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あなたを想うことも、春の雨と一緒に流れて

あなたを想うことも、春の雨と一緒に流れて

By:  小雨Completed
Language: Japanese
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「病院でそんな格好……兄さんを困らせる気?」 婦人科の診察室で、朝菜はお腹をそっと撫でながら座っていた。 スマホからは、夫と義妹の声がはっきりと聞こえてくる――

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Chapter 1

第1話

「病院でそんな格好……兄さんを困らせる気?」

婦人科の診察室で、春坂朝菜(はるさか あさな)はお腹をそっと撫でながら座っていた。

スマホからは、夫と義妹の声がはっきりと聞こえてくる――

結婚して三年。なかなか授からなかった命。

やっと、やっと宿った愛しい我が子のことを、早く春坂征史(はるさか まさふみ)に伝えたくて――

でも、耳に飛び込んできたのは、現実を疑いたくなるような、淫らな音声だった。

女の子の声が続く。わざとらしく、ベルトのバックルをカチリと鳴らして。

「でも兄さん、姉さんは今、階下で妊娠検査中なんでしょ?今こんなことして、バレたらどうするの?」

男のくぐもった笑い声が応えた。

「俺はここの主治医だ。それにお前は心臓病持ちだろ。朝菜が見たって、まさか疑うはずないさ。

さ、手で助けてくれ」

ふたりの荒い呼吸音が、耳元で生々しく響いた。

朝菜の全身から血の気が引いていく。

本当に……征史なの?

しかも相手は、彼の義妹、神崎句美子(かんざき くみこ)?

ガクガクと震える指先。

現実を否定したくても、携帯から聞こえる声は、さらに朝菜を突き落とす。

「兄さんなんてウソつき、口では姉さんが好きって言いながら、身体は私を離してくれないくせに」

征史は手を止めることもなく、気だるげに答えた。

「ベッドの上の腕前なら、朝菜よりお前のほうが上だよ」

「だったら、彼女と離婚して、私と結婚してよ」

句美子が甘えるように囁く。

「姉さんは体が弱くて、もしかしたら子どもが産めないかもしれないけど……私は若いし、元々は兄さんの許婚だったんだよ?」

その瞬間、征史の声色が一変した。

低く、重く、真剣に。

「句美子、くだらないことを考えるな。俺が一生守りたいのは、朝菜だけだ。子供がいようがいまいが、あいつだけは裏切らない」

「今回だけは、朝菜に赤ちゃんができたから……俺も流石に、傷つけたくないんだ。

だから朝菜が無事に出産したら、お前は国外に行け。そしたらまた、俺は朝菜のもとに戻る」

「でも、私は兄さんの妹なんだよ?そんなの……」

句美子の不安げな声を、征史は気怠げに遮った。

「妹?血なんて繋がってないだろ」

「むしろ……スリルがあって、いいと思わないか?」

彼の声は甘く、水のように柔らかかった。

「余計なこと考えるな。朝菜が検査を終えるまで、もう一回……違う姿勢で楽しもう」

朝菜はふらふらと、まるで魂が抜けたみたいに診療所を出た。

誰かが、首をぎゅっと絞めているような息苦しさ。

――征史は、二十三年も自分を愛してくれたはずだった。

七歳の時、流れ星に誓ってくれた。

「絶対に、一生守る」って。

十七歳の時、借金取りに追われた自分を、身を挺して庇ってくれた。

ナイフで刺され、重症で運ばれた彼の姿。

父親の作った莫大な借金を返すため、まだ治りきらない体で、裏社会の賭博場に命を懸けて飛び込んだ。

九死に一生を得た、あの日。

二十二歳、珍しい病気にかかった自分を救うため、医学博士に挑み、寝食を忘れて研究に没頭してくれた。

二十七歳、世界中に生中継された、誰もが羨む最高の結婚式。

征史の愛は、いつだって堂々としていた。

なのに――

どうして、どうしてこんなふうに変わってしまったの……?

