登入丸三年かけて――手の届かないはずの高嶺の花だった大森一弥(おおもり かずや)を、私・大森鈴実(おおもり すずみ)はついに自分のものにした。 築き上げてきたキャリアのすべてと引き換えに、誰もが羨む「大森家の奥様」という肩書きを手に入れたのだ。 なのに、結婚5周年を迎えたその日、私は離婚を切り出すことに決めた。 弁護を頼んだのは長年の親友、佐久間知世(さくま ともよ)だった。彼女は何度も念を押すように尋ねてくる。 「本当にいいの?あの人と結婚するために、あの誰もが知っている雑誌のオファーだって迷いなく断ったあなたが、今になって離婚したいなんて」 込み上げる苦さを喉の奥に押し戻しながら、私は静かに告げた。 「離婚協議書、作ってもらえる?できるだけ早く」 彼女は納得できない様子で声を荒げた。「どうしてよ!」 食卓に飾られた、丁寧に包まれた黒いダチュラの花束を見つめながら、私は最後の答えを口にした。 「たった一束の、花のせいよ」
查看更多「父が亡くなったあの日から」私は一弥を見つめ、深い水を湛えたような静かな声で言った。「私たち二人に、これから先の未来なんてあるべきじゃなかったのよ」一弥はその場に立ち尽くした。長い沈黙の後、彼はふと力なく笑った。苦く、みっともない笑みだった。まるで、手持ちのチップをすべて失ったギャンブラーのように。「……分かった」彼は小さく頷いた。声は消え入りそうなほど掠れていた。「鈴実、これからは二度と、お前の人生の邪魔はしない」そう言うと、彼はゆっくりと背を向けた。歩みは重く、遅かったが、二度と振り返ることはなかった。私はその場に立ち尽くし、彼が一歩、また一歩と遠ざかっていくのを見つめ、やがて廊下の突き当たりの光と影の中に消えていくのを見届けた。心の中には解放感も、悲しみもなく、ただ、ごく淡い静けさだけがあった。まるで一冊の本が、ようやく最後のページを迎えたかのように。……5年後。フランス、パリ。私は親友の知世と、セーヌ川のほとりでワインを飲んでいた。5年という歳月は、彼女をさらに鋭く、隙のない敏腕弁護士へと磨き上げていた。今や業界でも名の知れたトップクラスの弁護士で、その立ち居振る舞いには、冷静さと的確さ、そして一切の甘さを許さない迫力が漂っていた。私もまた、自分の写真スタジオを再び立ち上げていた。この数年、雪山からオーロラ、砂漠から氷河まで、カメラを手に世界中を飛び回り、数え切れないほどの賞を手にしてきた。今回パリに来たのも、国際写真芸術展に参加するためだった。知世が興味津々といった様子で身を寄せ、肩で軽く私を小突いてきた。「そういえばさ、一弥が今どうなってるか知ってる?」私は静かに首を横に振った。「いいえ、知らないわ」そして、今さら知りたくもない。知世は唇を尖らせた。「優花はあの後、有罪判決を受けて、仕事も失ったわ。でね、今度は一弥が彼女の両親に付きまとわれてるらしいのよ。あの老夫婦、毎日病院に押しかけて、娘の人生がめちゃくちゃになったんだから責任を取れって大騒ぎしてるんだって。彼もどうにもならなくなって、結局は退職したみたい。今は地方の小さな医院でひっそり働いていて、医師としての将来もほとんど閉ざされたも同然。噂じゃ、今でも独身らしいけど……」
母は奇跡的に危機を脱した。国際専門医チームが即座に治療方針を全面的に見直し、1週間後、母は無事に集中治療室を出た。医師からその知らせを聞いた日、私は病室の外の長椅子に座り、両手に顔を埋めて長い間泣いた。この数日間、胸の奥に限界まで溜め込んでいた恐怖も、焦りも、無力感も、ようやく出口を見つけて涙とともに流れ出していった。「鈴実さん」晴人がハンカチを差し出し、私の前にしゃがみ込んだ。その口調には、どこかぎこちない、不器用な優しさがあった。「おばさまはもう大丈夫なのに、どうしてまだ泣いているんですか?」私はハンカチを受け取り、目元を拭った。目の縁はまだ赤いままだった。「ありがとう。晴人、あなたは本当に優しいのね」もし晴人がいなかったら、この数日をどうやって乗り越えればよかったのか、本当に分からなかった。晴人は頭を掻き、少し照れたように視線を斜め下へと逸らした。「実は、僕がこうしたのは、親切心だけじゃないんです」私は固まった。彼はまっすぐに私を見つめていた。その眼差しは真剣で、どこまでも澄んでいる。「君のことが好きですから」私はその場に立ち尽くし、しばらく何も言えなかった。晴人の瞳の奥には光が宿り、その声は優しく、どこか情熱的だった。「あのときドライブコースの途中で、君に気づいたんです。バイクで何日か後を追って、ようやく自然に近づく機会を見つけました。すごく綺麗な人だと思ったんです。カメラを構えて、ひとりで険しいルートを走る姿が、たまらなく格好よくて。君の車に乗せてもらっていたとき、この道が終わらなければいいのにって、本気で思っていました。ずっと、君のそばにいられるように」彼の告白を聞き終え、私は長い間黙り込み、そっとため息をついた。「晴人、あなたにはもっと良い人がいるはずよ。私は離婚歴もあるし、中絶も経験しているの。あなたが私なんかに時間を無駄にする必要なんて、本当にどこにもないの」晴人は鼻で笑った。「離婚歴があるから何だっていうんです?離婚は別に犯罪じゃないでしょう」その堂々とした態度に、私は思わず笑ってしまった。けれど、その笑みは口元に浮かびかけたところで、また過去の傷に押し戻された。彼は私の揺らぎに気づいたのか、さらに言葉を重ねた。「それに、僕の両親は長年海外
