「病院でそんな格好……兄さんを困らせる気?」 婦人科の診察室で、朝菜はお腹をそっと撫でながら座っていた。 スマホからは、夫と義妹の声がはっきりと聞こえてくる――
View Moreピッ、ピッ――不安定に跳ねていた心電図の線が、今にもまっすぐになりそうだった。「除細動器、準備して!緊急蘇生開始!」「CPR行きます、毎分120回の圧迫で!除細動一回、反応なし!」春音は、夢を見ていた。その夢の中で、彼女は高校時代に戻っていた。青と白の制服を着た征史が、桜の木の下で鼻歌を歌っている。ギターの弦を爪弾きながら、得意げに笑う。「これ、君のために作った新曲。どう?気に入った?」顔を赤らめた春音は、ぷいと顔を背けて口をとがらせた。「……へたくそ」「うそばっかり」征史は数歩で彼女の元に跳ねるように近づいて、にやりと笑った。「じゃあ、なんで顔そんなに赤いんだ?」彼女は小走りで逃げ出す。征史はギターを背負ったまま追いかけてくる。「おい、朝菜!逃げるなよ~!」懐かしい記憶が、走馬灯のように次々と映し出される。そして――彼が全身で彼女を守っていた場面に移る。銃弾の嵐の中、征史は彼女を抱きしめ、盾のように身体を差し出した。その身体は穴だらけになり、声も掠れていたが、何度も何度も彼女の名を呼んでいた。「……朝菜、寝ないで……頼むから、目を覚ましてくれ……」耳の奥では、遠くから響くざらついた音。次の瞬間、春音の頭に鋭い痛みが走る。そして――「反応あり!患者に反応あり!」近くの医師の声が、はっきりと聞こえてきた。ゆっくりと目を開けると、眩しいほどの白い光が視界を包んでいた。「患者、覚醒!命は助かりました!急いでホルモン注射の準備、誘発分娩に入るぞ!」どれくらい時間が経ったのだろうか。ようやく――春音は、赤ちゃんを産んだ。医師が何度も背中を軽く叩き、やっと小さな産声があがる。「早産児です!すぐに保温箱へ!」「……赤ちゃん……」春音は本能的にその名もない命を呼んだ。この目で確かめなければ、どうしても安心できなかった。スタッフたちは慌てて赤ん坊を春音のもとへ抱き寄せた。「大丈夫です。母子ともに無事ですよ。本当に、奇跡です」くしゃくしゃの顔で、まだ目も開けていない小さな命が、ちいさな手を伸ばし、春音の指をつかもうとする。それだけで――涙がこぼれそうだった。出産から半月。春音の体はだいぶ回復し、歩けるようになっていた。
句美子の唇には逆に冷たい笑みが浮かぶ。――こんな人生なんて、もう最悪だった。もし、この男を愛していなければ、自分はこんなふうにはならなかったのに。征史は目を細め、低く言い放った。「3秒数える。その間に、彼女を放せ」ぷっ、と句美子が鼻で笑う。「放せって?征史、私がどれだけの地獄を味わってきたか、全部あの女のせいよ。なのに、私が手を引けって言うの?」「……おまえ、死ぬ覚悟があるのか?」「死んでるも同然の人生よ。今さら死なんて怖くもないわ。そんなもので脅せると思ってるの?」征史の中に、言い知れぬ不安が湧き上がる。「……何をする気だ」句美子はゆっくりと彼の首に腕をまわし、囁くように言った。「もちろん――あなたへの、最後のプレゼントよ」次の瞬間、句美子の瞳が鋭く光った。「みんな聞きなさい!春坂征史と日比谷春音を、何があっても殺しなさい!どちらかが生きていたら許さない!」その言葉を聞き、征史の眉がピクリと動く。彼はすぐさま句美子の身体を引き寄せ、春音のそばまで退きながら身構える。そして、その耳元に忍び寄る不気味な声――「ねえ、征史。いっしょに死にましょう」その瞬間、句美子は征史の指を無理やり掴み――引き金を、強く引いた。――パンッ!一発の銃声が鳴り響き、真っ赤な血飛沫が句美子の頭部から吹き出した。征史の顔に、鮮やかな赤が飛び散る。目の前が、真紅に染まった。それでも、句美子の顔には奇妙な笑みが浮かんでいた。まるでこう言っているようだった。「たとえ死んでも――あんたを、地獄に道連れよ」すべてが、あまりにも突然だった。征史は、己の体に滴る血を見下ろしながら震えていた。けれど感情を整える間もなく、周囲の護衛たちが一斉に引き金を引いた――パンパンパンパンッ!銃声が四方に響き渡り、その場は一気に戦場と化した。その混乱の中で、征史は迷うことなく春音を抱き寄せ、全身で彼女を守った。肌は蒼白になり、身体の痛みによろめきながらも、倒れそうな足に力を込めて立ち続ける。だが、限界はすぐに来た。彼の身体は地面に崩れ落ち、なおも春音を守るようにその身を覆う。銃弾が容赦なく彼の体を貫いた。肉にめり込み、骨が砕ける鈍い音が響く。春音の耳元では、世界が唸りを
