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第6話

Author: 小雨
疲れきった体を引きずり、家に戻った朝菜。

けれど――

玄関先には、顔を真っ青にした征史が立っていた。

一瞬、素通りしようとした。

だが次の瞬間、バシン、と鋭い音が響いた。

征史の手が、容赦なく朝菜の頬を打った。

ほてるような痛み。

顔半分がすぐに腫れた。

「薬はどこだ!!」

怒声が飛ぶ。

視線の先、句美子が地べたにうずくまり、苦しそうに痙攣していた。

顔は蒼白で、息も絶え絶えだった。

「句美子は心臓が悪いんだぞ!たとえ、お前が怒ってたにしても……

だからって、薬を隠すなんて、殺す気か!!」

征史の怒りは頂点に達していた。

「この薬は、海外の特別な研究所で作られたんだ。普通の病院には置いてない。俺は医者だ。目の前で彼女を見殺しにするなんて、絶対にできない!薬はどこに隠した!?答えろ!!」

朝菜は、黙って彼を見つめた。

ただ、まっすぐに。

その無言の眼差しに、征史は一瞬たじろいだ。

――まるで、すべてを知っているかのように。

心のどこかに、重く冷たい不安が広がっていく。

こんなふうに、朝菜に手を上げたのは初めてだった。

後悔と、戸惑いと、罪悪感。

それでも。

「……悪いのは、お前だろう」

そんなふうに、自分に言い聞かせた。

沈黙の中、句美子は震える手で机の角を指さした。

その視線の先には、ピクリとも動かない小さな犬。

「兄さん……薬……たぶん、あそこ……ワンちゃんが……食べちゃったかも……」

征史はぎょっとして、そちらを見た。

確かに。

床には、蓋が開いたままの薬瓶と、散らばった白い錠剤が落ちていた。

句美子は、薬を飲み終えると、無造作に小さな犬の遺体を足で蹴り飛ばした。

彼女は分かっていた。

この犬が、朝菜にとって最後の心の支えだということを。

だから――

あえて、心臓の薬を犬の餌に混ぜた。

すべては計算づく。

一石二鳥。

朝菜を、完璧に打ちのめすために。

征史は、その光景を見て、体を強張らせた。

……違う。

朝菜じゃなかった。

自分は――

何も知らない朝菜を、あんなふうに責めて、叩いてしまったのだ。

征史は、己の頬を何度も平手打ちした。

顔に紅い痕が滲む。

「朝菜……ごめん……俺、取り乱してた……」

震える声で謝りながら、そっと彼女に手を伸ばそうとした。

しかし、朝菜は冷たく身を引いた。

その拒絶に、征史の胸は激しく痛んだ。

それでも、朝菜は一瞥もくれなかった。

ただ、無言で小さな犬の亡骸を見下ろし、そして、静かに自室へと戻った。

鍵が、かちりと閉まる音が響く。

それから、何時間も。

征史は食事やスイーツを運び続けた。

けれど、どれも手付かずのまま、冷たくなっていった。

胸が、締め付けられるように苦しかった。

堪えきれず、句美子に怒りをぶつける。

「……お前、どういうことだ!朝菜が薬を隠したって、言ったじゃないか!」

句美子は、シュンとしながら小さな声で答えた。

「ごめんなさい……姉さんを、勘違いしちゃった……」

「勘違い……?お前、どれだけ重大なことをしたかわかってるのか!」

怒鳴りながら、征史は言葉を続けた。

「シュガーは、朝菜とおばあちゃんが一緒に拾った子だ。

おばあちゃんが亡くなった今、シュガーまでいなくなったら……朝菜がどれだけ辛いか、考えたことあるか!」

句美子は泣きそうな顔で呟いた。

「ごめんなさい……私、本当にあの薬が犬にそんなに悪いって知らなかったの……」

その時。

バタン、と勢いよくドアが開いた。

朝菜だった。

完璧にメイクを施し、きれいに着飾った姿で。

彼女は一言も発さず、颯爽と家を出た。

征史は、心配でいてもたってもいられず、車を出して朝菜のあとをつけた。

彼女が向かったのは、町の小さなカフェだった。

ガラス越しに覗くと、朝菜の向かいに座っていたのは――

穏やかな笑顔を浮かべる、スーツ姿の男性だった。

ふたりは、時折微笑みながら話している。

胸がざわめく。

