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あなたに私の夫を差し上げます のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

48 チャプター

母としての喜び

彼女の名前は、叶 木蓮(かのう もくれん)。明日は二十五歳の誕生日。奇しくも、彼女と同じ誕生日。双子の妹、睡蓮(すいれん)がいる。二人は、子どもの頃、いつも同じケーキを囲んで笑い合った。髪型も服もそっくりで、まるで鏡に映ったもう一人の自分。でも、二年前、睡蓮は突然、アメリカへ渡った。何の前触れもなく、ただ「行ってくる」とだけ言い残して。空港で見送った彼女の背中は、どこか遠くへ消えていく影のようだった。「どうしたの?何かあったの?」何度LINEで訊ねても、返事はなかった。既読にもならず、連絡は途絶えた。今もその理由は分からない。木蓮の胸の奥にぽっかり空いた穴が、時折疼く。最近、体調が優れない。食欲がなく、吐き気が続き、微熱が引かない。心配になった木蓮は、総合病院を受診した。待合室は消毒液の匂いと、ざわめく人々の声で満ちていた。診察室に入ると、白衣の医師が穏やかな笑みを浮かべ、カルテに目を落とした。「食欲がなくて、吐き気がするんですね?微熱も続いている」「はい、もしかして……コロナでしょうか?」医師は和かに目を細め、柔らかい声で言った。「念のため、こちらで確認しましょう」と、カルテを手渡され、内科から産婦人科へ案内された。産婦人科の待合室は、柔らかな光に包まれ、どこか温かみのある空気が漂っていた。期待と不安が胸の中で交錯する。初めて乗る受診台はひんやりと冷たく、気恥ずかしさで思わず顔を手で覆った。カーテン越しに眩いライトが揺れ、機械の小さな音が響く。しばらくすると、トクトク、トクトクと、微かで力強い音が聞こえてきた。「おめでとうございます、心音が確認できました」「…………心音?」胸がドキンと跳ねた。頭が一瞬空白になり、言葉が喉に詰まった。「赤ちゃんです。双子の赤ちゃんですよ」医師の言葉が、柔らかな波のように心に広がった。彼女の頬は喜びで熱くなり、思わず赤らんだ。「双子………まるで私と睡蓮みたい」涙がこぼれそうになり、慌てて目を瞬いた。診察室を出て、妊娠証明書を二通受け取り、待合の椅子に腰掛けた。証明書を握る手が、わずかに震えている。周囲には、お腹の大きな妊婦さんが旦那さんと微笑ましく言葉を交わしている。幸せそうな笑顔が、まるで未来の自分を映しているようだった。木蓮はそっとお腹に手を当てた。そこには、確かに新しい命が宿っている。双子の鼓動が、彼女の心と
last update最終更新日 : 2025-08-22
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誕生日のサプライズ

妊娠証明書を手に、木蓮は市役所の窓口で母子手帳を受け取った。職員の女性が柔らかな笑顔で「おめでとうございます」と言うと、木蓮は照れくさそうに「ありがとうございます」と答えた。二冊の可愛らしいピンクの手帳は、まるでこれから始まる新しい物語の表紙のようだった。手帳をバッグにそっとしまい、木蓮の心は喜びと期待でざわめいた。双子の命が自分の中で育っている………その実感が、胸の奥で温かく広がる。市役所のロビーを抜け、ガラス越しに見える三月の空が、いつもより澄んで見えた。 黒塗りのベントレーに戻ると、運転手の島田が後部座席のドアを恭しく開けた。彼は木蓮の妊娠を知り、額に汗を滲ませながら、普段以上に慎重にハンドルを握った。車が静かに走り出すと、木蓮は窓の外に流れる街並みを眺めながら、明日の誕生日を想像した。婚約者の和田将暉に、双子の赤ちゃんのことを伝える瞬間。きっと彼の穏やかな瞳が、驚きと喜びで輝くだろう。 「島田さん、ちょっと買い物がしたいの」 「わっ、私も付いて参ります!」 島田の声が弾み、木蓮はくすりと笑った。スーパーマーケットに着くと、木蓮は将暉のためのサプライズを頭に描いた。明日の誕生日、彼の大好きな赤ワインと、手作りのケーキで祝福しよう。ワインは将暉が愛してやまないロマネ・コンティを選ぶことにした。 棚に並ぶボトルを吟味しながら、木蓮は彼がワイングラスを傾ける姿を想像した。深紅の液体が揺れるたび、彼の笑顔が浮かぶ。島田はボトルを慎重に手に取り、まるで宝物のように買い物カートに乗せた。 「奥様、お身体を大切に」と心配そうに言う彼に、木蓮は小さく首を縦に振った。 「ケーキもお焼きになるんですか?」 島田が小麦粉の袋を屈んでカートに乗せると、木蓮は幸せそうに微笑んだ。 「ザッハトルテよ。オーストリアのチョコレートケーキなの。濃厚で、将暉さんが大好きなの」と、ショコラペーストの瓶を手に取った。 棚の前で、木蓮はふと立ち止まった。ザッハトルテのレシピを思い出しながら、かつて睡蓮と一緒にキッチンで笑い合った日々を思い出した。姉妹でクッキーを焼き、粉だらけになって笑ったあの時間。双子の赤ちゃんが生まれたら、どんなお菓子を一緒に作るだろう。ショコラの甘い香りが、未来の家族の笑顔と重なる。 「島田さんの奥様にも、今度プレゼントするわ」と木蓮が言うと、島田は照れくさ
last update最終更新日 : 2025-08-22
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暴風雨の夜

