51 仕事が見つかり落ち着くまではずっといてもいいと井出に言ってもらえ、玲子はしばらく井出の家にやっかいになることに。 ひと月ほどで介護施設での介護スタッフとしての仕事を見付けることができた。 それと共に正式にヘルパー2級の資格を取るための勉強も始めることに。 そんな矢先に夢見の悪い同じような夢を頻繁に見るようになる。 一言の返事の対応を間違えたせいで、その後いろいろと因果応報を身に受け……井出と暮らし始めてから、急に胸が痛み出したり涙が止まらない発作が起き始め、そのうち夢の中で自分が花になっていて玲子扮する玲子から、まんまの返事をされ深い絶望を味わう。 夢を見た日は悲し過ぎて起きるといつも泣いている。 夢の中で花の立ち位置になってみてようやく玲子はあの日の花の痛みを知った。 井出の家の間取りは和室4つが互いに隣り合っている形で、見る見ないのプライバシーは守られているが、夢を見てうなされたりした時の声音やクシャミなどに関しては筒抜けだ。 それに加えて井出は小冊子のコラムを書いたり投資などもしているようで深夜、明け方に起きていることもしばしばだ。 そんな状況なので玲子が夢を見てうなされるようになると、しばらくして井出に気付かれることとなった。「なんか、最近うなされているようだが追いかけられてることと関係してるのか?」「夢の中で毎回、私が苦しめた女性の立場になって苦しくて辛い経験をしてるんです。目覚めると夢を見た日は死にたくなる」「君が私と一緒に追っ手の前から姿を消したものだから、今度は呪術を使って夢で苦しめに来たのだろうか」「そんなぁ~呪術だなんて、まさか」
52 「関係者に謝罪したって言ってたけども本丸のその花さんって人にも ちゃんと謝罪したの?」 「それが、会えなかったんです。 会わせてもらえなかったというほうが正しいかも。 ちらっと精神を病んだと聞いてるので今更私のことなんて 耳に入れたくなかったのかも。 私ってほんとに最低なことをしてるんです。 でも周囲から幾ら非難されても以前は分からなかったの、 分かってなかった。 花さんが実際夢の中で私が感じたような苦しみと悲しみを 体験していたとしたら、私は花さんの心を殺したも同然なんですよね。 夢を見た日は本当に死にたくなる。 私、夢を見るようになってよく分かったんです。 私はもう幸せなんて求めてはいけないって。 何かが私のことをずっと追いかけてきてどんな小さな幸せの芽も 開きそうになると摘み取っていくの」 「君さぁ、これから毎日心の中でもいいし声に出してもいいけど、 その酷いことをして苦しめた花さん、そしてある意味無実なのに 君のせいで有罪にされた匠吾さんだったか、そのふたりに謝ったほうがいいよ。『意地悪と嫉妬であなたたちに酷いことをした私を、充分反省しているので お許し下さい』ってね。 もうそんなことになってるのなら、そういうのしか方法はないと思うね。 夢を見なくなるまで心から謝るんだよ。 そして神仏にも祈り、助けてもらうほかないだろ。 そして時間が過ぎていくのをじっと待つしかないな。 できればこの先もこの島を出ない方がいい。 あの日あの海浜公園でぷっつりと君の痕跡は途絶えたことになってる。 だけどほとぼりが冷めて自宅に帰ったりすればすぐに見つかってしまうだろう。 結婚もしない方がいいだろうな。 そうすれば今あるささやかな暮らしは続けられるかもしれん」 「そうですね。 私、これから毎日心の中でふたりに謝罪しながら生きていきます」
