50 「それだと今も誰かに素行調査の一環として誰か調査員につけられて 見張られているかもだね」 「そうですね。 私が就職で良いチャンスを掴んだと思うと内定が取り消しになったり、結婚しよ うと思っていた矢先に相手の親族から『素行が悪いので結婚を認めるわけにはいかない』 と言われたり、絶対私を幸せになどするものかという強い意志を感じます。 当初はたまたまかなとか、今までの心映えの悪さが自分に返ってきてるのかなぁ~とか思ったりしてたけど、私の素行の悪さを指摘された時にこれは偶然なんかじゃないって確信しました」 「君の話を聞いていて思ったんだけど、一度世間から身を隠して大きな幸せ、 つまり優良企業に勤めるとか玉の輿に乗って結婚するとかを諦めて、どこか 田舎でつつましく生きていくのが最善じゃないかって思うね。幸せを感じられなくても、苦しかったり辛かったりのない生活で満足でき ない?」「幸せはなくて、でも苦しみも不安もない暮らしですか?」「死のうと思っていたその苦しみがなくなれば、それでよしとしないかい? 私は今から瀬戸内海のある離島に帰るのだが、家族のいない気楽な独り暮らしで君ひとりくらいなら泊めてあげられる部屋もある。 着の身着のまま一緒に行かないか? 車に私のジャケットがあるからトイレでそれに着替えて少し変装して、 そのまま私の車に乗り込めばなんとか追跡してる人間を撒けるかも しれないな。 余計だというなら最寄り駅まで送って行ってあげるよ。 そしてそこでさよならしよう。どうする?」 「私は島本玲子と言います。 お言葉に甘えて逃亡することにします」 「私は井出耕造。 じゃあここで待っていて下さい。 ジャケットを取りに行ってきますから。 紙袋に入れて持ってきます。 そしてそれをあなたに渡しますね。 私の車のナンバーと色を今から言いますからメモしておいて下さい。 駐車場はあそこですからね」 と井出は指さした。 「今から私が歩いて行くのを見ていたらだいたいの位置が分かると思います」 玲子は井出の言う通りに動いた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 私は井出さんの手引きで離島に無事渡ることができた。 渡ったは渡ったけれど、上手く追跡から逃れら
51 仕事が見つかり落ち着くまではずっといてもいいと井出に言ってもらえ、玲子はしばらく井出の家にやっかいになることに。 ひと月ほどで介護施設での介護スタッフとしての仕事を見付けることができた。 それと共に正式にヘルパー2級の資格を取るための勉強も始めることに。 そんな矢先に夢見の悪い同じような夢を頻繁に見るようになる。 一言の返事の対応を間違えたせいで、その後いろいろと因果応報を身に受け……井出と暮らし始めてから、急に胸が痛み出したり涙が止まらない発作が起き始め、そのうち夢の中で自分が花になっていて玲子扮する玲子から、まんまの返事をされ深い絶望を味わう。 夢を見た日は悲し過ぎて起きるといつも泣いている。 夢の中で花の立ち位置になってみてようやく玲子はあの日の花の痛みを知った。 井出の家の間取りは和室4つが互いに隣り合っている形で、見る見ないのプライバシーは守られているが、夢を見てうなされたりした時の声音やクシャミなどに関しては筒抜けだ。 それに加えて井出は小冊子のコラムを書いたり投資などもしているようで深夜、明け方に起きていることもしばしばだ。 そんな状況なので玲子が夢を見てうなされるようになると、しばらくして井出に気付かれることとなった。「なんか、最近うなされているようだが追いかけられてることと関係してるのか?」「夢の中で毎回、私が苦しめた女性の立場になって苦しくて辛い経験をしてるんです。目覚めると夢を見た日は死にたくなる」「君が私と一緒に追っ手の前から姿を消したものだから、今度は呪術を使って夢で苦しめに来たのだろうか」「そんなぁ~呪術だなんて、まさか」
