加納心(かのう こころ)には、子供の頃から想い続けていた人がいる。 その想いがようやく成就し、婚約者になれた。 それなのに、その事を知った婚約者の幼馴染が、海外から帰国した。 心の婚約者、清水瞬(しみず しゅん)は海外から帰国した、幼馴染で初恋の人である柳麗奈(やなぎ れな)を忘れられずにいた。 瞬は自分の婚約者である心を蔑ろにし、初恋の人麗奈ばかりを優先するようになる。 そんな時、心は瞬との間に子供を授かったと知り、これで彼もきっと自分との結婚を早めてくれるだろうと期待していたのだが、瞬から向けられた視線は酷く冷たく、心を傷付ける言葉を口にしたのだった。
View More「心、君の気持ちは十分伝わったよ。俺たち付き合おう」
目の前の端正な男が、困ったように眉を下げて苦笑しつつそう告げる。 その言葉を聞いた瞬間、私の目にはぶわっと涙が溢れ、視界が歪んだ。 「こ、心!?どうしたんだ、泣かないでくれ」 「だって、嬉しくって…瞬、本当に私と付き合ってくれるの?嘘じゃないの?」 「嘘なんか言うもんか。俺も、心が好きだよ」 ああ、嘘みたいだ。 今までどれだけの間、瞬を追いかけ、告白してきただろう。 いつも瞬からは告白を断られてきた。 それなのに、今は私を優しく抱きしめ、好きだと口にしてくれる。 瞬の瞳には、私が確かに映っている。 瞬の瞳には、確かに私を愛おしく思う感情が見て取れた。 「嘘みたいだわ…、本当に嘘みたい…やっと私、瞬の彼女になれたの?」 「そうだ。心は俺の大切な彼女だよ」 その日、私…加納心(かのう こころ)と、清水瞬(しみず しゅん)はしっかりと抱きしめ合い、お付き合いを始めた。 付き合い始めて2年。 その2年間はとても順調だった。 瞬はいつも私を気にかけ、優しくしてくれて2人の間には笑顔が絶えなかった。 順調に付き合いを続け、ある日のデートで素敵なレストランで食事を楽しんでいた時。 瞬はいつもと違い、どこか緊張した面持ちをしていた。 調子でも悪いのだろうか、と心配したのも束の間。 なんと瞬は私へのプロポーズを用意してくれていたのだ。 「心。俺は君とこれからもずっと一緒にいたい。結婚しよう」 「瞬…!もちろんよ、よろしくお願いします!」 レストランでのプロポーズ。 私たちの周りには、沢山のお客さんが集まり、拍手で祝福してくれた。 感動して泣き出す私を瞬が優しく抱きしめ、そっと唇にキスを落としてくれた。 それなのに。 「すまない、心。麗奈が呼んでるから行くよ」 「…分かった」 「…何だその顔は?嫌そうな顔をするな。麗奈は今、帰国したばかりで大変なんだ」 「何も言ってないわ…行ってらっしゃい」 瞬はふん、と鼻を鳴らして私をひと睨みした後、冷たく背を向けて部屋を出て行ってしまう。 苛立ち混じりに力任せに閉められた扉の音が大きく響き、私は一人、広い部屋にぽつりと残された。 今日は付き合って5年の、記念日だった。 テーブルの上には瞬の好物が沢山用意され、所狭しと並べられていた。 瞬はそれを一口も食べる事はせず、会社から帰るなり急いで麗奈のもとへ行ってしまった。 沢山の料理が並べられたテーブルの向こう、二人で撮った写真が写真立てに飾られ、楽しげに笑っていた。 もう、あの写真の中のように笑う瞬を、私はしばらく見ていない。滝川さん自ら車椅子を押してくれ、外にやってきた私たち2人。秘書の持田さんは、仕事が残っているとの事で会社に戻り、代わりに滝川さんが残ってくれている。社長の滝川さんこそ、会社に戻った方がいいのでは…?と思ったけれど、その事を私が滝川さんに聞くと、滝川さんはなんて事ないように「車椅子からの移動を考えると俺がいた方がいいだろう?」とあっけらかんと答えた。滝川さんが大丈夫と言うのであれば、私がそれ以上何かを言う事はできない。だから、私は滝川さんの優しさに甘えてしまった。「──っ、風が強いですね」ひゅう、と冷たい風が頬に当たる。私が思わずそう呟くと、滝川さんは着ていたジャケットを脱ぎ、私の肩にかけてくれた。「た、滝川さん…!これでは、滝川さんが風邪をひいてしまいます!」「俺は大丈夫。それより、加納さんは久しぶりに外に出たんだから、加納さんこそ気をつけないと。風が冷たいだろう?