携帯が、また震えた。

朝菜はぼんやりと受話ボタンを押す。

「朝菜、今ちょっと急な用事ができちゃってさ。

3号駐車場の5番スペースで待っててくれないか?」

征史の優しい声。

けれど、朝菜は答えなかった。

返事どころか、止めようのない涙が、次から次へと頬を伝い落ちた。

朝菜は必死に顔をぬぐった。

けれど、拭っても拭っても、涙はあとからあとからあふれてきた。

征史は、彼女が黙ったままでいるのに焦ったようだ。

「朝菜、泣いてるのか?何があったんだ……?」

その声を、朝菜は無言で遮った。

無慈悲に、通話を切った。

ぼんやりと、どれくらい歩いたのか分からない。

世界がぐらぐらと揺れて、ついには意識が飛びそうになる。

「朝菜!」

誰かの叫び声。

そして、ふわりと支えられた。

見上げた先にいたのは――征史だった。

彼は背後にある長い階段を見て、顔面蒼白になっていた。

「……今、ほんの少しでも転んでたら、大変なことになってた。朝菜、無事でよかった。本当によかった……」

震える手で、征史は彼女の涙を拭った。

その目には、確かに愛情があった。

なのに。

――どうして、その心を他の誰かにも分けてしまえるの?

朝菜の胸が、痛くてたまらなかった。

征史は優しく彼女を抱き上げ、車に乗せた。

そして、そっと髪をかき上げながら、スープジャーを取り出した。

「道中お腹が空くといけないから……俺が作った、スペアリブスープだ。まだ温かいよ」

言葉通り、彼は丁寧にスプーンで少しずつすくい、朝菜に食べさせた。

時々、くだらないジョークを挟んで笑わせようとするその目には、惜しみない愛情が宿っていた。

耐えきれず、朝菜はそっと尋ねた。

「征史……何か、私に言いたいことはないの?」

征史は微笑み、彼女の鼻先をくすぐった。

「朝菜が、ずっと平和で、幸せでいられますように」

そう言って、彼は朝菜の指先にそっと口づけた。

そして耳を寄せて、お腹の中の命の気配に耳をすました。

「……ねえ、どっちが先に言うと思う?『パパ』って?それとも『ママ』?」

ぴんぽん。

征史のスマホが鳴った。

彼はチラリと画面を覗き見ると、表情をわずかに曇らせた。

黒曜石のような瞳の奥に、見えない欲望が渦巻く。

朝菜には分かった。

――きっと句美子からだ。

征史は何かを短く打ち込み、すぐに画面を消した。

そして、少しかすれた声で言った。

「朝菜、ごめん。急患が運ばれてきた。俺、病院に戻らないと」

朝菜は、黙って彼を見つめた。

心のどこかで、たった一言でもいい、何か説明してほしかった。

けれど、征史はただ彼女をそっと抱きしめただけだった。

「人の命がかかってる……朝菜には寂しい思いをさせてごめん。帰ったら、ちゃんと埋め合わせするから……君と、子どもにも」

彼は運転手を手配したことを伝え、急ぐようにその場を後にした。

征史が去ったその直後。

朝菜のスマホにも、メッセージが届いた。

【兄さん、水に何か入れた?すごく熱くて、もう我慢できない……】

添付されていた写真に、朝菜の指先が震えた。

そこには、ピンクの超ミニセーラー服をまとった句美子の姿。

白く柔らかな肌が露わになり、潤んだ瞳でこちらを見上げている。

【さっきあんなにたっぷりもらったばかりなのに、また欲しくなっちゃった。待っててね、兄さん楽にしてあげる】

画面を閉じても、冷たい絶望感が胸に突き刺さる。

朝菜は静かに目を閉じた。

長い間、心の中で何度も問い直してきた。

それでも――

もう分かった。

彼は、自分たちの誓いを裏切った。

ならば、自分がこの場所にとどまる理由も、もうない。

朝菜はタクシーに乗り、「擬似死亡サービスセンター」へ向かった。

スタッフはにこやかに対応した。

「春坂さん、間もなく身分情報は抹消されます。擬似死亡サービス規約に基づき、七日後、あなたは『交通事故による死亡』という形で処理されます。何か異議はございますか?」