52 「関係者に謝罪したって言ってたけども本丸のその花さんって人にも ちゃんと謝罪したの?」 「それが、会えなかったんです。 会わせてもらえなかったというほうが正しいかも。 ちらっと精神を病んだと聞いてるので今更私のことなんて 耳に入れたくなかったのかも。 私ってほんとに最低なことをしてるんです。 でも周囲から幾ら非難されても以前は分からなかったの、 分かってなかった。 花さんが実際夢の中で私が感じたような苦しみと悲しみを 体験していたとしたら、私は花さんの心を殺したも同然なんですよね。 夢を見た日は本当に死にたくなる。 私、夢を見るようになってよく分かったんです。 私はもう幸せなんて求めてはいけないって。 何かが私のことをずっと追いかけてきてどんな小さな幸せの芽も 開きそうになると摘み取っていくの」 「君さぁ、これから毎日心の中でもいいし声に出してもいいけど、 その酷いことをして苦しめた花さん、そしてある意味無実なのに 君のせいで有罪にされた匠吾さんだったか、そのふたりに謝ったほうがいいよ。『意地悪と嫉妬であなたたちに酷いことをした私を、充分反省しているので お許し下さい』ってね。 もうそんなことになってるのなら、そういうのしか方法はないと思うね。 夢を見なくなるまで心から謝るんだよ。 そして神仏にも祈り、助けてもらうほかないだろ。 そして時間が過ぎていくのをじっと待つしかないな。 できればこの先もこの島を出ない方がいい。 あの日あの海浜公園でぷっつりと君の痕跡は途絶えたことになってる。 だけどほとぼりが冷めて自宅に帰ったりすればすぐに見つかってしまうだろう。 結婚もしない方がいいだろうな。 そうすれば今あるささやかな暮らしは続けられるかもしれん」 「そうですね。 私、これから毎日心の中でふたりに謝罪しながら生きていきます」
53 俺のアドバイスを守り、朝な夕なに謝るべき人たちに謝罪をし、神仏にも すがっている玲子の様子が伺えた。 仕事も真面目に続いてる。 俺は玲子から悪夢の話を聞いた日にいろいろアドバイスしたのだが その時にこんなことも彼女に提案してあった。 石の上にも3年という諺があるように修行と思い3年間は我慢をして、 この先3年は独りで慎ましく暮らすこと。 元々今回のことは色恋を拗《こじ》らせた結果だからね、と。一度彼女が悪夢でうなされて起きた時、ちょうどまだ俺が仕事で起きていたのだ が何気に『怖い』と言って俺の側近くにすり寄って来たことがあった。 つくづく彼女は魔性の女だと思ったね。 出会いがこんな形でなければ俺もあの場面で据え膳を食わずにいられたかどうか、はっきり言って自信がない。 もうアラサーの域にかかっている女だがまだまだ十二分に美しさを 保っているからね。 彼女は残りの2年と数か月を果たして大人しく地味に 淡々とやり過ごしていけるのだろうか。 杞憂に終わればと思っていたのだが……。 ◇ ◇ ◇ ◇ 平日の昼下がりに初めて見る顔の来客があった。「井出ですが何か……」 「初めまして、内野と申します。 井出さんは島本さんの身元引受人ということになってらっしゃるので 彼女のことでご相談に上がりました。 どこかでお話を聞いていただけましたらと思います。 あの……突然のことで申し訳ありません」 彼女は玲子が通っている特別養護老人ホームに勤める看護職員であると 自己紹介してきた。 心を落ち着かせ、宥め、私に話をしようとしている姿が痛々しかった。 彼女の様子から俺は何やら胸騒ぎを覚えた。
54「持って回った言い方で丁寧に言葉を選んでいるとなかなか言いたい本音に辿り着かないので失礼を承知ではっきりと申し上げたいと思います」と始まり、動揺を隠して何とか平静を保ち話をしてくれた内容は次のようなことだった。 特別養護老人ホーム(鶴林園)という同じ職場で働く医師の宅麻士稀《たくましき》は婚約こそしていないが結婚の約束もしていた自分の恋人である。 その彼が自分に内緒で島本玲子と2度ほど飲みに行っていた。 彼は自分には内緒にしてるから、おそらく『恋人には秘密でね』と暗黙の了解の元、玲子と会っていたのではないかと推測される。 だが職場の手洗い場で一緒になった折に、玲子から宅麻と飲みデートに行ったと仄めかされ、内野はその事実を知ることになったという。 