Masuk「つわりは治ってきたのにストレスかな。余り胃腸の調子が良くないの。ちょっと心配事があったら今みたいにキュゥッと差し込んで辛くって。だから食事も余り摂れてなくてこんな情けない事になっちゃった。ごめんね」
ついさっきまでは、認めたら終わりだと思っていた胃痛だったけれど、今はその事を律顕に話して弱音を吐いてもいいと思えた。
「こっちこそごめん。僕のちっぽけで情けない
言いながら律顕が躊躇なくナースコールを押すと、すぐさま美千花の枕元から「永田さぁ〜ん、どうなさいましたか?」と看護士の声がした。
「妻が胃痛を訴えて辛そうにしています」
律顕が答えて、「すぐ行きます」と声が返った。
「処置が済んだら、僕が今日一日会社を休んで何をしていたか、ちゃんと話すよ」
律顕が
丁度タイミングが合ったのだろうか。
結局病室にやって来たのは看護士ではなく、ナースを伴った伊藤医師だった。「先生……わざわざすみません」
胃が差し込むと言っても我慢出来ない程ではないのに、忙しい主治医の手を
「つわりも落ち着いてきたって話だったのに固形物が喉を通らないのは、そういう遠慮がちで気にしぃな性格のせいかな?」
何故かそこでチラリと律顕の方を見た伊藤から、「今日だってたまたまご主人と一緒だったから良かったようなものの。倒れた時に頭とか打ってたら
美千花は「え?」とつぶやいて伊藤と律顕を見比べた。
今日律顕は健診にだって一緒に来てはくれなくて、美千花はずっと一人だったはずだ。
処患者はその案内を見て、目当ての科へ行く前に検査センターで血液検査や尿検査等を済ませておかなければならないのか、それともそのまま診察を受ける科へ直行すればいいのかを判断する。 加えて、この病院では受付から会計に至るまで、名前の代わりに当日発行された整理番号で呼ばれるから。「うん」 美千花が首肯したのを確認した律顕が、「だから僕は再来機が見える位置でずっと君の事を待ってたんだ」と言って美千花を驚かせる。「そこからは君に見付からないよう気を付けながら、ずっと付かず離れず美千花の事を見守ってた」「嘘っ」 思わずつぶやいた美千花に、「ごめん。やっぱりストーカーみたいで気持ち悪いよね」と、律顕がしゅんとする。 美千花は、「だから言いたくなかったんだ……」と小声で付け加えて項垂れる律顕をじっと見詰めて。「確かに驚いたし……普通に付いて来てくれたら良かったのにって思ったよ?」 そう告げて、律顕を更に縮こまらせる。「でもね、気持ち悪いだなんて微塵も感じなかった! だって律顕。私の事を心配してくれての事だったんでしょう?」 知らない人にされたなら、確かに怖いし気持ち悪い。でも、相手は愛する夫だったから。 ニコッと笑ってそっと彼の手に触れたら、律顕がハッとしたように顔を上げて美千花を見た。「美千花、ここ最近ずっと調子悪そうだったから……」 診察が終わってからも、美千花の事が心配でそばを離れられなかったらしい。 だからなのだ。 美千花が失神した時、伊藤医師が言ったように、律顕がすぐさま手を差し伸べられたのは。 「律顕。私と赤ちゃんを守ってくれて有難う」 美千花の言葉に、律顕が泣きそうな顔をして「君が倒れた時、僕は本当に怖かった」とつぶやいて、美千花の枕元にポスッと額を押し付ける。 まるで情けない顔を見られたくないみたいに顔を伏せたまま動かない律顕の柔らかな髪をそっと撫でながら、 「心配掛けてごめんね」 美千花が言ったら「……うん」と小さな声が返った。 「美千花、迷惑かも知れないけど僕、向こう五日間程有給取ったから」 ややしてポツンとつぶやかれた声に、美千花はさっき稀更が言っていたやつかな?と思って。「しばらくの間、君はベッドから動けないって先生から聞いたんだ。――だから、何かして欲し
伊藤達が居なくなって、仕切りの中。 律顕と二人取り残された美千花は、改めて夫を仰ぎ見て口を開いた。「ねぇ律顕。今のって……どういう、意味?」 美千花が恐る恐る問い掛けたら、律顕は医者の診察に際して畳んで横に避けていたパイプ椅子を再度引っ張り出してベッド横に置いて。 そこに腰掛けて美千花と視線を合わせると、「ストーカーみたいで気持ち悪いって思われそうで言えなかったんだ……」 そう前置きをして口を開いた。「美千花、前回の健診の時、僕が付き添ったの、余り好ましく思ってなかっただろう?」「え、あ、あのっ、あれは……」 あの日、美千花は明白に夫を拒否したのだ。 