征史は、窓際に耳を寄せて、何を話しているのか聞こうとした。

でも、声ははっきりとは届かなかった。

カフェの中。

朝菜は、にこやかに会釈した。

「久しぶりですね、先輩」

雪村公生(ゆきむら きみお)は、テーブル越しに一通の推薦状を滑らせた。

穏やかに微笑みながら言う。

「やっと決心がついたんだね。先生も、ずっと君のことを気にしてたんだよ」

朝菜は、推薦状の金色の文字を指先でなぞりながら、静かに呟いた。

「先生には……もったいないくらいのご厚意をいただきました。

……ご高齢なのに、お体のほうは……?」

ふたりは、しばらく懐かしい話を交わした。

店を出ると、征史がカフェの前で待っていた。

目尻はわずかに赤く染まり、どんなに鈍い人間でも、何かがおかしいと気づくほどだった。

「朝菜……そんなに失望したのか?

俺から、離れるつもりなのか?」

朝菜の瞳には、もう光がなかった。

彼女は淡々とした声で返す。

「……私に、失望する理由があると思う?」

征史は、彼女の視線の奥に――

まるで、自分をすり抜けて、昔の自分を見つめているような錯覚を覚えた。

どうして、こんな気持ちになるんだろう。

視線を落としながら、征史は苦しそうに口を開いた。

「……句美子の薬を、お前が隠したって疑った。俺が、間違ってた」

朝菜は、無表情のまま小さく頷いた。

「句美子は……私の妹だもの。そんな子どもと、いちいち争ったりしない」

その言葉に、かえって征史は息が詰まった。

今までにない焦りと、胸を締めつけるような不安が、押し寄せてくる。

――このままじゃ、本当に彼女を失ってしまう。

征史は歩み寄ると、朝菜の手を強く握った。

「朝菜、怒ってくれていい。殴ってくれてもいい。だけど……」

暗い瞳に、悲しみが満ちていく。

「……お願いだから、俺を無視しないで」

朝菜は、黙って彼を見つめた。

何も言わず、何も答えず。

……少し、笑いたくなった。

征史が、こんなにも自分にすがるなら――

なぜ、最初から裏切ったのか。

なぜ、あんなにも酷く、自分を傷つけたのか。

まるで何かを証明したくて仕方がないように、征史は慌ただしくポケットを探った。

そして、胸元から一枚の古びた御守りを取り出した。

目元を赤く染めながら、彼は言った。

「朝菜……この御守り、覚えてるか?

あのとき俺、集中治療室で昏睡してて……

君は、天竹峠を這うように登って、ひとつひとつ膝をついて、これを願ってくれたんだ」

それは、ずっと心の奥に封じ込めていた記憶だった。

医者からは、危篤だと告げられ――

家族に覚悟をするよう宣言された日。

十八歳の少女は、もう二度と彼が目を覚まさないと思い込み。

泣きながら、天竹峠を、一歩ごとに膝をつきながら登っていった。

たった一つの希望を、神さまにすがって。

あれから二十年以上。

彼女の膝が血だらけになりながら、御守りを差し出したあの姿を思い出すたび。

征史の胸には、鋭くて細かな痛みが走る。

それは、今も変わらない。

征史の目に、どうしようもない哀しみがにじんだ。

「……この御守りで、願いを一つだけ叶えたい、朝菜……もう一度だけ、チャンスをくれないか?」

朝菜はじっと、彼を見つめていた。

征史の声は弱々しく、視線すら恐る恐る彼女に向けるほどだった。

それでも――

朝菜は、ふっと笑って見せた。

「うん、いいよ」

「……ほんとに?!」

征史はまるで、子供のように顔を輝かせた。

だけど彼は気づかなかった。

朝菜のその笑みの奥に――凍てつくような冷たさが広がっていることに。

征史――

私は、あなたを許すよ。

裏切りも、無関心も、重ねられた失望も、全部。

でもね――

それは、私があなたの世界から「完全に死ぬ」ってこと。

幻想を壊して、あの白いバラを血で染める。

あなたの胸に刻み込む、消えない紅い痣にしてやる。

その痣はやがて――

鋭い刃になって、何度でもあなたを刺す。

……確実に、命を削るほどに。
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