玲子と恋人の宅麻がいつの間にそんな仲になっていたのか、それだけでも驚きなのに玲子はその後追い打ちをかけるような発言をしたのだという。 内野さんから宅麻氏を奪ってみせると自信満々に告げたらしい。 そのようなことを聞かされた内野さんは、ものすごく不安で胸が押し潰されそうだと私に吐露した。「こんなに不安になるのは、私、たぶん島本さんに勝てる自信がないからなんだと思います。 恋愛は自由ですし宅麻くんが私より島本さんの方がいいと言うのなら諦めないといけないことも分かってるんですけど、誰かに話を聞いてほしくて……。 その一心で島本さんの身上書を見てこちらに伺いました」「辛かったですね。 私はお話を伺うことだけしかできませんが、その恋人宅麻さんでしたっけ? 彼とは話し合いましたか?」「はい。 飲みのデートに行ったことは認めましたし、誘われればまた次も行くかもしれないと言われてしまいました」「今は年上のきれいな女性に言い寄られて舞い上がっているのでしょう。 内野さん、あなたはまだ若い。 看護師さんなら働ける職場はたくさんあるでしょ。 そんな冷たい恋人はあなたの方から振っておやりなさい。 あなたのようにやさしくて素敵な女性にはこの先もっと良い縁がありますよ。 私が保証します」
55「そうですよね。 私、そうします。 あんな薄情な人とはお付き合い止めます。 私、今日、井出さんに会いに来て良かったです。 きっとこんなふうに背中を押してくれる人を探していたんだと思います。 ありがとうございました」「前向きに考えられるようになってほんとに良かった。 玲子さんにはお灸をすえておきますからね」 若くて可愛らしい内野さんは少しの笑顔を取り戻して帰って行った。『島本玲子……やっぱりやりやがった』 これでお前の地獄行きが決定だ。 井出耕造48才、島暮らし。 ただし、ほんの1年前からの。 作られた島での俺の設定。 総帥からの依頼だった。 玲子がこの島で改心して暮らせば放流してやろうとのお考えだった。 反省もなく、異性トラブルを犯せば今度こそ直接総帥から厳しいお沙汰がくだされるだろう。 馬鹿な女だ。 あれほど真面目に暮らすよう忠告してやったというのに。 三つ子の魂百までとは昔の人はよく言ったものだな。 見た目と中身の釣り合いが取れていない残念な女だ。 どんな男をも虜にできるほど美しいのだから何もわざわざ人のモノに手を出さずとも言い寄って来る男はたくさんいるだろうに。 つくづく厄介な性《さが》を持って生まれ落ちたものだ。 一応この話が本当か井出は証拠取りをすることにした。 内野さんが有給を取って俺のところに来た日、その日の内に人を使っての裏取調査を依頼した。 内野さん自身がすでに恋人である宅麻から言質《げんち》を取っているようだし十中八九虚言ではないと思うが、間違いを犯さないための裏取は必須だ。 2日後、内野さんの話に虚偽はなかったことを立証する報告書が届いた。 これでこの先俺がどう動けばいいのかが決まった。 彼女《玲子》は最後のチャンスを失った。
56 調査報告書が届いた日の夕食時に俺は玲子をドライブに誘った。「仕事も3ヶ月過ぎて4ヶ月目に入るけど、どう? 慣れてきた? 続けられそう?」「はい、お陰様で。 これも井出さんのお蔭です。ありがとうございます」「夢の方はどう? あれから」「神仏に手を合わせるようになってからは見なくなりました。 良くないんでしょうけど、手を合わせるのを忘れることもあるくらいなんです」「へぇ~そりゃぁ良かった。 じゃあ体調も気分も良さそうなところで本州までドライブしますか、次の土曜日あたりにでも」「土曜はちょっと、約束があって……」「じゃあ日曜にしようか」「はい、喜んで。楽しみです。 あちらでないと買えない物もあるし、あちらで買い物してもいいでしょうか?」「いいよ、勿論」『そんな時間があれば、だがな』 玲子は余りに順調な日々に浮かれていた。 自分の魅力に嵌り恋人になりそうな相手は年下のイケメン医師。 宅麻には看護師のガールフレンドがいるようだが、見たところ若いだけが取り柄の色気も何もない平凡な子だった。 そして自分の色気に唯一靡《なび》かなかった井出までもがドライブを誘ってきた。 