53 俺のアドバイスを守り、朝な夕なに謝るべき人たちに謝罪をし、神仏にも すがっている玲子の様子が伺えた。 仕事も真面目に続いてる。 俺は玲子から悪夢の話を聞いた日にいろいろアドバイスしたのだが その時にこんなことも彼女に提案してあった。 石の上にも3年という諺があるように修行と思い3年間は我慢をして、 この先3年は独りで慎ましく暮らすこと。 元々今回のことは色恋を拗《こじ》らせた結果だからね、と。一度彼女が悪夢でうなされて起きた時、ちょうどまだ俺が仕事で起きていたのだ が何気に『怖い』と言って俺の側近くにすり寄って来たことがあった。 つくづく彼女は魔性の女だと思ったね。 出会いがこんな形でなければ俺もあの場面で据え膳を食わずにいられたかどうか、はっきり言って自信がない。 もうアラサーの域にかかっている女だがまだまだ十二分に美しさを 保っているからね。 彼女は残りの2年と数か月を果たして大人しく地味に 淡々とやり過ごしていけるのだろうか。 杞憂に終わればと思っていたのだが……。 ◇ ◇ ◇ ◇ 平日の昼下がりに初めて見る顔の来客があった。「井出ですが何か……」 「初めまして、内野と申します。 井出さんは島本さんの身元引受人ということになってらっしゃるので 彼女のことでご相談に上がりました。 どこかでお話を聞いていただけましたらと思います。 あの……突然のことで申し訳ありません」 彼女は玲子が通っている特別養護老人ホームに勤める看護職員であると 自己紹介してきた。 心を落ち着かせ、宥め、私に話をしようとしている姿が痛々しかった。 彼女の様子から俺は何やら胸騒ぎを覚えた。
54「持って回った言い方で丁寧に言葉を選んでいるとなかなか言いたい本音に辿り着かないので失礼を承知ではっきりと申し上げたいと思います」と始まり、動揺を隠して何とか平静を保ち話をしてくれた内容は次のようなことだった。 特別養護老人ホーム(鶴林園)という同じ職場で働く医師の宅麻士稀《たくましき》は婚約こそしていないが結婚の約束もしていた自分の恋人である。 その彼が自分に内緒で島本玲子と2度ほど飲みに行っていた。 彼は自分には内緒にしてるから、おそらく『恋人には秘密でね』と暗黙の了解の元、玲子と会っていたのではないかと推測される。 だが職場の手洗い場で一緒になった折に、玲子から宅麻と飲みデートに行ったと仄めかされ、内野はその事実を知ることになったという。 玲子と恋人の宅麻がいつの間にそんな仲になっていたのか、それだけでも驚きなのに玲子はその後追い打ちをかけるような発言をしたのだという。 内野さんから宅麻氏を奪ってみせると自信満々に告げたらしい。 そのようなことを聞かされた内野さんは、ものすごく不安で胸が押し潰されそうだと私に吐露した。「こんなに不安になるのは、私、たぶん島本さんに勝てる自信がないからなんだと思います。 恋愛は自由ですし宅麻くんが私より島本さんの方がいいと言うのなら諦めないといけないことも分かってるんですけど、誰かに話を聞いてほしくて……。 その一心で島本さんの身上書を見てこちらに伺いました」「辛かったですね。 私はお話を伺うことだけしかできませんが、その恋人宅麻さんでしたっけ? 彼とは話し合いましたか?」「はい。 飲みのデートに行ったことは認めましたし、誘われればまた次も行くかもしれないと言われてしまいました」「今は年上のきれいな女性に言い寄られて舞い上がっているのでしょう。 内野さん、あなたはまだ若い。 看護師さんなら働ける職場はたくさんあるでしょ。 そんな冷たい恋人はあなたの方から振っておやりなさい。 あなたのようにやさしくて素敵な女性にはこの先もっと良い縁がありますよ。 私が保証します」
55「そうですよね。 私、そうします。 あんな薄情な人とはお付き合い止めます。 私、今日、井出さんに会いに来て良かったです。 きっとこんなふうに背中を押してくれる人を探していたんだと思います。 ありがとうございました」「前向きに考えられるようになってほんとに良かった。 玲子さんにはお灸をすえておきますからね」 若くて可愛らしい内野さんは少しの笑顔を取り戻して帰って行った。『島本玲子……やっぱりやりやがった』 これでお前の地獄行きが決定だ。 井出耕造48才、島暮らし。 ただし、ほんの1年前からの。 作られた島での俺の設定。 総帥からの依頼だった。 玲子がこの島で改心して暮らせば放流してやろうとのお考えだった。 