朝菜は首を横に振った。

「異議なしです」

「かしこまりました。それでは、こちらの署名欄にお名前をお願いします」

彼女は一切の迷いも見せず、スラスラと自分の名前を書き記した。

あと七日――

それだけで、すべてに別れを告げられる。
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第1話
「病院でそんな格好……兄さんを困らせる気?」 婦人科の診察室で、春坂朝菜(はるさか あさな)はお腹をそっと撫でながら座っていた。スマホからは、夫と義妹の声がはっきりと聞こえてくる―― 結婚して三年。なかなか授からなかった命。 やっと、やっと宿った愛しい我が子のことを、早く春坂征史(はるさか まさふみ)に伝えたくて―― でも、耳に飛び込んできたのは、現実を疑いたくなるような、淫らな音声だった。 女の子の声が続く。わざとらしく、ベルトのバックルをカチリと鳴らして。 「でも兄さん、姉さんは今、階下で妊娠検査中なんでしょ?今こんなことして、バレたらどうするの?」 男のくぐもった笑い声が応えた。 「俺はここの主治医だ。それにお前は心臓病持ちだろ。朝菜が見たって、まさか疑うはずないさ。 さ、手で助けてくれ」 ふたりの荒い呼吸音が、耳元で生々しく響いた。 朝菜の全身から血の気が引いていく。 本当に……征史なの? しかも相手は、彼の義妹、神崎句美子(かんざき くみこ)? ガクガクと震える指先。 現実を否定したくても、携帯から聞こえる声は、さらに朝菜を突き落とす。 「兄さんなんてウソつき、口では姉さんが好きって言いながら、身体は私を離してくれないくせに」 征史は手を止めることもなく、気だるげに答えた。 「ベッドの上の腕前なら、朝菜よりお前のほうが上だよ」 「だったら、彼女と離婚して、私と結婚してよ」 句美子が甘えるように囁く。 「姉さんは体が弱くて、もしかしたら子どもが産めないかもしれないけど……私は若いし、元々は兄さんの許婚だったんだよ?」 その瞬間、征史の声色が一変した。 低く、重く、真剣に。 「句美子、くだらないことを考えるな。俺が一生守りたいのは、朝菜だけだ。子供がいようがいまいが、あいつだけは裏切らない」 「今回だけは、朝菜に赤ちゃんができたから……俺も流石に、傷つけたくないんだ。 だから朝菜が無事に出産したら、お前は国外に行け。そしたらまた、俺は朝菜のもとに戻る」 「でも、私は兄さんの妹なんだよ?そんなの……」 句美子の不安げな声を、征史は気怠げに遮った。 「妹?血なんて繋がってないだろ」 「むしろ……スリルがあって、いいと思わないか?」 彼の声
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第2話
すべての手続きを終えたあと、朝菜はぼんやりとした意識のまま、家に帰り着いた。 広すぎる部屋。 そこにはもう、征史の姿はなかった。 ただ、寒々しい静けさだけが満ちている。 冷蔵庫には、貼り付けたままのメモがあった。 征史の、癖のある柔らかな字で。 【食いしん坊ちゃん、冷たいものは食べちゃダメだよ】 【寒いから、ちゃんと厚着してね】 【世界で一番素敵な朝菜、どうか元気でいて】 部屋のあちこちに、彼の痕跡は残されていた。 大きな抱き枕のクマ。 征史が作詞してくれた手作りの落書きCD。 オーダーメイドの一粒ダイヤの指輪。 ガラスのように透き通ったブルーのクリスタルシューズ。 彼が編んでくれた、ピンクのうさぎのぬいぐるみ―― どこを見ても、彼がいた。 征史は、本当に細やかな人だった。 どんな小さな記念日も、欠かさず祝ってくれた。 毎年毎年、違うサプライズで自分を笑顔にしてくれた。 朝菜は、まっすぐに、心から彼を愛していた。 ――それなのに。 気づけば、自嘲の笑みが漏れていた。 朝菜は荷物を一つ一つ丁寧に詰めていった。 あの千億円相当の指輪でさえも――彼女は貧困地域の子どもたちにすべて寄付した。 ……ただ一つ、クリスタルシューズだけは残した。 朝菜は目を伏せ、小さくつぶやいた。 ――最後の名残として、これだけは。 そのとき、スマホにビデオ通話が入る。発信者は征史だった。 彼の声は焦っていた。 「朝菜、なんで俺が贈ったプレゼント、全部寄付しちゃったの?」 朝菜の声は冷静で、穏やかだった。 「さっき、動画を一本見たの。貧しい地域の子どもたちが、お腹も満たせず、寒さに震えてるのを見て……なんか、すごく胸が苦しくなって」 その言葉に、征史は明らかに安堵した声を漏らす。 「さすが朝菜、優しいな……でも婚約指輪だけはダメだよ?あとで現地に電話して、二十億円分の物資を寄付するよ」 朝菜は天井を見つめながら、静かに言った。 「……そう。ところで、今どこにいるの?」 「え、ああ……こっちは緊急手術があってさ。たぶん今日はちょっと遅くなるかも。朝菜、眠かったら先に寝てて?」 「そう……」朝菜は言葉を継いだ。 「でも、今そっちから……女の人の声が聞こ
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第3話
朝菜は高熱で寝込み、何日も意識が朦朧としていた。 ようやく熱が引き、目を覚ましたとき―― キッチンから漂ってきたのは、甘ったるい匂いだった。 そこにいたのは句美子だった。 彼女は手にスープの鍋を持ちながら、朝菜ににこりと微笑みかけた。 「お姉さん、やっと起きたの?鶏スープ煮てるんだ、飲む?」 その手には、鋭く光るフォークが握られている。 句美子はそれを、ガスコンロの火にかざして、じりじりと炙っていた。 朝菜は何も言わず、無表情のまま通り過ぎようとした。 けれど―― 「きゃっ」 突然、句美子が悲鳴をあげた。 手に持ったスープの鍋ごと、床に倒れ込む。 なんと彼女は、熱々に焼けたフォークを、ためらいもなく自分の手首に押し当てた。 じゅっ、と嫌な音がした。 朝菜の右目のまぶたが、ぴくりと跳ねた。 次の瞬間、句美子は顔色を真っ青にして、涙声で言った。 「お姉さん、私のこと嫌いなのはわかるけど……お願い、追い出さないで。私、ちゃんといい子にするから……」 そんな中、征史が家に戻ってきた。 ドアを開けた彼は、床に倒れている句美子を見た途端、慌てふためいた。 「句美子!?大丈夫か!?」 駆け寄り、彼女を抱き起こすと、すぐに焼けただれた手首に気づく。 赤く腫れ上がった傷口を見て、顔をこわばらせた。 「一体どうしたんだ!」 句美子はすすり泣きながら、朝菜をちらりと見て、か細く言った。 「お姉さんが……私が兄さんを誘惑したって怒って……それで、私、びっくりして、火傷しちゃった……」 征史は朝菜を睨んだ。 その目には、明らかに怒りの色が宿っていた。 「句美子は、ただの子どもだ。そんなこと、するわけないだろう。 それに、彼女はお前の妹だ。お前の看病だって、何日も寝ずにしてくれてたんだぞ……どうして、そんな無理を言うんだ?」 こんなにも、征史に怒鳴られたのは、初めてだった。 喉が塞がったみたいで、朝菜は何も言えなかった。 句美子は、怯えたように彼の腕をぎゅっと掴み、震える声で続けた。 「ごめんなさい……全部私が悪いの。私なんかがここにいるのが間違いだったのに……」 征史は、句美子をそっと抱き上げた。 「いい子だ……お前のせいじゃない。病院に行こう」 そ
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第4話