またまたのモテ期を喜ぶ玲子だった。 土曜は宅麻医師とのデート、そして日曜は48才と若干おじさんではあるが、そこそこ色気もあって理知的で物腰の柔らかな井出にも一緒に暮らし始めてから好意を抱いていた玲子は一緒に長時間密室で過ごせるドライブを楽しみにしていた。 ◇ ◇ ◇ ◇「玲子ちゃん、今日は走行中後部座席でゆっくり休めばいいよ。 そうしたら体力温存できて現地着いてから楽だよ」「ありがとうございます。 じゃあお言葉に甘えてそうさせていただきます」 少し前、多少の身の危険を感じて本州から島へ渡った時は井出さんの隣助手席に座りフェリーで海を渡った。 まだ3ヶ月ほど前のことなのに何だか随分昔のことのように思える。 それにしても……今日の井出さんはいつもと空気感が違うなって思ってたら、ヘアースタイルも何気にモデルのようにバッチリ整えられてるし、スーツにネクタイ、腕時計と、どれも一流品に見える。 ただのドライブなのに。 ドライブがてら仕事も挟んでたりするのだろうか。 それともどこかに花束なんか隠してて高級レス
57「それと走行中、業務関係の人と遣り取りするかもしれないけど気にしないで寝てていいよ」 そう言う井出さんは見るとハンズフリーのイヤホンを耳に装着していた。 なんかめちゃくちゃデキるボディガードみたい。 そんなことを考えながらスムーズな走行に私はうつらうつらしていた。 井出さんが誰かと遣り取りしているみたいで会話している彼の声が子守歌のように心地良かった。「玲子ちゃん……玲子ちゃん、着いたよ」「あぁ、ごめんなさい。つい寝てしまってたみたい」 私たちがいるのは広いけれど周囲は壁で囲まれていて地下の駐車場のようだった。 エレベーターに乗ると階数のボタンがたくさんあって、かなりの高層ビルだということが分かった。 どんな素敵なレストランなのだろうと私は井出さんが20階のボタンを押すのをドキドキしながら見ていた。 エレベーターを降りて左方へ歩いて行くと一面シースルーで外から中が見通せる会議室のような部屋が現れてびっくりした。私は先を歩く井出さんに声を掛けた。「あの、ここってどういう……」「今説明しなくても直ぐにここへ来た理由が分かるので取り敢えず部屋に入ったら私が案内する席に座って下さい。 そのあと会長から説明があると思うので」「会長って誰? どこの?」 もう説明はしてくれなさそうな井出さんの背中に向けて呟いた。 部屋の入口をくぐる前に、長楕円形の卓の向かって左右壁に沿って男の人が1人ずつ立っている中の様子が見えた。 そして入り口をくぐる時に、右手1mくらいのところに男性が1人立っているのに気がついた。 井出さんは私が座るべき席を案内してくれるとそのまま、入り口から左手1mくらいのところに立った。 他の人に気を取られて気付かなかったけれど座った私の正面向こう側には初老の男性が座っていた。 そしてその人が口を開いた。
117 遠野さんの分かってます発言はほんとに分かっていての発言なのか、 非常に怪しい。 最後の含み笑いは私を困惑させるのに十分な威力を備えていた。 周囲には隠して付き合っている、というストーリーが彼女の頭の中で 展開されている節がある。 何故なら相原さんと付き合っているのか、という問いかけはなかったからだ。 まぁあれだ、彼女は小説を書く人だから、一般人よりは妄想たくましい 可能性はあるよね。 相原さんとデートしたことなんて絶対知られないようにしなきゃ、だわ。 何気にこういうの疲れるぅ~。「掛居さん、私、夜間保育をして少しずつ相原さんとお近づきに なりたいんです。 それで芦田さんに夜間保育をやりたいってお願いしてみようかと 思ってるんですけど、立候補したら迷惑でしょうか……迷惑になります? ご迷惑ならこの方法は止めなきゃ駄目ですよね」 私は先ほどから遠野さんの言動に驚かされてばかりなんだけど、 今の話を聞いて更に『目玉ドコー』な感覚に陥った。 なんて言うんだろう、彼女のお伺いって控えめさを装った強引な お願いにしか聞こえなくて、少し嫌な感じがする。 元々こういうキャラの女性《ひと》だったのか、はたまた片思いが 高じた所以のものなのか。 よく考えてみたら私が持っていた遠野さんのイメージなんてたまに 社食で昼食を一緒に摂るだけの間柄で何を知っているというのだ。 恋する乙女は貪欲で猪突猛進で私は恋する乙女? の力強さにある意味 感服するところもあるけれど、自分に置き換えてみるに、とてもそんなふう な形での力強さは一生掛かっても持てそうにないや。