反省もなく、異性トラブルを犯せば今度こそ直接総帥から厳しいお沙汰がくだされるだろう。 馬鹿な女だ。 あれほど真面目に暮らすよう忠告してやったというのに。 三つ子の魂百までとは昔の人はよく言ったものだな。 見た目と中身の釣り合いが取れていない残念な女だ。 どんな男をも虜にできるほど美しいのだから何もわざわざ人のモノに手を出さずとも言い寄って来る男はたくさんいるだろうに。 つくづく厄介な性《さが》を持って生まれ落ちたものだ。 一応この話が本当か井出は証拠取りをすることにした。 内野さんが有給を取って俺のところに来た日、その日の内に人を使っての裏取調査を依頼した。 内野さん自身がすでに恋人である宅麻から言質《げんち》を取っているようだし十中八九虚言ではないと思うが、間違いを犯さないための裏取は必須だ。 2日後、内野さんの話に虚偽はなかったことを立証する報告書が届いた。 これでこの先俺がどう動けばいいのかが決まった。 彼女《玲子》は最後のチャンスを失った。
56 調査報告書が届いた日の夕食時に俺は玲子をドライブに誘った。「仕事も3ヶ月過ぎて4ヶ月目に入るけど、どう? 慣れてきた? 続けられそう?」「はい、お陰様で。 これも井出さんのお蔭です。ありがとうございます」「夢の方はどう? あれから」「神仏に手を合わせるようになってからは見なくなりました。 良くないんでしょうけど、手を合わせるのを忘れることもあるくらいなんです」「へぇ~そりゃぁ良かった。 じゃあ体調も気分も良さそうなところで本州までドライブしますか、次の土曜日あたりにでも」「土曜はちょっと、約束があって……」「じゃあ日曜にしようか」「はい、喜んで。楽しみです。 あちらでないと買えない物もあるし、あちらで買い物してもいいでしょうか?」「いいよ、勿論」『そんな時間があれば、だがな』 玲子は余りに順調な日々に浮かれていた。 自分の魅力に嵌り恋人になりそうな相手は年下のイケメン医師。 宅麻には看護師のガールフレンドがいるようだが、見たところ若いだけが取り柄の色気も何もない平凡な子だった。 そして自分の色気に唯一靡《なび》かなかった井出までもがドライブを誘ってきた。 またまたのモテ期を喜ぶ玲子だった。 土曜は宅麻医師とのデート、そして日曜は48才と若干おじさんではあるが、そこそこ色気もあって理知的で物腰の柔らかな井出にも一緒に暮らし始めてから好意を抱いていた玲子は一緒に長時間密室で過ごせるドライブを楽しみにしていた。 ◇ ◇ ◇ ◇「玲子ちゃん、今日は走行中後部座席でゆっくり休めばいいよ。 そうしたら体力温存できて現地着いてから楽だよ」「ありがとうございます。 じゃあお言葉に甘えてそうさせていただきます」 少し前、多少の身の危険を感じて本州から島へ渡った時は井出さんの隣助手席に座りフェリーで海を渡った。 まだ3ヶ月ほど前のことなのに何だか随分昔のことのように思える。 それにしても……今日の井出さんはいつもと空気感が違うなって思ってたら、ヘアースタイルも何気にモデルのようにバッチリ整えられてるし、スーツにネクタイ、腕時計と、どれも一流品に見える。 ただのドライブなのに。 ドライブがてら仕事も挟んでたりするのだろうか。 それともどこかに花束なんか隠してて高級レス
57「それと走行中、業務関係の人と遣り取りするかもしれないけど気にしないで寝てていいよ」 そう言う井出さんは見るとハンズフリーのイヤホンを耳に装着していた。 なんかめちゃくちゃデキるボディガードみたい。 そんなことを考えながらスムーズな走行に私はうつらうつらしていた。 井出さんが誰かと遣り取りしているみたいで会話している彼の声が子守歌のように心地良かった。「玲子ちゃん……玲子ちゃん、着いたよ」「あぁ、ごめんなさい。つい寝てしまってたみたい」 私たちがいるのは広いけれど周囲は壁で囲まれていて地下の駐車場のようだった。 エレベーターに乗ると階数のボタンがたくさんあって、かなりの高層ビルだということが分かった。 