朝菜は、結局――祖母の最後に、間に合わなかった。 隣のおばさんは、悔しそうに首を振った。 「あと……たった三十分早ければね。 本当に、惜しかったよ……」 そう言って、ひとつの小さな木箱を手渡してきた。 朝菜は震える指で、それを受け取った。 箱の中には、びっしりと思い出が詰まっていた。 小学校の頃にもらった賞状、くるくる回る小さな風車のおもちゃ、そして―― もうずっと前に賞味期限が切れた、包み紙の色あせたミルクキャンディ。 幼い頃、甘いものが大好きだった自分に、「虫歯になるから」と、祖母はいつもキャンディを隠していた。 なのに、大人になった今、祖母が差し出したキャンディを、自分はもう受け取れなかった。 ――取り返しのつかない時間。 胸が、痛かった。 箱の一番底に、ふくらんだ赤い封筒があった。 封筒の表には、拙い字でこう書かれていた。 「私の大切な朝菜へ」 中には、びっしりと詰まった紙幣。 大切に、大切に貯めたお金だった。 朝菜は、祖母に新しい服を着せた。 火葬場へと送り、戸籍も正式に抹消して―― 胸に抱えたのは、たった一つ、小さな骨壷だけ。 帰宅した家には、祖母が生きたままの空気が、まだ漂っていた。 新品の洗濯機、食洗機、洋服ダンス。 どれも使われることなく、梱包すら解かれていない。 「もったいない」 そう言いながらも、祖母はご近所に自慢していた。 ――うちの孫が、買ってくれたんだって。 「わん、わん」 ふわふわの小さな犬が、しっぽを振りながら駆け寄ってきた。 足元にちょこんと座る。 朝菜はその頭を撫でながら、かすかに微笑んだ。 「……シュガー、もう、あなただけになっちゃったね」 犬は事情も知らず、嬉しそうに彼女の手に身体をすり寄せた。 祖母の葬儀の前日。 征史が、姿を現した。 黒いスーツに、胸元には白い花。 きちんとした弔いの装いだった。 「朝菜、ごめん、遅くなって……」 朝菜の親友は、怒りを爆発させた。 彼のもとへ駆け寄り、叫ぶ。 「今さら何しに来たの!?朝菜があんなに必死でお願いしてた時、どこにいたんだよ!?あんた……!」 けれど、朝菜は静かに首を振った。 「もういいよ」 穏やかな声だった。
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第5話
翌朝。 葬儀場はすっかり片付けられていた。 朝菜は静かに目を逸らした。 ――もし、あの棺のそばに、あんな……汚らしい避妊具が落ちていなければ。 昨夜の悪夢も、全部ただの幻だと思えたかもしれないのに。 征史が入ってきた時、彼もそれを見つけた。 表情が、さっと強ばる。 征史は何も言わず、さりげなく朝菜の前に立ちはだかった。 けれど朝菜は、まるで何も見えなかったかのように、無関心に彼をすり抜けた。 祖母の遺影と骨壷を抱え、静かに葬儀場を後にする。 その後、征史は句美子に鋭く詰め寄った。 「……お前、何考えてる!? あんなもの、ちゃんと片付けろって言っただろ! 万が一、朝菜が気づいたらどうするんだ!」 句美子は不満げに唇を尖らせた。 「だって、お姉さん、見てなかったじゃん。 そんなに怒ることないでしょ?」 征史の目はさらに暗くなる。 「……俺は、朝菜に誓ったんだ。 この命を懸けて、彼女だけを愛し続けるって。 もし、俺たちのことがバレたら……」 声が低く重く沈み、まるで空気が凍るようだった。 「俺は朝菜を失うくらいなら、死んだほうがマシだ」 その一言に、句美子は一瞬だけ怯んだ。 葬儀の日。 小雨が静かに降り始めた。 征史は黒い傘を差し、朝菜の隣に寄り添った。 「朝菜、濡れたら風邪ひくよ」 そっと声をかける。 だが朝菜は、無言で彼を押しのけ、前へ進んだ。 そのとき。 「きゃっ……!」 句美子が、わざとらしく足を滑らせた。 とっさに前にいた朝菜にしがみつく。 避ける間もなく、朝菜の手から骨壷が叩き落とされた。 パリン―― 無情な音を立てて、骨壷は砕けた。 祖母の骨は、雨に濡れながら地面にこぼれ落ちた。 朝菜の瞳孔が、ぎゅっと縮まった。 次の瞬間。 朝菜は反射的に、句美子に平手打ちを食らわせた。 パチン、と乾いた音が鳴る。 句美子は痛みに顔を覆い、すぐに泣き出した。 「ごめんなさい、お姉さん……わ、わざとじゃないの。 道が滑ってて、足をくじいちゃって……骨壷、壊れたなら、もっと高いの買って弁償するから……」 その言葉に、朝菜の中で怒りがさらに燃え上がった。 もう一度手を振り上げようとした―― けれ