116「皆《みんな》モチモチしていて可愛かったぁ~、大満足ぅ~。 掛居さんが抱っこしてた子って凛ちゃんですよね」「あぁ、うん。でもどうして……」 遠野さん、どうして凛ちゃんのこと知ってるのだろう。 「実は2回ほどひとりで昼休みに子供たち、見に行ったことがあって 芦田さんから聞いてたんです。 夜間保育のことか休日のサポート保育のこととか。 私、ちょっと後悔してるんですよー」「えっ?」「その理由が姑息過ぎて余り大きな声では言えないんですけど……」「なになに?」 「小説書くのに忙しいのは本当で、昼休憩の時間も惜しいくらい小説に時間 を割きたいというのも本当ですけど、あのカッコいい相原さんの娘さんが あの保育所にいるということなら話は別です。 こんな大事を知らなかったとは、迂闊でしたぁ~。 今までの時間が悔やまれます。 私なんて掛居さんより先に入社していたというのに。 掛居さん、私の言わんとするところ、分かります?」 「ええ、まぁなんとなくは。 相原さん本人に興味があるってことかな?」「え~いっ、掛居さんだから思い切って話しちゃいますね」 いやっ、話さなくてもいいかな。 だって話を聞いてしまうとなんとなぁ~くだけど後々ややこしいことに 巻き込まれそうな気がするのは取り越し苦労というものかしらん。 「相馬さんも素敵だけど今までの経緯を見ていると、とても並みの人間には 太刀打ちできない感じがして、遠い星っていう感じだから恋のターゲットに ならないでしょ? それに今や掛居さんといい感じみたいだし。 私略奪系は駄目なんですよね」 はぁ~、遠野さんの話を聞いていて私は頭が痛くなってきた。大体、今まで誰それに好意があるなんていう話を出してきたことなんて なかったというのに、いきなりの想い人発言。 しかも相原さんてぇ~、どんな反応すればいいのか困る。「あの、相原さんのことは何も反応できないけども、相馬さんとのことに 関しては、私たち付き合ってないから……」 「分かってますってぇ。むふふ」
115 「じゃあここで。 すみません、送っていただいて。 今日はいろいろとありがとうございました」「いや、これしきのこと。 しかし……ひゃあ~、まじまじとこんな間近で見るのは初めてだけどすごいね、35階建てのマンション。 今度さ、凛も連れて行くからお部屋見学してみたいなぁ~」「いいですよ。片付けないといけないので少し先になりますけどご招待しますね」「ありがたや。一生住めない物件だから楽しみにしてるよ。じゃあ」「はい、また明日」 いやぁ~、なんか相原さんのペースに乗せられて自宅の公開まで……。 私たちの距離が一遍に縮まりそ。 自分でも吃驚。 こういうのもありなの? ありでいいの? 答えはいくら考えても出ないけど、いたずらに拒絶するのもどうなのとも思うし。 それにちゃんと相原さん私の思ったこと分かってくれてるみたいだったし 取り敢えずこの夜、私は自分の胸に訊いてみた。 私は相原さんに恋してる? 恋に落ちた? NOだと思……う。 私は匠吾に向けていた……向かっていた強い恋心を元に考え、答えを導き出した。 素敵な男性《ひと》だな、とは思うけど、知らないことが多すぎる。 恋に落ちてないと昨夜、自分に向けて確認したけれど昨夜に引き続き、翌日になっても自分の気持ちが何気にルンルンしていることに気付いて、やっぱり異性とのデートは知らず知らず心が弾むものなのだなと悟った。 ただこれ以上深く考えようとするのは止めておくことにした。 そして今の自分の気持ちを大事にしようと思うのだった。 それから仕事終わりの金曜日……遠野さん、小暮さんと一緒にランチをしたあとのこと。 小暮さんはいつものようにいそいそと浮かんだアイディアを図にするべくデスクへと戻って行った。 いつもなら2人してデスクに戻るはずの遠野さんから『久しぶりにチビっ子たちを見に行きませんか』と誘われ、私たちは社内保育所へと足を運んだ。 遠野さんはいろいろな子たちと触れ合い、子供たちとの時間を楽しんでいるようだった。 私はというと、私を見付けた凛ちゃんが真っ先に飛んで来たので私はずっと凛ちゃんを抱いたまま他の子たちと触れ合い、昼休み終了の時間まで保育所で過ごした。 そんな私たちの様子をにこやかに見守っている芦田さんの姿が見えた。 子供たちと