どんな素敵なレストランなのだろうと私は井出さんが20階のボタンを押すのをドキドキしながら見ていた。 エレベーターを降りて左方へ歩いて行くと一面シースルーで外から中が見通せる会議室のような部屋が現れてびっくりした。私は先を歩く井出さんに声を掛けた。「あの、ここってどういう……」「今説明しなくても直ぐにここへ来た理由が分かるので取り敢えず部屋に入ったら私が案内する席に座って下さい。 そのあと会長から説明があると思うので」「会長って誰? どこの?」 もう説明はしてくれなさそうな井出さんの背中に向けて呟いた。 部屋の入口をくぐる前に、長楕円形の卓の向かって左右壁に沿って男の人が1人ずつ立っている中の様子が見えた。 そして入り口をくぐる時に、右手1mくらいのところに男性が1人立っているのに気がついた。 井出さんは私が座るべき席を案内してくれるとそのまま、入り口から左手1mくらいのところに立った。 他の人に気を取られて気付かなかったけれど座った私の正面向こう側には初老の男性が座っていた。 そしてその人が口を開いた。
58「ほう、あなたが島本玲子さんか、ようこそ、このオフィスへ。 ここへ来なくて済めばよかったのだが……まぁ、しようがないね」 何を言われているのか全く分からない私は、反射的に入り口付近に 立っているはずの井出さんの姿を探した。 私が振り向いても一度も見てくれず、今まであんなに親切にしてくれて 一緒に暮らしていた人なのに、何がどうなっているのか? 自分の見知っていた面影を彼のどこにも見つけられず、 私はますます混乱した。 心細くなって彼の名前を呼んだ。「井出さん、井出さん、どうしてこんなところに私を連れて来たの」 井出さんは前を見たまま私の方を見ることはなかった。 彼の代わりに目の前の初老の男性が口を開いた。 「彼は私のボディガードでね、今は勤務中だからあなたとの私語は 許されてないんですよ、島本さん」 「でも離島まで連れて行ってくれて一緒に暮らしてたんですよ、私たち」 「それも私が頼んだ仕事だからですよ。 だからここへもあなたを連れて来た。 井出はやさしい奴ですよ。 筋書きにはなかったのに3年大人しく島で暮らしていれば、どうにかなる……というようにあなたにそれとなくアドバイスしてましたからね」「どうしてそれを」「知ってるかって? あの家は盗聴されてたからね」「あなたの指示で?」「そうですよ」「じゃあ井出さんは……」 「知ってたか、知らなかったか、私には分かりません。 ただ私からは盗聴器をしかけるとは一言も話してませんがね」 「私を逃がしてくれたのにどうしてまた私はここに 連れて来られたのでしょう?」
121 週明け出勤後、何となく私は遠野さんのことが気になってしようがなかった。 芦田さんに直談判に行ったという遠野さんだったが、その後ニ度ほど一緒に昼食を摂った時も小暮さんがいたせいかもしれないけど相原さんや芦田さんの名前が出ることはなかった。 彼女は唯一のとっかかりを失くしてアプローチを諦めたのだろうか。 そんなふうな思いを抱いて1週間……。 また金曜の夜間保育の日がやってきた。 別段相原さんから緊急連絡は入ってないので今日も彼は20時頃凛ちゃんを迎えに来るだろうと予想し、私は19:40頃になるとなるべく早く帰れるように凛ちゃんの様子を見ながら周囲を見回して片付けを始めた。「掛居さん!」 声のする方を振り向くと作り笑いを顔に貼り付けた遠野さんの姿があった。『えっ!』 私は言葉が出なかった。「私、夜間保育は仕事としては入れなかったの。 それで一度は諦めたんだけど、よく考えてみたら相原さんにアピールするのが目的なんだから保育要員じゃなくてもいいんじゃないかって気付いたんです。 掛居さんとは同じ職場で働く者同士、知り合いなのだし……。 だから掛居さんの様子伺いに来ました」 だから? 私は彼女の意図するところがよく分からなかった。 私の様子伺い? だけど、もう少しで残業も終わるっていう今頃になって? 『ハッ!』