そこに立っていたのはミルクティー色の髪の叶睡蓮(かのう すいれん)だった。木蓮は一瞬、自分がそこに立っているかのような錯覚に陥った。 「どうして睡蓮が………ここに?」 アメリカにいる筈の睡蓮、音信不通だった睡蓮が目の前にいた。雨に濡れたその姿は、まるで長い旅を終えた旅人のように儚く、どこか現実離れしていた。木蓮の胸に、驚きと懐かしさとが同時に押し寄せ、心臓が小さく跳ねた。 「睡蓮、いつ帰って来たの?今までどこにいたの?」 木蓮の声は、思わず震えていた。だが、睡蓮はただ静かにそこに佇むだけだった。彼女の瞳には、かつて木蓮がよく知っていた輝きや溌剌とした表情はなく、代わりに深い湖のような静けさが宿っていた。木蓮は彼女が何を考えているのか、まるで読み取れなかった。その沈黙が、まるで時間が止まったかのような重い空気を作り出していた。木蓮は慌ててバスタオルを将暉と睡蓮に手渡し、「身体が冷えるから中に入って」と声を掛けた。 冷たい雨に濡れた二人の姿に、木蓮の心は落ち着かなかった。二人は無口なままリビングに上がると、ソファーに腰掛けた。睡蓮の長い髪から滴る水滴が、リビングの床に小さな音を立てて落ちた。その音が、静かな部屋に不思議なリズムを刻んだ。
last update最終更新日 : 2025-08-23
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同じ顔

その夜、木蓮は眠れなかった。ナイトライトの淡い光に照らされた頬には、涙の跡が乾いたまま残り、胸の奥には重い石が沈んだようにずっしりと横たわっていた。夫婦のベッドルームに一人きりの夜、手を伸ばしてもそれは空を切って、冷たいシーツに力なく落ちた。 ゲストルームからは、夫の将暉と妹の睡蓮の笑う声が響いてくる。それは耳を塞いでもなお、鋭く心を刺すように、はっきりと聞こえた。二人は、これから生まれる赤ちゃんとの明るい未来について、楽しげに語り合っている。 (………この子のお父さんも将暉なのに) 木蓮はまだ小さい命を守るように、そっと下腹を撫でた。柔らかなその感触は、彼女に僅かな温もりを与えたが、同時に深い悲しみを呼び起こした。 一昨日まで、木蓮は将暉に愛されていると信じていた。毎朝、彼が淹れるコーヒーの香りに包まれ、夜には彼の腕の中で安心して眠った。あの笑顔、あの優しい声、全てが自分に向けられたものだと疑わなかった。だがそれは一人芝居だった。婚約者の将暉は、睡蓮を愛していた。 二年という月日、木蓮が築き上げた信頼と愛は、脆くも崩れ去った。裏切られた事実に、胸が締め付けられ、嗚咽が喉から漏れた。静かな部屋に、木蓮のすすり泣きだけが響く。窓の外では、夜風が木々の葉を揺らし、まるで彼
last update最終更新日 : 2025-08-26
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消え入りそうな影