114「えーと、私と一緒に食事して怒ってくる恋人的存在の女性がいたりってことはないですね? あとでトラブルに巻き込まれるのは困るのでここは厳しくチェックさせていただきます」「掛居さん、子持ちなんて俺がどんだけ素敵オーラを纏《まと》っていても誰も本気で相手になんてしないから。そういう心配はないよ」「えーっ、そういうものなのかなぁ~。 私は凛ちゃんみたいな可愛い子、いても気にしませんけど……。 あっ、私ったら余計な一言でした。 恋人になりたいとかっていう意味じゃなくてですねその……」 私はやってしまったかも。 微妙にこの辺のことは発言を控えた方がいいレベルだったと気付いたが時すでに遅し。 本心から別に今、相原さんLoveで恋人になれたらいいのに、なんていう恋心から言ったのではなく、常々凛ちゃん好き好き病でつい、口から零れ落ちてしまったというか、零れ落としてしまったのだけれど、なんか変な誤解を招く一言だったよね。 嫌な冷や汗が流れそうになった。 きゃあ~、絶対勘違いさせちゃったよね。『お願い~相原さん、変に受け取らないでぇ~』「いやぁ~、恋愛抜きでも凛のことそんなふうに思ってもらえるなんてうれしいよ。じゃあ子持ち30代、希望あるかな」 「はい、相原さんならばっちり」「そんなふうに言ってもらってうれしいけど……」「けど?」「なかなか出会いの場がないからねー」「ほんとに。仕事ばかりで出会いないですよねー。 世の男女はどうやって結婚するのかしら? そうだ、一度結婚したことのある先輩、どうやって出会ったんですか?」「あー、うー、その話はまた今度ってことで」「楽しみぃー!」 なんだかんだ2人で話しているうちに私たちはいつの間にかマンションの前に着いていた。
113 相原さんとの初デートは音楽と美味しい食事、そして語らえる相手もいて思っていた以上に楽しい時間を過ごすことができた。 こんなに近距離で長時間、洒落た時間を共有したことがなかったので、朗らかに活き活きと話をする相原さんを見ていて不思議な感覚にとらわれた。 私はこれまで交際していない男性と一緒に食事をするという経験がなく、世の中には恋人ではない異性の同僚と一緒に食事をするという経験のある人ってどのくらいいるのだろう? なんて考えたりした。 もちろん相手のことが好きでデートするっていうのは分かるんだけどね。 まだまだ相原さんのことは知らないことだらけだけど、彼と話すのは楽しい。 彼を恋愛対象として見た場合、凛ちゃんのことはさして気にならない……かな。 だけど凛ちゃんママの関係はかなり気にしちゃうかなぁ~などと、少し後からオーダーしたワインをチビチビ飲みながらほろ酔い気分でそんなことを考えたりして、一生懸命話しかけてくれている相原さんの話を途中からスルーしていた。笑って相槌打ってごまかした。『ごめんなさぁ~い』「明日も仕事だから名残惜しいけどお開きとしますか!」「そうですね。今日は心地よい音楽に触れながら美味しいものをいただいて、ふふっ……相原さんのお話も聞けて楽しかったです」「そりゃあ良かった」 支払いを終え、私たちは店の外へ出た。「今日はご馳走さまでした。 でも休日のサポートは仕事なので次があるかは分かりませんけど、もう今日みたいな気遣いはなしでお願いします」「分かった。 休日サポートのお礼は今回だけにするよ。 さてと、家まで送って行くよ」「えっ、でもすぐなので」「一応、夜道で心配だから送らせてよ」「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて」「俺たちってさ、お互いの家が近いみたいだし、月に1~2回、週末に食事しようよ。 俺、子持ちで普段飲みに行ったりできないからさ、可愛そうな奴だと思って誘われてやってくれない?」
