離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた

離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた

By:  桜夏Updated just now
Language: Japanese
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如月透子(きさらぎ とうこ)が新井蓮司(あらい れんじ)と結婚して二年―― その二年間、彼女は彼の専属家政婦のように働き詰めだった。尽くして、尽くして、尽くしきって、心なんてすり減る暇もなく、ただただ塵にまみれていた。 そしてその二年が、彼への最後の愛情をすっかり削り取った。 初恋の女が帰国したとき、すべては終わった。 紙一枚の離婚届。それで二人は他人になった。 「蓮司……もし、愛なんてなかったら、あんたのこと……もう一度でも見ると思う?」 蓮司はあっさりと離婚届にサインした。 彼にはわかっていた――透子は自分を骨の髄まで愛していた。だからこそ、離れるわけがないって。 涙ながらに後悔して、きっと戻ってくる。そう信じていた。 ……なのに。 彼女は本当に、彼をもう愛していなかった。 それから、昔のことが次々と明るみに出た。 真実が暴かれたとき――誤解していたのは、彼のほうだったと気づいた。 動揺した。後悔した。謝罪して、やり直したいと縋った。 でも、透子はもう迷惑そうに一蹴して、SNSで堂々と婿を募集し始めた。 蓮司は嫉妬に狂った。発狂するほどに、どうしようもないほどに。 やり直したい、そう思った。 けれど今回は……彼女に近づくことすら、できなかった。

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Chapter 1

第1話

如月透子(きさらぎ とうこ)が離婚を決めた日、二つの出来事があった。

一つ目は、新井蓮司(あらい れんじ)の初恋の人が海外から帰国したこと。

蓮司は億単位の金を注ぎ込んで、特注のクルーズ船で彼女を出迎え、二人きりで豪華な二日二晩を過ごした。

メディアはこぞって、二人がヨリを戻すと大騒ぎだった。

もう一つは、透子が大学時代の先輩の誘いを受けて、かつて二人で立ち上げた会社に戻ると決めたこと。

部長として、来月から新たなスタートを切る予定だった。

もちろん、彼女が何をしようと、誰も気にも留めない。

蓮司にとって、透子はただの「新井家に嫁いできた家政婦」に過ぎなかった。

彼女は誰にも知らせず、

ひっそりとこの二年間の痕跡を新井家から消し去り、

密かに旅立ちのチケットを手に入れた。

三日後には、

ここでのすべてと、蓮司との関係は完全に終わる。

――もう、赤の他人になるのだ。

【迎え酒のスープを届けろ、二人分】

突然スマホに届いた命令口調のメッセージに、透子は目を伏せ、指先が震えた。

今は夜の九時四十分。

蓮司はちょうど朝比奈美月(あさひな みづき)の帰国パーティーに出席している最中。

かつて彼は、決して透子に外で酒のスープを持ってこさせなかった。

彼女の存在を世間に知られるのが恥ずかしいからだと、家の中だけで飲んでいた。

だからもし、前だったら――

「やっと自分を認めてくれたのかも」なんて、喜んでいたかもしれない。

でも今は違う。

視線は「二人分」の文字に留まる。

――そう、これは美月のためのスープだ。

本物の「愛」の前では、彼は堂々と「価値のない妻」を見下し、さらけ出すことを恐れなくなった。

透子は静かに手を下ろし、キッチンに向かってスープの準備を始めた。

蓮司の祖父との契約も、あと29日で終わる。

カウントダウンの画面を一瞥し、ため息が漏れる。

契約が切れたら、やっと自由になれる――

二年も傍にいたのに、愛は一片も手に入らなかった。

所詮、それが現実だった。

もう、愛する力すら残っていない。

最後の一ヶ月。

「妻」としての仕事だけは、きっちり終わらせるつもりだった。

鍋の中、ぐつぐつと煮立つスープは、彼女が最も得意とする料理。

なにせこの二年、何十回とその男のために煮込んできたのだから。

ふと目を奪われ、胸の奥がじんわりと冷えていく。

三十分後、きっちりと蓋を閉めた保温容器に、スープを二人分詰め、タクシーでホテルへ向かった。

車内で、透子は朝届いた見知らぬ番号からのメッセージを見返す。

【透子、覚えてる?私、美月だよ。帰国したの。また会えてうれしいな。蓮司を奪ったことは気にしてないよ。私たち、ずっと親友だったじゃない?今夜、ご飯でもどう?】

蓮司から歓迎会の話なんて一言もなかった。

透子がそれを知ったのは、美月からの「お誘い」があったからだった。

その文章の行間から滲む「寛大で気にしてないフリ」に、透子は皮肉に口元を歪めた。

奪った……?

