下利権も、すべてをソル・アリンという理不尽な化け物に焼き尽くされた。 今の私は、尻尾を巻いて逃げ惑う、ただの惨めな敗者だ。 だが、死んでたまるか。 どれだけ泥水をすすろうと、他人の死骸をいくつ踏み台にしようと、私は絶対に生き残る。私のこの醜くも美しいエゴイズムだけは、あの韓国の財閥令嬢にも、医療刑務所にいる魔王にも、絶対に奪わせはしない。 チンッ、と。 静かな電子音とともに、最上階のスイートルームのフロアに到着する。 私はマスターキーを使い、絢乃が引きこもっている部屋の重厚な扉を開け放った。「……」 部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、私は思わず顔をしかめた。 最高級のスイートルームは、重厚な遮光カーテンがすべて閉め切られ、昼間だというのに完全な暗闇に包まれていた。 そして、淀んだ空気の中に、吐瀉物の酸っぱい匂いと、何
「絶対的な暴力の前に這いつくばった私は、理不尽に破壊されていく自分の箱庭を、泥水の中からただ見上げるしかなかった」◇ 十一月十日。 私は、天神ビッグバンの巨大な地下空間――まだ一般の目に触れることのない、未供用の連絡通路の奥深くで、ガタガタと震えながら身を潜めていた。 昨夜、西中洲のペントハウスでアリンの私兵部隊から受けた強襲。 クォンの決死の閃光弾のおかげで、私たちはなんとか那珂川へ飛び込み、死地を脱した。しかし、それは決して「スタイリッシュな逃走劇」などではなかった。 氷のように冷たい十一月の泥水を飲み込み、ヘドロの悪臭にむせ返りながら、這いつくばって川岸に辿り着いた。私の漆黒のコートは泥と血でドロドロに汚れ、自尊心は音を立てて完全に粉砕された。「……女王様。お怪我は(韓国語)」 暗闇の中、私の横でクォンが低く囁く。彼のスーツも泥だらけで、肩口からは血が滲んでいた。「……平気よ。それより、地上の状況は?」 私は、震える手で防水仕様のスマートフォンを取り出し、画面をタップした。 画面に映し出されたのは、本日の福岡市議会、最後の定例会の様子だった。『私が市長になったのは、2010年、36歳のときでした……』 壇上でマイクに向かって語っているのは、昨夜、アリンの部隊に血だるまにされていたはずの高柴市長ではない。 彼の代わりに壇上に立っているのは、顔面蒼白で冷や汗を流す副市長だった。「本日は高柴市長が急な体調不良により欠席のため、私が代読させていただきます……」 震える声で読み上げられる、綺麗事で塗り固められた退任挨拶。『天神ビッグバンなどを責任を持って進め、オフィスの新しい役割を示したい……その思いで、4期目に臨みました。……新しい基本計画も策定し、未来への新たな種も蒔きました』『……だ
「私が積み上げてきた情報と心理戦の完璧な城は、理不尽で純粋な『暴力』という大津波の前に、一瞬にしてただの泥水へと還元された」◇ 十一月九日、深夜。 冷たい秋雨が、西中洲の石畳を黒く濡らしていた。 私は漆黒のトレンチコートの襟を立て、那珂川沿いに建つ最高級タワーマンションの最上階へと向かっていた。 私のコートのポケットには、昨日、完全に屈服させた結城絢乃から奪い取った『地下空間譲渡契約書』の電子データが入ったUSBメモリがある。 そして今夜、私はこの西中洲のペントハウス――高柴市長の極秘の隠れ家から、その売国契約の『原本』を回収し、あの男の息の根を完全に止める。 私が天神の絶対女王として君臨するための、最後の仕上げ(パレード)だ。「……女王様。嫌な予感がします。このフロア、静かすぎます(韓国語)」 私の斜め後ろを歩くクォンが、懐の拳銃に手をかけながら低く囁いた。 確かに異常だ。現職市長の隠れ家であるにもかかわらず、セキュリティの気配が全くない。監視カメラの赤いランプも消え、廊下は不気味なほど静まり返っている。「構わないわ。中に入って、金庫を開けるだけよ(韓国語)」 私は、絢乃から聞き出した暗証番号を打ち込み、重厚な扉を開け放った。「……ッ!」 扉を開けた瞬間、私の鼻腔を突いたのは、むせ返るような鉄錆の匂い――大量の生血の悪臭だった。 広大なリビングルーム。 その中央に敷かれた真っ白なペルシャ絨毯は、赤黒い血でドロドロに染まり、水たまりを作っていた。 そして、その血の海の中で、一人の初老の男が、原型をとどめないほどに顔を腫れ上がらせて倒れている。 高柴宗一郎市長。 十六年間、この天神に君臨してきたカリスマ政治家が、口から血の泡を吹き、豚のようにピクピクと痙攣しながら這いつくばっているのだ。「……遅かったわね、泥棒猫(韓国語)」 リビングの奥。 革張りの特注ソファに深く
「大衆の悪意と裏社会の暴力に引き裂かれた純白のお人形は、最後には私の靴を舐めるしかなかった」◇ 十一月八日。 投開票まで残り一週間となった福岡市長選は、完全にカオス(混沌)の泥沼へと沈み込んでいた。 天神のペントハウスの巨大モニターには、朝から同じような世論調査のニュースが繰り返し流れている。『福岡市長選、過去最多十二人の乱立により票が極度に分散』『法定得票数(有効投票の二十五パーセント)に誰も届かず、再選挙の公算大』。「……計算通り、いえ、それ以上に滑稽な展開ね」 私は、絢乃から手に入れた高柴市長の不正データが詰まったUSBメモリを指先で弄りながら、氷のように冷たく微笑んだ。 高柴市長が自分の裏金を使ってダミーの候補者を大量に擁立し、意図的に票を割らせて「再選挙」という時間稼ぎの空白を作る罠。 このまま誰も法定得票に届かず再選挙となれば、選挙戦は泥沼化し、高柴の任期満了である十二月六日までに、天神ビッグバンの地下空間独占譲渡契約は完全に中国資本へと渡ってしまう。「でも、その完璧な盤面も、これで終わりよ」 私は、傍らに控えるクォンへUSBメモリを放り投げた。「クォン。昨夜、地下の工作員が吐いた『西中洲の隠れ家』の金庫の鍵と、このデータサーバーのバックドア。……完全に一致したわ(韓国語)」「……! では、あの譲渡契約書の『原本』のありかが……! (韓国語)」「ええ。高柴が中国資本と交わそうとしている、この街を売り渡す売国契約の動かぬ証拠よ。……これで、チェックメイトだわ(韓国語)」 私は、テーブルの上に置かれた最新型のスマートフォンを引き寄せた。 それは、絢乃から奪い取った、中国資本の幹部と高柴市長だけが繋がる、暗号化された極秘回線専用の端末だ。 私は迷うことなく、高柴の番号をタップした。『……結城くんか。今は不用意に連絡をし