LOGIN野田は進退窮まった。美咲が梨花に嫌悪感を抱いているのは明らかだからだ。だが、梨花もまた、簡単に敵に回せる相手ではない。ましてや、黒川家と深い関わりがある人だ。ここで失言すれば、後でどんな報復を受けるか分かるものではない。どうすれば双方の顔を立てられるかと知恵を絞っていたその時、玄関の方から冷ややかな、それでいて笑みを含んだ声が響いた。「お前のような性根の人間でも鈴木家に入れるんだ。あれほど出来た梨花が黒川家に入るのなんて、朝飯前だろう?」ゴホッ!その場にいる婦人たちの多くは利害関係で繋がっているだけで、内心では美咲に対して少なからず不満を持っている。ただ、美咲の息子が優秀で、鈴木グループを右肩上がりに成長させているため、誰も文句を言えないだけだった。不満があっても、腹の底に隠すしかない。だからこそ、その言葉を聞いて、堪えきれずに吹き出しそうになる者もいる。一体誰だ、そんな正論を堂々と言い放ったのは。梨花が声のした方を振り向くと、少し離れた場所に紺色のスーツを纏った竜也が立っていた。目元には隠しきれない不機嫌さを滲ませているが、彼女に向かって手招きする声は少しだけ温かかった。「帰るぞ。鈴木家の敷居は高すぎるようで、二度と来ることはないだろう」その言葉の意味を理解できない者はいない。黒川家は今後、鈴木家と付き合うつもりはないということだ。美咲の顔色はめまぐるしく変わり、婦人たちの前でこれほどの大恥をかかされ、焦りと怒りが込み上げた。長年の両家の交際も、ビジネス上の協力関係もかなぐり捨て、彼女は顔を真っ赤にして叫んだ。「竜也!いくら偉くなったからって、腐っても私は目上の人よ。私に対してそんな口の利き方をするなんて!それに、私は間違ったことなんて言っていないわ!黒川大奥様があんたと梨花との結婚を許すはずがないでしょう。ここで私に嫌味を言う暇があったら、帰ってお祖母様にお願いでもしたらどうだ!」彼女は顔を紅潮させながらも、必死で鈴木奥様としての体裁を保とうとしていた。二階にいた一真は、下の騒ぎを聞きつけて階段を降りてきた。まさか母が帰ってきているとは思わず、急いで駆けつけたところで、不意にその言葉を耳にして足を止めた。彼も、竜也がどう答えるのか知りたい。竜也は普段、何事も眼
小百合は誤解を招いて梨花に迷惑がかかるのを恐れ、笑って釈明した。「私にそんな福があるものか。この子はね、私の具合が悪いと聞いて、わざわざ見舞いに来てくれたんだよ」美咲はようやく客間の方に目を向け、梨花の姿を認めると、意地悪さと自慢気が入り混じった口調で言った。「それは誤解よ。うちはね、誰でも入れるような家じゃないの。息子の嫁になる子は……もうとっくに決まっているんだから!」以前は桃子のことが何一つ気に入らなかった。だが今や、桃子は名家に引き取られて玉の輿に乗ったようなものだ。この機に乗じて三浦家と縁戚関係を結びたいと思うのは当然だろう。それに、桃子は一真の子を宿している。逃げられはしない。こちらが頷きさえすれば、決まったのも同然なのだ。彼女はこの吉報を周囲に知らしめることに何ら躊躇いはなかった。むしろ、梨花という小娘に諦めさせる良い機会だ。何様なのよ。口では一真と無関係だと言いながら、隙あらばこの家に入り浸って。その言葉に、婦人たちだけでなく、小百合までがいぶかしげな表情を浮かべた。美咲が何を企んでいるのか分からなかったからだ。ある婦人が興味津々といった様子で尋ねた。「どちらのお嬢様なのです?」「三浦家よ」美咲は軽蔑の眼差しを梨花に向け、皆に分かるように顎をしゃくって付け加えた。「紅葉坂の、あの三浦家」その場にいた全員が息を呑んだ。今回ばかりは、梨花の瞳にも微かな感情が宿った。それが動揺に見えたのか、美咲はさらに得意げになった。しかし、梨花は辛かったわけではない。むしろ笑い出したいくらいだ。十中八九、美咲は桃子のお腹の子を一真の子だと思い込んでいるのだろう。その上、桃子が三浦家に認知されたとあっては……一真に他人の子の父親という汚名を着せてでも、その地位が欲しいということか。虻蜂取らずにならなければいいけれど。何しろ、三浦家の今の態度を見る限り、桃子が本当にあそこの娘なのかどうか、まだ疑わしい。もし違っていたら、とんだ恥さらしだ。その時になって泣いても遅いのに。ひとしきり盛り上がった後、ある婦人が梨花に気づいた。「あら、黒川グループのあの特効薬開発責任者の……佐藤先生じゃありませんか?」彼女の家も医療業界だったため、その場にいる中で唯一