違う。蓮司の祖父が反対したんだ。

美月は二億の慰謝料を受け取って、海外に行ったはずだ。どこが「奪った」?

確かに、彼に対する欲はあった。

でも自分から奪いにいったわけじゃない。流れに乗っただけ。

「寛大で善良な女」?ふん。

昔なら信じていたかもしれない。

でも高校に上がってから、全てが嘘だと知った。

遅すぎたけれど――

あのとき、自分はすべてを失った。

人間関係も、居場所も。孤立無援で、陰湿ないじめの標的だった。

……そしてその裏には、美月の影があった。

今日のパーティーには、当時の高校の「友達」も多数出席している。

当然、みんな美月の味方だ。

透子は、あのパーティーに出るつもりはなかった。

どうせ招かれた理由なんて、歓迎じゃなくて公開処刑。

あの頃の「同級生」と顔を合わせる気分にもなれない。胸の奥がざわつく、ただただ不快だった。

だから、スープだけ渡したらすぐ帰るつもりだった。

目的地に着き、個室の前で深呼吸。心を落ち着かせてから、扉をノックする。

数秒後――

扉が開くと、現れたのは蓮司じゃなく、純白のドレスを纏った美月だった。

「透子、来てくれたんだ!みんな待ってたよ〜」

満面の笑顔にきらびやかなメイク。まるでプリンセスのような装い。

首元には、あのネックレス――「ブルーオーシャン」。

一昨日、蓮司が落札したばかりのもの。やっぱり彼女に贈ったのね。

「いえ、スープを届けに来ただけ」

透子は感情のない声で、淡々と答えた。

「え〜、二年ぶりなのにそんなに他人行儀?私は蓮司を奪われたこと、もう気にしてないのに〜」

美月は唇を噛んで、先に「傷ついたフリ」を演じ始める。

……その猫かぶりな態度にはもう、うんざりだった。

透子はスープを置こうと身体をずらす。

だが、美月はさりげなく手を伸ばし、保温容器の蓋に指をかけた。

「来たくないなら、私が蓮司に渡しておくよ〜」

あくまで「優しげ」に申し出てくる。

透子は眉をひそめた。

すんなり引くような女じゃないのに、あまりに「親切」すぎる……

とはいえ、彼女自身もこれ以上関わりたくなかった。

だから、容器を渡そうと手を伸ばした――その瞬間。

「――っ!」

容器が受け止められず、真っ逆さまに床へ。

ガシャン!