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第6話
疲れきった体を引きずり、家に戻った朝菜。 けれど―― 玄関先には、顔を真っ青にした征史が立っていた。 一瞬、素通りしようとした。 だが次の瞬間、バシン、と鋭い音が響いた。 征史の手が、容赦なく朝菜の頬を打った。 ほてるような痛み。 顔半分がすぐに腫れた。 「薬はどこだ!!」 怒声が飛ぶ。 視線の先、句美子が地べたにうずくまり、苦しそうに痙攣していた。 顔は蒼白で、息も絶え絶えだった。 「句美子は心臓が悪いんだぞ!たとえ、お前が怒ってたにしても…… だからって、薬を隠すなんて、殺す気か!!」 征史の怒りは頂点に達していた。 「この薬は、海外の特別な研究所で作られたんだ。普通の病院には置いてない。俺は医者だ。目の前で彼女を見殺しにするなんて、絶対にできない!薬はどこに隠した!?答えろ!!」 朝菜は、黙って彼を見つめた。 ただ、まっすぐに。 その無言の眼差しに、征史は一瞬たじろいだ。 ――まるで、すべてを知っているかのように。 心のどこかに、重く冷たい不安が広がっていく。 こんなふうに、朝菜に手を上げたのは初めてだった。 後悔と、戸惑いと、罪悪感。 それでも。 「……悪いのは、お前だろう」 そんなふうに、自分に言い聞かせた。 沈黙の中、句美子は震える手で机の角を指さした。 その視線の先には、ピクリとも動かない小さな犬。 「兄さん……薬……たぶん、あそこ……ワンちゃんが……食べちゃったかも……」 征史はぎょっとして、そちらを見た。 確かに。 床には、蓋が開いたままの薬瓶と、散らばった白い錠剤が落ちていた。 句美子は、薬を飲み終えると、無造作に小さな犬の遺体を足で蹴り飛ばした。 彼女は分かっていた。 この犬が、朝菜にとって最後の心の支えだということを。 だから―― あえて、心臓の薬を犬の餌に混ぜた。 すべては計算づく。 一石二鳥。 朝菜を、完璧に打ちのめすために。 征史は、その光景を見て、体を強張らせた。 ……違う。 朝菜じゃなかった。 自分は―― 何も知らない朝菜を、あんなふうに責めて、叩いてしまったのだ。 征史は、己の頬を何度も平手打ちした。 顔に紅い痕が滲む。 「朝菜……ごめん……俺、
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第7話
翌日。 朝菜のスマホに、句美子からのメッセージが届いた。 【姉さんの旦那様、まだ私の上から降りてくれないよ……来る勇気、ある?】 朝菜は、何も返信しなかった。 鋭い刃は、いつだって決定的な瞬間に抜かれる。 そして、狙いを外さず、心臓を貫く。 朝菜が高層ビルにたどり着いた。 ここは、かつて征史が朝菜に初めて告白し、プロポーズした場所。 高層ビルの屋上、A市の夜景を一望できる特別な空間だった。 ふたりだけの秘密基地。 喧嘩した時も、仲直りした時も、自然とここへ足が向いた。 朝菜が辿り着いた時、扉は半開きになっていた。 中は、美しく飾りつけられていた。 頭上には無数の星のようなライト、まわりには無数の氷色のバラが敷き詰められ、まるで氷の宮殿のような光景だった。 その奥から、懐かしいギターの音色が聞こえてきた。 前奏だけで、朝菜には分かった。 ――征史が、かつて自分に捧げた、あの告白の歌だ。 桜の下、少年だった征史が、笑顔でギターを奏でながら、こう言った。 「朝菜、俺の彼女になってくれる?」 あの頃の輝きが、胸を締め付ける。 だが今―― この音色の向こうにあるのは、別れの痛みだった。 室内から、句美子の震える声が漏れてきた。 「兄さん、お願い……拒まないで……私、ちゃんといい子にするから。 絶対に、姉さんにはバレないようにするから……」 征史は冷たい口調で言い放った。 