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この先の人生に、もう嵐はいらない

この先の人生に、もう嵐はいらない

作者:  モリサマー已完成
語言: Japanese
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19章節
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故事簡介

切ない恋

ひいき/自己中

愛人

後悔

丸三年かけて――手の届かないはずの高嶺の花だった大森一弥(おおもり かずや)を、私・大森鈴実(おおもり すずみ)はついに自分のものにした。 築き上げてきたキャリアのすべてと引き換えに、誰もが羨む「大森家の奥様」という肩書きを手に入れたのだ。 なのに、結婚5周年を迎えたその日、私は離婚を切り出すことに決めた。 弁護を頼んだのは長年の親友、佐久間知世(さくま ともよ)だった。彼女は何度も念を押すように尋ねてくる。 「本当にいいの?あの人と結婚するために、あの誰もが知っている雑誌のオファーだって迷いなく断ったあなたが、今になって離婚したいなんて」 込み上げる苦さを喉の奥に押し戻しながら、私は静かに告げた。 「離婚協議書、作ってもらえる?できるだけ早く」 彼女は納得できない様子で声を荒げた。「どうしてよ!」 食卓に飾られた、丁寧に包まれた黒いダチュラの花束を見つめながら、私は最後の答えを口にした。 「たった一束の、花のせいよ」