蓋が外れ、熱々のスープが床にぶちまけられる。

そして美月はわざとらしく一歩後ろに下がりながら、甲高く叫んだ。

「きゃっ!痛っ……足が……!」

次の瞬間、個室の中からいっせいに視線が集まる。

蓮司がすでに立ち上がり、素早く駆け寄ってきた。

「透子、お前は……スープ一つもまともに持てないのか?」

彼は半身をかがめ、脱いだジャケットで美月の足を拭きながら、怒りに満ちた声で透子を叱りつけた。

「私……」

透子が言葉を紡ぐよりも早く、

「蓮司、透子を責めないで。私が受け取り損ねたの」

美月がしおらしく庇ってみせる。

蓮司は床に落ちた容器の蓋を拾い上げた。

割れてもいない、傷もない――完璧に無傷。

「これ、どう説明する?美月が手を滑らせた?それとも最初から蓋を開けて持ってきた?」

彼は鋭く睨みつける。

透子は驚きで言葉を失った。

この保温容器は頑丈そのもので、普通に落とした程度で蓋が外れるなんてありえない。

けれど、現に蓋は外れていて、しかも傷一つついていない。

「私は開けてない。じゃなきゃ道中こぼれてるはずでしょ」

必死に言い返す。

「言い訳は結構。やったことはやったことだろ」

蓮司の声は冷たく切り捨てるようだった。

彼にとって透子は――金目当てで祖父を丸め込み、

美月を追い出し、無理やり妻の座を奪った女。

信じる理由なんて、どこにもなかった。

蓋を放り捨て、蓮司は美月を抱き上げようと身を屈めた……

そのとき――

視線の端に、赤く腫れた透子の足が映る。

スープを浴びたのは、美月だけじゃなかった。

むしろ透子のほうが広い範囲をやられていた。

眉をわずかにひそめる。何かが一瞬、胸をよぎった。

……でも、それだけだった。

すぐに視線を逸らし、口をつぐんだまま立ち上がる。

透子がどれだけ火傷していようが、自業自得だ。

他人を傷つけようとした報いだと思えば、同情する理由なんてない。

美月を横抱きにすると、彼女は恥じらいながらも、心配そうに言った。

「蓮司、透子の足……」

「気にするな。死にゃしない。勝手に病院行くだろ」

吐き捨てるように答えた。

「お前はモデルなんだ。足が命だろ。そっちが優先だ」
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第1話
如月透子(きさらぎ とうこ)が離婚を決めた日、二つの出来事があった。 一つ目は、新井蓮司(あらい れんじ)の初恋の人が海外から帰国したこと。 蓮司は億単位の金を注ぎ込んで、特注のクルーズ船で彼女を出迎え、二人きりで豪華な二日二晩を過ごした。 メディアはこぞって、二人がヨリを戻すと大騒ぎだった。 もう一つは、透子が大学時代の先輩の誘いを受けて、かつて二人で立ち上げた会社に戻ると決めたこと。 部長として、来月から新たなスタートを切る予定だった。 もちろん、彼女が何をしようと、誰も気にも留めない。 蓮司にとって、透子はただの「新井家に嫁いできた家政婦」に過ぎなかった。 彼女は誰にも知らせず、 ひっそりとこの二年間の痕跡を新井家から消し去り、 密かに旅立ちのチケットを手に入れた。 三日後には、 ここでのすべてと、蓮司との関係は完全に終わる。 ――もう、赤の他人になるのだ。 【迎え酒のスープを届けろ、二人分】 突然スマホに届いた命令口調のメッセージに、透子は目を伏せ、指先が震えた。 今は夜の九時四十分。 蓮司はちょうど朝比奈美月(あさひな みづき)の帰国パーティーに出席している最中。 かつて彼は、決して透子に外で酒のスープを持ってこさせなかった。 彼女の存在を世間に知られるのが恥ずかしいからだと、家の中だけで飲んでいた。 だからもし、前だったら―― 「やっと自分を認めてくれたのかも」なんて、喜んでいたかもしれない。 でも今は違う。 視線は「二人分」の文字に留まる。 ――そう、これは美月のためのスープだ。 本物の「愛」の前では、彼は堂々と「価値のない妻」を見下し、さらけ出すことを恐れなくなった。 透子は静かに手を下ろし、キッチンに向かってスープの準備を始めた。 蓮司の祖父との契約も、あと29日で終わる。 カウントダウンの画面を一瞥し、ため息が漏れる。 契約が切れたら、やっと自由になれる―― 二年も傍にいたのに、愛は一片も手に入らなかった。 所詮、それが現実だった。 もう、愛する力すら残っていない。 最後の一ヶ月。 「妻」としての仕事だけは、きっちり終わらせるつもりだった。 鍋の中、ぐつぐつと煮立つスープは、彼女が最も得意とする料理。 な
