どちらが飼い犬なのか分からなくなる。
「あ……気持ちがいい……」
「あー……駄目じゃないですか、侑さん。
そんな声出したら。 あまりに無防備すぎて、俺が我慢できなくなるじゃないですか。」心地の良いゼラニウムの香り。
隣では彼が私の髪を洗ってくれている。 この上ない極上のリラックスタイムについウトウト眠気を催してしまう。「…………え?」
「今のは侑さんが悪いので………」
さっきまで持っていた髪を昴生は、するりと手から解く。
浴槽の縁に乗り上げるように身を突き出し、私の顎を真上に引いた。 そうして静かに整った顔面が近づく。「侑さん、そろそろ一つだけ。
俺に対価を下さい。」「……対価……?」
「そ。ご褒美。」
「それって……?」
「はい。今すぐ侑さんにキスしたいんです。
なのではい、か、いいえ、で答えて下さい。」「それを断る権利が…私にはあるの?」
「ないですね。ご褒美なので。」
何て事だ。じゃあ断れない。選択肢がないのに何で聞いたんだろう。
それにご褒美って何?
彼のセリフの一つ一つはあまりに不可解だ。キスを……最後にしたのはいつだろう。
伏せ目がちな美しい男の顔が、近距離でキスを強請っている。
キスは好きな
あ⃞ん⃞な⃞女⃞嫌⃞い⃞。⃞早⃞く⃞死⃞ね⃞ば⃞い⃞い⃞の⃞に⃞。⃞浅井まりかが綿貫昴生に興味を持ったのは、同じドラマに出演したのがきっかけだった。 遅咲きだが、人気俳優として注目されている昴生は、デビュー当時からチヤホヤとされていた人気女優のまりかにとっても、雲の上のような存在だった。 26歳のまりかと32歳の昴生では年の差があるが、その大人の魅力にハマってしまったのだ。 だからどうして。 自分の大嫌いな女優、常盤侑が綿貫昴生と一緒にマンションから出てくるのか、まりかには理解できなかった。 「なん……でよ!何であの女が綿貫さんのマンションから出て来るのよ……っ!」 *** 綿貫昴生という人気俳優は、あまりプライベートを明かさない事でも有名である。 自身でSNSはやっておらず、いつもドラマやイベントの告知は、事務所が運営するSNSやサイトでだけ。 彼の秘密を知りたりたいファンがするスレもそうだ。 彼のプライベートを明かそうとすると、いつも書き込みがサイト側に消されている。 テレビ番組に出ても適当に流す彼。 謎でミステリアス。大人っぽいのがいい。 そんな称賛までされている。 特にSNSで芸能界の闇が晒され始めたから、事務所側も慎重だ。 発信する人も気をつけなければ訴えられる時代になってきた。 躍起になって彼を暴こうとするのは、熱烈で行儀の悪いファンだけ。 だけどまりかにはその気持ちが分かる。 好きな人の事は、例え些細な事でも暴きたいから。 あの日昴生に断られ、モカに言われて気持ちを再燃させたまりかは、彼女と一緒に昴生の後をタクシーで、こっそり尾行した。 彼を乗せてる運転手は、敏腕だと有名なマネージャー。 彼はマンションに着いて車を降り、マネージャーに手を振った。
仕事の関係で上京していた聖に偶然再会し、告白された。 嘘みたいだったし、夢のようだった。 その頃はすでに自分の不器用さに参っていた時期で、そんな時にそばに居てくれる聖の存在がすごく大きかった。 名前だけの家族しかいない私には、彼だけだった。 仕事が減って、何もかも上手くいかない中で、聖だけが私の心の拠り所で、唯一の希望だった。 だけど結局いつしか二人はすれ違っていった。 互いの世界が違い過ぎたのもあるだろう。 女優と一般人の彼。 売れても売れてなくても、私はきっとずっと聖に寂しい思いをさせていた。 知らないうちに嫌な思いもさせたのかも知れない。 だから……でも。 私を唯一理解してくれた聖に、捨てられたと分かった時。 辛かったし、死にたかった。 好きな人に捨てられれば生きれないほど、私は本当に弱かった。 本当に大好きだった。 幸せになって欲しいと願う反面、忘れないで欲しいと願っていた奇妙な矛盾。 「侑さん。」 —————長い夢を見ていたみたい。 あの後眠っていたの? ベッドで目を覚ました私の側には、主人の目覚めを待つ飼い犬みたいに昴生が待機していた。 しかもなぜか嬉しそうに目を輝かせ、起きた私を黙って見つめている。 今私の側に、聖はもういない。むしろもう誰も。 親も……友達も。 それなのに。 どうしてこの人は、当たり前のように私の側にいてくれるんだろう。 ゆっくり上半身を起こして私は昴生に尋る。 「綿貫くん。…昨夜どうして部屋に来なかったの?」 昴生がぴくっと肩を揺らした。 ベッドの
話しを聞いた聖はなぜか酷く怒っていた。 「だって…そうでも言わなきゃ、お母さんと電話もできなくなる。 なんだっていい……例え嫌われてても繋がってられるなら……」 その当時、両親から見捨てられたという事実が酷く私を臆病にしていた。 幼い時に捨てられた傷は、簡単には癒えてくれない。 だから、もうこれ以上捨てられたくないと無意識に足掻いていたんだろう。 「……聖。私、怖いんだよ。 また二人に見捨てられるんじゃないかと思って、いつもビクビクしてる。 もし連絡が取れなくなったら今度こそ……私は本当に一人になってしまうから。」 その話をした直後。夕暮れの公園で。 ベンチに座る私を見下ろし、なぜか聖は泣きそうな目をしていた。 「侑……お前は一人じゃないよ。」 「……え?」 「大丈夫だよ。俺がいる。」 「聖、それって……?」 聞こうとしたけど、その場に聖の友達が通りかかって結局聞けずじまいだった。 それからオーデションで見事合格した私は、本格的に女優業に専念するため上京を決めた。 住む場所は事務所に用意してもらった。生活費も、後から給料引きになるらしい。 当時から八重樫が運営するマイナーな芸能事務所ではあったけれど…… そこまで心配する必要もないはずだと。 なのに見送りに来た聖はなぜか凄く不安そうだった。 「向こうに行ってもちゃんと…連絡して。」 まだ残暑が厳しい9月。 「うん……ちゃんと連絡する。 今までありがとう……聖。」 「元気で&