その映像を見たとき、征史は、ほとんど正気を失いかけていた。画面の中で、春音は血まみれになっていた。口には白い布が詰められ、息も絶え絶えのように見えた。そして――句美子が、その横で邪悪な笑みを浮かべていた。「驚いた?兄さん、サプライズってやつよ」「……お前、気が狂ったのか!?」征史は絶叫した。しかし彼女は、薄く笑いながら返す。「うふふ……兄さん、忘れた?私なんて、ずっと前から狂ってるのよ。あなたがそうさせたんじゃない」ハイヒールの先が、春音の顔を容赦なく蹴り飛ばす。顔を歪めながら、わざとらしく声を高くする。「どう?目の前で、愛する女が死んでいくのを見るのって……悲しいでしょ?あ、言い忘れてた。彼女、お腹にあなたの子どももいるのよ。だから――しっかりと『可愛がって』あげたわ」その瞬間、征史の瞳は真っ赤に染まった。「やめろ……朝菜を放せ!!俺にできることなら何でもする!条件があるなら言え!」「なんでも?」「……ああ、俺にあるものは全部やる。だから、頼むから朝菜を……」だが――句美子はけらけらと笑い、わざとらしく首を振った。「残念。もう欲しいものなんてないのよ。住所、送っておいたわ。一人で来て。もし警察なんて呼んだら――遺体で彼女に会うことになるわよ」征史は一瞬の迷いもなく、車を飛ばした。向かうのは、メッセージに記された孤島。気がつくと――春音は、甲板の上に横たわっていた。重たいまぶたをゆっくりと持ち上げる。そこには、青く広がる海と、どこまでも続く水平線。自分がいるのは、大型のクルーズ船。どうやら、どこかへ向かって航行しているようだった。「へぇ、もう目が覚めたんだ?しぶといわね」目の前には、句美子。彼女の周囲には、黒ずくめの屈強な男たち。皆、銃や警棒を手にし、句美子に忠実に付き従っていた。句美子はゆっくりと春音の前に歩み寄る。「知ってる?あの人、昔、あんたのためにヤクザのボスと命の賭けをしていたのよ。でもね――あのとき彼が助かったのは、私が夜通し父に頼み込んで、かろうじて病院に運ばせたから」その表情には、冷たい決意が宿っていた。「この船には、すでに万全の警戒網を張り巡らせたわ。今回は……絶対に、容赦なんてしない」句美
床に放り出されたスマホから、メッセージの通知が次々と鳴り響いていた。【朝菜、俺……句美子を逃がしちまった。でも、安心して。必ず捕まえて、君の前に引きずってくる】【ほら、君の好きなケーキ、また作ったよ……お願いだから、出てきてくれないか?】そのやり取りを見た公生は、眉をひそめながらその番号に電話をかけた。コール音は一度も鳴らず、すぐに相手が出た。「朝菜!?やっと応えてくれたんだな……!」征史の声には、ひどく浮かれた調子が混ざっていた。だが、公生は冷静に、低く告げた。「春音が……いなくなった」その一言に、電話の向こうの征史が言葉を失う。次の瞬間、怒声が爆発した。「は?お前、何やってたんだよ!春音に何かあったら……許さないからな!!」公生はスマホ越しに、部下から届いた最新の監視ネットワークの解析データを見ていた。GPSログと映像履歴――そこに映っていたのは、ある危険な地帯。……そこは、神崎組の縄張り。名を聞いただけで血が凍るような、裏の世界の亡者たちが跋扈する場所だった。「聞いてるのかよ!応えろって!」「君……神崎の『後ろに誰がいるか』分かってたのか?」「……は?」征史の声が戸惑いに変わる。しかしその瞬間、公生は通話を一方的に切った。「っ……!」バチン――!激しい音とともに、春音の頬に火花のような痛みが走る。意識がぼやけた状態から、彼女はゆっくりと目を開けた。手足はきつく縛られ、床に放り出された状態――そして目の前にいたのは……「……句美子……?」その姿に、春音は思わず息を呑んだ。赤黒くただれた唇、ひどく痩せこけた顔、体中に浮かぶ無数のアザと傷。ふっくらとしていた胸も、今は潰れて歪んでいた。彼女は、まるで地獄の底から這い上がってきた悪鬼のようだった。「……驚いた?私、まだ生きてるのよ」声は低く、冷たく、凍りつくような呪詛だった。にやりと笑ったその顔は、狂気そのもの。彼女は春音の顎を無理やり持ち上げ、そのまま鋭い爪で、春音の頬をゆっくりと引き裂いた。「……ッ!!」鋭い痛みとともに、皮膚が裂け、血が滴り落ちる。鉄の匂いが空気に混じり、濃密に漂った。句美子は執拗に笑いながら言った。「聞いたよ?あんた、こっちでずいぶん
