共有

第5話

作者: モリサマー
いくら急いだところで、手術は明日の午前に組まれることになった。

私はひとまず自宅へ帰るしかなかった。

夕日が沈みゆくベランダは、美しかった。

クチナシ、バラ、多肉植物、アジサイ……どれも、この数年をかけて私が少しずつ育ててきた植物たちだ。

一弥は仕事にかまけて私を顧みる暇すらなかったから、私はただ植物に愛情を注ぐしかなかった。

私がいなくなれば、彼がこれらの世話をするはずもない。枯れさせてしまうのは忍びなかった。

そう思い、スマホで写真を撮って、地域の譲渡掲示板に投稿した。

【引っ越すことになりました。ベランダの植木を無料でお譲りします。取りに来てくださる方優先です】

近所には、思いのほか園芸好きが多かったらしい。

30分もしないうちに次々と引き取り手が決まり、ベランダの半分以上がすっきり片づいた。

最後のアジサイの鉢を送り出したとき、私はがらんとしたベランダに立ち尽くし、ぼんやりと空を眺めていた。

執着を手放すのは、思っていたよりもずっと簡単だと、そのとき初めて知った。

植木の整理を終えると、私はクローゼットへと向かった。

ガラスの棚には、様々なバッグがずらりと並んでいる。

その大半は、一弥からの贈り物だった。

以前はもらうたびに、飛び上がるほど嬉しかったものだ。

けれど今改めて見つめ直すと、バッグを渡してくるときの彼のいい加減な態度や、同じ型のバッグを二度も贈られた記憶が蘇り、笑えてくるほど滑稽だった。

私が愛していたのは、どうやら私自身が理想を投影した一弥の虚像だったらしい。

恋という色眼鏡が外れてみれば、ようやく分かる。あんなにも、取るに足らないものだったのだと。

私は写真を撮ってアップロードし、彼からもらったバッグをすべてフリマアプリに出品した。

すぐに買い手がつき、ひと晩で7、8個が売れた。

ぎっしり詰まっていたクローゼットに、たちまち大きな空白ができる。

まるで私の心まで、少しずつ削られ、空っぽになっていくようだった。

夜の10時、玄関の鍵が回る音がした。

顔を上げると、戻ってきた一弥の姿があった。

額の端は擦りむけ、顔には青あざが浮かび、右腕には分厚い包帯が巻かれている。

正確に言えば、そんな彼を支えていたのは優花だった。

彼女は目を真っ赤に腫らし、激しく泣いたあとだと一目で分かった。

「奥さん、今日、患者のご家族が暴れて……先輩は私を庇って怪我をされたんです。先輩のこと、ちゃんと看てあげてくださいね」

私は彼女を一瞥し、至って冷静な声で言った。

「そんなに心配なら、あなたがここに残って看病すればいいじゃない」

優花の顔が瞬時に赤くなり、涙がさらに激しく溢れ出た。

「その、そういう意味じゃなくて……先輩とはただの同僚で……」

言い終わらないうちに、一弥の顔が険しく歪んだ。

「鈴実、少しは棘のない話し方ができないのか?」

私は一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「私が何を言ったっていうの?」

「優花は好意で俺を送ってくれたんだぞ。当て擦りのような言い方はやめろ」

彼は車の鍵をテーブルに叩きつけた。私に向けるその目には、あからさまな失望の色が浮かんでいた。

優花は慌てて涙を拭った。

「先輩、奥さんを責めないでください!全部私が悪いんです。お送りするべきじゃなかった。もう帰ります!」

そう言い残すと、彼女は身を翻して走り去っていった。

一弥は迷う素振りも見せず、すぐにその後を追って飛び出していった。

玄関のドアが重く閉まり、部屋には再び静寂が戻った。私はうつむき、淡々と荷物の片づけを続けた。

1時間後、一弥がようやく戻ってきた。先ほどよりもさらに苛立った顔つきで。

彼は私の様子の異変にも、がらんとしたベランダやクローゼットにも一切気づく様子がなく、ただこう吐き捨てた。

「これで満足か?」

私は顔を上げもしなかった。

「何が?」

「優花は泣きながら帰ったんだぞ。彼女は何もしていないのに、なんでいつも彼女を目の敵にするんだ」

私は荷造りの手を止めなかった。とうに見慣れた光景だ。

彼の目には、いつだって優花が哀れな被害者で、私が理不尽に責め立てる悪女なのだ。

最後のバッグを段ボールに詰め込むと、言い争う気力もなく、そのまま立ち上がって寝室へ向かった。