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第 1 章

第1話

丸三年かけて――手の届かないはずの高嶺の花だった大森一弥(おおもり かずや)を、私・大森鈴実(おおもり すずみ)はついに自分のものにした。

築き上げてきたキャリアのすべてと引き換えに、誰もが羨む「大森家の奥様」という肩書きを手に入れたのだ。

なのに、結婚5周年を迎えたその日、私は離婚を切り出すことに決めた。

弁護を頼んだのは長年の親友、佐久間知世(さくま ともよ)だった。彼女は何度も念を押すように尋ねてくる。

「本当にいいの?あの人と結婚するために、あの誰もが知っている雑誌のオファーだって迷いなく断ったあなたが、今になって離婚したいなんて」

込み上げる苦さを喉の奥に押し戻しながら、私は静かに告げた。

「離婚協議書、作ってもらえる?できるだけ早く」

彼女は納得できない様子で声を荒げた。「どうしてよ!」

食卓に飾られた、丁寧に包まれた黒いダチュラの花束を見つめながら、私は最後の答えを口にした。

「たった一束の、花のせいよ」

今日、あの花束を受け取った瞬間、正直私は嬉しかった。

一弥もようやく分かってくれて、結婚記念日のサプライズを用意してくれたのだと思っていた。

けれど花に添えられたカードを開いた瞬間、私の笑みはその場で凍りついた。

【一弥先輩、叔母の手術のために遠方まで駆けつけてくれて、本当にありがとうございました。家族一同、心から感謝しております。

この花は私が先輩のために選んだものです。「私たち」にぴったりだと思って。気に入っていただけたら嬉しいです。――坪井優花(つぼい ゆか)】

手が震え、花束はどさりと床に落ちた。

三年前、父が重い病に倒れた。

医師からは、一刻も早い手術が必要だと告げられていた。

けれど田舎町の医療設備は乏しく、父の体力では遠方への転院に耐えられなかった。

私は泣きながら一弥に、実家まで来て父の手術をしてほしいと頼んだ。

けれど彼はこう言った。「うちの病院は出張手術を禁じている。仕事は仕事だ。私情で規則を曲げるわけにはいかない」

その後、父は転院する救急車の中で息を引き取った。

それは、私の一生の悔いとなった。

父の葬儀の供花には、私はあえて黒いダチュラを選んだ。

予測できない死と愛を意味するその花が、父を送るのにふさわしいと思ったから。

けれど本当は、予測できないものなど何もなかったのだ。

深夜、ふと目が覚めるたびに、死の間際の父の白髪交じりの頭を思い出し、全身が震えるほど泣いた。

一弥を恨んではいけないと何度も自分に言い聞かせた。誰にでも守りたい信念というものがあるのだから、と。

けれど本当は、規則は破れるものだったし、信念だって譲れるものだったのだ。

ただ、私にはその価値がなかっただけ。

親友との離婚に関する打ち合わせを終え、電話を切った。

飾りつけていたリボンや風船を、静かにすべてゴミ箱へ放り込んだ。

そして検索欄を開き、いくつかの文字を打ち込んだ。「車中泊 絶景ドライブ おすすめルート」

雪山、草原、湖、そして地平線まで続く曲がりくねった道。

かつて父と交わした約束。生きているうちに車を走らせ、カメラを片手に、あの道を旅しようと。

父が死んだ後、一弥は私を慰めようと、その未完の約束を父の代わりに叶えると言ってくれた。

けれどその年、彼はちょうど医長に昇進したばかりで、忙しさのあまり食事すらままならなかった。

彼には、身の回りの世話をし、家庭を守ってくれる専業主婦の妻が必要だった。

だから私は自分のスタジオを畳み、写真家から「大森さんの奥様」になった。

その年、私は全国規模の写真賞を受賞し、複数の一流企業からオファーを受け、将来を嘱望されていたというのに。

それでも私は、迷わずすべてを手放した。

その後、一弥は最年少で心臓外科の部長となり、業界屈指の名医と呼ばれるようになった。

一時は、自分の犠牲や努力に価値があったのだと思っていた。

今思えば、本当に滑稽な話だ……

鍵の回る音が、物思いを断ち切った。

一弥が帰ってきた。

コートを脱ぎながら、彼はがらんとした食卓に目をやり、眉をひそめた。

「飯は?」

私はパソコンの画面から目を離さずに答えた。

「作る気になれなかった。疲れたから」

彼の眉間の皺が、さらに深くなる。

「俺より疲れてるとでも言うのか?」

私が答える前に、彼のスマホが鳴った。

画面を一瞥するなり、彼はすぐさま電話に出た。