勿論その気持ちを隠せていたとは思っていない美千花だったけれど、面と向かって問われたら素直に肯定出来なくて……口籠るようにオロつきながら謝った。「……その通りです、ごめんなさい」「別に責めてるわけじゃないから大丈夫。つわりのせいだったって今はちゃんと理解してるし、美千花にとっては仕方のない事だったって解ってもいるつもり。だからお願い、顔あげて?」 なのに律顕はどこまでも優しくて。その事が美千花には堪らなく申し訳なかった。「でも……私がきちんと気持ちを伝えられていたら、律顕を変に傷付けなかったと思う。……本当にごめんなさい。あの時は私、自分の事で一杯一杯で……律顕に優しくなかった」「有難う、美千花。僕はその言葉だけで十分だよ」 律顕は極々自然に美千花の方に手を伸ばすと、「僕も妊娠中の女性の事、ちゃんと勉強してなくて悪かったって反省してる。過去に関してはお互い様だからそこはもう今後に活かす教訓にしよう?」 そのままふんわり美千花の頭を撫でて微笑んで。 美千花はそんな律
「つわりは治ってきたのにストレスかな。余り胃腸の調子が良くないの。ちょっと心配事があったら今みたいにキュゥッと差し込んで辛くって。だから食事も余り摂れてなくてこんな情けない事になっちゃった。ごめんね」 ついさっきまでは、認めたら終わりだと思っていた胃痛だったけれど、今はその事を律顕に話して弱音を吐いてもいいと思えた。「こっちこそごめん。僕のちっぽけで情けない矜持もきっと、君を苦しめる原因になってるよね」 言いながら律顕が躊躇なくナースコールを押すと、すぐさま美千花の枕元から「永田さぁ〜ん、どうなさいましたか?」と看護士の声がした。「妻が胃痛を訴えて辛そうにしています」 律顕が答えて、「すぐ行きます」と声が返った。「処置が済んだら、僕が今日一日会社を休んで何をしていたか、ちゃんと話すよ」 律顕が躊躇いがちに美千花の頭をそっと撫でて。 美千花は久々に感じる夫の手の感触を心地良いと思いながら、コクッと頷いて目を閉じた。 *** 「――永田さん、お腹痛いって?」 丁度タイミングが合ったのだろうか。 結局病室にやって来たのは看護士ではなく、ナースを伴った伊藤医師だった。「先生……わざわざすみません」 胃が差し込むと言っても我慢出来ない程ではないのに、忙しい主治医の手を煩わせてしまった。 そう感じた美千花がしゅんとして謝ったら、「患者が医者に気を遣うものじゃない」と諫められた。「つわりも落ち着いてきたって話だったのに固形物が喉を通らないのは、そういう遠慮がちで気にしぃな性格のせいかな?」 何故かそこでチラリと律顕の方を見た伊藤から、「今日だってたまたまご主人と一緒だったから良かったようなものの。倒れた時に頭とか打ってたら大事だったよ?」と言われて。 美千花は「え?」とつぶやいて伊藤と律顕を見比べた。 今日律顕は健診にだって一緒に来てはくれなくて、美千花はずっと一人だったはずだ。 処
「あの、もしかして私がマスクして待ってた日も……」「……配慮が足りなくてごめんね、美千花。あれって家でもマスクしなきゃいけない程に僕のにおいがしんどくなってたって事だろ? それじゃなくても美千花は色々しんどそうなのに僕のせいで無理させて本当申し訳ないって思ってる。なのにどんなに外で時間を潰していても……どうしても君の顔を見に家に帰るのだけはやめられなかったんだ。――外で寝泊まりするとか……そんな事もしてあげられない様な中途半端な男でホントごめん。君が辛いならもっともっと風呂に入る頻度も上げる……。だから……えっと、一つ屋根の下にいるのだけはどうか許して欲しいんだ」「ちっ、違っ!」 流れるように滔々と言い募る律顕の暴走を止める為に思わず声を荒げたら、律顕がびっくりしたみたいに「……え?」とつぶやいて言葉を止めた。 あの日だけじゃなくて他の日も。 美千花は律顕に歩み寄りたくてアレコレ頑張っていたのに……。 律顕は律顕で美千花に嫌な思いをさせない事ばかりに気を取られて、必死に距離をあけようとしていたんだと気付いたら、「愛想を尽かされたに違いない」と落ち込んで距離を詰められなかった自分にほとほと嫌気がさした美千花だ。「私、今みたいに律顕と腹を割って話し合いたかっただけなの。あの時は確かにまだにおいに敏感だったから……マスクで緩和しようとして貴方に変な誤解を与えてしまったけれど。……私こそ配慮が足りてなかったね。本当ごめんなさい」 ただ単にちゃんと向き合って、思っている事を洗いざらい話したかっただけなのだ。「……嘘だろ」「嘘じゃないよ?」「今日の健診も……私、本当は一緒に来て欲しかったの。診察待ちの時とか行き帰りの車の中とか……ちょっとでも律顕と話せたらいいなって思ってたのに……」 仕事だと嘘を吐いて、律顕は今日一日どこで何をしていたんだろう? 忘れかけていた疑念が沸々と蘇ってきて、美千花はにわかに怖くなった。 稀更とどうこう言う事はなかったのかも知れないけれど、去り際の彼女の言葉を思うと、別に女性がいた可能性だって否定出来な