梨花の性格については、一真もそれなりに理解しているつもりだった。穏やかで素直、そしてどこか控えめで慎重な女性。一体いつから、彼女はこれほど刹那的な生き方をするようになったのだろう。一真にはどうしても理解できない。前回、篤子への恨みを竜也に向けるつもりはないと言ったのはまだいいとしても、今回はあの男との関係をあっさりと認めてしまった。自分の身内に復讐しようとする女を、竜也が許すはずがない――彼女はそう考えなかったのだろうか。それとも、分かった上であえて気にしないというのか。いずれ別れる結末が待っているとしても、堂々と公言したいほど、竜也への想いは深いというのだろうか。だが、自分と結婚していた頃はどうだったか……彼女が人前で、一真のことを夫だと認めたり、誰かに紹介したりしたことなど、一度としてなかったように思う。もしかすると彼女は、自分に対して愛情など微塵も抱いていなかったのではないか。一真はそう疑わずにはいられなかった。二人の結婚生活は、ただ見栄えが良いに過ぎなかったのだ。その唯一の役割は、黒川家の汚い陰謀から彼女を守ることだけだったのかもしれない。そう考えると、一真の唇には自然と自嘲の笑みが浮かんだ。一方、梨花は小百合の脈を診て処方箋を書くことに集中しており、最初から最後まで彼に視線を向けることは一度もなかった。小百合は孫の心情をいくらか察したようで、「一真、二階のコレクションルームに行って、曾お祖母様が遺したあの翡翠の腕輪を取ってきておくれ」と言った。「……はい」一真はその言葉に甘え、立ち上がって二階へと向かった。彼自身、これ以上ここにいるべきではないと分かった。お祖母様が気づくくらいだ、梨花だっていつ自分の動揺に気づくか分からない。そうなれば……彼女との心の距離は、さらに遠のいてしまうだろう。梨花は処方箋を書くことに専念している。小百合の胃の不調は持病のようなもので、これ以上放置すれば体に障る。以前も診察しようとしたことはあったが、当時は誰も自分の医術を信じていなかった。小百合が同意しても、美咲や桃子があの手この手で邪魔をしたのだ。そして一真も……当時は桃子に夢中で、梨花のために口を挟んでくれることなどなかった。書き終えた処方箋を差し出し、梨花は優しく説明
彼女は緊張のあまり、とっさに両手で竜也を突き放そうとした。「何を照れてるんだ」竜也は彼女の耳が赤くなっているのを見て笑った。「俺が一人ぼっちじゃなくて、こうして恋人を抱きしめているのを見れば、おばあちゃんだって喜ぶに決まってる。そうだよね?おばあちゃん」そう言いながら、彼は智子に同意を求めた。梨花は自分の面の皮が、彼の半分もの厚さもないことを自覚した。彼の面の皮なら、弾丸だって跳ね返せそうだ。智子は指先で彼を指差す真似をして、さらに笑みを深めた。「はいはい、若い二人が仲良くやるのが一番だよ。私まで嬉しくなるから」もちろん嬉しいに決まっている。彼女は、この二人にこれ以上波風が立たないことを願っている。このまま平穏に続いてくれればいいと。梨花は唇を引き結び、照れくさそうに笑った。だが、心の中の居場所を見つけたような感覚は、より一層強くなった。それは、以前の馴染み深い物に囲まれた安心感とは違う……家族という温かさだ。智子が心から自分のことを孫の嫁として見てくれているのが伝わってくる。その温かさに触れる一方で、心のどこかで微かな不安も感じた。翌日、クリニックでの仕事を終えた梨花が時間を確認すると、すでに午後二時を回っていた。彼女は急いで片付けを済ませ、近くで軽く蕎麦を食べてから、車で鈴木家へと向かった。この時間ならちょうどいい。お祖母様も昼寝から起きている頃だろうし、診察だけしてすぐに帰れる。遅くなると夕食の時間に重なってしまい、美咲と顔を合わせる羽目になる。それは避けたい。それでも、鈴木小百合(すずき さゆり)は彼女の姿を見ると、親しげに手を取って中へと招き入れた。「梨花、ずいぶん久しぶりだね。一真と離婚したからって、私のことも忘れちゃったの? 世の中には、離婚してもまた一緒になる夫婦だっているんだよ」まだ孫の嫁に戻ってほしいということだ。「……お祖母様」梨花は年寄りを傷つけたくはなかったが、変な期待を持たせるのも良くないと思った。彼女は穏やかに微笑んで言った。「一真との復縁は、絶対にありませんよ」小百合は不思議そうに尋ねた。「どうしてだい?」彼女には、孫の心がまだ梨花にあることが痛いほど分かっていた。だからこそ、何とかして縁を取り戻して
