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第4話

Author: 小雨
朝菜は、結局――祖母の最後に、間に合わなかった。

隣のおばさんは、悔しそうに首を振った。

「あと……たった三十分早ければね。

本当に、惜しかったよ……」

そう言って、ひとつの小さな木箱を手渡してきた。

朝菜は震える指で、それを受け取った。

箱の中には、びっしりと思い出が詰まっていた。

小学校の頃にもらった賞状、くるくる回る小さな風車のおもちゃ、そして――

もうずっと前に賞味期限が切れた、包み紙の色あせたミルクキャンディ。

幼い頃、甘いものが大好きだった自分に、「虫歯になるから」と、祖母はいつもキャンディを隠していた。

なのに、大人になった今、祖母が差し出したキャンディを、自分はもう受け取れなかった。

――取り返しのつかない時間。

胸が、痛かった。

箱の一番底に、ふくらんだ赤い封筒があった。

封筒の表には、拙い字でこう書かれていた。

「私の大切な朝菜へ」

中には、びっしりと詰まった紙幣。

大切に、大切に貯めたお金だった。

朝菜は、祖母に新しい服を着せた。

火葬場へと送り、戸籍も正式に抹消して――

胸に抱えたのは、たった一つ、小さな骨壷だけ。

帰宅した家には、祖母が生きたままの空気が、まだ漂っていた。

新品の洗濯機、食洗機、洋服ダンス。

どれも使われることなく、梱包すら解かれていない。

「もったいない」

そう言いながらも、祖母はご近所に自慢していた。

――うちの孫が、買ってくれたんだって。

「わん、わん」

ふわふわの小さな犬が、しっぽを振りながら駆け寄ってきた。

足元にちょこんと座る。

朝菜はその頭を撫でながら、かすかに微笑んだ。

「……シュガー、もう、あなただけになっちゃったね」

犬は事情も知らず、嬉しそうに彼女の手に身体をすり寄せた。

祖母の葬儀の前日。

征史が、姿を現した。

黒いスーツに、胸元には白い花。

きちんとした弔いの装いだった。

「朝菜、ごめん、遅くなって……」

朝菜の親友は、怒りを爆発させた。

彼のもとへ駆け寄り、叫ぶ。

「今さら何しに来たの!?朝菜があんなに必死でお願いしてた時、どこにいたんだよ!?あんた……!」

けれど、朝菜は静かに首を振った。

「もういいよ」

穏やかな声だった。

それが、かえって痛かった。

「なにそれ!?朝菜、なんでそんなに簡単に許すの!?」

親友は歯ぎしりして、涙をこらえた。

朝菜は視線を伏せ、手の中にある骨壷をそっと撫でた。

「おばあさん……生前は、あの人のこと、すごく気に入ってたんだ」

昔、征史はよく祖母を訪ねてきていた。

そのたびに、祖母は冗談めかして言ったものだった。

――こんなにイケメンじゃ、そのうちうちの宝物を放り出すんじゃないかねえ。

そのたびに、征史は耳まで真っ赤になり、朝菜の手をぎゅっと握った。

「俺の一生、愛するのは朝菜だけだ。二十年ずっと好きだったし、これからも、ずっと、ずっと。

もしこの誓いを破ったら――心臓を取り出して、命で償う!」

祖母は、くしゃくしゃに笑って言った。

――そんな怖い誓いまでできる子なら、安心して任せられるね。

宝物のような孫娘を、彼に託すことに、何のためらいもなかった。

朝菜は、苦笑いを浮かべた。

「……おばあさん、人の心って、変わっちゃうんだよ」

征史は、目を伏せたまま呟いた。

「朝菜……すまない」

「おばあさんの後のことは、執事に任せた。今までずっと、大変だったね」

彼はまだその場を動こうとしなかった。

朝菜は静かに顔を上げた。

「……何か、用?」