「待てよ」

一弥の声が低く冷たくなった。

「また夕飯を作っていないのか?」

私は足を止めた。

「冷蔵庫に作り置きがあるわ。作れないなら、出前でも取ればいいじゃない」

一弥の顔つきはみるみるうちに険しくなり、包帯の巻かれた右手を突き出してきた。

「俺は怪我をしているんだぞ」

私は振り返り、皮肉混じりの笑みを浮かべた。

「私のために負った怪我じゃないでしょう。それとも、私が代わりに看病でもしろって言うの?」

一弥の顔から血の気が引いた。

しばらくの沈黙の後、彼は冷ややかに笑った。

「そうか。ふん、お前、たいしたものだな」

次の瞬間、彼は書斎へと入っていった。

ドアが乱暴に閉められる。壁が震えるほどの凄まじい音だった。

けれど私は、眉ひとつ動かさなかった。

明日は手術がある。彼と揉めている暇などないのだ。

布団に潜り込むと、あっという間に深い眠りに落ちた。

離婚を決意してから、一番深く眠れた夜だった。

翌朝早く、知世がわざわざ車で迎えに来てくれた。

「本当に、覚悟は決まってるの?」

彼女はハンドルを握りながら、念を押すように、もう一度尋ねてきた。

私は自分のお腹に目を落とし、しばらく沈黙した後、静かに頷いた。

「決まってるわ」

――ごめんね、我が子。

もし生まれ変わったら、今度こそ、愛し合う両親のもとに生まれてきてね……

手続きを終え、私は手術室へと運ばれた。

医師がカルテの情報を確認している。麻酔科医もすでに準備を終えていた。

ちょうどそのとき、見覚えのある人影が入ってきた。

顔を上げ、その人物と目が合った瞬間、背筋が凍りついた。

優花だった。

彼女は無菌の手術衣を身にまとい、マスクをつけ、医師のすぐそばに立っていた。

私の視線に気づいても少しも動じる様子はなく、その澄んだ瞳の奥には、はっきりとした笑みが浮かんでいた。

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • この先の人生に、もう嵐はいらない   第19話

    「父が亡くなったあの日から」私は一弥を見つめ、深い水を湛えたような静かな声で言った。「私たち二人に、これから先の未来なんてあるべきじゃなかったのよ」一弥はその場に立ち尽くした。長い沈黙の後、彼はふと力なく笑った。苦く、みっともない笑みだった。まるで、手持ちのチップをすべて失ったギャンブラーのように。「……分かった」彼は小さく頷いた。声は消え入りそうなほど掠れていた。「鈴実、これからは二度と、お前の人生の邪魔はしない」そう言うと、彼はゆっくりと背を向けた。歩みは重く、遅かったが、二度と振り返ることはなかった。私はその場に立ち尽くし、彼が一歩、また一歩と遠ざかっていくのを見つめ、やがて廊下の突き当たりの光と影の中に消えていくのを見届けた。心の中には解放感も、悲しみもなく、ただ、ごく淡い静けさだけがあった。まるで一冊の本が、ようやく最後のページを迎えたかのように。……5年後。フランス、パリ。私は親友の知世と、セーヌ川のほとりでワインを飲んでいた。5年という歳月は、彼女をさらに鋭く、隙のない敏腕弁護士へと磨き上げていた。今や業界でも名の知れたトップクラスの弁護士で、その立ち居振る舞いには、冷静さと的確さ、そして一切の甘さを許さない迫力が漂っていた。私もまた、自分の写真スタジオを再び立ち上げていた。この数年、雪山からオーロラ、砂漠から氷河まで、カメラを手に世界中を飛び回り、数え切れないほどの賞を手にしてきた。今回パリに来たのも、国際写真芸術展に参加するためだった。知世が興味津々といった様子で身を寄せ、肩で軽く私を小突いてきた。「そういえばさ、一弥が今どうなってるか知ってる?」私は静かに首を横に振った。「いいえ、知らないわ」そして、今さら知りたくもない。知世は唇を尖らせた。「優花はあの後、有罪判決を受けて、仕事も失ったわ。でね、今度は一弥が彼女の両親に付きまとわれてるらしいのよ。あの老夫婦、毎日病院に押しかけて、娘の人生がめちゃくちゃになったんだから責任を取れって大騒ぎしてるんだって。彼もどうにもならなくなって、結局は退職したみたい。今は地方の小さな医院でひっそり働いていて、医師としての将来もほとんど閉ざされたも同然。噂じゃ、今でも独身らしいけど……」

