言っていることは、どれも紛れもない事実だった。
かつて彼に誓った約束も、すべて本心からのものだった。
琴音はその場から動けずにいた。健二に袖を引かれてようやく我に返った。
「行くぞ」
振り返ると、もう拓真の姿はなかった。まるで最初からそこにいなかったかのように。
琴音は頭の中がぐちゃぐちゃになり、ただ茫然と健二の後について外へ出た。
車に乗った後も、彼女は窓の外をただ見つめていた。
健二が運転していた。本来なら部下である琴音が運転すべきなのだが、健二は社長とはいえ、今の彼女の状態ではとても運転などできそうになかったからだ。
ハンドルを握りながら、健二は思わずため息をついた。
「君、今後はあの二人にはあまり関わらない方がいいよ。
桐生拓真が冷徹に獲物を追い詰める捕食者なら、白鳥咲はその笑みの裏に冷たい刃を潜ませている。
君が太刀打ちできる相手じゃない」
先ほどの彼らの会話は決して多くはなかったが、そのわずかなやり取りの中に、長年積み重なった腐れ縁が渦巻いているのが透けて見えた。
琴音は目を閉じ、シートの背もたれに寄りかかった。
背中は冷や汗で濡れていた。
「社長、もし私が自分がどんな過ちを犯したのか、本当に分からないと言ったら、信じてくれますか?」
彼女の唯一の過ちは、あの時、馬鹿みたいに拓真の言葉を信じ、彼が語る未来を信じてしまったことだけだったかもしれない。
健二は遠くを見つめながら答えた。
「俺は商人だ。君が仕事に影響を出さない限り干渉しない。
ただ忠告しておくが、ああいう連中を怒らせてタダで済むはずがない。
あの二人のどちらかでも、指先一つ動かすだけで、君を一生路頭に迷わせることだってできるんだぞ」
ましてや、琴音は帝都大学に入学したとはいえ、まともに卒業したわけではない。履歴書の上では、彼女はただの高卒なのだ。
健二は彼女の人柄と実力を知っていたからこそ、あえて雇い入れたのだ。
彼女は長いまつ毛を伏せ、深呼吸をしてから、無理に笑顔を作った。
「分かっています。彼らとは関わらないようにします」
今日の彼女の任務は、健二に同行して商談をまとめることだった。
任務が完了したため、健二は彼女に半休を与えた。
琴音は家に戻って数時間休んだ後、病院からの電話を受け、慌てて駆けつけた。
病室のドアを開けると、そこにはひどくやつれた女性が座っていた。
頬骨がくっきりと浮き出るほど痩せこけ、見るからに生気がなかった。
だが琴音の姿をとらえた瞬間、その瞳に微かな光が揺らめいた。
「琴音ちゃん」
琴音が最後に彼女を見舞ったのは、もう半年も前のことだ。
琴音は慌てて駆け寄り、尋ねた。
「春子おばさん、大丈夫ですか?どこかぶつけましたか?」
山口春子(やまぐちはるこ)は首を横に振り、琴音の手を引いて座らせた。
「大丈夫よ。私を轢いた運転手さんはすごく良い人でね、治療費も全部払ってくれたの。
それに、奥様が今お医者さんと話してくれているのよ。最後まで責任を持つからって」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、病室のドアが開かれた。
入ってきた人を見て、琴音は息を呑んだ。
拓真の母親だ。
あの大学での騒動が起きた後、拓真の母親は彼女の元を訪れ、ご丁寧にもカウンセラーまで連れてきたのだ。
誰一人として拓真と彼女が交際していたなどと信じておらず、拓真の母親もまた信じていなかった。