「……どうした?」

電話の向こうから、優しい女性の声が聞こえてくる。

張り詰めていた彼の表情が、目に見えて緩んだ。

かすかな笑みさえ浮かんでいる。

「焦らなくていい、すぐ行く」

向こうから、病院の同僚らしき囃し立てる声が聞こえてくる。

「おっ、坪井師長がまた助っ人を呼んだぞ」

「大森先生、早く来てくださいよ。師長がもう限界です」

笑い声が絶えず、和やかな空気の中に、どこか二人を冷やかすような浮かれた雰囲気すら漂っていた。

籍を入れたはずの妻である私が、まるで部外者のようだった。

電話を切ると、一弥は脱いだばかりのコートをまた羽織り直した。

私は思わず口にした。「優花さん?」

彼の動きが一瞬止まる。

「患者の容体が急変したんだ。彼女一人じゃ手に負えない。人命がかかってる。妙な勘繰りはよせ」

言い終えると、彼は外へと向かって歩き出した。

私はその背中を見つめた。

先週も彼は同じように慌ただしく出かけ、3日間出張だと言っていたことを思い出す。

今考えれば、あれは出張などではなかった。

500キロも離れた場所まで、優花の叔母の手術のために駆けつけていたのだ。

「一弥」

私は彼を呼び止めた。

彼が振り返る。

「何だ?」

私は彼を見つめたまま、静かに尋ねた。

「今日が何の日か、覚えてる?」

彼は考える間もなく、口を突いて出た。「6月1日?」

私は笑った。

本当に忘れていたのだ。

今日は、私たちの結婚記念日。

結婚5周年なのに。

幸いにも、最後の年でもある。

「なんでもない」

私は視線を逸らした。

「仕事、頑張って」

一弥は私を見つめ、何かに気づいたような顔をした。

しばらく沈黙した後、硬い声で絞り出すように言った。

「片づいたら帰る。夜食、何か買ってこようか?」

私は首を横に振った。

「いらない」

もう二度と、必要ない。

一弥が出て行った後、私は着替えて、1週間も前から予約していたあのレストランへ向かった。

クラシック音楽が流れ、恋人たちが寄り添う中、私だけがひとりだった。

店員が尋ねてくる。「お客様、お連れ様はいつ頃いらっしゃいますか?」

私は笑って答えた。

「来ません」

もう、これから先も。

食事を終え、私はディーラーに電話をかけた。

「オフロード車を1台注文したいんです。性能重視で、長距離ドライブできるくらいの。予算は1500万円前後で」

担当者によると、条件に合う車種はあるものの、人気車種のため在庫がなく、取り寄せに1週間かかるという。

7日間。過去を手放し、この絡まりきった結婚生活を片づけるには、十分な時間だ。

「それでお願いします。1週間後に受け取りに伺います」

電話を切り、ブラウザを開いて車中泊の絶景ドライブ情報を眺め続けた。

写真が次々と流れていくうちに、5年間も棚上げにしていた夢が、再び息を吹き返していくような気がした。

しばらくして、親友から電話がかかってきた。離婚協議書はすでに作成済みで、メールで送ったという。

私は小さく「ありがとう」と応えた。

彼女は少し沈黙した後、堪えきれないように尋ねてきた。

「鈴実、あなたそこまで彼のこと愛してたのに、本当に手放せるの?」

私は逆に問い返した。「あなた、一弥が誰かのために信念を曲げて、我を忘れるほど必死になるところ、見たことある?」

「ない」彼女は正直に答えた。

「私はある」

窓の外に果てしなく広がる夜景を眺めながら、私は物悲しく笑った。

「でも、私のためじゃなかったわ」

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第1話
丸三年かけて――手の届かないはずの高嶺の花だった大森一弥(おおもり かずや)を、私・大森鈴実(おおもり すずみ)はついに自分のものにした。 築き上げてきたキャリアのすべてと引き換えに、誰もが羨む「大森家の奥様」という肩書きを手に入れたのだ。 なのに、結婚5周年を迎えたその日、私は離婚を切り出すことに決めた。 弁護を頼んだのは長年の親友、佐久間知世(さくま ともよ)だった。彼女は何度も念を押すように尋ねてくる。 「本当にいいの?あの人と結婚するために、あの誰もが知っている雑誌のオファーだって迷いなく断ったあなたが、今になって離婚したいなんて」 込み上げる苦さを喉の奥に押し戻しながら、私は静かに告げた。 「離婚協議書、作ってもらえる?できるだけ早く」 彼女は納得できない様子で声を荒げた。「どうしてよ!」 