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第2話
蓮司は美月を抱きかかえたまま、大股でその場を後にした。 通り際―― 彼の肩が透子にぶつかる。 その衝撃で、透子はよろけてドアフレームに寄りかかる形に。 火傷した足とすねに激痛が走り、思わず壁に手をついて踏ん張った。 個室の中からは、様々な視線が飛んでくる。 蔑み、冷笑、嘲り―― でも、もうどうでもよかった。 ゆっくりと背を向け、壁伝いに体を支えながら、透子はその場をあとにした。 ようやくたどり着いた診療室。 看護師がやって来て、患部を見た瞬間、息をのんだ。 「なにこれ……こんなに酷く……っ!」 足の甲には、いくつもの水ぶくれが盛り上がっていた。 最大のものはまるで小籠包のように膨らみ、他も真珠の粒のように連なっている。 まさに、見るに堪えない有様だった。 「どうやったら、こんなに……?」 透子は痛みに耐え、歯を食いしばったまま、言葉を発せなかった。 顔の筋肉もこわばり、答える余裕なんてなかった。 看護師は薬を塗りながら、独り言のように言った。 「さっきも火傷した子がいたけど……彼氏が大騒ぎして、主治医まで呼んでたわ。ほんのちょっと赤くなっただけなのに、あれくらいならすぐ治るのにね」 その言葉を聞いた瞬間、透子の胸に苦さが広がる。 ――あれは、きっと美月と蓮司。 彼は、美月が少しでも傷つけば、世界が壊れるかのように慌てる。 看護師でさえ、二人を恋人同士だと疑わなかった。 「もしあの子が、こんなに酷い火傷してたら、あの男どうなってたかしらね」 看護師の軽口が続く。 透子は自分の足を見下ろした。 膨れ上がった水ぶくれが、薄く透ける皮膚の下に光っていた。 ……もしこれが美月だったら。 きっと蓮司は市内の名医を全員集めてでも、治療させたはず。 だけど、相手が透子なら―― 一人で病院に行かせ、顔ひとつしかめもしない。 その違いは、あまりにも明白だった。 手元のスマホが震える。 画面には「蓮司」の名前。 今頃、美月のそばにいるはずなのに――なんで電話なんか。 透子はディスプレイを下にして、無言で机に伏せた。 ちょうどその時。 看護師が、最大の水ぶくれを針で潰そうと準備していた。 組織液が溜まりすぎて、自然治癒は望めなかったから
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第3話
蓮司は一瞬言葉を飲み込んだ。 唇をきゅっと引き結び、結局なにも答えなかった。 それを聞いていた透子は、乾いた笑みを浮かべる。 ……私は彼の「妻」なのに、まるで自分が浮気相手みたい。 蓮司は無言で前を歩き、美月は彼の横にぴったりついてくる。 透子が何も言わなくても、「あの女」はいつも通りの振る舞いを続けた。 「透子、痛かったよね……ごめんね? 蓮司が先に私を病院に連れてきたのは、モデルの仕事のこと考えてくれたからなの。責めないであげて?」 透子はうっすらと唇を歪め、冷たく返す。 「責めてないよ。だって、あんたが一番大事なんでしょ?」 事実を言っただけ。 けど、それが蓮司には皮肉に聞こえたらしい。 「何その言い方?確かに美月が手を滑らせたかもしれないけど、 お前が蓋をちゃんと閉めてなかったのも問題だろ」 ……説明したって無駄だ。 何度弁解しても、この男が信じるわけない。 透子はただ、無言で彼を見上げるだけ。 その目に映るのは――感情のない、冷たい光。 その目を見た瞬間、蓮司はなぜか胸の奥がざわついた。 あの女が……少し、変わった気がした。 「もういいって。私も大したケガじゃないし。 蓮司も、透子をあまり責めないであげて〜?」 美月はタイミングを見計らったように口を挟む。 その顔はいつもの通り「寛容な女」を演じていた。 「それに透子も怪我してるんだから、そんなにキツく言わなくても……」 聞いていた透子は、吐き気すら覚えた。 ――被害者は自分なのに、加害者にされて、 あの女は「寛大な女」みたいな顔して、堂々と話してくる。 「次は気をつけろよ」 蓮司がそう言ったとき―― 次? そんなもの、もうあるはずがない。 透子は小さく、冷笑した。 ちょうどそのときだった。 背後から「きゃっ」という悲鳴。 蓮司が振り向くと、美月が地面に座り込んでいた。 片足を抱え、顔を歪めている。 「美月!」 蓮司は焦ったように叫び、何のためらいもなく透子を放り出した。 「きゃっ……!」 衝撃に備える間もなく、透子は地面に叩きつけられた。 その場に倒れ込み、強く息を吸い込む。 痛みが、全身を駆け巡る。 だが、蓮司はすでに美月のもとへ駆け