そういうことか。 相原さんのお迎えの時間に合わせて来たっていうことなのね。 すごいぃ~、遠野さんって真正の肉食系女子だったんだ。「様子伺い……って、あともう少しで業務も終わりよ」「相原さん、20時には来ますよね?」「たぶん……ね」「私も掛居さんと一緒に見送りしたいなぁ~」「いいけど、大抵私はほとんど話すことはなくて、芦田さんの横に立って『お疲れさまでした』って言うだけなの」 私がそう言うと遠野さんは部屋の中をぐるりと見渡して探った。「でも、今日は芦田さん、いないみたいだけど」 遠野さんが私にそう言うやいなや、いつの間にか芦田さんが起きていたようでタイミングよく、私の代わりに遠野さんへの返事をしてくれた。
120 「いえ、別に私はそういうのは……」「ええ、ええ。分かってます。 私の勝手な言い草だと思ってスルーしてね。 あぁ、面白がったりしているわけではないことだけは分かってね。 ただの私の勝手な想いなの。 もう恋愛なんてっていう難しいお年頃になっちゃったので、自分を可愛らしい掛居さんに置き換えて妄想して楽しんでるだけ。 私じゃあ相原さんのお相手には絶対なれないから、ふふっ」「可愛らしいだなんて……ありがとうございます、ふふっ。 じゃあこれからかわゆい凛ちゃんの子守、代わりますね」 芦田さんが奥でゆっくりしている間、私は凛ちゃんに読み聞かせをしたり、積み木をしたりして凛ちゃんパパを待っていた。 凛ちゃんが待ちくたびれて私の膝にチントンシャンと座り指吸いを始めた頃、待ち人《相原さん》からメールが入った。『帰りに送るので駐車場まで来て。 車種はトヨタのプリウスで色はホワイト。 一緒は掛居さんのほうがまずいだろ? 俺と凛は先に乗って待ってるから。 え~と車は2列目の左から5番目だから』 すごいモテてる相原さんから送ってあげるよとのオファーがあり、芦田さんや遠野さんの顔がチラチラ浮かんでちょっとビビった。 先に乗って待ってるってすごいなぁ~。 こういうふうに気遣いのできる人なんだ。 ◇ ◇ ◇ ◇ 保育所までお迎えに来た相原さんに、少し前に奥のスペースから起きてきていた芦田さんが声掛けをして凛ちゃんを手渡し、芦田さんと私から『お疲れ様でした』の声を掛けられ、相原さんはいつものように部屋をあとにした。 すぐあとを追うことになっている私は気持ち、ギクシャク感半端なかったけれど、その辺を片付けるとすぐに自分も芦田さんに挨拶をして部屋を出た。……ということで、凛ちゃんが寝ている側で他愛のない話をして私たちは一緒に帰った。 車で帰れるなんて、それも人様に運転してもらって、タクシーでいうならお客様状態。 楽チン過ぎて電車通勤が嫌になりそ。『あーっ、やっぱり遠野さんの話、聞きたくなかったなー。 遠野さんお願いだから私を恋愛事に巻き込まないでよねー』 私はその夜寝る前にお祈りをした。 でもあれよね、遠野さんに狙われてもしも相原さんが陥落するようなことにでもなれば、もう今日のように車で送
119 「こんばんは」「あぁ、掛居さん、ちゃんと来てくれて良かったわ」「……」 「いやぁあのね、週初めに遠野さんから掛居さんに代わって夜間保育を やらせてほしいってお願いされてたのね。 それで何気にまたなんでそういう気持ちになったのか訊いてみたの。 そしたら夜間保育には必ず相原さんのお子さんがいるっていうことを 掛居さんから聞いたのでって彼女が言ったの。 その時は私も全然遠野さんの意図が読めなくて何も考えず 『凛ちゃんのファンなの?』って訊いたの。 後々考えてみたらピンとこない私もアレなんだけど 『いえ、いや、そうなんです。凛ちゃんも可愛いし、でも私は 凛ちゃんのお父さんとも親しくなれたらと思っています』 って遠野さんに言われちゃって。 気が回らないというか、私としたことか迂闊だったわぁ~。 掛居さんは一連の遠野さんの言動っていうか、ふるまいというか、気持ち知ってたのかしら?」 「はい、一応。夜間保育したくて立候補するけどいいか、ということは 話してもらってました。 