Masuk「心臓もしっかり動いてて順調だったよ。今、イチゴぐらいの大きさだって」
白黒のエコー写真を見せたら、「すげぇ。ちゃんと頭と胴体と手足が分かるようになってる!」と美千花は薄手の長袖ワンピースに身を包んでいたけれど、半袖でも良かったかも、とちょっぴり後悔した。 手近にあった電柱に手をついて「ふぅ」と吐息をついたところで、ふと斜め前方の喫茶店の店内に目がいく。 (……律、顕?) 律顕は暑い真夏でもホットコーヒーを好んで飲むタイプだ。 夫と思しき男性が手にしたカップもホット用のもので、コーヒーを飲むその人の顔にじっと目を凝らして律顕だと確信した美千花は、手を振ろうとして――。 そこでふと彼の真正面にアイスコーヒー入りのグラスが置かれているのに気がついて、思わず動きを止めた。 そのグラスに華奢な左手が伸びたのを見て無意識に律顕から死角になる場所へ身を潜めた美千花だったけれど、相手の薬指には美千花や律顕同様きらりと輝く指輪がはまっていた。 (既婚者?) 電柱の影に隠れるようにしてそっと覗き見れば、その手の主はミディアムロングの黒髪を後ろでポニーテールに束ねた女性で。 さっき蝶子との会話でも話題になった人物――。 「西園先輩……?」 だった。 思わず目にした相手の名前を口走ってから、美千花はキュウッと胸の奥が痛む。 律顕が自分以外の女性に柔らかな笑みを向けているのが、凄く嫌だと思ってしまったから。 ああして座っていると、ホワンとした印象の美千花なんかよりよっぽど。凛とした美人の稀更の方が、クールな顔立ちの律顕とお似合いに見えて。 律顕と付き合い始める前。 美千花に「僕の彼女になって欲しい」と告白をしてきた律顕に「永田さんは同期の西園さんと恋仲なんじゃないんですか?」と聞いてみた事があるのを思い出した美千花だ。 彼は即座に「有り得ない」と否定してくれたけれど、社内では専ら「出来ているに違いな
泣きそうな顔をして眉根を寄せた美千花に、律顕が悲しそうな顔をして、 「ごめん。しんどい時に無理強いしたね……」 言って、くるりと背中を向けた。 「少し頭、冷やしてくる。美千花は気にせず寝てて?」 遠ざかっていく律顕の寂しそうな背中に、美千花は「待って」も「行かないで」も「ごめんなさい」も言えなかった。 *** その日を境に、律顕の帰りが以前にも増してぐんと遅くなったことをふと思い出した美千花だ。 今日、本当は蝶子にそのことも相談したかったのだけれど。 何となく言い出せる雰囲気じゃなくて話せなかった。 ばかりか、自分の律顕に対する冷たい態度への彼からの反応を聞かれた時、「分からない」と言う曖昧な言葉で誤魔化してしまった。 恐らく蝶子に話した通り、律顕は怒ってはいないと思う。 でも……。 (愛想は尽かされたかも……) 美千花はそれを認めるのが物凄く怖いのだ。 現状、夫のことを生理的に受け付けられない癖して、律顕に対して身重な自分を置き去りにしないで?と至極身勝手な甘えを抱いてしまう。 *** 蝶子と別れて真っ直ぐ家に帰ろうとした美千花だったけれど。 天気も良いし、幸いつわりの症状も重くない。少しだけ遠回りをしてみようかな?と言う気持ちになった。 何より、こんな不安な思いを抱えたまま家に帰りたくなかったのだ。 (歩きながら気分転換しよ) フルーツや桃缶など、食べられそうなものを買って帰るのもいいかなと思って。 会社の近くの商店街に小さな八百屋があって、そこのフルーツが新鮮で安価なことを思い出した美千花だ。 (スーパーに行くと人に酔っちゃうし……『やおまさ』でアレコレ買って帰ろ) 『八百屋やおまさ』は「八百屋」と冠しているだけあって、小さな店舗ながら野菜や果物が種類豊富なだけでなく、パンや缶詰やちょっとした調味料など、結構八百万置かれている。 八百屋と聞いて思い浮かべる青果店というイメージより、どちらかと言うと商店に近い感じ。 最近は多くの店でレジ袋が有料になったけれど、美千花の記憶が正しければ『やおまさ』はまだレジ袋も無料のままなはずだ。 気持ちがすっかり〝やおまさ寄り道気分