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第4話
家に戻ったのは、夜の十一時を過ぎたころだった。 リビングの灯りは、最初からつけていなかった。 どうせ今夜も、蓮司は美月とどこかで甘い夜を過ごしているのだろう。 戻ってくるわけがない。 薬箱を手に取り、痛む身体を引きずるようにして、透子は自分の小さな寝室へと向かった。 ――結婚して二年。 けれど実際は、まるで「形だけの婚姻」だった。 蓮司は、自分の「本命」を想い続けるため、透子には一度も触れなかった。 主寝室にすら、足を踏み入れさせてくれなかった。 でも、それでよかった。 今となっては、もし彼に触れられていたなら……想像するだけで、吐き気すら覚える。 手足の傷に簡単な消毒と薬を塗るだけで、もう限界だった。 薬箱を片付ける気力もなく、ベッドサイドにぽんと置いたまま横になる。 寝間着に着替え、そっと腰を下ろす。 その瞬間、尾てい骨に鋭い痛みが走り、思わず息を飲む。 できるだけゆっくりと体を横たえ、目を閉じた。 すべてをシャットアウトしようとするように―― 間もなく、意識が眠りに沈んでいった。 一方その頃―― 蓮司は、美月をホテルまで送り届けていた。 「蓮司、部屋まで……送ってくれる?」 助手席で、美月は潤んだ瞳を上目遣いに、甘く囁く。 けれど蓮司の視線は、運転しながらちらちらとカーナビに映る発信履歴を見ていた。 なぜだか、妙にイライラして、心がざわつく。 これは――二十件目の不在着信。 それでも透子は、一度も電話に出ていない。 その様子を見ていた美月は、車載画面に映る番号に目を留める。 名前は登録されていないが、どこかで見覚えのある番号だった。 スマホを取り出し、自分のメッセージ履歴を確認する。 ――透子に送ったメッセージ。番号は……一致していた。 唇を噛みしめ、視線に嫉妬の色が滲む。 ホテルに到着し、車が止まる。 「ねえ蓮司……二年ぶりに会ったんだし、部屋まで一緒に……ね?」 そう言いながら、美月はそっと彼の手の上に手を重ねた。 指先が、シャツの袖口に滑り込む。 それは――明確な誘いだった。 蓮司にその意図が分からないはずがない。 けれど、彼はその手を静かに外し、無言で車を降りる。 助手席側のドアを開けて、彼女を迎えると
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第5話
部屋の中―― 透子はすでに眠りに落ちていた。 だが、突然のドアの叩きつけと怒鳴り声で目を覚まされ、眉をひそめながらゆっくりと身を起こす。 照明をつけ、足を引きずるようにしてドアへ向かう。 「透――」 蓮司がまたしてもドアを叩こうとした瞬間、扉が開き、空振りに終わる。 「何なのよ……帰ってきたと思ったら、深夜にドア殴って何様のつもり?」 その声は冷たく、不機嫌がにじんでいた。 透子のその態度に、蓮司の怒りがさらに燃え上がる。 手を伸ばして、彼女の腕をガシッとつかんだ。 「何って……俺が家に帰ってきただけだろ?それが何かおかしいか?」 その言葉に、透子の表情が一変する。 さっきまでの怒りの気配が引っ込み、苦しげに目を伏せた。 蓮司はてっきり、自分に怒鳴られて黙ったのだと思い込む。 ――だが違った。 透子のもう片方の手が、彼の手首を押しのけようとしていた。 そのとき―― ようやく、蓮司は気づく。 自分の掌に伝わる、異様な感触。 反射的に手を離すと―― 手のひらには、血の跡が残っていた。 彼が無意識に強く握ってしまったせいで、 透子の傷口が開いてしまっていた。 その痛みに、透子の目からは自然と涙がこぼれる。 