食卓に飾られた、丁寧に包まれた黒いダチュラの花束を見つめながら、私は最後の答えを口にした。 「たった一束の、花のせいよ」今日、あの花束を受け取った瞬間、正直私は嬉しかった。一弥もようやく分かってくれて、結婚記念日のサプライズを用意してくれたのだと思っていた。けれど花に添えられたカードを開いた瞬間、私の笑みはその場で凍りついた。【一弥先輩、叔母の手術のために遠方まで駆けつけてくれて、本当にありがとうございました。家族一同、心から感謝しております。この花は私が先輩のために選んだものです。「私たち」にぴったりだと思って。気に入っていただけたら嬉しいです。――坪井優花(つぼい ゆか)】手が震え、花束はどさりと床に落ちた。三年前、父が重い病に倒れた。医師からは、一刻も早い手術が必要だと告げられていた。けれど田舎町の医療設備は乏しく、父の体力では遠方への転院に耐えられなかった。私は泣きながら一弥に、実家まで来て父の手術をしてほしいと頼んだ。けれど彼はこう言った。「うちの病院は出張手術を禁じている。仕事は仕事だ。私情で規則を曲げるわけにはいかない」その後、父は転院する救急車の中で息を引き取った。それは、私の一生の悔いとなった。父の葬儀の供花には、私はあえて黒いダチュラを選んだ。予測できない死と愛を意味するその花が、父を送るのにふさわしいと思ったから。けれど本当は、予測できないものなど何
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第2話
親友との電話を切ったばかりのところに、レストランの入口から支配人の声が聞こえてきた。「大森先生、ご予約のお席をご用意しております。どうぞこちらへ」「大森先生」という呼び方に、私はすっかり敏感になっていて、思わず顔を上げた。やはり、一弥だった。そして彼の隣には、優花もいた。ふたりは肩を並べて店内に入ってくる。一弥はすでに白衣を脱ぎ、黒いシャツの袖を肘まで捲り上げていて、眉間には疲れの色が滲んでいた。優花は彼のそばに立ち、首を傾げながら何かを話している。何を話したのか、一弥がふと笑みを見せた。その光景を茫然と見つめる私の胸に、針で刺されたような痛みが走った。以前、彼が仕事から帰ってくると、私はいつも他愛のない話をしたがり、その日あったことを何もかも話して聞かせたくてたまらなかった。けれど彼はいつも興味なさそうで、笑顔どころか返事すらろくになかった。私はただ、仕事で疲れているから私に付き合う余裕がないのだと、自分を慰めるしかなかった。今になってようやく分かった。彼は疲れていても、笑うことはできたのだ。ただ、私には笑わなかっただけだ。「奥さん?」先に私に気づいたのは、優花だった。彼女は足早に近づいてきて、いかにも感じのいい笑みを浮かべた。「どうして一人でここに?」私は答えなかった。彼女も気にする様子はなく、むしろ自分から説明を始めた。「今日、大きな交通事故があって、負傷者がすごく多かったんです。一弥先輩と私、午後からずっと働き詰めで。さっき最後の手術が終わったところで、二人ともお腹ぺこぺこで。先輩がふと、ここに奥様の大好物の鱈のポワレがあるのを思い出して、どうしてもって連れてきてくれたんです。食べ終わったら、奥さんの分を包んで持ち帰るからって」そう言い終えると、彼女は一弥の方へ振り返り、愛らしく微笑んだ。「先輩、本当に奥さんのことが大好きなんですね。何をするにもいつも奥さんのことを考えてて。ふふ、羨ましいです。私にもそんなに愛してくれる人がいたらいいのに」本当に、私を愛している?本当に私を愛している人が、私たちの結婚記念日を忘れるだろうか?本当に私を愛している人が、深夜に別の女性を連れて雰囲気のいいレストランへ食事に行くだろうか?本当に私を愛している人が、他人の叔
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第3話