通話を終えて振り返ると、竜也が軒下で静かに佇んでいた。梨花は少し意外に思った。一真からの電話だと分かっているのに、堂々と聞き耳を立てることさえしなかった。ただ遠くから見ているだけだったのだ。電話に出た時、嫉妬深い彼のことだから、邪魔しに来るだろうと覚悟していたのに。自分は彼に干渉しないが、彼に干渉されるのは嫌いではない。それどころか、少し嬉しくさえある。子供の頃も、竜也はそうやって彼女のあれこれを管理していたものだ。彼女の手元に届くはずだったラブレターは、一通たりとも自分で開けたことがなく、中身を見たこともなかった。全て彼によって闇に葬られたのだ。まさにその時だった。彼女は「兄」に対して抱いてはいけない感情を抱き始めたと気づいたのは。竜也がそんなことをしても、怒りを感じるどころか、密かに喜んでいたからだ。もしかして自分のことが好きなのかも、と密かに期待して。でも当時、竜也はただ真面目くさった顔で眉をひそめ、こう言うだけだった。「梨花はまだ子供だろう? あのガキどもは下心しかないんだ。兄ちゃんの言うことを聞きなさい。あいつらの相手なんてしないで、医学の勉強に集中するんだ」まるで老成した保護者のようで、本当に、ただの妹として見ているだけのようだった。今、梨花が近づくのを待たずに、竜也は自然に口を開いた。「終わったか? おばあちゃんは先に入ったよ。食事に行こう」とても何食わぬ顔だ。まるで梨花と一真の電話の内容なんて、少しも気にしていないかのようだ。――心が広いふりしちゃって。梨花は心の中で呟くと、彼の意地を突っついた。「猫かぶらないで。顔に書いてあるわよ」竜也は尋ねた。「何て書いてあるんだ?」梨花は図星を突いた。「二人は何を話したんだって」「……」竜也は唇を舐め、話題を逸らすこともなく、堂々と認めた。「ああ、そうだよ。ダメか?」彼女を束縛するつもりはない。だが、嫉妬心を抑えきれないのも事実だ。自分のパートナーを気にかけて何が悪い。恋のライバルに対して平気でいられる男などいないのだ。梨花は彼の開き直った態度を見て、目を細めて笑った。「悪くないわ、全然悪くない」皮肉ではないことを示すために、彼女は彼の腕を抱きしめ、少し甘えるように寄り
まだ嫁にもらってもいないのに、もうおばあちゃんのことは忘れちゃったのか。もっとも、智子はむしろその様子に安堵した。本来、竜也の生涯に寄り添うのは、妻となる人だけなのだから。もし変に気を遣って親孝行ぶるあまり、そこの優先順位を間違えるようなら、杖で引っぱたいてやるところだった。竜也は鼻をこすった。普段はクールで高貴な雰囲気の彼だが、今は少しも悪びれず、むしろ愛おしそうに言った。「彼女が妻だから」まだ籍は入れていないが、自分の妻になるのは梨花しかいない。ずっと前から、そう決めていた。「妻だからって、それがどうした?」智子は孫の考えをお見通しだ。梨花は彼にとってあまりに大切な存在なのだ。二人は幼い頃から共に育ち、互いに心を温め合ってきた。彼の心の中で、梨花の代わりになる者はいない。だからこそ、やっと彼女が振り向いてくれた今、片時も目を離さずそばに置いておきたいのだろう。それこそ、寸時も離れずに。だが、智子はあえて苦言を呈した。「たとえ妻であっても、彼女には彼女の生活があるし、付き合いがあるんだよ。あんたの交友関係や電話の相手に、梨花がいちいち口出しするか?」説教された竜也は、すねたような声で答えた。「……しない」むしろしてほしいくらいだ。しかし彼女は干渉しないどころか、以前は他の女子生徒からのラブレターを彼に渡す手伝いまでしていたくらいだ。「でしょう?だったら、あんたも彼女を信じるんだよ。たかが電話一本で大騒ぎするんじゃない。そもそも、彼女と一真の相性が良かったら、離婚なんてしてないだろう?」……梨花は何の用だろうと思いながら、少し離れた場所へ移動して電話に出た。「もしもし、一真?」「梨花か」彼女が電話に出たことで、一真はほっと息をついた。「木村が、あなたの好きなクッキーを焼いたんだ。いつ帰ってくる?部屋まで届けようか?」「ううん、大丈夫」梨花は少し言い淀んだが、説明することにした。「最近桜ノ丘には戻らないの」「じゃあ、今は……」言いかけて、一真の声がピタリと止まった。スマホを握る指が白くなり、心臓を鷲掴みにされたような痛みが走る。彼女は人付き合いが得意ではなく、交友関係も狭い。この街で本当に親しい人間など、指で数えるほどしかいな