彼を睨みつける目は、怒りと悲しみに満ちていた。 「……ケガしてたのか?」 蓮司が慌てて彼女の腕を見ようとしたその瞬間、 透子は冷たく身を引く。 「それ、今さら?――全部、あんたのせいでしょ」 その声に、蓮司の動きが止まる。 あの時、彼女を道端に投げ捨てた――その光景がフラッシュバックする。 視線を下ろすと、 透子の肘は擦りむけて血が滲んでいた。 さらに、足元には赤く膨れた水泡と、包帯ににじむ血の痕。 何か言わなければ―― そう思った蓮司が口を開きかけたその時、 透子は無言でドアを閉めようとした。 「どいて、ドア閉めるのに邪魔なんだけど」 だが、彼の手が引っかかっていて、扉は閉まらない。 蓮司は、謝罪の言葉を飲み込むようにして―― 代わりに吐き出したのは、全く別の言葉だった。 「……なんで電話に出なかったんだ? こっちは――」 言いかけたところで、透子の唇が皮肉に歪む。 ふぅん、それでこんな夜中にド
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第6話
夜が明け、朝の光が差し込んだ。 蓮司はろくに眠れず、ベッドの上で何度も寝返りを打っていた。 胃薬は飲んだものの、慣れきった透子のスープの代わりにはならず、鈍い痛みは残ったまま。 アラームが鳴る前に、彼はベッドを抜け出した。 部屋のドアを開けたその瞬間―― 向かいのドアも同時に開き、中から出てきた透子とばったり鉢合わせる。 「……何してる?」 思わず声をかけた。 「朝ごはん」 透子は淡々と答えると、足を引きずりながらキッチンへ向かった。 蓮司はその場に立ち尽くす。 今まで彼が起きたときには、すでに朝食が出来上がっていた。 彼女が毎朝五時から用意していたことなど、一度も気にしたことがなかった。 よろめくように去っていくその背中を見て、思わず声をかけた。 「……もういい。作らなくていい」 その言葉に透子の足が止まる。 振り返った彼女の目には、わずかな戸惑いが浮かんでいた。 二年間、熱を出しても起きて料理をさせられてきた。 それが、初めて「作らなくていい」と言われた。 一瞬、良心が芽生えたのかと錯覚しかけたが―― 「夕飯も要らない。美月と外で食べる」 ……その一言で、すべてが崩れた。 蓮司は振り返ることなく、そのまま家を出ていった。 透子はドアの方を見つめたまま、ふっと唇を歪めた。 ――良心なんて、あるわけない。 勝手に自分で都合よく思い込んだだけ。 食事の準備をしなくていい? それはむしろ、ありがたい。 もう、誰かの世話を焼くことにも疲れ果てていた。 再び短い睡眠をとり、朝の八時過ぎに目を覚ます。 身体の傷の処置をするため薬箱を開けると――胃薬が消えていた。 眉をひそめ、ふと朝ドアを開けた時に鍵がかかっていなかったことを思い出す。 ……昨夜、かけ忘れた? 胃薬は前にも一度なくなったことがあった。 あれこれ考えても仕方ない。 透子は薬を片付け、ノートパソコンを抱えてリビングのラグに座った。 午前中は学習サイトにログインして、大学時代の講義内容を復習。 午後からは実践に入り、コードを書いたり、デジタルペンでキャラクターや背景のデザインを行った。 この二年間、表に出ることは許されなかったが、 基礎的なスキルは欠かさず磨いてき
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第7話
透子は顔を上げ、蓮司をじっと見つめた。 拳をぎゅっと握りしめながら―― 心の中では冷笑していた。 ……はあ? あの女のために「食事」を用意するために、 怪我してる自分が厨房に立てって? どこまで人としての感情が欠けてるの? 「……デリバリー頼めば? 最悪、レストランの出前でもいいじゃない。 お金、困ってないんでしょ」 静かな声で、言葉を突きつける。 蓮司はわずかに唇を引き結び、視線を透子の足元から逸らした。 スマホを取り出そうとしたその時―― 「そもそも私、透子のお見舞いに来たんだもん。 ご飯作ってあげたくて来たのに、デリバリーなんて誠意ないじゃない〜」 美月がすかさず「清純無垢」な声で割り込んできた。 「……じゃあ、あんたが作れば?」 透子は淡々と、鋭く返す。 