「じゃあね、美千花。つわりが落ち着いた頃にまた会おうね」 ネット情報をみる限りではあと数週間もすればこの辛い症状から解放されるはずだ。 結局アイスクリームひとつまともに食べられなかった美千花は、蝶子に物凄い心配をかけてしまった。 水分はちゃんと摂れているし、家では〝吐いてもいいや〟ぐらいの気持ちで食べているからか、外出した時よりは色々口に出来ていると思う。 基本はフルーツや、今日みたいにアイス等口当たりのいい物に逃げてしまう美千花だったけれど、本人が思うよりもかなり、律顕に心配をかけているようで。 ここ一週間くらいは食事の支度をするのもニオイにやられてキツくて、律顕に不便な思いをさせてしまっている美千花だ。 なのに仕事で結構帰宅時間が遅めな律顕は、外で食べて帰ってくれていいのに、それをすることを潔しとしなかった。 「僕は美千花を一人にしておくのが凄く心配なんだ」 そう言ってデリバリーを頼んだり、どこかで買ってきたものを食べたり。 家事が出来ずに寝込んでいる美千花を決して責めたりはしない律顕だったけれど、正直家の中に食べ物を持ち込まれるのが美千花には辛かった。 でも、美千花が溜め込んだ家事を頼まなくても率先してこなしてくれる律顕を見ていると、そんなギスギスした事は到底言えない美千花だ。 「美千花も少し食べてみない?」 差し出される食べ物に、思わず眉間をしかめるたび、律顕は「ごめん。次こそは美千花が食べられそうなものを探してくるね」と辛そうな顔で笑うのだ。 察するに、律顕は自分が食べたいものを買ってきているのではなく、美千花が食べられそうなものを模索しているらしい。 *** あれはちょうど今から三日前。 律顕の甲斐甲斐しさに耐え切れなくなった美千花は、とうとう言ってしまったのだ。 「ね、律顕。私のことは気にしないで、律顕の好きなものを食べて来てくれていいんだよ?」 と。 ――出来れば外で食べて帰って来て欲しい。 そんな思いが我知らず言の葉に乗ってしまったことに気付けないまま夫を見つめたら、「美千花は僕が家にいるの、嫌?」と眉根を寄せられた。 「えっ?」 ただ単に食事についての希望を言っただけなのに、|律顕《り
蝶子から痛いところを突かれた美千花は、「分かんない」と正直な感想を漏らした。 「分かんないって……どういうこと?」 サンドイッチにかぶりついた蝶子が、意味不明とばかりに問いかけてくるけれど、そのままの意味なのだから答えようがない。 「う〜ん。うまく言えないんだけど。表面上はちっとも怒ってない、かな。だけどね、時々すっごく悲しい顔をされちゃうの」 先日の妊婦健診でのアレコレを思い出した美千花は、素直にあの時感じたままを蝶子に伝えた。 蝶子は少しだけ考える素振りを見せてから小さく吐息をつくと、「そっか。けどごめん。率直に言わせてもらうね」と前置きをして。 「話聞く限りだとさ、永……じゃなくて旦那さん。私からすると何だかめっちゃ不憫に思えるんだけど」 と、美千花にとってグサリと来る言葉を投げかけてきた。 「うん。私もそれで心が痛いの」 溶けて白い液体になりつつあるアイスを、食べるでもなくつつき回しながら溜め息を落としたら、 「妻の妊娠中に浮気する男も多いって言うじゃない? 美千花も気をつけなね?」 蝶子から声を低めてそう言われて、美千花は素直に「うん」と答えながらも心の中、(そんなの私が一番心配してるよ)とつぶやいた。 *** 「あ、そう言えばね」 美千花のお皿の中、バニラアイスが殆ど手付かずのまま液体になりつつあって。 それを(もったいないことしちゃったな)とか思いながら眺めていたら、ポタージュスープをひとくち飲んで、蝶子が話題を変えてきた。 「……ん?」 不毛な器から視線を上げて蝶子を見やると、「西園先輩、産休から復帰したんだよ」とか。 西園稀更は律顕と同期入社の女性社員だ。 元々は国内外を相手に化粧品を扱っている『すずかぜ化粧品』営業課で律顕と一、二位を争う成績を残していたやり手の営業だったそうだ。 だが入社後半年足らずで製品開発課に籍を移し、社で一番人気の売れ筋化粧水、「涼風の潤水」を企画開発した生みの親になった。 美千花が入社した時には、第一子の妊娠を機に第一線を退いて、比較的残業の少ない総務本部に籍を移した後で。 何を隠そう美千花と蝶子の教育係は西園稀更だ
