そのマグカップは、拓真と一緒に陶芸教室で作ったものだった。
二人のサインまで入っている。
現実に打ちのめされて辛い時、彼女はいつもそれを取り出しては両手で包み込み、まるで傷を癒す薬のように大切にしていた。
結衣は疲れたようにタオルで顔を拭きながら、琴音がいまだにそのマグカップを見つめてボーッとしているのに気づき、口を開いた。
「彼、海外で咲に別荘を買ってやって、自分の娘にはブラックカードを持たせてるらしいよ。
あんたは3年も付き合ったのに、もらったのはマグカップと、その辺で拾った小石と、道端で拾った落ち葉のしおりだけ?」
以前の琴音なら、間違いなく反論していただろう。
「あんたには分からないよ。大切なのは、二人が一緒に過ごした思い出なんだから」
かつてそう答えた琴音に、結衣はいつも首を横に振っていた。
「あんたのそういう性格だから、男にいいように遊ばれるんだよ」
結衣にそう言われるたび、琴音はうつむき、マグカップを宝物のように抱きしめていた。
彼女はお金が嫌いなわけではなかった。ただ拓真のことが好きすぎて、彼に借りを作りたくなかっただけなのだ。
彼女は幼い頃からお金に困る生活をしており、実家ではいつもお金のことで言い争いが絶えなかった。
だからこそ、拓真にお金を払わせることは、ひどく恥ずかしいことのように感じていた。
もし彼から高価なプレゼントを受け取ってしまえば、二人の関係はもう対等ではなくなってしまうような気がしたのだ。
あの頃の琴音は、ただ対等な恋愛がしたかった。
しかし、関係が公にされた後、周りの誰もが彼女は拓真の家柄と金目当てで付き合っていたと噂した。
彼女は拓真に愛されていると妄想し、咲になり代わりたいのだろうと勘違いしていたのだと。
彼女が捧げた一途な真心は、誰からも容赦なく踏みにじられた。
あの日、結衣は彼女の代わりに同棲していた部屋へ行き、これらの「ガラクタ」を片付けてくれた。
そして泣きながら彼女を抱きしめた。
「あんたがただの愛情なんて不確かなものに縋るから、こんな惨めな目に遭うのよ!
前から言ってたでしょ、せめて少しでも目に見えるものをもらっておけって……
琴音、泣いちゃダメ!」
泣かないなんて、無理だった。
あの頃の彼女は目が潰れるほど泣き腫らしたのだ。
……
結衣がさらに何か皮肉を言おうとした時、琴音がポツリと口を開いた。
「あの時の私、本当にバカだったね」
その言葉が彼女の口から出たことに、結衣は驚きを隠せなかった。
琴音は本当に大人しくて素直な子だった。
彼女の人生で唯一の羽目を外したことといえば、拓真と付き合ったことくらいだ。
結衣はしばらく反応に遅れた後、ふっと小さく笑い声を漏らした。
「あんたが自分で気づけたならそれでいいよ。それ、全部捨てる気になった?」
「うん、捨てる」
彼女はダンボール箱を抱え、外へ向かって歩き出した。そのままアパートの1階まで降りる。
ここは古いアパートで、騒音もひどく、管理会社も全く機能していなかった。
ゴミ箱からは常にゴミが溢れ返り、むせ返るような生ごみの悪臭を放っていた。
琴音はダンボール箱を抱えたまま、ゴミ箱の前にたっぷり10分間立ち尽くした。
そしてようやく意を決してその全てを一気に放り込んだ。
後悔するのが怖くて、彼女は逃げるように走って部屋に戻った。
夏の夜は少し蒸し暑く、ほんの短い距離を走っただけで鼻の頭には汗が滲んでいた。
まさか自分が、あの思い出の品々を捨てられる日が来るなんて、夢にも思っていなかった。
リビングに戻ると、結衣がテーブルに冷えた缶ビールを2本用意して待っていた。