でもその後の結果というか報告は聞いてなかったので 今日いつものようにこちらへ来ました。 あの……遠野さんの要望はどうなったのでしょうか?」 「私ね、遠野さんから話を聞いて、ここは彼女のために応援するべきかどうか 悩んだのだけど、なんかねぇ、彼女のことをよく知らないっていうのも あって応援する気になれなかったの。 それでお断りしたわ。 私は掛居さんのガツガツしていないところが好き。 相原くんのお相手が掛居さんだったなら応援する」 きゃあ~、芦田さんったら何を言い出すんですかぁ~、私は反応に困った。
118 遠野さんだったら私のように匠吾や島本玲子から逃げ出したりせず、各々と向き合い対決して怒りをぶつけたり、折り合いをつけたりと、自分でちゃんと決着つけられるのかもしれない、とふとそんなことを思った。 当時の私は無防備で、相手に依存し安心しきっていた上に完璧を求め過ぎ、そして何より弱すぎた。 ある日突然終わってしまった私の悲しい恋と恋心。 あの日から私の時間は止まってしまった。 私はちゃんと生きているのかな? 時々戸惑いを覚える。 あんなに好きだった人《匠吾》にあの日から会いたいと思ったことは一度もない。 遠野からの意外な告白を聞いた日からちょうど1週間が過ぎ、夜間保育の金曜になったけれど芦田から遠野の話は出ていないし、また遠野本人から夜間保育の担当になれたという報告も受けていない。 わざわざ自分から遠野に訊くのも違うような気がして、花はいつものように自分の担当部署の仕事を片付けると夜間保育の仕事場へと向かった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 遠野はというと、花に夜間保育の件を話した後週明けすぐに芦田に直談判していた。 芦田からは、派遣社員は雇用形態がこちらの社員とは違うので副業で夜間だけ働いてもらうことは難しいとバッサリ断られていたのだった。 それは確かに芦田が断る1つの理由でもあったのだが、実はもうひとつの理由があった。 遠野の言動から夜間保育を志望する理由というのが、凛をはじめ、子どもたちのことを可愛く思ってのことではなく凛の父親狙いというのが透けて見えたためだった。
117 遠野さんの分かってます発言はほんとに分かっていての発言なのか、 非常に怪しい。 最後の含み笑いは私を困惑させるのに十分な威力を備えていた。 周囲には隠して付き合っている、というストーリーが彼女の頭の中で 展開されている節がある。 何故なら相原さんと付き合っているのか、という問いかけはなかったからだ。 まぁあれだ、彼女は小説を書く人だから、一般人よりは妄想たくましい 可能性はあるよね。 相原さんとデートしたことなんて絶対知られないようにしなきゃ、だわ。 何気にこういうの疲れるぅ~。「掛居さん、私、夜間保育をして少しずつ相原さんとお近づきに なりたいんです。 それで芦田さんに夜間保育をやりたいってお願いしてみようかと 思ってるんですけど、立候補したら迷惑でしょうか……迷惑になります? ご迷惑ならこの方法は止めなきゃ駄目ですよね」 私は先ほどから遠野さんの言動に驚かされてばかりなんだけど、 今の話を聞いて更に『目玉ドコー』な感覚に陥った。 なんて言うんだろう、彼女のお伺いって控えめさを装った強引な お願いにしか聞こえなくて、少し嫌な感じがする。 元々こういうキャラの女性《ひと》だったのか、はたまた片思いが 高じた所以のものなのか。 よく考えてみたら私が持っていた遠野さんのイメージなんてたまに 社食で昼食を一緒に摂るだけの間柄で何を知っているというのだ。 恋する乙女は貪欲で猪突猛進で私は恋する乙女? の力強さにある意味 感服するところもあるけれど、自分に置き換えてみるに、とてもそんなふう な形での力強さは一生掛かっても持てそうにないや。