一睡もせず、私はひと晩中荷物を片づけ続けた。絶え間なく動き続けることだけが、胸にぽっかり空いた穴を忘れさせてくれた。夜が明けかける頃、私は物置を開けて、長らく眠らせていた撮影機材を引っ張り出した。カメラを手に取り、電源ボタンを押す。小さな起動音とともに、画面が再び明るくなった。その瞬間、鼻の奥がつんと熱くなった。よかった、まだ壊れていない。まだ間に合う。カメラを抱えたままリビングに戻った。片づけが半分ほど終わったところで、スマホが鳴った。不動産の仲介業者からだった。「大森鈴実様、先週ご夫婦で内見されたあの物件の件で、オーナー様からご了承をいただきました。問題がなければ、来週末には契約が可能です」私は動きを止めた。すっかり忘れていた。少し前、一弥が昇進して収入も大幅に増えた。今の家は狭すぎるし、将来子供ができたら不便だからと、もっと広い家に引っ越そうと言い出したのは彼だった。言い出したのは彼だったのに、内見も、物件選びも、業者とのやり取りも、間取りの比較も、ローンの計算も、すべて私ひとりでやっていた。彼が付き合ってくれたのは、たった一度きり。あの日、私は張り切って彼を子供部屋にする予定の部屋に連れて行き、どんな内装が好みかと尋ねた。けれど彼はスマホに目を落としたまま、上の空でこう答えただけだった。「いいんじゃない、お前が決めていいぞ」そのとき、はっきりと見えてしまった。彼のトーク画面の相手が優花だったことを。物件を最後まで見終わる前に、彼は優花に呼び出されて先に帰ってしまった。そこまで思い出し、私は落ち着いた声で業者に告げた。「あの物件、やめておきます」「え?」業者は面食らったようだった。「どうしてですか?旦那様、あの物件をとても気に入っていらっしゃいましたのに」私は手の中のカメラに目を落とした。しばらく黙り込んだ後、そっと笑った。「私たち、離婚するので」電話の向こうが、一瞬で静まり返った。それ以上の説明はせず、私はそのまま電話を切った。荷物を整理し終えた頃には、すでに日は高く昇っていた。私は離婚協議書と離婚届を持って、車を走らせ病院へ向かった。5年間の結婚生活も、たった数枚の薄い紙で終わってしまう。手に持つと驚くほど軽くて、笑ってし
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第4話
私は検査結果の用紙を握りしめた。妊娠5週目。たったそれだけの文字なのに、まるで巨大な岩が胸にのしかかってきたかのように息が詰まった。本当は、ずっと子供が欲しかったのだ。街で見かける3人家族の姿に、いつも想像を膨らませていた。私と一弥の子供は、どんな顔で生まれてくるのだろう、と。彼に似ているだろうか、それとも私に似ているだろうか。けれど一弥は仕事があまりに忙しく、子供の話はそのたびに先延ばしにされていった。よりによって、離婚協議書を突きつけたこのタイミングで新しい命を授かるなんて。なんとも皮肉な巡り合わせだった。ちょうどそのとき、病室のドアが勢いよく開いた。入ってきたのは一弥だった。彼の手には、昼間に優花へ預けたあの書類袋が握られており、その表情は酷く険しかった。次の瞬間、書類袋が私に向かって投げつけられた。彼は眉をひそめて言い放った。「書類にはサインしておいた。だが、新居の契約手続きなんてプライベートなことだろう。今後は病院に持ってこないでくれ。優花に見られたらどう思われる」私は思わず吹き出しそうになった。なるほど、彼はこれを新居の契約書類だと勘違いしたらしい。だから中身も確かめずに、そのまま名前を書いたのだ。なら、好都合だ。無駄な口論を重ねずに済む。私は黙って離婚協議書と離婚届をバッグにしまった。ずっと胸を塞いでいたつかえが、ようやく取れたような気がした。私の沈黙を見て、一弥の表情がわずかに和らいだ。「ゆっくり休め。俺は仕事に戻るから、先に行くぞ」彼の落ち着き払った顔を見つめながら、私は思わず小さな声で尋ねていた。「……私がどうして病室のベッドに横たわっているのか、少しも気にならないの?」一弥は一瞬きょとんとして足を止め、それから淡々と答えた。「低血糖だろう?昔からだろ。まあよく休んで、さっさと帰れよ。くだらないことで病院に来るな」私は呆然と彼を見つめた。心臓をきつく掴まれたような、鈍い痛みが広がっていく。確かに私は低血糖気味だった。昔の彼のポケットには、いつも飴が数粒入っていたものだ。チョコレートのこともあれば、フルーツキャンディーのこともあった。私の体調が悪くなるたびに、彼はそれをひとつぶ、私の口に含ませてくれた。けれど、いつからだろう。彼の
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第5話
