LOGIN記憶喪失の恋人、柊蒼介(ひいらぎ そうすけ)に自分を思い出してもらうため、朝陽夕夏(あさひ ゆうか)は柊家で5年間、一番下働きの使用人として身を粉にして働いた。 地を這うように蒼介の歴代の愛人たちに仕え、彼の機嫌が悪い時は八つ当たりをされ、あろうことか彼の幼馴染に蹴られて流産した時でさえ、夕夏は無理に笑みを作って「平気だよ」と取り繕った。 ただ彼が、少しでも自分に目を向けてくれることだけを乞い願って。 蒼介がようやく記憶障害の治療を受けると承諾した矢先、夕夏は執事の元を訪れ、メイドを辞めて屋敷を去りたいと申し出た。 蒼介の妹・柊雫(ひいらぎ しずく)は血相を変えて飛んできて、夕夏の肩を掴んで揺さぶった。 「今すぐ出て行くって?夕夏、頭でもおかしくなったの? 兄さんが橘結衣(たちばな ゆい)と結婚するから?兄さんは記憶を失ってるだけじゃない!もう少し耐えれば、記憶が戻った時、あなたにあんな酷いことをしたって絶対に後悔するはずよ!」 夕夏はしばし沈黙した後、力なく笑い声を漏らした。 「もう、耐えられないの」 5年前、彼女は蒼介が結婚式へ向かう途中、交通事故で亡くなったと聞いた。 彼女は狂ったように何十回も自ら命を絶とうとした。 そんな時、雫が唐突に「実は兄さんは生きていて、記憶喪失になっただけ。そして結衣と結婚する」と告げたのだ。さらに、結衣の友人である彼女は夕夏の味方はできないとも言った。 夕夏は藁にもすがる思いでメイドとして柊家に入り込んだが、蒼介の記憶喪失が真っ赤な嘘であったことに気づいてしまう。
View More「はい」夕夏は感謝の眼差しでデリックを見た。デリックは安堵の息を吐き、蒼介に向き直った。「柊社長、私はこの間、ずっとあなたに関する証拠を集めていました。確かにあなたは京極市で権力をほしいままにしていたが、これらの事実を公に引きずり出せば、相応の代償を払うことになります」蒼介は、デリックが夕夏の手を固く握り締めているのを見て、苦々しく唇を歪めた。「ああ、自業自得だ」「兄さん!何を言ってるの!」雫が慌てて飛び込んできた。「ただの証拠よ、裁判になっても恐れることなんて何もないわ……」疲れ切った蒼介の視線を受け、彼女の声は次第に小さくなっていった。「俺はあいつを5年も痛めつけた。丸5年間も……俺が間違っていた。俺は受けるべき罰を受ける。雫、お前も……自分の行いを省みろ」雫は全身を震わせた。いつもはピンと伸びていた彼女の背筋が、音を立てて崩れ落ちた。夕夏は蒼介の心境の変化などに興味はなく、デリックと共に病院を後にした。デリックの目の下の微かなクマと、瞳に浮かぶ疲労の色を見て、夕夏は少し胸が痛んだ。「この間、ずっと蒼介を追い詰めるために動いてくれましたの?」「ああ、言っただろう?君の仇討ちを手伝うと」彼は微笑んだ。その碧い瞳は、美しいとさえ言えるほどだった。夕夏は一瞬見とれ、うつむいて言った。「本当に、たくさん助けてもらいましたね」「たいしたことじゃない。君は私の命を救ってくれたんだから……」「いいえ、たとえ命の恩があっても、あなたはもう十分にお釣りが来るくらい返してくれましたわ」夕夏は真剣な顔で言った。「どうやって恩返しすればいいかわからないけど、私にできることなら、何でもします」朝の光が降り注ぎ、彼女の顔を優しく照らした。デリックは静かに彼女を見つめた。恩に着せて彼女を自分のそばに縛り付け、自分を愛するように仕向けるという考えがなかったわけではない。だが、それはほんの一瞬よぎっただけだった。デリックは笑って言った。「夕夏。君はかつて、天才的な外科医だった。私に恩返しをしたいなら、その手を治して、私の病院へ来てくれ」夕夏はハッとして、彼の笑顔を見つめ、力強く頷いた。……三年後。夕夏は長丁場の手術を終え、疲れ果ててドアのそばにもたれかかりながら水を