彼女は今日日勤だったので、夜はゆっくり眠れるらしい。
「飲もう。あんたがようやく『桐生拓真』っていう呪縛から解放されたお祝いだよ」
この数年間、結衣はずっと彼女のそばで寄り添い、彼女の最も惨めな姿を見守ってきてくれた。
琴音はゆっくりとソファに座り、ビールを開けて一口飲んだ。
昔の彼女はお酒が飲めず、酒の匂いを嗅ぐだけで吐き気がしたものだ。
だが、オークションハウスで働き始めてからは、接待の席でこっそりトイレで吐いてはメイクを直し、また笑顔で客の前に戻るという日々を繰り返していた。
彼女が稼いできたお金はすべて、全てそうやって身を粉にして稼いだものなのだ。
結衣はビールの缶を掲げた。
「これからは、ああいう連中には近づかないことだね。
昔から言ってたじゃん、拓真みたいなちゃらんぽらんな奴が、恋愛に本気になんてなるわけないって。
あいつら欲しいものは何でも手に入るんだから、暇つぶしで遊んでただけよ」
彼女は琴音のように、愛というものを素直に信じられるタイプではなかった。
「結衣、もう彼の話はやめよう。これからは、しっかりお金を稼ぐことにする」
二つの缶が、カチッと心地よい音を立てて合わさった。
……
翌日、琴音の部署にある掛け軸の持ち込みがあった。
しかし、その依頼主がわざわざ琴音に直接会いたいと指名してきたのだ。
健二は眉間を揉みながら言った。
「年配の女性で、上品で優しそうな方だったよ」
琴音が急いで応接室へ向かい、杖をついたその老人を見た瞬間、手がピクッと強張った。
桐生家の大奥様で、拓真の実の祖母・桐生登紀子(きりゅう ときこ)だった。
あの年、拓真が柚木町へ飛ばされたのは、実は田舎で療養する登紀子のそばに付き添わせるためでもあったのだ。
登紀子は都会の喧騒を嫌い、田舎の空気が一番体にいいと言って、桐生家の大旦那様がそれに便乗し拓真をまとめて送り込んだのだった。
琴音は登紀子が大好きだった。品があり、いつもニコニコと優しく笑っていたからだ。
幼い頃、琴音は「こんな風に優しくて立派な大人が、私の家族だったらよかったのに」と本気で思っていた。
彼女の両親のように、常に彼女を厳しく責め立てるのではなく。
彼女は拓真が本当に羨ましかったし、同時に嫉妬もしていた。
だが、柚木町で別れて以来、登紀子とは一度も会っていなかった。
今、目の前にいる登紀子は杖をつきながら、あの頃と変わらない親しみのある笑顔を向けていた。
「琴音ちゃん、こっちへ来てよく顔を見せてちょうだい」
琴音の鼻の奥がツンとし、涙がこぼれ落ちそうになった。
一番絶望の底にいた時、彼女はどうにかして登紀子に会おうと必死に足掻いた。
登紀子ならきっと自分を助けてくれると信じていたのだ。
だが、返ってきたのは「面会を拒否された」という拒絶だった。
彼女はうつむき、何も言えなかった。
登紀子は自ら歩み寄り、彼女の手を優しく握った。
「すっかり綺麗になって。小さい頃から、大人になったら絶対に美人になると思ってたけどね。
残念なことに、この何年かあんたの実家に何度も電話を入れたんだけど、一家揃って引っ越したって言われてね。
どこへ行ったのか誰も教えてくれなかったんだよ。
琴音ちゃん、どうしてこんなに痩せてしまったの?」
彼女の家族は引っ越してなどいない。おそらく誰かが、登紀子にそう吹き込んだのだろう。
雅子は彼女を帝都から追い出したかったのだ。
登紀子と彼女が会っていると知れば、決してタダでは済まさないはずだ。
琴音はそっと手を引き抜き、傍らに置かれた掛け軸に視線を移した。