ただ、この身の程知らずの娘が自分の息子を追い回すあまり、頭がおかしくなったのだと思い込んだ。
だからこそ、責め立てもせず、わざわざカウンセラーまで手配してやったのだ。
なのに、琴音本人は頑としてそれを拒絶した。
琴音はまつ毛を伏せ、何も言わなかった。
拓真の母親の方も、まさかここで彼女に会うとは思っていなかったらしく、眉をひそめたが、すぐにその表情を緩めた。
「あなたなのね」
春子は、その洗練された身なりの婦人を見て、そして琴音を見た。
「琴音ちゃん、お知り合いなの?」
春子は、柚木町にいた頃の琴音の隣人だった。
ここ数年体調を崩しており、ずっと病院に通っている。
琴音はよく見舞いに来ていた。
帝都の大学に受かる前、春子はずっと琴音を自分の娘のように可愛がってくれていたのだ。
琴音はその上品な婦人の方を見ず、両手をぎゅっと握りしめて言った。
「……会ったことがあるだけです」
春子はその言葉の裏にある意味を察することはなく、穏やかな目で婦人を見た。
「奥様、私はどこも悪くありません。病院まで送っていただいて、本当にありがとうございました」
婦人は頷き、琴音に視線を移した。
「少し、お話しできるかしら?」
琴音は「はい」と短く答え、彼女の後について廊下に出た。
ドアが閉まった瞬間、婦人の顔色は氷のように冷たくなった。
「あの時、二度と私の前に姿を見せないようにと言ったはずだけど。忘れたのかしら?」
「私はただ、帝都で働いているだけです」
「浅野さん!」
婦人の声はひどく厳しくなり、その目には明確な嫌悪感が浮かんでいた。
琴音はあの時の彼女の目を覚えている。
あの時はこれほどではなかった。
婦人は拓真の母親・桐生雅子(きりゅうまさこ)。常に桐生夫人と呼ばれている。
今の嫌悪感はあまりにも露骨で、まるで彼女を食い殺さんばかりの目だった。
常に上品に振る舞うはずの桐生夫人が、こんな露骨な感情を見せるのはおかしい。
琴音は顔を上げ、彼女の視線を真っ向から受け止めた。
「桐生夫人、私の勤務地は当分変わることはありません。
もし今後、地方への出張や転勤の辞令が出れば受けますし、出張にもよく行きます」
雅子は冷ややかな顔のまま、背を向けた。
「私が今、あなたに手を出さないのは、他の方への配慮からよ。
拓真はあなたなんか愛していないわ。
これ以上、無駄な真似はしないでちょうだい。さもないと、絶対に容赦しないわよ」
琴音は何も答えなかった。
雅子は深呼吸をして立ち去ろうとしたが、何かを思い出したように振り返った。
「もし、あなたが大切にしている人たちに何かあってほしくないなら、私の言葉を肝に銘じておくことね。
確か、山口さんには娘さんが一人いたわよね?」
琴音はハッと顔を上げ、雅子の目に宿るあからさまな脅しの色を捉えた。
彼女は心の中で自嘲した。
自分がこの人たちの目にどれほど恐ろしい「疫病神」として映っているのか。
だが、自分が一体何をしたというのか、どうしてこれほどまでに嫌悪されなければならないのか、さっぱり分からない。
「雅子さん、ご安心ください。私の方からあなたたちを避けるようにしますので」
雅子はそれでようやく満足したように立ち去った。
だが、その背中は依然として不快感を漂わせていた。
琴音はその場に立ち尽くし、やがて再び病室のドアを開けて中に入った。
春子が心配そうに尋ねた。
「何を話していたの?