  • この先の人生に、もう嵐はいらない   第18話

    母は奇跡的に危機を脱した。国際専門医チームが即座に治療方針を全面的に見直し、1週間後、母は無事に集中治療室を出た。医師からその知らせを聞いた日、私は病室の外の長椅子に座り、両手に顔を埋めて長い間泣いた。この数日間、胸の奥に限界まで溜め込んでいた恐怖も、焦りも、無力感も、ようやく出口を見つけて涙とともに流れ出していった。「鈴実さん」晴人がハンカチを差し出し、私の前にしゃがみ込んだ。その口調には、どこかぎこちない、不器用な優しさがあった。「おばさまはもう大丈夫なのに、どうしてまだ泣いているんですか?」私はハンカチを受け取り、目元を拭った。目の縁はまだ赤いままだった。「ありがとう。晴人、あなたは本当に優しいのね」もし晴人がいなかったら、この数日をどうやって乗り越えればよかったのか、本当に分からなかった。晴人は頭を掻き、少し照れたように視線を斜め下へと逸らした。「実は、僕がこうしたのは、親切心だけじゃないんです」私は固まった。彼はまっすぐに私を見つめていた。その眼差しは真剣で、どこまでも澄んでいる。「君のことが好きですから」私はその場に立ち尽くし、しばらく何も言えなかった。晴人の瞳の奥には光が宿り、その声は優しく、どこか情熱的だった。「あのときドライブコースの途中で、君に気づいたんです。バイクで何日か後を追って、ようやく自然に近づく機会を見つけました。すごく綺麗な人だと思ったんです。カメラを構えて、ひとりで険しいルートを走る姿が、たまらなく格好よくて。君の車に乗せてもらっていたとき、この道が終わらなければいいのにって、本気で思っていました。ずっと、君のそばにいられるように」彼の告白を聞き終え、私は長い間黙り込み、そっとため息をついた。「晴人、あなたにはもっと良い人がいるはずよ。私は離婚歴もあるし、中絶も経験しているの。あなたが私なんかに時間を無駄にする必要なんて、本当にどこにもないの」晴人は鼻で笑った。「離婚歴があるから何だっていうんです?離婚は別に犯罪じゃないでしょう」その堂々とした態度に、私は思わず笑ってしまった。けれど、その笑みは口元に浮かびかけたところで、また過去の傷に押し戻された。彼は私の揺らぎに気づいたのか、さらに言葉を重ねた。「それに、僕の両親は長年海外

  • この先の人生に、もう嵐はいらない   第17話

    私は警察を呼び、優花はそのまま連行されていった。術後の患者を意図的に刺激し、容態を悪化させた件に加え、以前の大量出血事故についても併せて追及されることになった。彼女を待っているのは、単なる懲戒解雇だけでは済まないだろう。けれど、彼女の末路を見届ける余裕は、もう私にはなかった。母の容態は、そこから坂を転げ落ちるように悪化していった。集中治療室の外で、医師から何度も危篤を告げられた。私は丸2日、一睡もせず、ガラス窓越しに全身に管をつながれて横たわる母を見つめ続けた。心電図モニターの数値が上下するたび、まるで鈍い刃物で神経を少しずつ削られているようだった。ここ数日、一弥もずっと病院に詰めていて、私以上に眠っていないようだった。その目の下には、どす黒い隈が浮かんでいた。けれど彼を見ても、私の心には感謝の欠片も湧かず、拭いきれない嫌悪感だけが残っていた。もし彼が過去に、何度も優花を特別扱いして甘やかし続けてさえいなければ、母がこんな目に遭うこともなかったはずだ。「鈴実」一弥の声は掠れていた。「俺にやらせてくれ」私は冷たく目を上げた。「何を?」「国内トップクラスの専門チームに連絡し、改めて治療方針を練り直す。俺が何とかしてみせるから……頼む、俺を信じてくれ」私は目を閉じた。「少し離れてもらえる?今一番見たくないのは、あなたなの」けれど彼は私の肩を強引に抱き寄せ、妙な確信を帯びた声で言い放った。「だが今この瞬間、俺以外の誰にお前が頼れるというんだ?」反論したかった。けれど、それが残酷な現実であることに気づいてしまった。今、母を救えるのは彼しかいない。私は力なく彼の肩に頭をもたれさせ、虚ろな目で宙を見つめた。「誰が、彼女には君しか頼れる人間がいないなんて言った!?」よく通る声が響いた。私は勢いよく顔を上げた。見ると、晴人がこちらへ大股で歩いてくるところだった。その後ろには、明らかにただ者ではない雰囲気をまとった外国人医師たちが数人、落ち着いた足取りで続いていた。病院長自らがへつらうほど恭しい態度で彼らを案内している。一弥の瞳がわずかに揺れた。「彼らは……」晴人は口の端を不敵につり上げた。「国際心臓外科研究センターの特別専門医チームですよ。おばさまの診察

