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黒い薔薇

Author: 雫石しま
last update Last Updated: 2025-10-13 03:00:42

木蓮と田上伊月は、交わす言葉はなくとも穏やかな時を共にし、ゆっくりとその手を離した。田上の大きな手のひらから伝わる温もりが、名残惜しそうに木蓮の指先に余韻を残した。二人は微笑み合い、病室の静寂がその瞬間を優しく包み込んだ。「今度はこれを脱いで来ます」田上は白衣の襟を持ち、軽くはためかせた。消毒薬の匂いがふわりと舞い上がった。木蓮の心臓が小さく跳ね、頬にほのかな赤みが差した。彼女の瞳には、田上の言葉が柔らかな波のように響いた。彼は病院のカウンセラーとしてではなく、金沢港で過ごしたあの夜のように、一人の男性として会いに来ると言っているのだ。木蓮の脳裏に、あの夜の情景が鮮やかに蘇った。金沢港のフェリーターミナル、岸壁に打ち付ける暗い波、遠くで鳴る船の汽笛。二人きりの夜のドライブで、田上の声が静かに響いた。「木蓮さん…あなたの幸せはなんですか?」あの時、彼女は答えられなかった。心は将暉との冷えた結婚と睡蓮の裏切りに縛られ、夢を見る余裕すらなかった。だが今、田上の微笑みが目の前で輝き、かつて答えられなかった夢が形を成しつつあった。

木蓮は自分の気持ちにようやく気付いた。田上の優しさは、彼女の孤独を癒し、双子と共に歩む未来に光を投じていた。彼女の指は無意識に腹に触れ、双子の鼓動を感じた。その小さな命と、田上の温かな視線が、彼女の心に新たな希望を紡いだ。生成色のカーテンが空調の風に揺れ、窓から差し込む晩秋の陽光が病室を柔らかく照らした。木蓮の微笑みは、まるでその光と共鳴するようだった。田上はカルテを手に立ち上がり、軽く頭を下げた。「また、すぐに」彼の声は穏やかで、約束の重みを帯びていた。ドアが静かに閉まる音が響き、木蓮はベッドにもたれ、そっと目を閉じた。心臓のときめきが、静かな病室に温かな余韻を残した。

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ウサコッツ
木蓮と赤ちゃんがんばれ 田上さんが支えてくれる 病院のスタッフががんばっくれるよ 病院から睡蓮追い出すか 殺人で警察に突き出して 接近禁止命令出してもらいたい
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