妊娠検診の結果、木蓮は貧血気味で、胎児の心音にわずかな異変が見られると診断された。医師は穏やかな微笑みを絶やさず、「お母さんは無理しないで、家事は旦那さんに任せちゃいましょう、ね?」と、場を和ませようと軽やかに言った。 だが、木蓮は消え入りそうな声で「……はい」とだけ答え、伏目がちに顔を下げた。その姿は、幸せな母親の輝きとは程遠く、まるで重い影に押し潰されそうだった。医師は木蓮の様子に気付き、優しく続けた。「心配事があるようなら、カウンセラーを紹介しますよ」木蓮は小さく微笑み、「ありがとうございました」と囁くように答え、軽くお辞儀をして診察室を後にした。 (………赤ちゃんに何かあったらどうしよう) 廊下に出た瞬間、木蓮は悲しみと不安の波に飲み込まれ、足元から崩れ落ちそうになった。冷たい床に手をつき、なんとか身体を支える。胎児の心音に異変…………その言葉が、彼女の心に鋭い刃のように突き刺さっていた。 このままでは、お腹の小さな命が消えてしまうかもしれない。だが、今の生活では身体を休めることすらままならない。朝から晩まで、睡蓮と将暉のために料理を作り、掃除をし、洗濯をこなす。つわりで吐き気に耐えながら、彼女の身体は限界に近づいていた。それでも、将暉の目は睡蓮にしか向かず、木蓮の苦しみには気づきもしなかった。木蓮は、いっそのこと妊娠を打ち明けようかと
last update最終更新日 : 2025-08-28
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田上伊月との出会い

田上伊月という名のカウンセラーの瞳は、まるで春の陽光のように優しく、凍てついた木蓮の心をそっと溶かした。ハンカチを握り締めたまま、木蓮は田上に促され、カウンセラー室へと案内された。部屋に足を踏み入れると、窓から差し込む温かな日差しが彼女を迎えた。白いカーテンが空調の風に軽やかに揺れ、窓辺には子供連れの利用者を意識したのだろう、可愛らしい白いうさぎのぬいぐるみが整然と並んでいた。無機質な病院の一角とは思えない、柔らかな空気が漂う空間だった。 木蓮は、冷たい待合室の喧騒から切り離されたこの場所に、ほんの一瞬、胸の締め付けが緩むのを感じた。 田上は穏やかな笑みを浮かべ、「何を飲みますか? カフェインレスの紅茶もありますよ」とさりげなく気遣った。その声は、まるで木蓮の心の傷にそっと触れるような優しさだった。彼女は迷わず紅茶を選んだ。田上がティーポットを手にすると、静かな白い空間に、紅茶のほのかな香りが漂い始めた。 「どうぞ、熱いから気をつけてくださいね」 カチャンと小さな音を立てて、白いティーカップが木蓮の前に置かれた。琥珀色の紅茶の表面に、泣き腫らした自分の目が映る。人前で泣くなんて、木蓮はずっと恥ずかしいことだと思っていた。だが、田上の穏やかな眼差しを前に、彼女の心は堰を切ったように崩れた。子供のように木蓮は涙を流した。「大丈夫、ゆっくりでいいですよ」と、田上は静かに言った。彼の声は、まるで木蓮の心に寄り添うように穏やかで、彼女を責めるものは何もなかった。木蓮はハンカチで
last update最終更新日 : 2025-08-29
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守りたいもの

木蓮は田上伊月の名刺を指でなぞった。滑らかな紙の感触が、彼女の心にわずかな安心を刻んだ。名刺に書かれた丁寧な文字「田上伊月 カウンセラー」とその携帯番号は、まるで彼女の孤独な戦いに差し込んだ一筋の光のようだった。 「木蓮様、何か宜しいことがございましたか?」運転手の島田が、ルームミラー越しに穏やかに尋ねた。木蓮は一瞬驚いて顔を上げた。「どうして?」と返すと、島田は柔らかく笑い、「いえ、そんな気がしまして」と答えた。その声には、木蓮を気遣うさりげない優しさが滲んでいた。 木蓮の心は、カウンセラー室で田上と過ごした穏やかなひとときを思い返していた。白いカーテンが空調の風に揺れ、窓辺に並ぶ可愛らしいうさぎのぬいぐるみが陽光に照らされていた。あの静かな空間で、田上の柔らかな微笑みと「いつでも連絡してください」という言葉が、木蓮の凍てついた心に温もりを与えた。彼女の口元には、自然と小さな笑みが溢れていた。それは、将暉の冷たい視線や睡蓮の幸福な笑顔に囲まれた日々の中で、初めて感じた安堵の瞬間だった。木蓮は名刺を握りしめ、その温かさを胸に刻んだ。だが、車が次の角を曲がれば、そこには裏切り者の睡蓮と将暉の笑い声が響く家が待っている。木蓮にとって、それは地獄そのものだった。 つわりで身体が重く、胎児の心音に異変があるという診断が心に重くのしかかる。妊娠を明かせば、将暉にこの子を排除されるかもしれない恐怖。叶家と和田コーポレーションの軋轢の中で、彼女の存在はますます小さく感じられた。それでも、この子たちを守りたいという思いが、木蓮の心を支えていた。彼女はそっとお腹に手を当て、かすかな鼓動に祈りを込めた。この小さな命だけが、彼女の生きる理由だった。
last update最終更新日 : 2025-08-30
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