116「皆《みんな》モチモチしていて可愛かったぁ~、大満足ぅ~。 掛居さんが抱っこしてた子って凛ちゃんですよね」「あぁ、うん。でもどうして……」 遠野さん、どうして凛ちゃんのこと知ってるのだろう。 「実は2回ほどひとりで昼休みに子供たち、見に行ったことがあって 芦田さんから聞いてたんです。 夜間保育のことか休日のサポート保育のこととか。 私、ちょっと後悔してるんですよー」「えっ?」「その理由が姑息過ぎて余り大きな声では言えないんですけど……」「なになに?」 「小説書くのに忙しいのは本当で、昼休憩の時間も惜しいくらい小説に時間 を割きたいというのも本当ですけど、あのカッコいい相原さんの娘さんが あの保育所にいるということなら話は別です。 こんな大事を知らなかったとは、迂闊でしたぁ~。 今までの時間が悔やまれます。 私なんて掛居さんより先に入社していたというのに。 掛居さん、私の言わんとするところ、分かります?」 「ええ、まぁなんとなくは。 相原さん本人に興味があるってことかな?」「え~いっ、掛居さんだから思い切って話しちゃいますね」 いやっ、話さなくてもいいかな。 だって話を聞いてしまうとなんとなぁ~くだけど後々ややこしいことに 巻き込まれそうな気がするのは取り越し苦労というものかしらん。 「相馬さんも素敵だけど今までの経緯を見ていると、とても並みの人間には 太刀打ちできない感じがして、遠い星っていう感じだから恋のターゲットに ならないでしょ? それに今や掛居さんといい感じみたいだし。 私略奪系は駄目なんですよね」 はぁ~、遠野さんの話を聞いていて私は頭が痛くなってきた。大体、今まで誰それに好意があるなんていう話を出してきたことなんて なかったというのに、いきなりの想い人発言。 しかも相原さんてぇ~、どんな反応すればいいのか困る。「あの、相原さんのことは何も反応できないけども、相馬さんとのことに 関しては、私たち付き合ってないから……」 「分かってますってぇ。むふふ」
115 「じゃあここで。 すみません、送っていただいて。 今日はいろいろとありがとうございました」「いや、これしきのこと。 しかし……ひゃあ~、まじまじとこんな間近で見るのは初めてだけどすごいね、35階建てのマンション。 今度さ、凛も連れて行くからお部屋見学してみたいなぁ~」「いいですよ。片付けないといけないので少し先になりますけどご招待しますね」「ありがたや。一生住めない物件だから楽しみにしてるよ。じゃあ」「はい、また明日」 いやぁ~、なんか相原さんのペースに乗せられて自宅の公開まで……。 私たちの距離が一遍に縮まりそ。 自分でも吃驚。 こういうのもありなの? ありでいいの? 答えはいくら考えても出ないけど、いたずらに拒絶するのもどうなのとも思うし。 それにちゃんと相原さん私の思ったこと分かってくれてるみたいだったし 取り敢えずこの夜、私は自分の胸に訊いてみた。 私は相原さんに恋してる? 恋に落ちた? NOだと思……う。 私は匠吾に向けていた……向かっていた強い恋心を元に考え、答えを導き出した。 素敵な男性《ひと》だな、とは思うけど、知らないことが多すぎる。 恋に落ちてないと昨夜、自分に向けて確認したけれど昨夜に引き続き、翌日になっても自分の気持ちが何気にルンルンしていることに気付いて、やっぱり異性とのデートは知らず知らず心が弾むものなのだなと悟った。 ただこれ以上深く考えようとするのは止めておくことにした。 そして今の自分の気持ちを大事にしようと思うのだった。 それから仕事終わりの金曜日……遠野さん、小暮さんと一緒にランチをしたあとのこと。 小暮さんはいつものようにいそいそと浮かんだアイディアを図にするべくデスクへと戻って行った。 いつもなら2人してデスクに戻るはずの遠野さんから『久しぶりにチビっ子たちを見に行きませんか』と誘われ、私たちは社内保育所へと足を運んだ。 遠野さんはいろいろな子たちと触れ合い、子供たちとの時間を楽しんでいるようだった。 私はというと、私を見付けた凛ちゃんが真っ先に飛んで来たので私はずっと凛ちゃんを抱いたまま他の子たちと触れ合い、昼休み終了の時間まで保育所で過ごした。 そんな私たちの様子をにこやかに見守っている芦田さんの姿が見えた。 子供たちと