登紀子の資産を考えれば、わざわざこんなオークションハウスに品物を預ける必要などないはずだ。
「大奥様、あなたが委託されるのはこちらの絵ですか?」
彼女が呼んだのは「おばあちゃん」ではなく、「大奥様」という他人行儀な呼び方だった。
登紀子の瞳に一瞬、寂しそうな色が過った。
彼女は小さくため息をつき、琴音の背中をポンポンと叩いた。
「たまたまこのオークションハウスの公開情報であんたの名前を見つけてね。
もしかしたら会えるかもしれないと思って、運試しに来てみたんだよ。
この掛け軸は置いていくから、私と一緒にランチに付き合ってくれないかしら?」
本来なら登紀子はお客様であり、彼女が同行するのは筋が通っている。
琴音は何か言おうとして口を開きかけたが、登紀子の後ろに控えている数名の屈強なボディガードの姿が目に入った。
登紀子に付き添って出歩いているのだろう。
登紀子は昔から体が弱く、桐生家が彼女を長時間の外出させておくはずがない。
琴音はゆっくりと頷いた。
登紀子はパッと花が咲いたように笑い、彼女の手を引いて歩き出した。
「お店はもう予約してあるの。あんたもきっと気に入るわ」
琴音は登紀子の車に乗り込んだ。車内は驚くほど快適で、おそらく特別に改造されているのだろう。
どこに触れても柔らかく心地よかった。
登紀子は彼女を見て微笑んだ。
「覚えてるかしら?昔、あんたはよく私の車に遊びに来て、山で掘ってきた蘭の花を飾ってくれたわね」
当時、登紀子が柚木町へ越してきた時、町長ですら恐れおののいていた。
登紀子があの家を買い取り、庭に数千万クラスの超高級車を停めたからだ。
初日には、大勢のお偉いさんが付き添ってきたという噂だった。
当時の琴音には、その車の価値など分からなかった。
ただ座り心地がいいというだけで、登紀子と親しくなってからは、よく車に潜り込んで昼寝をさせてもらっていた。
登紀子は本当に優しい人で、一度も怒ったことがなかった。
だから、ただ食事をするだけ。これを最後に、もう二度と会うことはない。
そう自分に言い聞かせた。
レストランの個室へと向かい、廊下の角を曲がったところで、彼女は雅子と咲の姿を見かけた。
琴音の足がピタリと止まり、無意識に近くの観葉植物の後ろへ身を隠した。
だが、雅子はすでに彼女の姿を捉えており、見る見るうちに顔色が変わった。
しかし、一緒にいるのが登紀子だと気づくと、すぐさま元の穏やかな表情を取り繕った。
咲は雅子の隣に立ち、とても聞き分けの良さそうな表情を浮かべていた。
「お義母様、このブレスレットは拓真と一緒に選んだんですが、お気に召しましたか?」
あの時、拓真が数百万で買ったエメラルドのブレスレットが、今は雅子の手首で輝いていた。
咲が「お義母様」と呼ぶということは、彼女が桐生家の一員として認められている証拠だ。
雅子は穏やかに頷いた。
「ええ、二人ともありがとう。今夜は拓真も呼んで、久しぶりに家族揃って夕食でもどうかしら」
咲は嬉しそうに雅子の腕に絡みついた。
「拓真ったら、帰国した途端にワーカホリックになっちゃって。
葵がいなかったら、誰も彼を動かせないと思いますよ」
雅子は口角をわずかに上げた。
「ようやく彼の手綱を握れる人ができたってわけね」
その時、咲はふと琴音の存在に気づいたようだった。
目元の笑みがスッと冷たくなった。
「お祖母様、琴音さん」
登紀子は体調が優れないため、この数年ほとんど外出していなかった。
咲もまさかここで彼女に鉢合わせするとは思っていなかったようだ。