「心臓もしっかり動いてて順調だったよ。今、イチゴぐらいの大きさだって」 白黒のエコー写真を見せたら、「すげぇ。ちゃんと頭と胴体と手足が分かるようになってる!」と律顕が嬉しそうに瞳を見開く。 「つわりがなかったら妊娠してるだなんて全然実感湧かないんだけど、ここにちゃんと居るんだよね」 お腹に触れながら言ったら、律顕がつられて手を伸ばしてきて。 なのに美千花は何だか彼に触れられる事に嫌悪感を覚えて、思わず身体を引いて避けてしまった。 瞬間律顕がとても悲しそうな顔をして。美千花は言い様のない罪悪感に包まれる。 丁度そこで受付けに呼ばれた美千花は、これ幸いと律顕から逃げるみたいに立ち上がった。 一階の総合カウンターにある会計窓口に持って行くようファイルを渡されて、美千花はすぐ背後に立つ律顕に「行こ?」と声を掛けた。 *** 今日はいつもより少しだけつわりの症状が軽かった美千花は、お昼に元同僚の奥田蝶子と待ち合わせをしてランチに出かけてみることにした。 正直ひとりで家に引きこもっていると、しんどさばかりに目がいって辛かったから、ほんのちょっぴり気分転換がしたくて。 幸い元職場と自宅はそんなに離れていない徒歩圏内。 お散歩がてらが楽しめるのもいいかな?と思った。 ランチと言ってもさすがに食事を摂る気にはなれなかった美千花だ。 お店では食べられそうなものを軽く口にすればいいよね、と開き直ることにした。 実際、美千花は何かを食べたかったわけではなくて、ただ単に話を聞いてもらいたかっただけだったから。 仕事を辞めてからの美千花は、家で夫と話す以外は、妊婦健診で医療従事者と話す程度。 美千花も律顕も実家は新幹線で五時間ぐらい離れた都市にあるため、お互いの両親や学生時代の旧友と話せる機会もほとんどない。 美千花がこちらで腹を割って話せるのは、同期入社で一緒に受付嬢をしていた蝶子ぐらいのものだ。 「――それでね、最近何だか律顕の事が嫌で嫌で堪らないの」 「え? それって……早くも離婚の危機ってこと?」 「違う違う。別に嫌いになったわけじゃないの。だけど……何だろう。距離を詰められることに生理的な嫌悪感を覚えてしまうというか」 結局固形物は食べら
「受付番号一四六番の方。第二診察室へお入りくださ〜い」 ここはこの町で唯一の総合病院。その中の診療科に属する、三〇近い科の中のひとつ『産科・婦人科』の待合室。 かつては市内に数カ所あったらしい子供が産める施設も、昨今の少子化の影響か、はたまた後継者が育たなかったからか、子供を産むことが出来る産科を有する病院は、ここともう一箇所の個人病院ひとつを残すのみとなってしまった。 永田美千花は初産なこと、自身の身体が一五一センチと小柄なくせに夫の律顕が、一八〇センチ近い長身なことを鑑みて、総合病院での出産を選んだ。 お腹の胎児が、二七〇〇g足らずで生まれた自分に似て小柄な赤ちゃんなら問題ないけれど、もしも三八〇〇g超えで大きく生まれた夫似の子だったなら、うまく産んであげられる自信がなかったからだ。 手にした受付番号を呼ばれて立ち上がったと同時、ほんの少しふらついて。 「美千花、平気?」 即座に横合いから律顕に腰を支えられて優しく問いかけられた美千花は、一瞬だけ眉根を寄せて「大丈夫。一人で行けるから……」と夫の腕をすり抜けた。 美千花は今、第一子を妊娠中だ。 九週を過ぎたばかりで見た目は全然妊婦に見えないけれど、身体的にはつわりが物凄くしんどい。 話には聞いていたけれど、においにとても敏感になって、中でもご飯が炊けるにおいが特にダメになってしまった。 それに加えて――。 あんなに大好きだった律顕のにおいにも過剰反応するようになった美千花は、彼に触れられるのも正直何だかゾワリとして無意識に避けたくなってしまう。 決して律顕の事を嫌いになったわけではないけれど、出来ればそばに寄らずにそっとしておいて欲しい。 (ごめんね、律顕) 彼を邪険にするたび、申し訳なさに苛まれるのに、気が付いたら素っ気ない態度を取ってしまっている。 律顕だって、そんな美千花の変化に気付いていないはずはない。 なのに不機嫌になることもなく、そればかりかまるで自分がいけなかったみたいに謝ってくれるから、美千花は余計に辛いのだ。 妊娠初期の妊婦健診は経膣エコー。 経腹エコーと違って、腹部にジェルを塗ってスキャナーを当てるわけではないので、律顕には診察室まで入ってきて欲しくない。