تسجيل الدخول翌日、目覚めた時から、ヴィラ・ディ・カリゴラの空気は静かな嵐の到来を予感させるような、肌を刺す緊張感に包まれていた。
――いったいなにが……? そう思ったものの質問しようにもダンテは朝から姿を見せず、質問してもなにひとつ応えない人形のようなメイドしかおらず、私は訝しんだ気持ちのまま時を過ごしていた。 黄昏時、私の部屋に数人の無言のメイドたちが現れ、続いてダンテが姿をみせた。 彼は昨日とは趣を変え、完璧に着こなしたスリーピースのタキシードを纏っている。その佇まいは、血塗られたマフィアのボスというよりは、むしろ領地を統べる冷徹な貴公子のようだった。 「着替えさせろ。そうだな……足枷を残したまま鎖は外してやれ。客人の目に触れぬよう、足枷は完璧に隠すことを忘れるな」 ダンテが拒絶を許さない口調で命令を下すと、メイドたちが一斉に私を取り囲み、機械的な手つきで身支度を始めた。私の自由を奪っている鎖は外されたものの、右足首に嵌められた黄金の足枷から解放されることはなかった。それは長い絹のストッキングと、幾重にも重なるドレスの裾の暗がりに、冷たく潜まされた。 これじゃ、はしたなくスカートをたくし上げでもしない限り、足枷の存在が他人に知られることはないだろう。 彼が私に宛がったのは、昨日の純白とはあまりに対照的な、鮮烈な緋色のドレス――ヴェスティート・ロッソだった。鏡の中に映る私は、自らの鮮血で全身を染め上げたかのような、痛々しくも妖艶な姿をしていた。 「……似合っているな」 返事をする代わりに私は鏡越しにダンテを射抜くように睨んだけど、彼は気にした様子もなく、私にゆっくりと近づき、背後から私の髪を掬い上げた。 そのひんやりとした指先が、剥き出しになった首筋に触れる。 革手袋越しではない、彼の素肌の指先の冷たさが伝わってくる。 だが、その瞬間に私の心臓を跳ねさせたのは、恐怖だけではなかった。 至近距離になった彼の身体から、昨日感じた白檀の香りの奥に、微かに別の芳香を感じ取った。それは、爽やかで、けれどどこか胸を締め付けてくる懐かしさを感じる香り。そう、柑橘系の香りだ。 どこかで嗅いだことのある香り……。 私の記憶の奥底にある香りだった。だが、なぜそんな古い記憶とダンテがつながるのか? 彼の手首についた傷痕……。 そして、この微かな柑橘系の香り……。 私は過去に、ダンテに会っている。 そう確信した私は振り返り、彼の手に触れようと指を伸ばした。 「ダンテ、あなた――」 しかし、私の言葉が形を成すより早く、平穏は暴力的に引き裂かれた。 重厚なドアが激しく叩かれ、険しい顔をした男性が蒼白な面持ちで室内に飛び込んできた。 「アントニオ。慌てているのは分かるが、ノックをしたら返事を待て」 「す、すみません! だが、ボス、緊急事態なんだ! やっぱりトラディトーレがいたんだ!」 トラディトーレ……裏切者のことだ。 アントニオの報告に、ダンテの表情から一瞬にして人間味が消え失せて氷のような冷徹さに包まれた。その瞬間、私に向けられていた微かな執着も、懐かしい記憶を呼び起こした柑橘系の香りも、すべてがその中で凍りついていく。 「それは……誰だ」 「……ペドロです。リリー様の父親の元側近だった」 「……ッ!?」 その名を聞いた瞬間、私は息を飲み、全身から血の気が引いくのを感じた。 ペドロ。幼い頃の私を膝に乗せて絵本を読んでくれた、父に忠実だったはずの心優しい老人。その彼が……裏切り者だったなんて? 「なにをしたか、もう吐かせたか?」 「ええ……。武器庫の電子ロックの暗号を外部に漏らしていました。あと、今夜、忍び込んでくる奴らの侵入を手助けする予定だったらしいです」 「ヤツと話せるか?」 「ここで……ですか? できますが……」 アントニオは私に視線を向けながら、言葉を濁した。 でも、ダンテはお構いなしに壁に埋め込まれた大型のモニターのスイッチを押した。 「ここに映せ」 「分かり……ました……」 アントニオがスマートフォンを操作すると、部屋の大型モニターに映像が映し出された。 そこは薄暗い部屋だった。モニターの前には、全身ずぶ濡れになった裸の老人が、両手を縛られて鎖で天井からぶら下げられた姿が見えた。ただ、ずぶ濡れなだけで、身体に傷ひとつない。そう安堵したのも束の間、彼の全身が映されるや、その異形さに私は息を飲み凍り付いた。 膝から下が……まるで、巨大な茄子にでもなったかのような、赤紫色のブヨブヨとした何かに変わっていた。 「拷問を見るのは初めてか? 自白をさせる場合、話すのに支障をきたす腹部より上をあまり痛めつけないのが鉄則だ」 老人の隣に立ったダンテの手下の手には、大量の血がこびりついた金属製のハンマーが握られており、手下はそれを振り上げて老人の脛を叩いた。 