私は警察を呼び、優花はそのまま連行されていった。術後の患者を意図的に刺激し、容態を悪化させた件に加え、以前の大量出血事故についても併せて追及されることになった。彼女を待っているのは、単なる懲戒解雇だけでは済まないだろう。けれど、彼女の末路を見届ける余裕は、もう私にはなかった。母の容態は、そこから坂を転げ落ちるように悪化していった。集中治療室の外で、医師から何度も危篤を告げられた。私は丸2日、一睡もせず、ガラス窓越しに全身に管をつながれて横たわる母を見つめ続けた。心電図モニターの数値が上下するたび、まるで鈍い刃物で神経を少しずつ削られているようだった。ここ数日、一弥もずっと病院に詰めていて、私以上に眠っていないようだった。その目の下には、どす黒い隈が浮かんでいた。けれど彼を見ても、私の心には感謝の欠片も湧かず、拭いきれない嫌悪感だけが残っていた。もし彼が過去に、何度も優花を特別扱いして甘やかし続けてさえいなければ、母がこんな目に遭うこともなかったはずだ。「鈴実」一弥の声は掠れていた。「俺にやらせてくれ」私は冷たく目を上げた。「何を?」「国内トップクラスの専門チームに連絡し、改めて治療方針を練り直す。俺が何とかしてみせるから……頼む、俺を信じてくれ」私は目を閉じた。「少し離れてもらえる?今一番見たくないのは、あなたなの」けれど彼は私の肩を強引に抱き寄せ、妙な確信を帯びた声で言い放った。「だが今この瞬間、俺以外の誰にお前が頼れるというんだ?」反論したかった。けれど、それが残酷な現実であることに気づいてしまった。今、母を救えるのは彼しかいない。私は力なく彼の肩に頭をもたれさせ、虚ろな目で宙を見つめた。「誰が、彼女には君しか頼れる人間がいないなんて言った!?」よく通る声が響いた。私は勢いよく顔を上げた。見ると、晴人がこちらへ大股で歩いてくるところだった。その後ろには、明らかにただ者ではない雰囲気をまとった外国人医師たちが数人、落ち着いた足取りで続いていた。病院長自らがへつらうほど恭しい態度で彼らを案内している。一弥の瞳がわずかに揺れた。「彼らは……」晴人は口の端を不敵につり上げた。「国際心臓外科研究センターの特別専門医チームですよ。おばさまの診察
「手術自体は完全に成功していました。本来なら、これほど急激に容態が悪化するはずはないのですが……」医師も困惑した様子だった。「よほど強いストレスでも受けない限りは……」胸が冷えた。「ストレス、ですか?」医師は重々しく頷いた。「術後の患者様は、感情を激しく揺さぶられるようなことを避けなければなりません。特に今は心拍や血圧が不安定ですから。今日、何か変わったことがなかったか、思い出していただけますか?」特別なこと?混乱する頭で必死に考えた。母は手術を終えたばかりで、医療スタッフと家族以外、誰とも接触していないはずだ。――待って。私は勢いよく顔を上げた。「監視カメラを確認させてください」30分後、防災センターで監視カメラの映像が再生された。画面には、病室の前は人の出入りが絶えず、看護師たちもトレーを手に慌ただしく行き来していた。そして、午後になってひとりの人影が映り込んでいた。優花だった。私は息を呑み、思わず一弥の方を見た。彼は私の後ろに立ち、画面の光がその横顔を照らしていた。顎の線が怒りで強張っていた。映像に音声はなく、画面だけが見えた。優花は病室のドアを開けて中へ入り、ベッドのそばまで歩み寄ると、身をかがめて何か話しかけた。最初のうちは、母もまだ呼びかけに応じていたが、10分と経たないうちに、母の手足の動きが急に激しくなり、繰り返しベッドの縁を叩き始めた。モニターの波形も激しく乱れていた。優花はその場に立ったまま口を動かし、なおも何かを話し続けていた。母の顔色がみるみる土気色へと変わっていくのを見て、ようやくゆっくりと手を伸ばし、ナースコールを押した。映像はそこで途切れ、防災センターには機器の作動音だけが静かに響いた。「彼女に会いに行く」私はすぐに踵を返した。胸の奥では、焼けつくような憎しみが渦巻いていた。まもなく、新幹線駅で、まさに立ち去ろうとする優香の行く手を遮った。私を見ても、彼女は相変わらず、傷ついたような無垢な表情を浮かべていた。「鈴実さん……」パァン!私は躊躇なく手を振り上げ、彼女の頬を引っ叩いた。優花は頬を押さえ、目を赤くしながら、信じられないという顔で私を見た。「私を叩くんですか?」「どうして叩かれるのか、自分の胸に聞けば分かるん