いくら急いだところで、手術は明日の午前に組まれることになった。私はひとまず自宅へ帰るしかなかった。夕日が沈みゆくベランダは、美しかった。クチナシ、バラ、多肉植物、アジサイ……どれも、この数年をかけて私が少しずつ育ててきた植物たちだ。一弥は仕事にかまけて私を顧みる暇すらなかったから、私はただ植物に愛情を注ぐしかなかった。私がいなくなれば、彼がこれらの世話をするはずもない。枯れさせてしまうのは忍びなかった。そう思い、スマホで写真を撮って、地域の譲渡掲示板に投稿した。【引っ越すことになりました。ベランダの植木を無料でお譲りします。取りに来てくださる方優先です】近所には、思いのほか園芸好きが多かったらしい。30分もしないうちに次々と引き取り手が決まり、ベランダの半分以上がすっきり片づいた。最後のアジサイの鉢を送り出したとき、私はがらんとしたベランダに立ち尽くし、ぼんやりと空を眺めていた。執着を手放すのは、思っていたよりもずっと簡単だと、そのとき初めて知った。植木の整理を終えると、私はクローゼットへと向かった。ガラスの棚には、様々なバッグがずらりと並んでいる。その大半は、一弥からの贈り物だった。以前はもらうたびに、飛び上がるほど嬉しかったものだ。けれど今改めて見つめ直すと、バッグを渡してくるときの彼のいい加減な態度や、同じ型のバッグを二度も贈られた記憶が蘇り、笑えてくるほど滑稽だった。私が愛していたのは、どうやら私自身が理想を投影した一弥の虚像だったらしい。恋という色眼鏡が外れてみれば、ようやく分かる。あんなにも、取るに足らないものだったのだと。私は写真を撮ってアップロードし、彼からもらったバッグをすべてフリマアプリに出品した。すぐに買い手がつき、ひと晩で7、8個が売れた。ぎっしり詰まっていたクローゼットに、たちまち大きな空白ができる。まるで私の心まで、少しずつ削られ、空っぽになっていくようだった。夜の10時、玄関の鍵が回る音がした。顔を上げると、戻ってきた一弥の姿があった。額の端は擦りむけ、顔には青あざが浮かび、右腕には分厚い包帯が巻かれている。正確に言えば、そんな彼を支えていたのは優花だった。彼女は目を真っ赤に腫らし、激しく泣いたあとだと一目で分かった。「奥さん
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第6話
優花の姿を認識した瞬間、全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。「介助の看護師を替えてください」私は反射的に体を起こそうとした。けれど、医師に押さえつけられた。「何を騒いでいるんですか。彼女はうちの科でも指折りの優秀な看護師ですよ。手術介助に入ってほしいと希望する患者さんもいるくらいです。わざわざ来てくれたんだ、あなたは運がいいですよ」私はまだ抗おうとした。けれど麻酔科医が、すでに注射器を手に近づいてきていた。「力を抜いてください。眠ればすぐに終わりますからね」冷たい液体が、ゆっくりと血管に流し込まれていく。急速に意識が遠のいていく。最後に見えたのは、無影灯の下に立つ優花が、不気味な目でじっと私を見つめていた姿だった……どれほど時間が経っただろうか、激しい痛みで目が覚めた。下腹部が引きつるように痛み、まるで温かい何かが絶えず流れ出ているようだった。目を開けると、病室には誰もおらず、優花だけが淡々と看護記録を記入していた。「少し、苦しい……」か細い声しか出せなかった。優花は近づいてきて私を一瞥すると、平然とした顔で言い放った。「普通の反応ですよ。術後はみなさんこうなります。静かに休んでいてください」そう言うと、また手元に目を戻して記録を続けた。けれど時間が経つにつれ、目眩はどんどん強くなり、呼吸すらままならなくなっていった。私はやっとの思いで震える手を上げた。「看護師さん……」優花がようやく顔を上げ、わずかに眉をひそめた。「落ち着いてください。手術の直後は体が弱っているものです。もう少し様子を見ましょう」そう冷たく言い残すと、彼女は背を向けて部屋を出て行った。ベッドに横たわったまま、私の意識は急激に朦朧としていった。暗闇に沈みかける中、誰かが激しく駆け込んでくる音が聞こえた。「鈴実!」知世だった。私はもう声が出せなかった。ただ必死に、彼女の手を掴んだ。親友はシーツに目をやるなり、悲鳴のような声を上げた。「先生!早く先生を呼んで!鈴実、大出血してるわ!」病室はたちまち騒然となった。足音が慌ただしく入り乱れる。「血圧が低下しています!」「すぐに処置を!」「点滴の準備を急いで!」耳元で怒号が渦巻く中、私は完全に意識を手放した。
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第7話
