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出逢い

Penulis: 柚綺詩音
last update Terakhir Diperbarui: 2025-10-05 02:24:22

それは、湿った風の吹く金曜の夜だった。

 梅雨の終わり、街は蒸し暑く、雨に濡れたアスファルトが街灯を映していた。

 沙耶は、出勤前の鏡の前で小さく深呼吸した。

 「……笑顔、忘れないで。」

 そう自分に言い聞かせながら、口角を上げる。

 けれど、それはやっぱり、ぎこちなかった。

 “このままじゃダメだ”

 そう思っても、心の奥に沈んだ恐怖は、簡単に拭えない。

 店のドアを開けると、冷たい空調とグラスの音が出迎える。

 シャンパンの泡が弾ける音、男たちの笑い声、

 香水と煙草が入り混じる、夜の匂い。

 「おはよう、沙耶さん!」

 亜美が手を振る。

 彼女の笑顔はいつも太陽みたいで、沙耶は少しだけ羨ましくなる。

 「今日はVIPが来るってママが言ってたよ。気をつけてね」

 「VIP……?」

 「うん。ママが『特別なお客様』って。」

 その言葉に、沙耶の胸が少しざわついた。

 いつもより空気が張りつめている。

 ママも珍しく念入りに花を整え、照明の明るさを調整していた。

 夜の八時を少し過ぎた頃。

 ドアが静かに開く。

 “彼”は、ゆっくりと店に入ってきた。

 背の高い、無駄のない動き。

 黒のジャケットに白のシャツ、シンプルなのに、品があった。

 目立つわけではない。けれど、

 彼がそこに立つだけで、空気がわずかに変わる――そんな存在感。

 ママが軽く会釈した。

 「いらっしゃいませ、橘様」

 “橘”。

 それが、彼――橘 蓮の名だった。

 「こちらへどうぞ」

 ママが案内した席は、店の奥。静かな照明が落ちる特別席。

 沙耶はママの指示で、そのテーブルを担当することになった。

 「沙耶さん、行ける?」

 亜美が小声で聞いた。

 「……うん、やってみる」

 震える手でトレーを持ち、彼の前に立つ。

 「こんばんは。お飲み物は……?」

 声が少しだけ上ずった。

 橘は顔を上げた。

 その目は、深く静かな色をしていた。

 どこまでも透き通っていて、けれど底が見えない。

 見つめられた瞬間、沙耶は呼吸を忘れた。

 「……ウイスキーを。ロックで。」

 低く落ち着いた声。

 その響きが、胸の奥を震わせる。

 「か、かしこまりました」

 慌てて背を向けたが、心臓の鼓動が止まらない。

 ――何、この感じ。

 怖くない。

 でも、怖い。

 胸の奥が、ずっとざわついている。

 ウイスキーを出すと、橘は短く礼を言い、ゆっくりとグラスを傾けた。

 無駄な言葉は一切ない。

 他の客のように、女を値踏みするような視線も、馴れ馴れしさもなかった。

 沈黙が続く。

 けれど、その沈黙がなぜか、沙耶には心地よかった。

 「……静かですね」

 思わず、沙耶の口から言葉が漏れた。

 橘はグラスを置き、ゆっくりと彼女を見た。

 「静かな方が、落ち着く」

 「そう、ですか」

 「うるさい場所にいると、息が詰まるから」

 その言葉に、沙耶の胸が少し締めつけられた。

 ――私と、同じだ。

 誰かに合わせることに疲れて、静けさを選ぶ。

 その孤独の匂いが、彼からもした。

 その夜、橘は長くは居なかった。

 グラスを二杯だけ飲み、勘定を済ませて静かに去っていった。

 「ごちそうさま。……いい店ですね」

 その一言だけ残して。

 扉が閉まったあとも、沙耶の心臓はしばらく落ち着かなかった。

 「沙耶さん、どうだった? あの人、珍しいタイプでしょ」

 亜美が覗き込む。

 「うん……なんか、他の人と違う」

 「でしょ? 滅多に話さないけど、すごく穏やかで、でも何考えてるかわかんない感じ」

 沙耶は頷いた。

 グラスを拭く手が、まだ少し震えている。

 あの静かな目が、心に焼きついて離れなかった。

 ――あの人、何者なんだろう。

 ――また、来てくれるだろうか。

 夜が更けても、胸の奥に残る鼓動は消えなかった。

 沙耶は初めて、店を出たあとも空を見上げた。

 雨上がりの夜空。ビルの間に、わずかな星が見えた。

 「……少しだけ、生きてる気がする」

 その言葉は、涙のように小さく、確かに零れ落ちた。

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