美月が息を切らしながら奥へ駆け込んでいくと、ちょうど外へ向かっていた琴音と鉢合わせた。
その派手な格好を見ただけで、琴音には彼女がまたクラブに入り浸っていたことが分かった。
琴音は美月の腕をガシッと掴んだ。
「あんた、まさかその格好でおばさんに会うつもり?」
美月の唇の口紅は、無惨に滲んですらいた。
美月は鬱陶しそうに琴音の手を振り払った。
「琴音には関係ないでしょ!何様なのよ!」
彼女は琴音より5歳下で、同じ村で育った。小さな頃はいつも琴音の背中を追いかけてくるような子だった。
昔、拓真が柚木町に追放されてきた時、彼のことを一番敵視していたのは美月だった。
拓真がどこへ行くにも琴音に付き纏っていたため、美月は自分の大好きなお姉ちゃんを奪われたような気がして、当時は色々と騒動を起こしたものだ。
彼女は世界中で誰よりも、琴音と拓真が結ばれることを望んでいなかった。だからこそ、あんなことを……
そのことを思い出したのか、美月は急に顔を真っ赤にして怒り出した。
「あんたはただの近所の人でしょ!
私のことに首突っ込まないでよ。お母さんの前で余計なこと言ったら許さないから。
お母さんがショックで倒れたら、困るのはあんたも同じでしょ!」
彼女がそう言い捨てた直後、目の前にスッとウェットティッシュが差し出された。
琴音は静かな声で言った。
「顔のメイク、落としなさい」
美月は一瞬ぽかんとした後、それをひったくるように奪い取った。
「だから、放っておいてって言ってるでしょ!」
口では文句を言いながらも、手は正直に顔のメイクを拭き取り始めた。
その時、琴音は彼女の首筋に小さな赤い痕があることに気づいた。
それが何を意味するのか、大人である琴音に分からないはずがない。
一瞬で顔色が青ざめた。
「あんた、彼氏ができたの?」
美月は慌てて首元を隠し、エレベーターの方へ逃げるように走り出した。
「もう、琴音ってホントうざい!私のことにいちいち干渉しないでよ!」
琴音はその場に立ち尽くし、深く息を吐いた。
彼女はずっと、美月のことを実の妹のように可愛がってきた。昔の美月も、何か良いものがあれば真っ先に琴音に分けてくれるような子だったのだ。
それがいつからだろうか。こんなにも反抗的で素直じゃない態度を取るようになったのは。
琴音は頭痛を覚えながら、病院の外へ向かって歩き出した。
まだ何も食べておらず、お腹が空いていた。
タクシーを止めようと手を挙げた時、一台の黒い車が彼女の目の前にスッと停まった。
少し開いた窓の奥に、拓真の冷ややかな顔が見えた。
窓が完全に下がり、彼の冷たい視線が琴音を射抜く。
「母さんが轢いたのが山口春子だったとはな。
お前がここに来るのも無理はない。
彼女、ずっと体調が悪いらしいな。お前がそんなホームレスみたいな惨めななりをしてるのは、彼女の治療費のせいか?」
彼の言う「惨めななり」というのは、全身の服を合わせても4000円にも満たず、スマホの画面はヒビだらけであることを指している。
この数年間、彼女の生活がどれほど苦しかったかは火を見るより明らかだった。
違う。
琴音は否定したかった。春子おばさんのせいじゃない。
大学の卒業証書を取れなかったせいだし、実家とのゴタゴタのせいだ。
でも、そんな言い訳を拓真が聞きたいだろうか?
彼女の脳裏に咲の顔が浮かび、さらに拓真と咲の子供の顔が浮かんだ。
これ以上、弁解する意味なんてない。
拓真は彼女をじっと見つめ、口の端を冷たく歪めた。
「好きで自分を安売りしてるんだろ。自業自得だな」
彼がアクセルを踏み込んで走り去ろうとした瞬間、彼女の声が響いた。
「拓真!」
それは、かつて彼女が怒りの限界に達して目を真っ赤にしながら叫んだ声でも、ベッドの上で甘く乱れた声でもなかった。
その「拓真」という呼びかけは、まるで長い歳月を飛び越え、若き日の二人の思い出すべてを凝縮したかのような、何か重大な決意を秘めた響きだった。
ハンドルを握る拓真の指が、一瞬ピクッと強張った。
彼には、彼女が次に何を言うのか聞きたくないような気がした。
だが琴音は、憑き物が落ちたような顔で彼を見つめていた。
肩の力は少し抜け、再会して以来ずっと張り詰めていた糸がふっと緩んだようだった。
雅子の前では卑屈になり、咲の前ではコンプレックスに縮こまり、拓真の前でも常にビクビクと顔色をうかがっていた。
でも、本来彼女はそんな風に生きる必要はなかった。彼女は彼らに何も借りなどないのだから。
「拓真、私たち、別れよう」
4年前、言う機会を逃してしまったその一言。4年ぶりの同窓会でも、口に出すタイミングはなかった。
彼女は言ったはずだ。自分は一度決めたら曲げない頑固者だと。
あの日、「別れよう」という言葉を聞いていなかったから、彼女はずっと希望を捨てきれずにいた。
たとえその希望がクモの糸のように細く頼りないものであっても、自分が大切に手繰り寄せていれば、拓真はいつか戻ってきてくれると。
でも、彼の鎖骨からタトゥーは消えていた。
拓真の白く長い手首が一瞬にして張り詰め、青筋がはっきりと浮き出た。
彼の顔色が変わり、唇が一直線に引き結ばれた。
「そのセリフ、何年も前から言いたかったんだろ?」
まさかそんな風に聞き返されるとは、琴音は思いもしなかった。
何年も前から?それは、彼が幼馴染を連れて海外へ飛び立った時か?