「私が離婚した原因は、二人で話し合うべき事を色々放置してしまった結果なの。永田君も貴女も……お互い言うべきことを言えてなくてまるで私達を見てるみたいで……つい口出ししたくなっちゃった。ね、お願いだから……どうか貴女は間違えないで? でないと私――貴女を私みたいに夫を寝取られた不幸な女にしたくなっちゃう」「えっ」 その言葉に思わず声を上げた美千花に、稀更がどこか悲しそうな笑顔を向けて。 今度は律顕にも聞こえるくらい声のトーンを上げて言い放った。「大丈夫。二人はまだ間に合うから。ちゃんと話し合って、悪い奴らに付け入る隙を与えないで? 自覚してないだろうけど二人とも異性からの人気、高いんだからね?」 まるで自分自身に言い聞かせるみたいに発せられた言葉とその表情に、美千花は勘違いなんかじゃなく、稀更は夫の事が好きなのかも?と思ってしまった。 ニコッと微笑んで「じゃあね」と手を振って去っていく稀更に、律顕が「隙なんか作らねぇし、与えさせるつもりもねぇよ」とつぶやいて。 その、いつもとは少し雰囲気の違う口調と凛とした横顔に、美千花は改めて〝この男の事が好きだ〟と実感させられた。 *** 「すまない、美千花。嫌な思いしなかった?」 稀更の気持ちに勘付いて、我知らずキュッと身体をすくませていた美千花に、律顕がいつも通り表情を和らげて優しく問いかけてから、床頭台の上に持っていた荷物を置いた。 美千花がコクリと頷くのを見てホッとしたように「良かった」とつぶやいてから、 「下着とかよく分からなかったから適当に詰めてきたけど……気に入らなかったらごめん。それと……準備する為に君の引き出しを勝手に開けさせてもらったよ?」 と眉根を寄せる。 確かに下着類を律顕に見られたと思うと少し恥ずかしかった美千花だけれど、夫婦だからそんなの構わないはずだ。 それに、何より今は緊急事態。 なのにわざわざそんな事を気にして謝ってくれる律顕が、普段から如何に自分に配慮してくれ
「一人目の時にはつわりなんて全然なかったから大丈夫だとタカを括ってたら何の事はない。二人目はガラッと体質が変わったみたいにしんどくて参っちゃった」 そこで稀更は美千花を慈愛に満ちた目で見詰めると、 「とにかくニオイに過敏になったのが辛かった」 稀更の言葉に、美千花は「分かります」と実感を込めて頷いた。「永田君が私に美千花さんのつわりの相談をしてきたのもきっと、私が当時しょっちゅう休んでいたのを覚えていたからだと思う」 身近な女性で、聞けそうな相手が稀更しかいなかったから、自分が相談先に選ばれただけだと言外に含めるようにして、「最終的には奥さん本人にどうして欲しいか聞きなさいよ?って言ったんだけどね」と吐息を落とした。「そういえば西園先輩……律顕に何てアドバイスをなさったんですか?」 さっき聞けなかった事を聞くチャンスだと思った美千花だ。 じっと稀更を見つめて真剣な顔をしたら、 「あくまでも私の場合はだよ?って前置きして言ったの。『旦那のニオイが堪らなく嫌だったからそっとしておいて欲しかった。自分から極力離れていて欲しいって思ってた』って」 言ってから、「ごめんね。もっと別の言い方をすれば良かったって反省してる」と稀更が頭を下げてきた。 先程も、稀更から「ごめんなさい」とその事で謝られたのを思い出した美千花だ。 フルフルと首を横に振って、「私と律顕に会話が足りていなかったのが全ての元凶です」と、ずっと心の奥底に引っかかっていた事を告白した。 実際、今稀更が告げた言葉はあながち間違ってはいない。 寧ろ、美千花自身が律顕に対して抱いていた不満とピッタリ合致しているくらいだ。 ただ、問題があるとすれば――。「私からちゃんと言えていたら……つわりが収まるまでの間だから、申し訳ないけどワガママを許してね?って付け加えられていたと思います」 そこがなかったから……きっとこんなにも拗れてしまったんだと思う。 ***