その数日間、征史はずっと春音の家の前に跪いていた。玄関には、彼が持ってきた栄養食品が山のように積まれていた。春音はそれを見て、ついに我慢の限界を迎えた。「……あんたの物なんか、持って帰りなさい。消えて」征史はすぐさま立ち上がり、無理やりその品々を春音の手に押しつけた。そのまま家から十メートルほど離れた場所へと下がり、また無言で膝をついた。「朝菜……たとえ君が俺を憎んでも、身体のことは大事にしてほしい。妊娠中なんだ、無理しないでくれ。君が会ってくれないなら、それでもいい。せめて……ここで待たせてくれ。君が許してくれるまで、何日でも何年でも――俺はここにいる」春音は鼻で笑った。「じゃあ、そこで死ねば?私、まばたき一つしないから」彼女は手にしていた栄養品を、ためらいもなくゴミ箱へ放り込んだ。一瞥もくれず、完全に背を向けて――ちょうどそのとき、公生が部屋から出てきた。手には、赤と青の二着のベビー服を持っていて、難しい顔でそれらを見比べていた。「春音、ねえ……これ、どっちがいいと思う?編み物まだ下手だから、少し形がいびつかもしれないけど」春音は笑いながら茶化した。「確かにちょっと……ヘタですけど、可愛いですよ」その一言で、公生の顔が一気に明るくなった。「春音がそう言ってくれるなら、もう十分だよ……あ、そうだ。君の好きなケーキ、作ってあるんだ。今、食べる?」春音の目がキラリと輝く。「食べます!」その様子を遠くから見ていた征史は――心が引き裂かれるような痛みに襲われていた。――全部、俺のせいだ。あの頃に戻れたなら、どんなに良かっただろう。もっとちゃんと愛してあげて、街を一緒に歩いて、ぬいぐるみを山ほど買って、君の腰をさすって……完璧な夫には、なれたはずなのに。でも、もう何もかも遅い。朝菜は、もう俺を愛していない。今、君の隣にいる男と――笑い合ってるその姿が、こんなにも自然で、こんなにも眩しくて…………本当は、全部、俺のはずだったのに――!ポケットの中で、スマホが震え続けていた。国内からの着信が何度も鳴っている。けれど、征史はそれを一瞥もせず、まるで見えていないかのように、ただ座っていた。スマホの画面に、次々と通知が弾け飛んできた。【バカ者
高級会館の個室で、春音は静かに椅子に腰かけ、相手を待っていた。やがて、ドアが音もなく開く。見覚えのある、背の高い男が現れる。その目は赤く腫れ、声はかすれていた。「……朝菜、君だったんだな……どれだけ探したと思ってる?俺、本気で君を失ったと思った……」春音は無表情で彼を見つめた。「……人違いです。私の名前は春音です」「そんなわけがないだろ」俺の声は震えていた。「……あの遺体を見たとき、心が張り裂けそうだった。俺は狂ったみたいに復讐を誓って……もう少しで、句美子を殺すところだった……!けど、あいつはずる賢かった。先にうちの両親に電話して、自分が妊娠したって言って……いろいろあって、俺は刑務所に入ることになった」長い時間、ずっと押し込めていた思いが、ようやくこぼれ落ちる。「……朝菜、君は俺を騙せない」「たしかに、あの遺体は君にそっくりだった。俺も一度は信じかけた。でも――君は昔、治療した歯があったよな。あの遺体には、それがなかったんだ」春音は思わず眉をひそめた。まさか……あんなに綿密に準備したのに、こんな細かいところで見破られるなんて――だが、征史はまるで気にしていないようだった。代わりに一歩近づき、まっすぐ春音の顔を見つめる。「君にもう一度会えたこと……本当に嬉しい」「安心して。句美子が俺たちの邪魔をすることは絶対にない。もう腹の子も処理させた。これからは君と俺と、これから生まれる子どもと一緒に……幸せに暮らそう」そう言って、俺は彼女を抱きしめようと手を伸ばした――けれど。「触らないで!」春音が激しく手を振り払った。俺の手は空を切り、ぽつんと宙に取り残される。心が、ぎゅうっと痛んだ。「……朝菜、俺たちは二十年も一緒にいたんだ。まだ……君の心に、俺が全く残っていないなんて、信じられない。もう一度だけでいい。償わせてくれ。たった一度でいい。頼む――」春音の声は、氷のように冷たかった。「私はあんたにチャンスは何度もあげた。でも、そのたびに裏切られてきた。私が妊婦健診に行ってる間に、外で句美子と不倫。おばあさんの葬儀で、あの子が骨壷をひっくり返しても、あんたは止めなかった。うちの子……シュガーを毒殺されたときも、何もしなかったよね。あの子が私を侮辱しても、
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