112 お礼に、たぶんだが……何かご馳走してくれるらしいけどそれを彼は 『デート』と表現した。 シングルなのか既婚なのかは知らないけれど今でこそ子持ちパパだから デートする特定の相手がいるのかもどうかも分からないけど、独身だった頃 はあの見た目と積極的な性格を見るからになかなかな浮名を流していたので はなかろうか。 初めて社外でプライベートに会うのに『デート』という言葉をサラッと 使ったところを見ての私の感想だ。 私たちの初デート? は相原さんお勧めの駅前のカフェだった。 そこはジャズの生演奏が流れていてむちゃくちゃムーディーで恋人たちに もってこいの雰囲気があり、私には腰を下ろすのが躊躇われるほどだ。 お相手が素敵な男性《ひと》ではあるものの、残念ながら 恋人ではないから。 匠吾と付き合ってた時に巡り合いたかった……こんな素敵な夜を過ごせる お店。 昼間はどんな顔《店の様子》をしているのだろう。 駅前に立地していて自宅からも近いので次は平日の昼に来てみようかしら。 「俺たちラッキーだな」「えっ?」「何度か来たことあるけどジャズがスピーカーから流れていることはあって も生演奏は今日が初めてだからさ。うひょぉ~、やっぱ生はいいねー」「へぇ~、そうなんだ」 そっか、じゃあ平日来てもきっと生演奏はないだろうなー。 私たちはオーナー特製のピザと各々チーズのシンプルパスタと ツナときのこのパスタでボスカイオーラーというのを頼み、ジャズの演奏 を楽しんだ。 「掛居さんって家《うち》どの辺だっけ?」「言うタイミング逃してましたけど実は最寄り駅が相原さんと同じで ここから4~5分のところなの」 「まさか駅近のあの35階建てとか?」 ずばりそうなんだけど、相原さんの言い方を聞いていると『まさかね』 と思いながら訊いているのが分かる。 だって分譲で結構なお値段《価格》なのだ。 とてもその辺のサラリーマンやOLが買えるような物件じゃない。 本当のことを言うか適当な話でお茶を濁すか……どうしよう。「お金持ちの親戚が持っていて借りてるんです」「いいな、お金もちの親戚がいるなんて」 「まぁ……そうですね」
111 メールアドレスを残して帰ったものの、相原からは次の日の日曜Help要請が入らなかったので体調は上手く快復したのだろう。 今日は出社かな、週明け、そんなふうに相原のことを考えながらエレベーターに乗った。 自分のあとから2~3人乗って、ドアが閉まった。 振り返ると気に掛けていた人《相原》も乗り込んでいた。「あ……」「やぁ、おはよう」「おはようございます」 挨拶を返しつつ私は彼の顔色をチェックした。 うん、スーツマジックもあるのだろうけれど元気そうだよね。 土曜はジャージ姿で服装も本人もヨレヨレだったことを思えば嘘のように元の爽やか系ナイスガイになっている。『凛ちゃんのためにも元気でいてくださいね』 心の中でよけいな世話を焼きながら先に降りた彼の背中を見ながら同じフロアー目指して歩いた。 歩調を緩めた彼が少しだけ首を斜め後ろにして私に聞こえるように言った。「土曜はありがと。この通りなんとか復活できたよ」「……みたいですね。安心しました」 私たちの間にそれ以上の会話はなく、各々のデスクへと向かった。 昼休みにスマホを覗くと相原さんからメールが届いていた。「土曜のお礼がしたい。 残業のない日がいいので明日か明後日、いい日を教えて」「ありがとうございます。気にしなくていいのに……。 凛ちゃんのことはどうするんですか?」「デートの予定が決まれば姉に預けるよ」 お姉さんがいるんだ、相原さん。 じゃあこの間はお姉さんの方の都合が付かなかったのね、たぶん。「私はどちらでもいいのでお姉さんの都合のいい日に決めてもらって下さい」「じゃあ明日、俺の家の最寄り駅で19:30の待ち合わせでどう?」「分かりました。OKです」 すごい、私は明日相原さんとデートするらしい。 そんな他人事のような言い方が今の私には相応しいように思えた。
