「夫を殺す凶器(ナイフ)を手に入れるため、私は今夜、瀕死の猛獣と契約する――」◇「……美咲? おい、聞いてんのか?」 洗面所のドアごしに、健太の苛ついた声。 私は蛇口を閉め、鏡の中の自分に「従順な家畜」の仮面を貼り付けた。「ごめん、健太。貧血みたいで……」 ドアを開け、弱々しく微笑む。「今日の調印式……父さんには申し訳ないけど、休んでいいかな? 天神のビルの権利書、金庫から出しておいたから」 健太の瞳が、一瞬だけ野獣のようにギラついた。 私の実家が持つ天神の雑居ビル。再開発バブルの福岡において、あの土地はダイヤの原石だ。 そのために私と結婚し、父を殺し、私を殺した男。「ああ、もちろん。美咲は大事な体なんだ。寝ててくれよ」 健太は私の額にキスをした。 ナメクジが這ったような、湿った感触。 玄関のドアが閉まった瞬間、私は額を手の甲で乱暴に拭い、洗面所へ戻って吐いた。 (行ってらっしゃい。……その土地が、あなたの墓標になるのよ)◇ 喪服のような黒いワンピースに着替え、雨の博多へ飛び出した。 スマホの検索履歴を叩く。『2025年2月14日 福岡 中洲 韓国人投資家 襲撃』 カン・テジュン。 韓国財閥のトップであり、冷徹な「土地の狩人」。 前世の記憶では、彼もまた天神の再開発を狙って来日するが、今夜、反対勢力のヤクザに襲撃され、再起不能の重傷を負うはずだ。「……韓国語、忘れてないわよね」 前世、健太は私に無理やり韓国語を習得させた。「これからは韓国投資家の時代だ。お前は接待で愛想を振り撒け」と。 夫のために血を吐く思いで覚えたその言葉が、皮肉にも今、夫を殺すための武器になる。◇ 夜の中洲。那珂川沿いの路地裏。 ドブ川の腐臭と、錆びた鉄の臭いが鼻をつく。 バケツをひっくり返したような豪雨が、アスファルトを叩きつけていた。 ゴッ、と鈍い音が響く。肉が潰れる音だ。「……死ねよ、韓国(かんこく)の野良犬が」 数人の男たちが、鉄パイプで一人の男を滅多打ちにしている。 中心にいるのは、カン・テジュンだ。 額からおびただしい鮮血を流し、泥水に膝をついている。 だが、その目は死んでいない。 囲まれているのは彼の方なのに、まるで手負いの虎が獲物を品定めするような、圧倒的な殺気を放っていた。「しつけえ野郎どもだ……(韓国語)」 テジュンが低く唸る。
Last Updated : 2026-07-24 Read more