「えっ、でも……国内のコンロとか慣れなくて〜、 さっきお皿割っちゃって、蓮司がすっごく心配してくれたの……」 パチパチと瞬きをしながら、しれっと言う。 「じゃあこうしよっか、透子。 私がサポートするから、料理は任せて? 盛り付けとか手伝うよ、それで『私が作った』ってことにしていい?」 満面の笑顔―― でも透子には、その裏の「狙い」が手に取るように見えた。 ……今日は、どうしても自分に「負け」を味あわせたいらしい。 「……いいよ。私が作る」 さっさと終わらせて、食べさせて、 さっさと消えてくれればいい。 「え〜一緒にやろうよ〜。ねっ?」 美月はそのまま蓮司を見て、ウィンク混じりに甘える。 「蓮司〜、お皿並べて〜!ジュースも出して〜」 堂々と指示を飛ばし、まるで自分がこの家の「女主人」であるかのように振る舞う。 一方で透子は――ただの料理係、家事手伝いのように扱われている。 そう振る舞う美月の姿に、 以前なら、透子はきっと胸が締めつけられて、嫉妬してた。でも今は違う。ただ、淡々とした顔で見つめるだけ。 美月が帰国したその瞬間から、蓮司が彼女に駆け寄った時点で、透子の中の何かは完全に壊れてしまっていた。 背後から聞こえるのは、あの二人の甘ったるい声。透子は一度も振り返らなかった。蓮司は本当に、美月の言うことをよく聞く。テーブルの準備をしてる二人の空気は、まるで恋人
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第8話
美月のか弱くて可哀想なその様子に、蓮司はハッと我に返った。すぐに駆け寄って、優しく声をかける。 「美月のせいじゃないよ。泣くな」 美月は鼻をすすりながら泣き続け、蓮司は彼女をそっと支えてリビングのソファへと連れていった。彼の声は、まるで子どもをあやすように甘く、優しかった。 ――その声。 キッチンにいた透子の耳には、妙に刺さる。 こんな優しい声、あんたが私に向けたことなんて、一度もなかった。 ……でも、もうどうでもいい。望んでなんかない。ただ、一刻も早く――ここを出たい。 気持ちを整え、再びフライパンを握る手が動き出す。 離婚って、想像以上に難しい。蓮司ならきっとすんなり署名すると思ってた。でもこの調子じゃ、別の方法を考えるしかなさそうだ。 愛されないのは仕方ない。でもそれが、あんたの「復讐」になるとはね。全部、二年前に私が欲をかいたツケなんだろう。 ――リビング。 美月はしばらくの間、蓮司にあやされ続けていた。男の胸に身を預けながら、そのぬくもりを感じる。 まるで、昔と何も変わっていないみたいだった。 ……でも、じゃあなんで離婚しないの?透子の方から言い出したのに。 美月は蓮司の顔を見上げる。でも結局、言いたいことは飲み込んだ。今、それを言ったら「キャラ」が崩れるから。 蓮司は彼女の背中を優しく撫でながらも、その目はどこか宙をさまよっていた。 透子が離婚を言い出した。その事実が、思いのほか胸に刺さる。あんなに冷たい顔で、淡々と――まるで、もう何の未練もないみたいに。 何かが、確かに崩れていく感覚。でも、それでも彼は必死に理性を取り戻し、拳を握る。 透子は俺を愛してる。きっと離婚なんて本気じゃない。ただ俺の気を引きたかっただけだ。 ――それから30分ほどが過ぎて、透子が料理をだいたい仕上げたころ。 美月がまたキッチンに現れた。わざとらしい笑顔を浮かべて近づく。 「透子〜、私もお皿運ぶ〜」 「いらない」 透子はきっぱり、冷たく言い放った。 それを聞いて、美月の口元に皮肉な笑みが浮かぶ。ちらっと視線を流し、端に誰かの衣の端を見つけた美月は、わざとらしく皿を手に取ろうと前に出る。 その皿には熱々の角煮。さっき仕上げたばかりで、まだ湯気が立ってる。なのに美月は、透子の前を無理
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第9話