「どこへ行くも何も」私は抑揚のない声で問い返した。「今日、ガス会社の点検が来たんだ」一弥の声は冷ややかに響いた。「家に誰もいなくて、こっちに確認の電話が回ってきたぞ。なんで家にいなかったんだ?」なるほど、そういうことか。私は一瞬でも、彼がようやく私の異変に気づいてくれたのかと勘違いしそうになった。うつむき、自嘲気味に笑う。いまだにそんな現実離れした期待を抱くなんて、自分でも滑稽だった。「なんで私がいつも家にいなきゃいけないの?」私は問い返した。「私には、自分の用事ひとつないと思っているわけ?」電話の向こうが一瞬黙り込み、それから当然だとでも言わんばかりの一弥の声が返ってきた。「仕事もしていないくせに、何の用があるんだ」私は軽く鼻で笑った。「仕事していなかったら、外出も駄目なの?自分の生活を持っちゃいけないの?旅行に行くのも許されないわけ?」一弥の口調が徐々に険しさを増していく。「お前さ、最近本当にどうしたんだ?飯も作らない、家にも寄り付かない、何かにつけて不機嫌になる。今度はひとりで旅行に出かけるなんて、頭がおかしくなったのか?」私は窓の外に広がる夕焼けを眺めながら、静かに答えた。「おかしくなってないわ。ただ、目が覚めただけよ」電話の向こうが、一瞬にして静まり返った。しばらくして、一弥が冷ややかな鼻笑いを漏らす。「そうかよ。好きにしろ。お前が帰らないなら、俺も帰らないからな。どっちが先に根負けするか、見ものだな」そう言い捨てるなり、電話は一方的に切られた。そばで聞いていた知世は、手にしたスマホを叩き割りそうなほどの怒りを露わにしていた。「はぁ?あのクズ男、頭おかしいんじゃないの!?主任なんでしょ?少し調べれば、あなたが入院していることくらいすぐに分かるはずじゃない!それを、これっぽっちも気にかけないなんて……!」そう叫ぶ彼女の目がみるみる赤くなり、私をぎゅっと抱きしめてきた。「鈴実、泣きたいなら泣きなよ。我慢しなくていいから」私は彼女の温かい肩にもたれ、長い沈黙の後、小さく首を横に振った。「ううん、泣けないわ」だって、私の涙はとっくに、涸れ果ててしまったのだから。3日後、体調が十分に回復した私は退院手続きを済ませ、荷物を取りに一度だけ家へ戻った。ドアを開けた瞬
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第8話
その日の夕方、一弥は大きな花束を抱えて花屋を出た。花束の中には、新車の鍵がさりげなく忍ばせてある。美しい花々を見つめながら、彼は少し考えを巡らせていた。自分からここまで歩み寄るのは、さすがに鈴実を甘やかしすぎだろうか、と。けれど、このサプライズを目にしたときの彼女の驚きと喜びに満ちた笑顔を想像すると、自然と口元が緩んだ。自宅の玄関を開け、彼は少し優しげな声で呼びかけた。「鈴実、帰ったぞ」静かだった。あまりにも、静かすぎた。家の中はがらんとしており、人の気配が一切感じられなかった。彼は眉をひそめ、スマホを取り出して鈴実に電話をかけた。「おかけになった電話は……」無機質なアナウンスに、一弥の胸の奥で、じわじわと嫌な予感が膨んでいく。彼はリビングを通り抜け、ベランダのサッシを勢いよく開けた。ベランダは、完全に空っぽだった。鈴実が5年もの間、丹精込めて育ててきたあの花々が、ひとつ残らず消えていたのだ。残されているのは、空っぽのフラワースタンドがいくつかだけ。ぽつんと寂しく並ぶその光景は、ひどく寒々しかった。一弥は呆然と立ち尽くし、心の底から得体の知れない焦燥感が湧き上がってくるのを覚えた。彼は足早にクローゼットルームへと駆け込み、乱暴に扉を開け放った。その場で、彼の全身が氷のように硬直した。自分が過去に鈴実へ贈ったブランドバッグが、一つ残らず棚から消え去っていた。アクセサリーも、彼女の衣服も、綺麗さっぱり消え失せている。一弥は顔色を失い、スマホを握り直して再度電話をかけた。結果は同じだった。一度、二度、三度と繰り返す。何度かけ直しても、変わらなかった。紛れもなく、彼の連絡先は完全にブロックされていたのだ。不安は瞬く間に巨大な恐怖へと膨れ上がり、息もできないほど彼の喉を締めつけていく。「鈴実……っ」彼はその名を低く呟きながら、寝室へと向かった。鈴実が暮らしていた痕跡は、この家のどこからも綺麗に消し去られていた。まるで、最初から彼女という人間が彼の人生に存在しなかったかのように。ふと、彼の視界の端に、ベッドサイドのテーブルが映り込んだ。そこに、数枚の書類が極めて丁寧に重ねて置かれている。一弥の心臓が警鐘を鳴らすように激しく跳ね、彼は吸い寄せられるように
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第9話