  • この先の人生に、もう嵐はいらない   第16話

    「手術自体は完全に成功していました。本来なら、これほど急激に容態が悪化するはずはないのですが……」医師も困惑した様子だった。「よほど強いストレスでも受けない限りは……」胸が冷えた。「ストレス、ですか?」医師は重々しく頷いた。「術後の患者様は、感情を激しく揺さぶられるようなことを避けなければなりません。特に今は心拍や血圧が不安定ですから。今日、何か変わったことがなかったか、思い出していただけますか?」特別なこと?混乱する頭で必死に考えた。母は手術を終えたばかりで、医療スタッフと家族以外、誰とも接触していないはずだ。――待って。私は勢いよく顔を上げた。「監視カメラを確認させてください」30分後、防災センターで監視カメラの映像が再生された。画面には、病室の前は人の出入りが絶えず、看護師たちもトレーを手に慌ただしく行き来していた。そして、午後になってひとりの人影が映り込んでいた。優花だった。私は息を呑み、思わず一弥の方を見た。彼は私の後ろに立ち、画面の光がその横顔を照らしていた。顎の線が怒りで強張っていた。映像に音声はなく、画面だけが見えた。優花は病室のドアを開けて中へ入り、ベッドのそばまで歩み寄ると、身をかがめて何か話しかけた。最初のうちは、母もまだ呼びかけに応じていたが、10分と経たないうちに、母の手足の動きが急に激しくなり、繰り返しベッドの縁を叩き始めた。モニターの波形も激しく乱れていた。優花はその場に立ったまま口を動かし、なおも何かを話し続けていた。母の顔色がみるみる土気色へと変わっていくのを見て、ようやくゆっくりと手を伸ばし、ナースコールを押した。映像はそこで途切れ、防災センターには機器の作動音だけが静かに響いた。「彼女に会いに行く」私はすぐに踵を返した。胸の奥では、焼けつくような憎しみが渦巻いていた。まもなく、新幹線駅で、まさに立ち去ろうとする優香の行く手を遮った。私を見ても、彼女は相変わらず、傷ついたような無垢な表情を浮かべていた。「鈴実さん……」パァン!私は躊躇なく手を振り上げ、彼女の頬を引っ叩いた。優花は頬を押さえ、目を赤くしながら、信じられないという顔で私を見た。「私を叩くんですか?」「どうして叩かれるのか、自分の胸に聞けば分かるん

