LOGIN地元の市役所に、期間限定雇用の会計年度任用職員として勤める戸倉菜乃香(とくらなのか)。 元・配属先の都市開発課にいた男、緒川直行(おがわなおゆき)に、ある日突然告白されて。 緒川が妻帯者であることを知った菜乃香は…。 ―― 執筆期間:2021/03/01〜2023/07/01 ―― ※「*」印の付いた章は、色艶めいたシーンが入ります。 ○表紙絵は市瀬雪さまに依頼しました。 (作品シェア以外での無断転載など固くお断りします)
View More【Prologue】
--------------------- 「やっ、ん。花屋に入ると、空気がふっと変わった。 切り花特有の青い匂いと、ほのかに甘い香り。 店内は静かで、雨のせいか他にお客さんはいなかった。 私はゆっくりと花を見て回る。 白い百合。 淡いピンクのガーベラ。 紫がかったトルコ桔梗。 トルコ桔梗を見た瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。 お母さんが好きだった花。 元気だった頃、よく玄関先に飾っては、 「綺麗でしょう? お母さん、この花が一番好きなの」 そう言って、嬉しそうに笑っていた。 あの頃は、そんな日常がずっと続くものだと、疑いもしなかった。 なおちゃんの顔も浮かぶ。 なおちゃんは、生花よりも、道端に咲いているような名も知らない花を好む人だった。 「菜の花を見るとさ、菜乃香だなって思うんだ」 私が、「でも……私の〝か〟はお花じゃなくて香りだよ?」っていうと、「それもそうか……」って笑ってたっけ。 私は迷った末に、派手ではない、小さな黄色い花を選んだ。 菜の花に少し似た、細かな黄色い花。花屋では〝ソリダコ・ゴールデンロッド〟と書かれていたけれど、私には春の土手を思わせる野の花に見えた。 それだけだとなんだか殺風景に見えたから、お母さんが好きだったトルコ桔梗も一緒に包んでもらうことにした。お母さんが好きなのはブルー系だったけど、「ソリダコと合うのは白ですね」って店員さんが教えてくれたから、それにしてもらった。 「これでお願いします」 店員さんは用途を聞くこともなく、「少しだけ緑も足しますね」とユーカリの葉を添えてくれた。 店員さんのおかげで、とても綺麗な花束が出来上がる。 「ありがとうございます」 可愛らしくラッピングされた花を手に、私は花屋を後にした。 ――これは、お墓に持っていく花じゃない。 なおちゃんは不倫相手だった。 私が彼のお墓やご仏前に手を合わせることはできない。それは奥様や息子さん、そうして彼のお母さまの特権だ。 私の彼への弔いは、私の心の中にだけで処理しなきゃいけない。 花を置く場所は、決めてある。 リビングの片隅のローチェストの上。窓に近いそこは、明るい日差しが差し込む場所。窓の外の空の先に、きっとなおちゃんのお墓がある。そう思える場所だった――。 *** 家に戻って、花を花瓶に移す。 小
朝、目を覚ました瞬間に、雨の匂いがした。 カーテン越しの光は淡く、外では細かな雨音が途切れることなく続いている。梅雨にはまだ少し早いはずなのに、空気は湿り気を含んでいて、胸の奥までじっとりと染み込んでくるみたいだった。 私は仰向けのまま、そっとお腹に手を当てる。 まだ大きくはないけれど、確かにそこにある重み。 私ひとりの体温とは違う、もう一つのぬくもり。 目を閉じたまま、ゆっくりと息を吐く。 ――今日で、一年。 なおちゃんが亡くなってから、ちょうど一年。 声に出してしまえば、また何かが溢れてきそうで、私はその言葉を胸の奥に押し込めた。でも、押し込めたところで消えてくれるわけでもなくて、こうして雨の匂いや静かな朝の気配に混じって、ひょっこり顔を出してくる。 ベッドを抜け出してリビングに向かうと、たっくんはもう起きていた。 キッチンに立つ背中は少しだけ丸くなっていて、鍋の中を覗き込みながら何かを温めている。私の足音に気付いたのか、振り返って柔らかく笑った。「おはよう、菜乃香」「おはよう」 テーブルの上にはマグカップが二つ並んでいる。 そこへ、たっくんが湯気の立つ飲み物を注いでくれる。香ばしいこの香りはコーヒーだ。妊娠してから避けるようになっているカフェイン。たっくんもそれは知っているはずなのに。 そう思いながら、戸惑いに揺れる瞳で彼を見上げたら、にっこり笑われた。