あまり長い事外にいないようにしよう」「分かりました…お気遣いありがとうございます」気にしないでくれ、と笑みを向けてくれる滝川さんに、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。滝川さんの言う通り、あまり滝川さんを拘束してしまうのはやめよう。彼は社長だ。きっと毎日忙しいのに、それでも優しい人だからこうしてお見舞いにやってきてくれている。ただの顔見知り程度の私にですらこんなに優しくしてくれるのだから、滝川さんが親しい人にはもっと優しいのだろうと考える。「病院内の庭に出ようか。あそこは緑が多くて、ベンチも沢山あるから入院患者の人も多く利用してるみたいだ」「そうなんですか?でしたら、ぜひ」「ああ、分かった。庭に向かおうか」滝川さんが提案してくれた病院の庭に着く。滝川さんが言っていた通り、庭は利用者が多いようだ。綺麗に整備された庭は、沢山のベンチがあり、入院患者やその家族が一緒に過ごしているのが分かる。滝川さんも、車椅子を押しながら庭を進み、色々と説明を交えながら進んで行く。庭をある程度進んだ所で滝川さんは、小さな庭園のようになっている場所で、東屋に入り車椅子を止めた。「触れるね、ちゃんと掴まって」「は、はい…!」東屋に入り、ベンチに私を座らせてくれるつもりなのだろう。滝川さんはひょい、と私を再び抱き上げるとベンチに座らせてくれて、
「な、何だ…?どうしてこんな雰囲気に?」滝川さんは、部屋に入るなり戸惑ったような声を上げる。私たちの間に流れるしんみりとした雰囲気を感じ取ったのだろう。すぐに持田さんが普段通りの表情に戻り、滝川さんに「何でもございません」と答える。納得いっていないような顔だったが、滝川さんは私の顔を見て、肩を竦めたあと、飲み物を渡してくれた。「持田が何でもないと言うなら、そうなんだろう。そうだ、加納さん」「はい?」「今日はいい天気だろう?少し外を散歩しないか?気分転換にもなるだろうし」「──!ぜひ!行きたいです!」滝川さんの提案に、私はぱっと顔を上げて滝川さんの提案に頷く。この2週間近く。病院内を移動する事はあったけれど、外に出た事はなかった。私の足の骨折がまだ痛みが酷かったのもあるし、頚椎の捻挫もあった。けれど、滝川さんが外に散歩に行こう、と誘ってくれたと言うことは。私の希望に満ちた表情を見た滝川さんは、優しく笑みを浮かべ、頷いた。「さっき先生と丁度会ったんだ。その時、先生からちゃんと許可も貰ってるから、安心して散歩に行こう」「──!ありがとうございます!滝川さん、本当にありがとうございます!」さっきまでのしんみりした雰囲気が嘘のように、室内がぱっと明るい空気に満ちる。持田さんも明るい微笑みを浮かべている。持田さんは、病室に備え付けられている車椅子を用意すると「社長」と声をかけた。「ああ、ありがとう持田」「いいえ。お荷物お持ちしていますね」「頼む」言葉少なに会話をし、滝川さんが持っていた飲み物や荷物をささっと受け取る。そして、私が手に持っていた飲み物も持田さんが受け取ってくれた。滝川さんが車椅子をベッドの傍に用意してくれたのを見て、私はそろり、と足を動かしてベッドから降りようとしたのだけど、私の行動を見た滝川さんがぎょっとしながら慌てて私に駆け寄った。「加納さん!まだ1人で動いちゃ駄目だ!先生は散歩を許可してくれたけど、俺がいる時だけだからね。1人で動いて、転倒したりしたら大変だ」「す、すみません…」でも…、と口ごもる。自分でベッドから降りれなければ、車椅子にも移動できない。私が困っている事が分かったのだろう。滝川さんは私にそっと腕を伸ばした。「俺が車椅子に運ぶから。ごめん、ちょ