視線すら向けずに。 「出て行け……もう決めたんだ。 朝菜とやり直すって、これが最後のチャンスなんだ。 誰にも邪魔はさせない」 「でも、まだ八時まであと三十分あるよ?お姉ちゃんには見つからないって……」 句美子はそっと服をずらし。 中に着ていた、レースの下着がわずかにのぞいた。 「兄さん……これが最後。これが終わったら、もう何も言わない。 お姉ちゃんと幸せになって。 私は……何もなかったことにするから……」 征史の喉が詰まり、言葉を失った。 「お前……」 一瞬の沈黙。 その後、部屋の奥から―― 女の、かすれた吐息がこぼれた。 「……声、我慢すんな。あと三十分で、朝菜が来る。それまでに終わらせろ」 屋内では、ベッドが軋む激しい音が響いていた。
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第8話
バンッ。 脳裏で張り詰めていた糸が―― 征史の中で、音を立てて切れた。 病院の手術室の外。 征史は狂ったように駆け出した。 だが、すぐに数人の医師たちに止められる。 「春坂さん、落ち着いてください! 手術の邪魔をしないでください!」 でも征史は必死に医師の腕を掴み、懇願する。 「お願いだ……彼女は、俺の妻なんだ。俺なら、必ず助けられる……!どうか……頼む……!」 医師は首を振り、厳しい声で告げた。 「……直系の家族は、手術に立ち会えません。春坂さん、ご自身も医師でしょう?規則はわかっているはずです」 征史は、頭を抱えてしゃがみ込んだ。 信じられなかった。 つい昨日まで、あんなに元気だったのに。 どうして、どうしてこんなことに。 頭の中がぐちゃぐちゃになる。 崩れそうな身体を、必死で支えていた。 その時。 慌ただしい声が響いた。 「至急、輸血の手配を!血液が足りない!」 看護師たちが駆け回る中、別の看護師が顔を曇らせた。 「……先日のバス爆発事件で、血液の備蓄がほとんど使い果たされました。 新しい血液もまだ間に合ってなくて……」 その言葉を聞き、征史の死んだような目に、微かな光が戻った。 「俺の血を使え!」 叫んだ。 「俺と朝菜は血液型が合うんだ!俺の血を全部抜いてでも……朝菜を助けてくれ!!」 医師たちは、困惑しながらも言葉を選んだ。 「……病院では、原則として血液センターの供給血液しか使用できません。個人の提供は――」 その説明を、征史は怒りでかき消した。 「じゃあ、今すぐ使える血はあるのか?!ないだろう!」 声が震える。 「朝菜は、俺の子どもを身ごもってるんだ……!彼女に、何かあったら……」 征史の目が、恐ろしいほどに冷たく光った。 「……この病院ごと、責任を取らせてもらう!」 医師は、何か言いたげに唇を動かした。 けれど、結局――何も言わずに黙り込んだ。 手術室のドアが閉まる。 ランプが赤に変わった。 征史は、応急処置を受けた腕を抱えながら、扉の前で待ち続けた。 こんなにも、時間が長く感じたのは、生まれて初めてだった。 どれだけ待っただろう。 外はすっかり夜になり、ようやく、手術室のドアが開
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第9話
その瞬間―― 征史の顔から、血の気が引いた。 次に現れた絵は、あまりにも生々しく、あまりにも冷酷だった。 ぐちゃぐちゃに乱れた筆跡。 破れたキャンバス。 そこに描かれていたのは―― 三日前。 葬儀場の奥の祭壇で、句美子と征史が身体を重ねる光景だった。 憎しみと絶望が滲むような、痛ましい筆致で。 征史は、思い出した。 あの夜、屋根裏から聞こえた微かな物音。 まさか―― あの時、朝菜はすべてを知っていたのだ。 震える手で、征史は朝菜のスマホを開いた。 そこには、無数の未読メッセージ。 送り主は――句美子。 【ねえ、事故ったって聞いたよ?姉さんの旦那、私とベッドで一晩中離れなかったんだよ?】 