夕夏は、蒼介がそう簡単に引き下がらないことを知っていた。だから外出する時、デイジーがついて来るのを断ったのだ。道半ばで、案の定目の前が真っ暗になった。再び目を開けると、そこは病室だった。ベッドに座る蒼介は顔色が悪く、夕夏を穴の開くように見つめていた。「夕夏……」「あなたは、こんな方法でしか人を招待できないの?」夕夏は顔いっぱいに嘲笑を浮かべた。蒼介は深いため息をつき、手を伸ばして彼女を引き寄せようとしたが、その手に残る生々しい傷跡に気づいた。彼は動きを止めた。「どうしたの、見るのが怖いの?これはあなたの傑作でしょう?」夕夏は手を高く挙げ、彼の目の前で振ってみせた。「私を攫ってきたのは、まさか謝罪するため?謝罪であなたのしたことが許されるとでも?父の命が戻ってくるとでも思っているの?」蒼介の体がふらついた。「謝罪に意味がないことはわかっている、だが……夕夏、お前を信じなかったのは俺の過ちだ。どんな罪滅ぼしでもする、だからお前が俺から離れていくことだけは耐えられない」夕夏は合点がいったように頷いた。「私を監禁するつもり?」「お前がどうしてもここを離れると言うのなら」夕夏は笑った。「本当にそんなことができると思っているの?」蒼介は目を細めた。彼はその質問には答えず、別のことを尋ねた。「お前とデリックはどういう関係だ?」「命の恩人よ。彼がいなければ、私は死んでいたわ」蒼介は様々な答えを想像していた。夕夏の先ほどの言葉は確かに彼の痛いところを突いていた。デリックは狂犬のように彼に噛み付いてきており、夕夏に一度会うことすら至難の業で、監禁など到底不可能だった。だから彼は当然、2人の間に何らかの恋愛関係が芽生えたのだと思い込み、嫉妬の炎を燃やしていた。まさか、夕夏が「命の恩人」だと言うとは思わなかった。夕夏は誰のせいで、命を救われるような目に遭ったのか?自分自身のせいだ。柊家で権謀術数を巡らせて生きてきた蒼介は、この瞬間、胸を抉るような激しい後悔を味わった。「すまない」「そう?でも、絶対に許さない」夕夏の声は冷淡だった。蒼介は目を閉じ、軽く手を振った。彼のボディガードが前に進み出ると、夕夏に短剣を差し出した。「どういう意味?」蒼介
デリックの一族の事業は世界中に展開されており、京極市にも邸宅を構えていた。夕夏はデイジーの泣き落としに負け、再びそこに滞在することになった。邸宅に戻った時、デリックはまだ帰っていなかった。夕夏は少し心配だったが、電話をして彼の邪魔をするわけにもいかなかった。うとうとと浅い眠りにつき、翌朝、騒がしい声で目を覚ました。「外にいるのは誰?」彼女が階段を降りてくると、メイドが泣きそうな顔をしていた。「ある女性がいらして、どうしても夕夏様にお会いすると騒いでおりまして……」女性?夕夏は一瞬沈黙した。「通してちょうだい」メイドが恐る恐るドアを開けると、入ってきたのはやはり雫だった。「夕夏!本当に生きていたのね!心臓が止まるかと思ったわ、てっきりあなたが……」雫は目を真っ赤にして、何度も同じ言葉を繰り返した。「無事でよかった、本当に無事でよかった。さあ、一緒に兄さんに会いに行きましょう――」そう言いながら、彼女は夕夏の手を引こうと手を伸ばした。