翌日も。翌々日も。あれから瞬は一切姿を見せなかった。きっと、私が入院しているのを知り、これ幸いと麗奈の所にいるのだろう。私が家で待っている、というプレッシャーがないからだろう。きっとのびのびと羽を伸ばしているに違いない。今までは、瞬が麗奈と一緒にいるのだろうと想像するだけで。それを考えるだけで辛く、苦しい気持ちになっていた。けれど、今は。「もう、嫌だ…」お腹に手を当て、呟く。「瞬の事を考えるのも、こんな気持ちになるのももう嫌」どうして私がこんな目に遭わなくちゃならないんだろう。瞬は、私と婚約しているのに。それなのに、初恋の人麗奈が帰国した途端、私との過去も、未来も全て投げ捨てて麗奈のもとに向かった。麗奈を忘れられないのなら、私と婚約なんてしなければ良かったのに。私にプロポーズなんてしなければ良かったのに。私を「好き」なんて、瞬は言わなければ良かったのだ。そうすれば、私と婚約なんてする事などなく、瞬は麗奈と一緒になる事ができたかもしれないのに。「…駄目だ、1人でいると嫌な事ばかり考えちゃう…」せめて、骨折が足じゃなくって手とか腕とかだったら良かったのに。足の骨折では、1人で行動できない。誰かの介助が必要で、何をするにも私1人では行動できない。鬱々とした気持ちで私が俯いていると、病室の扉がノックされた。「入るよ、加納さん。体調はどう?」「──滝川さんに、持田さん!」扉を開けて入ってきたのは、滝川さんと彼の秘書持田さん。持田さんは「こんにちは」と笑みを浮かべると、手に持っていた紙袋を掲げて見せてくれた。「加納さん、着替えを持ってきました。体を拭いて、着替えをお手伝いしますね」「す、すみません…!ありがとうございます」「いいえ。お気になさらず。お怪我をされているんです、不便でしょう?」ふふ、と笑みを見せる持田さんに私も笑顔を返す。私が着替えを行うからだろう。滝川さんは「飲み物を買ってくるよ」と言って、病室を出て行った。入院して、もうすぐ2週間。持田さんと顔を合わせる事が増え、最初に比べて彼女も笑顔を見せてくれる事が増えた。社長の滝川さんの命で彼女は私のお世話をしてくれているんだと思うけど、そんな気配を微塵も見せず、優しく接してくれる姿に、流石大企業社長の秘書を
「──は?」瞬の頭の中が真っ白になる。医者が言った言葉は、分かるのに理解したくないと拒絶する。呆然としている瞬をそのままに、医者は心の容態を確認し、看護師にいくつか指示を飛ばしていた。そして傍に立ち尽くしている瞬に向き直ると、話しかけた。「加納さんの入院手続きは、その場に居合わせた方が代理で行ってくださっています。今回の流産は、妊娠初期だったため手術などはしておりません」「ま、待ってください…本当に心は、流産を…?」「ええ。間違いなく。母子手帳から、恐らく妊娠7週か8週ではないかと。…入院手続きは必要ありませんが、加納さんの着替えや諸経費も代理の方が対応して下さっているので、その方とよく話してくださいね」「7週……」対応を終えた医者は、呆然と立ち尽くす瞬を一瞥した後、病室を出て行った。ぽつんとその場に残された瞬は、ふとベッドに眠る心に近寄る。「7週…、あの時の…」瞬には、心当たりがある。約、2ヶ月前。瞬は麗奈と小さな喧嘩をしたのだ。その日はとてもイライラしていて、酷く酒に酔った。帰宅した時、心の呑気な顔を見て、瞬は酷く腹を立てた。そして、嫌がる心を無理矢理寝室に連れ込み、苛立ちをぶつけるように酷い抱き方をしたのだ。麗奈と喧嘩をした鬱憤を払うように、そして心を酷く傷つけてしまいたい、という一心で、自分勝手に抱いて、そして翌日心をそのまま放置した。「俺の、子──」瞬は自分の口を手で覆うと、力を失ったかのようにかくりとその場に膝をつく。「俺は、心に何て言った…?」妊娠を告げた心に、放った言葉を思い出した瞬は真っ青になると、ふらふらと立ち上がり病室を出て行く。とても、病室にいられる気持ちではいられなかった。心が目覚めた時、どんな言葉をかければいいか。そして、心にどんな目で見られるか。瞬は肩越しに眠る心を振り返ったが、そのまま扉を閉めてその場を後にした。◇「──ん」ふ、と意識が浮上する。私は、何で眠っていたのだろう、と考えてそこではっとした。そうだ、そう言えば意識を失う前、病室に瞬が来たんだった。それを思い出した私は、再び胸にもやもやとした言いようのない感情が渦巻き、気持ち悪さを感じた。瞬の首元に見えた、鬱血痕。触られそうになった自分の腕。気持ち悪くて、気持ち悪くて自分の