「蓮司、大丈夫?透子はどうなったの?」 バスルームの前、美月が心配そうな顔で、ぐちゃぐちゃになった蓮司を見つめる。 「大丈夫だ……着替えてくる」 蓮司は苛立った声でそう言い放つ。 美月がバスルームのドアに手を伸ばそうとすると、蓮司にガシッと手首を掴まれた。 ガラスのドアを睨みつけながら、吐き捨てるように言う。 「入るな。あのイカれ女、水ぶっかけてくるぞ。マジで精神病院送りにしたほうがいい」 「透子、きっとわざとじゃないよ?そんなに怒らないで……」 美月は優しく宥めようとするが、返ってきたのは蓮司のもっとひどい罵声だった。 ――その会話は、バスルームの中まで全部聞こえていた。 透子は膝を抱えて座り込み、唇を噛みしめ、拳を握りしめる。怒りが、じわじわと体の奥から湧き上がってくる。 蓮司、ほんと最低。 美月、あんたも同じくらい胸くそ悪い。 ――お似合いだよ、ホント。クズとクズの奇跡のマッチング。永遠に結べばいい。 あの時、好きになんかなるんじゃなかった。二年前、蓮司を選んだ自分を呪いたい。 もう全部、報いなんだ。 冷たい水がずっと足の傷に当たり続けている。でも、心の方がずっと冷たくて、痛くて、痺れてる。 涙はもう、枯れ果てていた。 ――主寝室。 蓮司がシャツを着替えていると、扉がそっと開いた。 入ってきたのは、美月だった。 彼女を見て、思わずシャツのボタンを急いで留める蓮司。 美月はゆったりと歩み寄り、潤んだような目で甘く微笑みながら、ふわっと囁く。 「何照れてるの?私、蓮司の身体、前から全部知ってるじゃん」 ……それは事実だった。でも、それでもどこか気まずくなった蓮司は、目をそらして言う。 「外で待ってろよ」 でも美月はそれを無視して、すっと目の前に立ち、彼のネクタイに手を伸ばす。 「これね、昔、蓮司のために覚えたんだよ。いつか毎朝こうしてあげたくて……」 その言葉は少し切なげで、どこか寂しそうだった。 蓮司は彼女を見下ろし、目が合う。 美月の目には、嫉妬と寂しさ、そして期待がにじんでいた。 「……この2年、透子がネクタイしてたの?」 「してない。あいつには触らせたことない」 即答だった。 「この部屋は俺の部屋だ。あいつとは、ずっと別の
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第10話
病院に着いた頃には、透子の足は真っ赤に腫れあがり、あちこちに傷が残っていた。 医者は彼女の足を診ながら、思わずため息をついた。 「こんなになるまで放っておくなんて……あなた、自分の体を大事にしなさい。水ぶくれが全部潰れてたら、感染したら大事になるよ?」 透子は俯いたまま、黙って医者の言葉を聞いていた。ただ、自分の傷だらけの足をじっと見つめるだけ。 ――別に、大事にしたくないわけじゃない。 ただ…… あの人たちが、私を壊す気でかかってるだけ。 診察を続けていた医者が、ふと尾てい骨や腰を見て青あざを発見、さらには腕にも打撲痕、目は泣き腫らして赤く腫れ、何も喋らず、一人ぼっちで来院している―― その姿に、思わず表情が曇った。 「腰のレントゲンも撮ろう。あと、今日は帰らないで入院しなさい。こりゃしっかり治さないとダメだ」 「……ありがとうございます」 透子の声はかすれていて、聞き取りにくいほどだった。 その後、入院の手続きを手伝ってくれたのは看護師さんだった。 透子は仰向けになれず、うつ伏せで病床に伏せるしかなかった。足は枕で高く持ち上げられ、焼けた傷口に当たらないように工夫されていた。 看護師が薬を塗り終えると、ヒンヤリとした感覚がじんわり広がっていく。熱を奪ってくれるその感触が、ほんの少しだけ、彼女の苦しみを和らげた。 時計を見た。 ――午後7時半。 透子はスマホの電源を切り、目を閉じた。身体も、心も、限界だった。 あの二人が今どこで何をしてるかなんて、考えたくもない。 幸せにデートしてる?笑い合ってる?愛し合ってる? ――もう、どうでもいい。 ここには、あの人たちは来ない。ようやく、ちゃんと眠れる気がした。 ――その頃。 午後8時。蓮司は美月を連れて焼肉を食べていた。 午後9時。二人は高級ブランドショップを巡って、蓮司は山のようにプレゼントを買い込んだ。 午後10時。蓮司は江辺の観覧車を貸し切り、二人が頂上に到達したその瞬間、夜空に花火が打ち上がる。 鮮やかな光が空を染め、その中で二人は唇を重ねた。 その夜、川辺にいた観光客たちはその光景に目を奪われ、「どこの御曹司が彼女にプロポーズしてるんだろう?」と、羨望の声を漏らしていた。 「ねぇ蓮司〜、帰りにごはん持
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