「大丈夫。これは妊婦さんでも飲めるデカフェだから。菜乃香、コーヒー好きなのに飲めなくなって、寂しがってただろ?」 言葉にして伝えたつもりはなかったけれど、顔に出ていたのかもしれない。 たっくんの言葉に、私は正直驚いた。 それと同時に、彼の気遣いがとても嬉しくて心がほんわりと暖かくなった。「私たちのためにありがとう」 椅子に腰を下ろすと、たっくんは当たり前みたいに私の前にカップを置いた。「当たり前だろ。僕にはこのぐらいしかできないんだから」 妊娠が分かってから、たっくんは本当にさりげなく色々なことを変えてくれる。今日、コーヒーをデカフェにしてくれたことも、重い物を私が触る前に持ってくれることも、全部「特別」じゃない顔で……さも当たり前みたいに。「飲んでみて? 先に味見してみたけど……普通に美味かったから」
――私は、大切な人を自死で亡くしたことがあります。 ――自殺って止められたんじゃないかと言う思いが常に心の奥底にあって……彼を死なせてしまったことを、今でもずっと自分のせいだと責め続けています。 そういう想いが消せないのだと、たっくんには言えない気持ちをネットでこっそり吐き出すと、当たり障りのない柔らかな言葉に紛れ込むように、辛辣なコメントが書き込まれることがあった。 ――生きたくても病気で生きられない人が沢山いるのに、自殺する人は自分勝手で最低な人間です。そんな人のために貴女が自分を責めたりする必要なんてありません。 きっとそれは、うじうじと思い悩んでいた私への、その方からの心の底からの叱咤激励なんだろう。 でも――。 母を病気で亡くし、最愛だった人を自殺で亡くした私が思うのは、どちらもきっと、本人の力ではどうしようもない〝死に至る病〟なんだということで。 お母さんは癌に身体を蝕まれて生きることが出来なかった。 そうしてなおちゃんもまた、鬱という病いに心をズタズタにされて生きることが出来なかったのだ。 どちらが正しくてどちらが間違っている死だなんて、きっと誰にも決められない……。 生きている私たちがそう言うことを軽々しく口にしてはいけないんじゃないかなって……そんな風に思う。 実際救いを求めるように色々読み耽った、『大切な人を自死で亡くした人たちが思いを綴っているサイト』では、私と同じように、亡くなった大切な人を周りから〝命を粗末にした悪者〟だと決めつけられた人たちからの、悲痛な思いが書き連ねられていた。 良かれと思って遺された人を励ますために投げかけた言葉が、更に手負いの人を傷つける。 死因が何だったとしても、遺された人間には〝大
私はこんな優しい人を差し置いて……あのとき私がなおちゃんの求めに応じていたら或いは彼は死なないでいられたの?とか。 あてもなくなおちゃんとの思い出が詰まった場所を転々と彷徨うように車を走らせながら、このままどこかへ突っ込んで、なおちゃんの後を追ってしまおうか、とか。 ご飯を食べずにいたら何日くらいで死ねるんだろう?とか。 そんな不毛な想いに捕らわれ続けている自分のことも、許せなかった。 *** なおちゃんの葬儀には結局たっくんも列席してくれた。 一人で出向いてなっちゃんとまた鉢合わせになったら怖いと思っていた私は、たっくんが「僕も行くよ」と言ってくれた時、心底ホッとして。 それと同時。 妻の不倫相手のお葬式に出るだなんて、たっくんはどんな気持ちだろう、とも思った。 そんな私にたっくんが言ったのは、「今の菜乃香を一人には出来ないから」というもので。 私はたっくんが何故そんなことを言うのかその時には分からなかったのだけれど――。 なおちゃんの葬儀から数日。 日ごとになおちゃんはもうこの世にはいないんだという実感が強くなっていった私は、彼を自殺へ追いやってしまったのは自分だと信じ込むようになっていって。 なおちゃんのために何もしなかった私なんて、生きている価値がないとすら思うようになっていた。 心の片隅で、こんなことをしてはいけないと思いながらも、死んでなおちゃんにお詫びを言いに行かなくては、という相反する気持ちが日増しに強くなって。 たっくんはきっと、私よりもずっと私の中にあるそういうダメージを見抜いていたんだと、その時になってようやく気付かされた。 だからと言ってどうにもならないのが心なんだと思い知らされるみたいに、表面に出ている私はご飯を食べるのを拒否して、自傷