心臓が、ぞくりと冷える。 さらにスクロールすると―― 吐き気を催すような内容が、次々と現れる。 【マジでキモいわ。あんなババア顔で兄さんに抱かれて、恥ずかしくないの?】 【葬儀場の棺の横にあったアレ、見た?昨日、兄さん、私のこと何回も抱いてくれたんだよ】 【あの犬、私が殺したんだよ?骨壷も、わざと落としたんだ~。だって、兄さんは私の味方だったもん。ねえ、心が痛い?ざまあみろ】 【どうせ寝てないの、わかってるよ?私と兄さんがすぐ隣であんなことしてたのに、怒りもしないなんて、ホント我慢強いんだね~、ふふっ】 そんな侮辱と挑発のメッセージが、百通以上も送られていた。 そして―― 最後に送られてきたメッセージ。 【姉さんの旦那、まだ私の上から降りてくれないよ……来る勇気、ある?】 それが、昨日の夜。 執事によると、あの日、朝菜は摩天ビルに向かい、すべてを目にして、帰り道で事故に遭った。 監視カメラが、はっきりと捉えていた。 彼女が来た時、征史は―― 句美子と交わっていた。 そして、彼女が去る時、その顔は、まるで魂の抜けたように、無表情だった。 その時、彼女が抱えていた絶望は―― どれほど、深かったのだろうか。 征史の胸は、まるで何百本もの刃で引き裂かれるようだった。 すべては、自分が引き起こした結果だ。 自分の手で―― 愛した女性を、壊してしまった。 ベッドの上。 冷たく横たわる朝菜は、もう二度と目を開けない。 震える手で、征
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第10話
サイレンの音。 救急車のブレーキ音。 通行人の悲鳴。 それらすべてが、征史の耳をすり抜けていった。 でも――「もしも」なんて、どこにもなかった。 ネット上では、すぐに大騒ぎになった。 誰かが句美子のスマホをハッキングし、あの醜悪な写真やメッセージを暴露したのだ。 どれだけ必死に火消しを図っても、事態は悪化する一方だった。 征史の名前は、連日トレンド入り。 罵詈雑言の嵐。 春坂グループの株価も暴落し、競合他社が次々と追撃。 ついには、子会社の不正資金洗浄疑惑まで発覚し―― あの巨大財閥が、崩れ落ちようとしていた。 だが、その頃には―― 朝菜は、もうはるか遠くへ。 新しい名を得て、静かに暮らしていた。 ――日比谷春音(ひびや はるね)。 冬は終わり、彼女は、春の名を持つ新しい自分として生きていた。 暖かな燕が巣に帰るように。 詩のような人生を、歩き始めていた。 ある日。 親友が、おしゃべりに夢中になりながら話しかけてきた。 「ねえ春音、聞いて!あの征史ってバカ、あんた助けようとして血が枯れるくらい抜かれたらしいよ!そのあと、神崎を刺して――今や刑務所暮らしらしいよ、ハハハ! まったく……あんなクズ男、存在自体が汚点だよ!でも、春音がちゃんと逃げられてよかったよ!」 親友が勢いよく吐き捨てる。 春音は、にっこりと笑いながら、泣き笑いのスタンプを送った。 もう、何をされようと―― 彼女は「死んだ」のだ。 征史がどれだけ後悔しても、二度とやり直しの機会はない。 結局、すべては―― 征史自身が蒔いた種だった。 親友は、さらにぼやきながらも、ふと話題を変えた。 「それより!そっちはどう?個展のほう、順調?アイルランドの暮らし、もう慣れた?」 栖春は、柔らかく笑みを浮かべながら返事を打った。 「うん、すごく順調だよ。こっちの環境も、人も優しくて、すごく居心地いい」 彼女は、目の前に広がる作品たちを静かに眺めた。 ここ、ダブリン城では、定期的にアート展が開かれる。 彼女の先生が推薦してくれたおかげで、春音の作品も、この由緒ある場に並べられたのだ。 そのとき―― すぐそばから、アイリッシュ訛りの賑やかな声が聞こえてきた。 「わ
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