「ぐあああああああああっ!」 モニターのスピーカーから絶叫が響いてきた。 「ダンテ、やめて! 彼はただの老人よ、何かの間違いだわ!」 私は彼に縋り付き、必死に訴えた。だけど、彼は私の腕をつかみ、そっけなく振り払った。その瞳には、冷酷さ以外微塵も残されていない。 「リリー。間違いは……ない」 「だって……」 「これが我々の世界の、唯一にして絶対の規律だ。裏切りには、死。それ以外に、テスタ・ネーラを統べる術はない」 ダンテは私の顎を強引に掴み、逃げ場を奪うようにモニター画面を直視させた。 「よく見ておけ。これは、お前に対する裏切りでもあるんだぞ」 「私に対する……裏切り……」 お前が俺の下にいることは、ペドロも知っている。それでも敢えて裏切ったという事実は揺らがない」 「それは……」 「ペドロ。お前のお嬢様もここにいるぞ。なにか言い残すことはないか?」 お嬢様と聞き、ペドロの苦痛に満ちた顔にそれ以外の感情が見えた気がした。 「お嬢様……。お許しを……」 「許しを請う相手が違うだろう? お前が漏らしたのは武器庫の暗唱番号と襲撃の手引きだけか?」 モニターの中でペドロの唇が、何かを許しを乞うように動いたが、それは声にはならなかった。 「裏切りには死を」 ダンテが冷たく言い放った直後、銃声が暗い室内に轟いた。 モニターの向こう側で、大口径の拳銃で頭を撃ち抜かれたペドロの身体が振り子のように激しく揺れた。画面越しであっても、飛び散った鮮血の熱さが伝わってくるようだった。 「……あ、ああ……っ!!」 私は悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。溢れ出す涙が、緋色のドレスをさらに深く、暗く染め上げていく。過去の記憶は瞬時に硝煙と死の記憶に掻き消されていった。 ダンテは私の前に跪き、咽び泣く私の頬を、再び冷たい革手袋の手で撫で上げた。 「さあ、リリー。コンヴィーヴィオの時間だ。泣くのは止めろ。お前は今日、テスタ・ネーラの女王として、俺の隣に立つ」 彼の声は、もはや深淵から響く呪いのようだった。 「俺以外の誰かが、お前を傷つけることは許さない。……だが、俺の意志に背くならば、お前の周囲は、この老人のように消え失せることになる」 彼は私を強引に抱き起こした。 私は、より逃れようのない漆黒の闇の中に踏み込まされていた。肌を刺すような硬質な冷たさが、うなじから脳へと突き抜けていく。ヴィラ・ディ・カリゴラの夜は、深い海の底のように静まり返っていた。バルコニーから吹き込む風が、薄い夜着を冷たく揺らす。私は窓際の石柱に顔を押し付けられるようにして固定され、背後から放たれるダンテの圧倒的な威圧感に、指先ひとつ動かすことができずにいた。私のうなじに無慈悲に押しつけられているの物は、漆黒の自動拳銃Cz75の銃口。微かな火薬と機械油の匂いが、死の予感をより鮮明なものに変えていく。背後でカチャリと撃鉄を上げる、死を呼ぶ乾いた金属の摩擦音が私の鼓膜を打ってきた。「……お前は、何を見た?」ダンテの声は、深淵の底から響く葬送の鐘のようだった。バルコニーから差し込む青白い月光が、私たちの不気味な影を床に長く伸ばしていく。私の背中に、彼の強靭な肉体の熱が押し当てられ、同時にうなじに突きつけられた銃口が、一瞬の容赦もなく私の生存本能を凍りつかせていた。彼の瞳の奥に揺らめくのは、数えきれないほどの命を奪い、血の海を渡ってきた者だけが宿す、底なしの虚無と狂気だった。――答えなければ殺される……。私は震える唇を必死に動かし、掠れた声を絞り出した。「み……見たわ……。あの銀のトレイの上にあったもの。私の母の形見のペンダントよ!」一度声が出てしまえば、あとは留まることなく言葉がこぼれ出た。「なぜ、あなたがあのペンダントを持っているの!? あれは、あの雨の日に奪われたものなのに!」その瞬間、うなじに押し当てられていた銃口がの圧が緩んだのを私は感じ取った。背後にいるダンテの呼吸が一瞬だけ止まり、自らが聖域のように守り抜いてきた過去を侵されたことへの怒りと、決して暴かれてはならない秘密を晒されたことへの恐怖で、その強靭な精神がほころびを生じさせているようだった。「……お前は……それを……」「ええ、憶えているわ! 忘れることはなかった! あの雨の記憶を……」私は彼の右手首に刻まれた、あの三日月形の傷痕を思い浮かべながら言葉を続けた。その傷痕は、かつて名も知らぬ少年を救おうとした私の未熟な善意が刻みつけた消えない刻印だった。「あなたが……あの時の少年なの? 私が父に内緒で助け、温かなスープを飲ませたあの子なら、なぜ私にこんな仕打ちをするの!?」背後から、ダンテの激しい動揺が伝わってくる。彼