それとも、咲が妊娠の証拠を突きつけてきた時か?
彼にそんなことを問い詰める資格があるのだろうか?
だが今となっては、すべてが無意味だ。
彼女はうつむき、後ろに停まったタクシーの方へ歩き出した。
車に乗った拓真は、苛立たしげにクラクションを何度も鳴らした。
そのけたたましい音は、彼の怒りをぶちまけているようだった。
次の瞬間、彼の車は猛スピードで発進し、まるで流れ星のように夜の車の波へと消えていった。
家に帰った琴音は、ただひたすらに疲労を感じていた。夜は何も食べておらず、お腹と背中がくっつきそうなほど空腹だった。
簡単なうどんを作り終えた時、美月からメッセージが届いた。
【今日、拓真に会ったよ。相変わらずムカつく奴だった。あんたたち、何もなかったよね?】
これは遠回しに、二人がヨリを戻す可能性がないか探りを入れているのだ。
美月はスマホの画面をじっと見つめ、手にはじっとりと汗をかいていた。
すぐに返信が来た。
【何もないよ。とっくの昔に終わってるから】
美月は安堵の息を吐き、目に笑みを浮かべた。
だよね。あんな言葉を聞かされた拓真が、まだ琴音と付き合えるわけがない。
彼にだってプライドがあるはずだ。
春子が彼女の笑顔を見てため息をついた。
「あんた、その格好はなんなの」
美月の顔からはすでにメイクが綺麗に落ちており、元々の大人しそうな顔立ちに戻っていた。
「お母さん、これが今時の若い子のファッションなの。口出ししないでよ」
春子は困ったように眉をひそめた。
「あんた、私の緊急連絡先を琴音ちゃんにしてるでしょう。
なんて常識がないの。あの子にばかり迷惑をかけて。あの子だって生活が苦しいのに」
美月は唇を尖らせ、うつむいた。
「迷惑なんかかけてないよ。
私はただ、琴音に私たちのそばからいなくなってほしくないだけだもん」
春子の目に痛ましい色が浮かんだ。彼女は美月の手を握り、かすれた声で言った。
「美月、あのことはもう終わったのよ……」
美月の手がギュッと握り込まれ、頑なな色を浮かべた。
「私の中では終わってない。一生終わらないよ」
春子は自分の胸を押さえ、息を整えながら言った。
「あんたも琴音ちゃんも、本当にいい子たちよ。
私がこの何年もあんたたちの足手まといになってしまったわね。
二人とも幸せにならなきゃダメよ。これ以上、私に心配かけないで」
「うん、私、稼げるようになったから。これからはお母さんも琴音も、あんなに苦労しなくて済むよ」
少なくとも、親思いの良い子ではある。
春子の青白い顔に笑みが浮かび、美月の手の甲を優しくポンポンと叩いた。
「それならよかったわ」
……
琴音はうどんを食べ終えると、ベッドの下に大切にしまっていた箱の整理を始めた。
高価なものは何一つ入っていない。今の彼女の全財産の中で最も高価なものといえば、間違いなくこの補聴器だろう。
この2年で稼いだお金はすべて仕送りと返済に消え、手元に残っているのはたったの5万円だけだった。
ダンボール箱の中の思い出の品は、とても綺麗な状態で保管されていた。柚木町で拓真と一緒に作った植物の標本や、大学で付き合っていた頃に彼がくれた誕生日プレゼント。
彼女はプライドが高すぎた。彼が高価なものをくれようとするたび、「自分にはお返しができない」と恐れて絶対に受け取らなかった。
だから数回の誕生日プレゼントは、すべて拓真が手作りしてくれたちょっとした小物ばかりだった。
後になってこんなにもお金に困り、お金のために何度も頭を下げる羽目になるなら、あの時あんなに意地を張らなければよかった。
彼女は自嘲気味に笑い、まつ毛を伏せて静かに整理を続けた。
仕事から帰ってきた結衣が、リビングのテーブルに置かれたそのダンボール箱を見て言った。
「やっとそのガラクタを捨てる気になったの?」
琴音にとっては何よりも宝物だったが、大人の目から見れば、それはただの「ガラクタ」に過ぎなかった。
それでも、この数年間、彼女は何度も箱からそれを取り出しては眺め、また宝物のように一つ一つそっと元に戻していたのだ。