鈴実が姿を消した翌日、一弥は病院へ姿を見せなかった。カーテンは隙間なく閉め切られ、昼間だというのに家の中は深夜のように暗く沈んでいた。彼はまた強い酒のボトルを開け、グラスにも注がず、喉の奥へと直接流し込んだ。強烈なアルコールが喉を焼くように刺激したが、胸の底で荒れ狂う怒りは、少しも鎮まる気配を見せなかった。鈴実のやつは、あれほど決然と離婚を選び、俺の子供まで堕ろし――そのどれ一つとして、事前に俺へ相談すらしてくれなかった。俺は一体、彼女にとって何だったんだ!?俺たちが過ごしてきたあの5年間は、一体何だったというんだ!?ちょうどそのとき、玄関の鍵が開く音がして、外から扉が押し開けられた。優花が弁当箱を手に入ってきたのだ。床一面に散乱した酒瓶と書類の惨状を目にした瞬間、彼女の目が赤く潤んだ。「先輩……っ」彼女は小走りで駆け寄ると、心底痛ましそうな表情を作ってみせた。「どうして、こんなご自分を痛めつけるようなことをするんですか」一弥はソファに深く沈み込んだまま、まるで彼女の存在そのものが視界に入っていないかのように、一言も発しなかった。優花は彼の足元にそっとしゃがみ込み、甲斐甲斐しく弁当箱の蓋を開けた。「栄養のあるお弁当を作ってきたんです。お願いですから、少しだけでも食べてくださいね」一弥は依然として、死人のように黙り込んだままだ。けれど、そんな彼の反応を見て、優花の心の中に希望が芽生え始めていた。鈴実は、自ら家を出て行った。今、この最も傷ついた一弥のそばにいられるのは、自分だけなのだ。そう確信した彼女は、一弥のすぐ隣に腰を下ろし、とびきり優しい声で語りかけた。「先輩……正直に言わせていただきますけれど、奥さんがこんなふうに何も言わずに出て行くなんて、あまりにも酷すぎます。先輩がこの長い間、あんなに彼女を大切にしてきたというのに……先輩が毎日どれほど神経をすり減らして人を救っているか、奥さんは少しも理解していなかったんですよ」一弥は暗い目を伏せたまま、その表情からは一切の感情が読み取れなかった。それを見誤った優花は、ますます大胆になっていく。「もし私が奥さんの立場だったら、絶対に先輩にこんな残酷な仕打ちはしません」そのとき、一弥がゆっくりと顔を上げた。その視線が、優花の
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第10話
優花は首を掴まれて息もできないまま、やっとの思いで掠れた声を絞り出した。「先輩、信じてください……私は本当に、奥さんに何もしていません……!」一弥は彼女を突き放した。その目には、深い失望だけが浮かんでいた。「出て行け」優花の体が、びくりと震えた。「先輩……」「出て行けと言っているんだ。家の暗証番号は今すぐ変える。今後、二度と勝手に俺の家に入るな。次にやったら警察を呼ぶ」優花の顔は真っ青になり、今にもその場に崩れ落ちそうなほどふらついていた。けれど一弥はすでに背を向け、二度と彼女の方を振り返ることはなかった。……翌日、優花が病院に出勤して間もなく、裁判所から訴状が届いた。優花の頭の中は、一瞬で真っ白になった。「な、何これ……どういうこと……?」訴えられていたのは、医療過誤と看護上の注意義務違反についてだった。原告の名は、徳岡鈴実(とくおか すずみ)。優花は完全に血の気を失い、その場に立ち尽くした。しかも、これは破滅の始まりに過ぎなかった。30分も経たないうちに、インターネット上に長文の告発記事が投稿されたのだ。内容は極めて筋道立っており、確かな証拠も添えられていた。そこには、優花がこれまで起こしてきた数々の問題が詳細に列挙されていた。既婚の男性医師たちの研究成果に便乗して論文を発表し、実質的な貢献をほとんどしていないにもかかわらず筆頭著者の座を得ていたこと。異例のスピードで昇進を重ね、若くして外科病棟の看護師長に就任したこと。私怨から患者の大出血への対応を故意に遅らせ、危うく死に至らしめかけたこと――コメント欄は瞬く間に大炎上した。【これって医療界の悪女じゃない?】【道理でこんなに出世が早いと思った。裏で誰かが手を回してたってこと?】【徹底的に調査するべきだ!病院側はきちんと説明しろ!】わずか数時間のうちに、批判は収拾がつかないほど膨れ上がった。その日のうちに、病院の上層部は緊急会議を招集した。結論が出るのは早かった。優花はすべての職務から外され、即座に内部調査が開始された。たった1日で、優花は誰もがすり寄ってきた勝ち組の看護師長から、誰もが白い目を向ける存在へと転落したのだ。彼女は目を真っ赤に泣き腫らしながら、藁をも掴む思いで一弥のいる医局に駆け込んだ。
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