夕夏はその手を振り払った。「どうして私が彼に会いに行かなきゃならないの?」雫はハッとした。「兄さんはあなたのために、自分で自分を撃ったのよ……」「自業自得よ」雫は今度こそ本気で不満を露わにした。「夕夏、あなたが理不尽な目に遭ってきたのはわかってる。でも、この件はすべて私が悪いの。結衣に情けをかけて、嘘をつく手伝いをした私が悪いのよ。恨むなら私を恨んで!兄さんも私に騙されていたのよ!銃傷から高熱を出して、すごく危険な状態なの。お願いだから一緒に来てあげて……」夕夏はその顔をまじまじと見つめた。雫とはあれほど長い間友人だったのに、今となってはまるで別人のように見えた。その冷ややかな視線に耐えきれず、雫は後ろめたそうに目を逸らした。「そういう意味で言ったんじゃなくて、私は……」「夕夏お姉ちゃん!」少女の元気な声が響いた。デイジーは可愛らしいドレスを着て、夕夏の胸に飛び込んできた。夕夏の表情が一気に柔らかくなった。「今まで寝ていたの?」「やることはなくてね……このお姉さんは誰?」夕夏は一瞬黙り、答えた。「柊雫よ」「この人が柊雫?!」デイジーの目つきが瞬時に変わった。「ちょっと、よくもまあお姉ちゃ
京極市、霊園。夕夏は墓石の前に立ち、白い菊の花を手に静かに語りかけた。「お父さん、会いに来たよ……そっちの世界では、元気にしてるの?」彼女の後ろには数人のボディガードが立ち、周囲を警戒していた。デリックは墓参りに同行するつもりだったが、京極市に到着して早々、仕事のトラブルで足止めを食らっていた。それでも彼は無理に行こうとしたが、夕夏が止めたのだ。「心配なら、ボディガードを何人かつけてくれればいいじゃないですか。あなたはもう私のために十分すぎるほど尽くしてくれました。これ以上、自分の仕事を投げ出してまで付き添ってもらうなんて、本当に申し訳なくて」デリックは彼女の意志の固さに折れ、そうするしかなかった。夕夏は墓石を丁寧に拭き清め、ようやく身を起こした。霊園の入り口に向かって歩き出すと、案の定、見覚えのある人影が立っていた。男はずいぶんと痩せ細り、そのせいで顔立ちはより鋭さを増していた。こちらに向けられたその瞳には、微かに涙が光っていた。「朝陽、夕夏」「私が死んでいなくて、がっかりした?」夕夏は問い詰めた。蒼介は今の感情をどう表現すればいいのかわからなかった。狂喜と、深い怒り。自分をこれほどまでに苦しめ、悲しませたこの女を捕まえ、部屋に閉じ込めて、二度と逃げられないようにしてやりたいという衝動。様々な思いが交錯したが、結局、彼は目を赤くして口を開いた。「無事かもしれないとは思っていた。ずっとお前を探していたんだ」「探していた?私の父を殺しただけでは飽き足らず、今回は私まで殺したくなったの?」蒼介には、到底受け入れられなかった。夕夏がこれほどまでに嘲笑と憎悪に満ちた口調で自分に向かってきたことなど、これまで一度もなかったのだ!彼はしばらく沈黙し、尋ねた。「俺を憎んでいるのか?お前の父親が亡くなったことは知らなかった。あんな仕打ちをしたのも、誤解があったからだ。雫も自分の過ちに気づいている。結衣も代償を払った、あいつは一生、精神科病院から出ることはない……」夕夏は思わず笑い出しそうになった。「誤解?」「私が説明しなかったとでも?信じてもらおうと必死にならなかったとでも?あなたは一度でも私を信じたことがあった?!たった誤解の一言で、この5年間が帳消しになるとでも思って