征史は、彼女の手にあった酒瓶を取り上げた。

その目には、痛々しいほどの優しさが滲んでいた。

「全部……俺が悪かった。でも、朝菜、お前は胃が弱いんだ。酒なんか飲んだら、身体に障るだろ……」

朝菜は何も答えず、無表情のままその場を離れた。

深夜、朝菜のスマホが震えた。

画面を開くと、そこには句美子からのメッセージ。

送られてきたのは、一枚の写真。

征史が、句美子の顎を膝で引き寄せ、親密なポーズを取っている。

【姉さん、お金に困ってるんだって?なら、葬儀場に来て、絵でも描いてよ。六億、払ってあげる】

朝菜は、指が白くなるほどスマホを握りしめた。

そうだった。

今の自分には、どうしてもお金が必要だった。

国外へ――この地獄から離れるために。

残り、三日。

朝菜はこのつらい日々の中、ただ――

ただ征史の「ごめん」の一言だけを、毎秒のように待ち続けていた。

けれど、返ってきたのは裏切りと、耐え難いほどの屈辱だけだった。

あと三日。

すべてが終わる。

この茶番も、やっと――完全に、終わる。

葬儀場の奥、誰にも気づかれない小さな屋根裏。

朝菜はイーゼルを立て、静かに身を潜めた。

下では、散らばった花輪の中で、男と女の声が激しく響いていた。

甘ったるく、どこか狂気を孕んだ声。

「兄さん……もう無理、食べられない……」

「葬儀でこんなドレス着て……句美子、そんな格好で俺を誘ったんだ。その代償、覚悟してるよな?」

征史は句美子の顎をつかみ、指を口の中へ無遠慮に押し込んだ。

「いい子だ、句美子。吐かないで、ちゃんと飲み込め」

句美子は、涙声になりながらも必死で応えていた。

「んん……やだぁ、兄さん、ひどい……服までぐちゃぐちゃ……」

征史の声は、しわがれた低音になっていた。

「ちょうどいい。今度、新しいのを買ってやる。俺のために着ろよ」

その間にも、朝菜の手は止まらなかった。

絵筆が紙の上を、怒りのままに暴れた。

無心で、ただひたすらに描き続ける。

キャンバスの上の征史は、かつての純真な少年ではなかった。

欲望に満ちた目をして、義妹に手を伸ばしている。

思い出す。

十七歳の春。

桜の下で、無邪気に笑って近づいてきたあの少年を。

――それが、三十歳になった今、葬儀の祭壇の前で、義妹に向かって、ベルトを外した。

なぜ?

なぜ、自分はもう彼を手放すと決めたのに、こんなにも胸が苦しくて、泣きたくなるの?

朝菜は、ぎゅっと絵筆を握りしめた。

裂けるような音が響いた。

あまりに強く紙を押し付けたせいで、絵が破けてしまった。

そのとき、低くしぶい声が響いた。

「誰だ、そこにいるのは?」

一瞬、空気が凍った。

句美子は、くすくすと笑った。

「兄さん、気のせいだよ。ここはお葬式だもん、誰もいるわけないよ。

……もしかして、後ろめたいことがあるから、幽霊でも怖いんじゃないの?」

征史は、鼻で笑った。

「俺が、そんなもの怖がると思うか?」

句美子はさらに甘えるように囁いた。

「じゃあ、兄さん、何が怖いの?」

征史は、甘く、どこか狂った声で答えた。

「お前に溺れて、いつか死ぬんじゃないかって、怖いんだよ」

句美子は、朝菜の潜んでいる方向に得意げに視線を投げた。

同時に、朝菜のスマホに次々とメッセージが届く。

【こんなに愛されること、姉さんにはなかったよね?】

【六億は振り込んでおいたから。絵はあなたの手元に残していいよ。兄さんの「愛」、記念にすれば?】

朝菜は無表情のまま、イーゼルを片付け、静かにその場を離れた。
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