あの奥様、どこかでお見かけしたことがあるような気がするのよね。
以前どこかで会わなかった?」
そう言いかけて、彼女は思い出したように手を叩いた。
「そういえば、昔、あなたのお母さんと一緒に商売をして……」
琴音は彼女の手を握り、話を逸らした。
「おばさんは元々体が弱いんだから、これからはもっと気をつけてくださいね」
「ピンピンしてるわよ。ここ数年でずいぶん良くなったし。
それより、あなたの方こそ、頻繁に見舞いに来てちゃダメよ。
お母さんに知られたら、またうちの玄関先で怒鳴り散らされるわ」
母は病気を患っており、電話をかけてきたことがあったが、琴音は実家には帰らなかった。
それを知った母は面白くなかったのだろう。
春子が病気だと知ると、事あるごとに春子に対して嫌味を言うようになっていたのだ。
幸い、春子ももう長いこと実家の町には帰っていなかった。
「お母さんとは、その……」
当時、浅野家で起きた騒動は、近所に知れ渡っていた。
琴音の両親はひどく世間体を気にするタチだったから、後ろ指を指されるような日々はさぞかし耐え難かったに違いない。
琴音は幼い頃からとても良い子で、勉強もよくできた。
両親が働きに出ている間も留守番をし、幼いながらもよく大人の手伝いをしており、町のみんなから可愛がられていた。
帝都大学に合格した時、琴音は多額の奨学金を受け取り、家族たちも大喜びした。
だがその後、あんなスキャンダルを起こすとは誰が予想しただろうか。
かつてお祝いの言葉をかけてきた人々も、今では琴音の両親に会うたび、琴音が実家に帰ってきているかをわざわざ尋ねるようになった。
本当は誰もが、琴音が帰ってきていないことを知っている。
わざと嫌がらせをしているだけなのだ。
「お母さんも、本当はあなたのことを心配しているのよ。
時間があったら、帰って顔を見せてあげなさい。
それに、お父さんがあなたに手を上げて耳を……あんなことになったのも、お父さん自身すごく後悔しているのよ。
あの人は昔からカッとなりやすい性格だから、まさかあんなことになるとは思ってなかったのよ」
田舎の男たちは気性が荒く、すぐに手が出るのは珍しいことではなかった。
そして女たちは、そんな男たちを庇い、言い訳を探すのが癖になっていた。
「お父さん、あなたの話をする時はいつも泣いてるわ。
あなたは昔、お父さんの自慢の娘だったんだから」
「春子おばさん、もう大丈夫そうなら、私はこれで帰りますね」
琴音は立ち上がり、彼女の布団を優しく掛け直した。
「もしまた何かあったら、私に電話してくださいね」
春子は、琴音のあまりにも淡々とした様子を見て、小さくため息をついた。
「琴音ちゃん、みんなそうやって生きてるのよ。少し我慢すればいいだけだから」
「分かってます」
琴音の口調は淡々としていた。
「それでは、失礼します」
一方、病院を出た雅子は、そこで拓真の姿を見つけた。
彼女は一瞬にして、笑みを浮かべた。
「どうしてここへ?だから言ったじゃない、大したことじゃないって。
ぶつかった方は怪我もなかったし、お医者さんにもしっかり診てもらったわ」
拓真は彼女のそばに並んだ。
「次から、母さんの運転手を変えるよ」
二人が外へ向かって歩き出すと、そこへ若い女の子が慌てた様子で駆け込んできた。
女の子の顔には派手なメイクが施され、パンクスタイルのジャケットを着ていた。
ジャケットの前は大きくはだけて中のキャミソールがあらわになり、ジーンズにはいくつも大きな穴が開いていた。
彼女はふと顔を上げ、拓真の姿を見た瞬間、怯えたように数歩後退した。
そして慌てて頭を下げ、どうか顔を見られませんようにと心の中で祈った。
しかし拓真は彼女のことをはっきりと覚えている。
かつて、いつも琴音の後ろを金魚のフンのようについて回っていた、あの小娘だ。
数年前、彼にあの残酷な真実の一部を突きつけた張本人でもある。
「誰に会いに来たのだ」
彼の声は淡々としていた。
女の子はまさか彼に気付かれるとは思ってもみなかったのだろう。
あんなことを言ってしまった手前、彼女は常に後ろめたさを抱えていたが、なんとか虚勢を張って首を突っぱねた。
「姉ちゃんに決まってんでしょ」
彼女は山口春子の娘・山口美月(やまぐち みつき)。ずっと琴音のことを本当の姉のように慕っていた。
そのことは、拓真もずっと前から知っている。
彼の瞳の奥に自嘲の色が走り、それ以上何も言わなかった。