大⃞丈⃞夫⃞だ⃞よ⃞。⃞俺⃞が⃞い⃞る⃞。⃞ 聖とは中3の時、クラスが一緒だった。 親戚の家をたらい回しにされ、時期外れの転校ばかりしていた私は、あまり周囲には馴染めなかった。 一か月だけ過ごしたあの田舎町から引っ越し、次に世話になった親戚の家で中学の2、3年を過ごした。 小野寺《おのでら》聖は、当時サッカー部に入っていた。 髪は少し長めで、見た目は軽そうだったが、実際は爽やかな性格で、本当は優しい人だった。 友達は多くて、いつも目立つグループの中にいて、女子にもそれなりにモテていたと思う。 「……堤さん。まだ帰らないの?」 下校時刻を過ぎてもまだ教室に残っていた私は、日が落ちていくグラウンドをボンヤリと眺めていた。 この時の私は、まだ母の姓を名乗っていた。 「小野寺くん。……うん。帰らなきゃね。」 「…何か辛いことでもあった?」 「……?どうして?」 「何だか……辛そうな顔してる。」 良く知りもしないのに、聖は私の顔を見ただけでそれを察したように言う。 「うん……そうかも。私……辛いのかもしれない。」 なぜか素直に本音を溢した。 聖のこと、私の方もよく知らなかったのに。 それは私がまだ女優デビューする前だった。 世話になっていた家には二人の姉妹がいて、遠縁の私の事を煙たがっていた。 だから帰りたくなかった。 けれどそれを聖に言い当てられるとは、夢にも思ってなくて。 「俺で良ければ……話聞くよ?」 困ってる人を見過ごせない。聖は当たり前のようにサラッとそう言ってくれた。 その日から、聖との交流が始まった。 その後は堰
そのうち母も父に反抗するかのように男を作り、家を留守にする事が増えた。 その事を父が責め…果てしない言い争いが続き。 やがて二人は離婚を決意。 まだ幼い私をどうするかという話し合いになった。 「……今付き合ってる女に、子供ができた。 俺の子だ。 だからもう……侑は要らない。」 「私だって……恋人と半年後には再婚する約束をしてるのよ! 侑は連れて行けないわ!あなたが何とかしてよ!一応父親でしょ!」 「それを言うなら君だって……!」 それぞれが新しい恋人を見つけ、違う人生を歩もうとしている。 すでに愛などなかった二人には私が不要で、互いに押し付けあった。 そうして結果的に両方に見捨てられた私は、幼くして親戚の家を転々とする事になった。 初めは母方の親戚の家に引き取られ、海の見える田舎町で一か月だけ過ごした。 そこで私は友達との辛い別れを経験する。 またすぐ別の親戚の家に引き取られ…… 引越し先の中学で聖と出会った。 中三の夏前。女優のオーデションを受けて、見事合格する。 幸い演技をするのだけは得意だった。 母の血を継いだのだろう。 とにかく早く……別の何者かになりたかった。 親戚の家にも、やはり私の居場所はなかったからだ。 結局両親は時々送金してくれたけれど。 『侑。私に会いに来ないでね。 今の家庭を壊されたくないから。』 『うん……』 送金の確認で、母ともすでに電話するだけの関係だった。 『侑、お前……女優になってお金持ちなんだろ? だからこれを最後の送金にする。
私⃞に⃞家⃞族⃞は⃞い⃞な⃞い⃞。⃞愛⃞し⃞て⃞く⃞れ⃞る⃞家⃞族⃞は⃞。⃞ 物心つく頃、既に私の両親の間に愛は存在していなかった。 シンガーソングライターの白石しらいし壮司そうじと舞台女優の堤つつみ光里ひかりは、互いに売れない時期に出会い、恋に落ちた。 それから間もなくして母である光里は私を出産したが、いつまでも互いの夢を捨てきれずにいた二人の幸せな日々は、長く続かなかった。 母は結婚と出産によって自分の夢が絶たれた事を父のせいにするようになった。 「あなたのせいよ……! あなたのせいで私の夢が途切れてしまった!」 そしてそれは父も同じで。 「それを言うなら俺だってそうだ……! 君と侑の為に朝も夜もなく働いて… シンガーソングライターとして、活動する時間が無さすぎる!」 狭いワンルームで両親は頻繁に喧嘩し合い、その度にコップや皿が割れた。 思い描いていた人生とは違うと、いつしか互いに不満を抱き、罵り合うようになっていったのだ。 幼かった私は、ただいつも片隅で震えている事しかできなくて。 「何よ……!私のせいだって言うの!?」 「ああ、そうだよ!君が妊娠なんかしなければ……」 「ひどい……!全部私のせいにする気? こんな事なら…あなたなんかに出逢わなければよかった!」 「そうだな……!君と出逢わなければきっと…俺はもっと上手くやれてた!」 若い二人のすれ違いは、修復不可能なほど深くなっていった。 その後父は逃げるように女を作り、ほとんど家に帰っ