110 気が付くと、凛ちゃんの『あーぁー、うーぅー』まだ単語になってない 言葉で目覚めた。 ヤバイっ、つい凜ちゃんの側で眠りこけていたみたい。 私はそっと襖一枚隔てた隣室で寝ているはずの相原さんの様子を窺った。『良かったぁ~、ドンマイ。まだ寝てるよー』 私の失態は知られずに終わった。 私はなるべく音を立てないよう気をつけて凛ちゃんの子守をし、 彼が目覚めるのを待った。 しばらくして起きた気配があったので凛ちゃんを抱っこして近くに行く と、笑えるほど驚いた顔をするので困った。「えっえっ、掛居さんどーして……あっそっか、来てもらってたんだっけ。 寝ぼけてて失礼」 それから彼は外を見て言った。「もう真っ暗になっちゃったな。遅くまで引っ張ってごめん」「まだレトルト粥が2パック残ってるけど明日のこともありますし、 土鍋にお粥を炊いてから帰ろうかと思うので土鍋とお米お借りしていいですか?」「いやまぁ助かるけど、君帰るの遅くなるよ」「ある程度仕掛けて帰るので後は相原さんに火加減とか見といて いただけたらと……どうでしょ?」「わかった、そうする」 私は何だか病気の男親とまだ小さな凛ちゃんが心配でつい相原さんに 『困ったことがあれば連絡下さい』 とメルアドを残して帰った。 帰り際病み上がりの彼は凛ちゃんを抱きかかえ、笑顔で 『ありがと、助かったよ』と見送ってくれた。 私は病人と小さな子供にはめっぽう弱く、帰り道涙が零れた。 こんなお涙頂戴、相原さん本人からしても笑われるのがオチだろう。 たまたま今病気で弱っているだけなのだ。 普段は健康でモーレツに働いている成人男性なのだから泣くほど 可哀想がられていると知ったらドン引きされるだろうな。 そう思うと今度は笑いが零れた。 悲しかったり可笑しかったり、少し疲れはあるものの私の胸の中は 何故か幸せで満ち足りていた。
109「知りませんよー。 適当に話を合わせただけなので」「酷いなー。 俺との付き合いを適当にするなんて。 雑過ぎて泣けてくるぅ」 ゲッ、付き合ってないし、これからも付き合う予定なんてないんだから適当で充分なんですぅ。「別に雑に接しているわけではなく、分別を持って接しているだけですから。 そう悲観しないで下さい」「掛居さん、俺とは分別持たなくていいから」「相原さん、私、今の仕事失いたくないので誰ともトラブル起こしたくないんです。 特に異性関係は。 ……なのでご理解下さい」「わかった。 理解はしたくないけど、取り敢えずマジしんどくなってきたから寝るわ」 私と父親が話をしていたのにいつの間にか私の隣で凛ちゃんが寝ていた。 私はそっと台所に戻ると流しに溢れている食器を片付けることにした。 それが終わると夕食用に具だくさんのコンソメスープを作り、具材は凛ちゃんが食べやすいように細かく切っておいた。 それから林檎ももう一つ剥いてカットし、タッパウェアーに入れた。 スーパーで買って食べる林檎は皮を剥いて切ってそのまま置いておくと色が変色するけれど、家から持参した無農薬・無肥料・無堆肥の自然栽培された林檎は変色せず味もフレッシュなままで美味しい。 凛ちゃんが喜んでくれるかな。 そしてそこのおじさんも……じゃなかった、相原さんも。 苦手だと思ってたけどクールな見た目とのギャップが激しく、子供っぽいキャラについ噴き出しそうになる。 芦田さんに教えてあげたいけど、変に誤解されてもあれだよねー、止めとこ~っと。 ふたりが寝た後、私は自分用に買っておいた菓子パン《クリームパン》と林檎を少し食べてから持参していた缶コーヒーでコーヒーTime. ふっと時間を調べたら15時を回っていた。 さてと、重くなった腰を上げて再度のシンク周りの片づけをしてと……。 洗い物をしながらこの後どうしようか、ということを考えた。 もうここまででいいような気もするけど相原さんから何時頃までいてほしいという点を聞き損ねてしまった。 あ~あ、私としたことが。 しようがないので彼が起きるまでいて、他に何かしてほしいことがあるかどうか聞いてから帰ることにしようと決めた。