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第5話:茨の舞踏会

Author: Misa
last update publish date: 2026-04-12 23:09:33

喉の奥を焼くようなワインの残糖感と、それ以上に重苦しい屈辱が、私の胃の腑を冷たく満たしていた。

『サラ・ディ・バンケット』に集った『テスタ・ネーラ』の男たちの視線は、もはや私を人間として扱ってはいなかった 。彼らの目に映っているのは、ボスの膝上に鎮座する美しい剥製――あるいは、かつての支配者階級であるヴァレンティーノ家の誇りを、徹底的に踏みにじった末の「戦利品」である。

「……リリー。その顔を上げろ。お前は今、この街で最も力を持つ男の隣にいるのだ。それとも、まだあの無能なロレンゾの亡霊に抱かれている方が良かったか?」

ダンテの低く、毒気を含んだ声が耳元で鳴った。

彼の繊細だけど冷たい指先が、私の細い首筋をなぞる。先ほどまで老人の命を奪う合図を送っていたその指先は、今はまるで愛おしい宝物に触れるかのような繊細さを含んでいる。その不気味なほどの二面性が、私の中に消えない悪寒を走らせる。

広間に流れる音楽が、重厚な弦楽器の旋律へと変化した。それは、死を悼むためのレクイエムのようでもあり、これから始まる残酷な儀式への序曲のようでもあった。

ダンテは、私を膝から下ろし、ゆっくりと立ち上がった。漆黒のタキシードに身を包んだ優雅な立ち姿は、この血生臭いヴィラの支配者として完璧な威厳を放っている。彼は私に向かって、静かに、しかし拒絶を許さない所作で手を差し伸べた。

「さあ、踊るぞ」

「……この姿で? あなたに繋がれたまま?」

私が緋色のドレスの裾を震える指で掴むと、その隙間から黄金の足枷が微かに輝いた。鎖は外されているとはいえ、足首を締め付けるその冷たい輪の重みは、私が彼の所有物であることを一刻たりとも忘れさせてはくれない。

「そうだ。その鎖の重みこそが、お前の新しいアイデンティティだ。テスタ・ネーラの女王として、その重みを誇らしく引きずりながら歩け」

抗う余地など微塵もなかった。

私は彼の手を取り、広間の中央へと引き出された。数十人の手下たちの視線が、私たちの所作のひとつひとつを射抜くように追ってくる。彼らにとって、このダンスは単なる余興ではない。ボスの権力がいかに盤石であり、かつての敵対者の娘がいかに無力であるかを確認するための検分なのだ。

ダンテの右手が私の腰に回り、強く引き寄せられた。密着した彼の身体からは、洗練された白檀の香りと共に、再びあの記憶を揺さぶる柑橘の香りが漂ってくる。

――なぜ……? どうして、この怪物が、私の記憶の奥底にあった香りを纏っているの?

たぶん、雨の日だった気がする……。そこで出会った優しい目をした少年が、その香りをまとっていた。

その記憶の中の光景と、目の前で冷酷な殺戮を命じる男の姿が、私の脳裏で激しく火花を散らして衝突する。

ステップを踏むたびに、足首の足枷が皮膚を擦り、重く鈍い痛みが走った。それはまさに、茨の道を歩まされているような感覚だった。ストッキングの下で、確実に私の肌は擦れて赤くなり、晴れ上がりはじめているかもしれない。だが、ダンテはその苦痛を承知の上で、さらに激しく、私を翻弄するようにリードを速めた。

「足首が痛むか、リリー。その痛みは、お前が生きている証だ。俺の手の中で、俺の与える苦痛だけを糧にして生きろ」

彼の瞳は、獲物を追い詰める猛禽類のように鋭く、それでいて深い孤独の色を湛えていた。その時、広間の隅で冷徹な視線を送り続けていたアントニオの隣に、一人の女が近づくのが見えた。

彼女の名は、確か……カミッラだった。テスタ・ネーラの幹部の一人であり、ダンテの手下の中で『黒い魔女』とあだ名される女だ。彼女のまとうドレスはそのあだ名に相応しく、まるで夜の闇を切り取ったかのような黒。彼女は、ダンテに翻弄される私を、燃えるような嫉妬と侮蔑の入り混じった眼刺しで見つめていた。

曲が最高調に達し、ダンテが私を強く抱きしめてターンさせた瞬間、カミッラが優雅な、しかし挑発的な足取りで私たちの進路を遮るように立ち塞がった。

「ボス。このような宴の最中に失礼いたしますが、お客様をお待たせしすぎるのは『テスタ・ネーラ』の流儀に反するものではなくて?」

彼女の声は、氷の破片を散りばめたように鋭かった。彼女の視線はダンテの肩越しに、私の足首の辺りを突き刺している。

「カミッラ。俺のダンスを邪魔する権利が、お前にあると思っているのか?」

広間の熱気が、一瞬にして氷点下まで下がる。しかし、カミッラは怯むことなく、冷ややかな笑みを浮かべた。

「滅相もございません。ただ、その『小鳥』の足に繋がれた黄金が、あまりに眩しかったものですから。……ヴァレンティーノの娘にそのような贅沢な飾りを与えるより、もっと相応しい『躾』があるのではないかと、幹部一同も案じておりますのよ」

カミッラの言葉に、周囲の男たちの間に同調するような不穏な囁きが漏れた。彼らにとって、私はいつまでも「殺すべき敵の娘」であり、ボスが溺愛する対象であってはならないのだ。