「何でこんな事になっているんだ…」 「瞬」 瞬は、個室の入口で足を止め、ベッドに横たわる私を見たまま額に手のひらを当てた。 まるで信じられない物を見たかのように、動揺で目は見開かれ、顔色は悪いまま。 瞬は何度か呼吸を繰り返し、ゆっくりと私のベッドに近づいて来る。 「──怪我は、大丈夫なのか…」 「…うん、命に別状はないよ」 「そうか…」 瞬の言葉や表情には、私を心配するような、気にかけるような感情が浮かんでいて、私は久しぶりに瞬から向けられる気遣いの感情にどこか居心地が悪くなってしまう。 昔。 まだ、瞬が優しかった頃。 私が風邪を拗らせて高熱を出してしまった事があった。 その時も、瞬は私の事をとても心配してくれて、仕事があるにも関わらず休みを取り、ずっと傍について看病してくれた事がある。 慣れない家事をして、お粥を作ってくれて、ずっと傍にいてくれた。 高熱で朦朧とする意識の中、そんな風に私を気遣って心配してくれる瞬の気持ちがとても嬉しくて、愛おしいと思った。 「その、すまない心。…仕事が、忙しくて…急な案件対応に追われて、家に帰る事もできないし、会社に泊まっていたんだ。それで、スマホの充電が切れてて、心の連絡に気づけなかった…」 瞬が視線を彷徨わせながら口早にそう言葉を発する。 瞬は、知らないんだね。 嘘をつく時、早口になる事。そして、忙しなくキョロキョロと視線が彷徨う事を。 それに──。 私は、近づいてきた瞬のワイシャツの影に隠れた鬱血痕が見えていた。 (私が、入院中の間も…。事故に遭った時も、もしかしたら麗奈と一緒に過ごしてたのかもしれない) それを考えたら、もう駄目だった。 交通事故に遭い、怪我をしただけだったらまだ我慢できた。 私の怪我は、私が痛いだけで私が我慢すればいい。 けれど。 私は自分のお腹にそっと手をやった。 お腹の子は、もういない。 父親の瞬は、お腹の子がいなくなってしまったその時、きっと麗奈と過ごしていた。 私が悲しくて泣いていた夜も、瞬は麗奈と甘い夜を過ごしていたんだろう。 「心、その…」 「──ゃっ、触らないで…!」 瞬が気まずそうに伸ばしてきた手を、私は拒絶する。 瞬の手が、とても汚らわしい物に感じてしま
瞬の怒鳴り声がスマホから響き、瞬の怒声にびっくりしてしまった私は、スマホを取り落としてしまった。「加納さん、大丈夫か?」「は、はい…すみません、びっくりして…」「驚くのも無理はない」滝川さんが私を心配してくれて、優しく声をかけてくれる。私を気遣い、スマホを拾ってくれて、いったん横になるように私の体を支えてくれた。その間も、スマホからは瞬の声が聞こえ続けていて。聞こえてくる言葉が、どんどん鋭くきつい言葉になっていく。その間、滝川さんの表情がどんどん硬く、険しくなっていく。滝川さんは私をベッドの背もたれに凭れさせてくれると、私に向かって「すまない」と一言口にした。「──滝川さ」何故、謝るのだろう。私が疑問に思い、滝川さんに顔を向けたところで、滝川さんが私のスマホを耳に当てたのが見えた。私が止める間もなく、滝川さんが瞬に言葉を返す。「先程から黙って聞いていれば、随分な言いようだな」 「加納さんは今、君とやりとりするような元気はない」滝川さんの声は落ち着いていて、とても冷静だ。滝川さんとは違い、瞬はとても怒っているようで、滝川さんの耳に当てられたスマホから薄っすらと瞬の声が聞こえてくる。瞬が滝川さんにどんな言葉を返しているのかは分からないけど、漏れ聞こえてくる瞬の声が怒っているのだけは分かった。私がハラハラとしつつ、滝川さんを見つめていると、滝川さんと目が合った。「加納さんは今、入院している。連絡した、と彼女が言っていたが、まさか連絡を見ていないのか?」「自分の目で確かめればいい」滝川さんはそれだけを口にして、スマホを切ってしまった。そして電源も切ってしまうと、私にスマホを手渡した。「すまない、加納さん。婚約者の態度があまりに酷くて…余計な事をしてしまった」「いいえ、大丈夫です。むしろ、私の代わりに怒ってくれてありがとうございます、滝川さん」「…きっと、婚約者もこの後病院に来るだろう。俺は席を外した方がいいと思うから、今日はここで失礼するよ」「そんな…気にされなくていいのに…けれど、滝川さんもお仕事がありますものね
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