  • この先の人生に、もう嵐はいらない   第15話

    電話を切るなり、私は夜通し車を走らせて実家へと向かった。病院の廊下に駆けつけると、母はまだ処置室の中で処置を受けており、出てきた医師の表情はひどく険しかった。「お母様の容態は極めて予断を許さない状況です。すぐに緊急手術が必要です。ですが、残念ながら当院では対応できません。一刻も早く都市部の大病院へ転院することをお勧めします」その言葉に、全身の血が凍りつくような錯覚すら覚えた。まるで、忌まわしい3年前のあの悪夢へと引き戻されたかのようだった。あのとき、父が病室のベッドに横たわり、医師からあの日と同じような残酷な言葉を告げられていた。あのとき、私は愛する父を失った。今度は――お母さんまで失うというの?極度の恐怖と疲労で体を支えきれず、私は目の前が暗くなり、その場に崩れ落ちそうになった。ちょうどそのとき、背後から足音が近づいてきた。「俺がやる」その場にいた全員が、突然響いた声に息を呑んで振り返った。医師は彼を見るなり、驚きに目を見開いた。「あなたは……あの、大森一弥先生ですか?」一弥は言葉を返すことなく、静かに頷いた。「詳しいカルテと検査データを見せてください」受け取ったデータを数分間確認しただけで、彼は即座に判断した。「できます。すぐに手術の準備を進めてください。私が執刀します」その手術は、8時間にも及ぶ厳しいものとなった。深夜3時、手術中を示すランプがようやく消えた。扉を開けて出てきたとき、一弥の顔はひどく青ざめ、額は汗に濡れていた。「……手術は成功したよ」一晩中張り詰めていた息が、ようやく抜けた。私は一弥の疲れ切って充血した目をじっと見つめ、長い沈黙の後、心の底から静かに言った。「ありがとう」そのたった一言の感謝に、彼は不意を突かれたように、その場でぴたりと動きを止めた。長い沈黙が流れた後、ようやく彼は低く、一言だけ返した。「これは……俺が当然すべきことだから」母の容態が安定し、集中治療室から一般病棟へと移ったのを見届けてから、私は極度の疲労に襲われ、泥のように眠った。翌朝目が覚めると、私は感謝のしるしとして手土産を携え、一弥が滞在しているホテルへと向かった。私たちの過去に何があろうと、どんな終わりを迎えたとしても、今回、彼が母の命を救ってくれたこ

  • この先の人生に、もう嵐はいらない   第14話

    それから数日間、私がどこへ行こうとも、一弥は影のようにつきまとった。同じホテルに宿を取り、同じ観光地へ足を運び、食事に出れば同じレストランにまで現れた。徹底的に無視することこそが最大の反撃だと分かっていたので、私は彼を最初からいないものとして扱うことにした。景色を見たいときにはただ景色を眺め、写真を撮りたいときにはシャッターを切った。けれど晴人は、そんな異常な状況にもう我慢の限界を迎えていたようだ。「なあ、元夫さんよ」入ったレストランで、晴人は乱暴に箸をテーブルに叩きつけた。「ずいぶん立派なストーカー気質をお持ちのようですね?」一弥は顔を上げることすらなく、悠然と皿から手羽先を1本取り、私の皿に置いた。「俺は自分の妻と一緒に旅行をしているだけだ。それがどうしてストーカーになるんだ?」晴人は目を細めて皮肉っぽく笑ったが、その口調にははっきりとした棘があった。「もう一度親切に訂正してあげますけど、前妻ですよ。妻じゃなくてね」テーブルの空気が、一瞬にして張り詰めた。私はたまらずこめかみを押さえた。ズキズキと頭が痛い。「ふたりとも、少し黙ってくれない?」ふたりは同時に口をつぐみ、同時に私の方を見た。その光景があまりに滑稽で、まるで手のかかる子供をふたり連れて旅をしているかのような錯覚に陥った。もう彼らを相手にする気力すら失せ、私は箸を置き、席を立った。午後、私たちは標高の高い、とある絶景の展望台へと到着した。遥か遠くには荘厳な雪山が雄大にそびえ立ち、その頂には万年雪が輝き、足元には分厚い雲海がゆっくりと流れていた。まるで天地の間に描かれた、巨大な水墨画のようだった。私は愛用のカメラを取り出し、ゆっくりとレンズを遠くの山並みに向けた。その瞬間、なぜあれほど多くの旅人がこのルートに焦がれるのか、ようやく心の底から理解できた気がした。この雄大な自然の前に立つと、人間の愛も憎しみも、日々の悩みも煩わしさも、すべてが塵のようにちっぽけで、取るに足らないものに思えてくるからだ。シャッターを切ろうと指を動かしたまさにそのとき、ポケットのスマホが着信音を響かせた。画面を見ると、田舎の親戚からの電話だった。理由のない胸騒ぎがして、私はすぐに通話ボタンを押した。電話の向こうから、切羽詰まった声が

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status