ダンテは無言のまま、私の腰を抱く力を強めた。その腕の強さは、私を庇っているのか、あるいは逃がさないための拘束なのか判別がつかない。

「躾だと? カミッラ、お前は勘違いをしているようだな」

ダンテは一歩踏み出し、カミッラの喉元に顔を近づけた。その立ち居振る舞いは、一瞬で相手を食い殺しかねない野獣のそれだった。

「この女をどう扱うかは、俺が決める。お前たちの役割は、俺の獲物が死なないように、外敵を排除することだけだ。もし次に、俺の許可なくこの女に言葉を投げかける者がいれば、その舌を根元から引き抜いてやろう」

「…………」

ダンテに見据えられ、カミッラの顔から血の気が引いていくのがわかった。彼女は深々と一礼し、屈辱を噛みしめるようにしてその場を去っていった。

「興が覚めたな……。お開きとしよう」

ダンテは再び私に向き直って手を取ると、何事もなかったかのように手下たちに背を向け広間を後にした。

部屋に戻った後、ダンテは私をベッドへと押し倒すことはしなかった。彼は無言で私の前に跪くと、私の右足首を掴み、その緋色のドレスを静かに捲り上げた。

「……っ」

ストッキングが破れ、黄金の足枷が食い込んだ箇所から、うっすらと赤い血が滲んでいた。ダンテはその傷を見つめ、指先で震えるように触れた。

その時、私は目撃した。

冷酷な死神であるはずの彼の瞳が、深い海のような悲哀に沈み、その表情が、まるでお気に入りの宝物を壊してしまった子供のように、痛ましく歪むのを。

「……なぜ、痛いと言わなかった」

その声は、広間での威圧的な響きとは正反対の、掠れた、消え入りそうなものだった。

彼は傍らのサイドテーブルから救急箱を取り出すと、驚くほど丁寧に、私の傷を消毒し始めた。冷たい薬が傷に染みる。けれど、それ以上に、私の心を掻き乱したのは、私を傷つけた張本人である彼が、誰よりもその傷を痛がっているように見えることだ。

「痛いと言ったら……やめてくれたの?」

「…………」

ダンテは私の問いかけに応えようとせず、ただ無言で治療を続けた。

――この人は……いったい、誰なの?

私の記憶の奥底にいた、少年が育った姿? だけど、それにしてはあまりにも印象がかけ離れすぎていた。

ダンテは手当てを終えると、再び私の足首に黄金の鎖を繋ぎ直した。だが、その手つきは、先ほどまでとは違い、鎖を極限まで緩め、私の肌を傷つけないように配慮されていた。

「明日の朝まで、ここで自らの罪と向き合え。……そして、俺無しでは生きられないことを、その身体に刻み込むがいい」

彼は、そう冷たい言葉を私に投げかけて部屋を出て行った。

ドアが閉まり、錠が降りる重い音が響く中、私は鎖に繋がれたまま、足首に残る彼の指の温もりを消せずにいた。

あの時、彼は確かに泣きそうな顔をしていた。

記憶の香りと、手首の傷跡、そしてあの悲しげな瞳。

私の知らない『真実』が、このヴィラ・ディ・カリゴラの闇の中に、深く、重く沈んでいる。そう、私は確信し始めていた。

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    「う、うん……」意識に霞がかかったように、視界がぼやけていた。ゆっくりと意識が戻ってくると、今度は割れるような頭痛がこめかみを突き、思考の断片をかき乱す。「くっ……。ここは……」見知らぬ暗い天蓋に覆われたベッドに調度品のおかれた部屋。ゆっくりと辺りを見回すと、天蓋から滴り落ちるように垂れ下がる最高級の絹の飾りが、柔らかな陰影を描き出している。部屋の隅々には、かつてヴァレンティーノ家が没落の道を辿る前ですら目にしたことがないほど、贅の限りを尽くしたアンティークの調度品が整然と並んでいた。寝かされていたベッドのシーツも肌触りがよく、清潔さが感じられた。落ち着いた大人の部屋……と言ったらいいんだろうか?ただ、鉛のような重苦しい沈黙が部屋のすべてを支配しており、せっかくの調度品が醸し出す雰囲気のすべてを台無しにしている気がしてならない。頭痛を堪えながら上半身を起こすと、ふわりと鼻腔をくすぐったのは、高貴な白檀と古い紙が混ざり合った、静謐でいてどこか威圧的な香りだった。そうした中で一番異質なものは、私の身体から微かに漂う赤錆びた鉄の匂い。血の匂いだ……。それだけで、あの大聖堂での惨劇が現実だったと思い起こさせる。「……夢では、なかったのね」心を落ち着かせるために漏らした声は掠れていた。さらに身体を動かそうとした瞬間、右の足首に覚えのない不快な重みと耳障りな金属音を感じた。引きずられるような違和感に、私は頭痛を忘れ、震える手で掛け布団を跳ね除けた。その刹那、視界に飛び込んできたのは、私の細い足首を無慈悲に締め付ける、鈍く光る黄金の足枷とそれをつなぐ鉄の鎖だった。昨日までの私を縛っていたのは、一族を救うための「生贄」という目に見えない契約の鎖だった。だが、今この肌を蝕んでいるのは、冷たく硬質な、物理的な支配の象徴の鉄の鎖だ。鎖の端は大理石の床を蛇のように這い、光の届かない部屋の奥深くに吸い込まれていた。ただ、どこかに繋がれて固定されていることくらい想像がつく。指先でその冷徹な金属に触れると、指から伝わる温度の低さが、これが決して覚めることのない悪夢であることを冷酷に突きつけてきた。全身から血の気が引いていくのが分かる。「そうだ……私は、ダンテに囚われたんだ……」ダンテは「お前は今日から、俺の檻の中で過ごすんだ。一生、出られない檻の中で」

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