114「えーと、私と一緒に食事して怒ってくる恋人的存在の女性がいたりってことはないですね? あとでトラブルに巻き込まれるのは困るのでここは厳しくチェックさせていただきます」「掛居さん、子持ちなんて俺がどんだけ素敵オーラを纏《まと》っていても誰も本気で相手になんてしないから。そういう心配はないよ」「えーっ、そういうものなのかなぁ~。 私は凛ちゃんみたいな可愛い子、いても気にしませんけど……。 あっ、私ったら余計な一言でした。 恋人になりたいとかっていう意味じゃなくてですねその……」 私はやってしまったかも。 微妙にこの辺のことは発言を控えた方がいいレベルだったと気付いたが時すでに遅し。 本心から別に今、相原さんLoveで恋人になれたらいいのに、なんていう恋心から言ったのではなく、常々凛ちゃん好き好き病でつい、口から零れ落ちてしまったというか、零れ落としてしまったのだけれど、なんか変な誤解を招く一言だったよね。 嫌な冷や汗が流れそうになった。 きゃあ~、絶対勘違いさせちゃったよね。『お願い~相原さん、変に受け取らないでぇ~』「いやぁ~、恋愛抜きでも凛のことそんなふうに思ってもらえるなんてうれしいよ。じゃあ子持ち30代、希望あるかな」 「はい、相原さんならばっちり」「そんなふうに言ってもらってうれしいけど……」「けど?」「なかなか出会いの場がないからねー」「ほんとに。仕事ばかりで出会いないですよねー。 世の男女はどうやって結婚するのかしら? そうだ、一度結婚したことのある先輩、どうやって出会ったんですか?」「あー、うー、その話はまた今度ってことで」「楽しみぃー!」 なんだかんだ2人で話しているうちに私たちはいつの間にかマンションの前に着いていた。
113 相原さんとの初デートは音楽と美味しい食事、そして語らえる相手もいて思っていた以上に楽しい時間を過ごすことができた。 こんなに近距離で長時間、洒落た時間を共有したことがなかったので、朗らかに活き活きと話をする相原さんを見ていて不思議な感覚にとらわれた。 私はこれまで交際していない男性と一緒に食事をするという経験がなく、世の中には恋人ではない異性の同僚と一緒に食事をするという経験のある人ってどのくらいいるのだろう? なんて考えたりした。 もちろん相手のことが好きでデートするっていうのは分かるんだけどね。 まだまだ相原さんのことは知らないことだらけだけど、彼と話すのは楽しい。 彼を恋愛対象として見た場合、凛ちゃんのことはさして気にならない……かな。 だけど凛ちゃんママの関係はかなり気にしちゃうかなぁ~などと、少し後からオーダーしたワインをチビチビ飲みながらほろ酔い気分でそんなことを考えたりして、一生懸命話しかけてくれている相原さんの話を途中からスルーしていた。笑って相槌打ってごまかした。『ごめんなさぁ~い』「明日も仕事だから名残惜しいけどお開きとしますか!」「そうですね。今日は心地よい音楽に触れながら美味しいものをいただいて、ふふっ……相原さんのお話も聞けて楽しかったです」「そりゃあ良かった」 支払いを終え、私たちは店の外へ出た。「今日はご馳走さまでした。 でも休日のサポートは仕事なので次があるかは分かりませんけど、もう今日みたいな気遣いはなしでお願いします」「分かった。 休日サポートのお礼は今回だけにするよ。 さてと、家まで送って行くよ」「えっ、でもすぐなので」「一応、夜道で心配だから送らせてよ」「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて」「俺たちってさ、お互いの家が近いみたいだし、月に1~2回、週末に食事しようよ。 俺、子持ちで普段飲みに行ったりできないからさ、可愛そうな奴だと思って誘われてやってくれない?」