ヴィラ・ディ・カリゴラの夜は、深い海の底のように静まり返っていた。窓から差し込む青白い月光が、部屋の隅々に鋭い陰影を落としている。緋色のドレスを脱ぎ捨て、用意されていた薄手の寝衣を纏った私は、ベッドの上で膝を抱えて座り込んでいた。右足首を締め付ける黄金の足枷は、ダンテが手当てを施してくれたおかげで、皮肉にも今は私の肌を優しく保護するように、熱を持った脚を冷やしていた。――いったい……なんなの?ダンテのあの優しさと表情を思い出すたびに、私の心が掻き乱されていく……。パーティでは大勢の前で私を『所有物』として扱い、私の家門を嘲笑い、そして監獄では慈悲を乞う老人の命を無残に奪っていた。その同じ男が、なぜ私の小さな傷に、あのような痛ましい表情を浮かべたのか……。様々な思いが脳裏をよぎり、どんどん頭が冴えていく。こんな状態で、眠りに就けるはずもない。思考が迷宮の中を彷徨い、閉塞感に耐えきれず、私はベッドを抜け出した。動くたびに鉄の鎖が、大理石の床の上でジャラジャラと耳障りな音を立て、重い抵抗を脚に感じさせる。その音は、私がどれほど足掻こうとも、この檻から逃げ出すことはできないという現実を、一音ごとに突きつけてくる。その時、壁の奥から、低く掠れた声が聞こえてきた。 それは、言葉というよりは、苦痛に耐える獣の呻きに近いものだった。――隣の部屋……。バルコニーから覗けないかな?私は息を潜めてバルコニーの掃き出し窓を開け、音のする隣の部屋へと足を進めた。もちろん、鎖が音をたてぬよう、慎重に……。鎖は十分に長く、隣の部屋との境界近くまで辿り着くことができた。その部屋のバルコニーに続く掃き出し窓は、夜の冷えた空気を入れるためなのか、薄く開けられていた。思い切り身体を伸ばして、その窓から室内を覗き込む。そこは、ダンテの私室、あるいは書斎のようだった。室内は明かりこそ灯いていなかったが、窓から差し込む月明かりが、暗い部屋を青白い光で照らしだしていた。隙間から覗いた光景に、私は呼吸を忘れた。そこには、漆黒のシルクシャツのボタンを外したダンテが、古びたソファに身を沈めて横たわっていた。休んでいるのだろうが、その姿はいつものダンテとは違っていた。彼は、冷酷な「死神」の仮面を被っていなかった。額には大粒の汗が浮かび、その美しい顔は、逃れられない悪夢に苛まれて
喉の奥を焼くようなワインの残糖感と、それ以上に重苦しい屈辱が、私の胃の腑を冷たく満たしていた。『サラ・ディ・バンケット』に集った『テスタ・ネーラ』の男たちの視線は、もはや私を人間として扱ってはいなかった 。彼らの目に映っているのは、ボスの膝上に鎮座する美しい剥製――あるいは、かつての支配者階級であるヴァレンティーノ家の誇りを、徹底的に踏みにじった末の「戦利品」である。「……リリー。その顔を上げろ。お前は今、この街で最も力を持つ男の隣にいるのだ。それとも、まだあの無能なロレンゾの亡霊に抱かれている方が良かったか?」ダンテの低く、毒気を含んだ声が耳元で鳴った。彼の繊細だけど冷たい指先が、私の細い首筋をなぞる。先ほどまで老人の命を奪う合図を送っていたその指先は、今はまるで愛おしい宝物に触れるかのような繊細さを含んでいる。その不気味なほどの二面性が、私の中に消えない悪寒を走らせる。広間に流れる音楽が、重厚な弦楽器の旋律へと変化した。それは、死を悼むためのレクイエムのようでもあり、これから始まる残酷な儀式への序曲のようでもあった。ダンテは、私を膝から下ろし、ゆっくりと立ち上がった。漆黒のタキシードに身を包んだ優雅な立ち姿は、この血生臭いヴィラの支配者として完璧な威厳を放っている。彼は私に向かって、静かに、しかし拒絶を許さない所作で手を差し伸べた。「さあ、踊るぞ」「……この姿で? あなたに繋がれたまま?」私が緋色のドレスの裾を震える指で掴むと、その隙間から黄金の足枷が微かに輝いた。鎖は外されているとはいえ、足首を締め付けるその冷たい輪の重みは、私が彼の所有物であることを一刻たりとも忘れさせてはくれない。「そうだ。その鎖の重みこそが、お前の新しいアイデンティティだ。テスタ・ネーラの女王として、その重みを誇らしく引きずりながら歩け」抗う余地など微塵もなかった。私は彼の手を取り、広間の中央へと引き出された。数十人の手下たちの視線が、私たちの所作のひとつひとつを射抜くように追ってくる。彼らにとって、このダンスは単なる余興ではない。ボスの権力がいかに盤石であり、かつての敵対者の娘がいかに無力であるかを確認するための検分なのだ。ダンテの右手が私の腰に回り、強く引き寄せられた。密着した彼の身体からは、洗練された白檀の香りと共に、再びあの記憶を揺さぶる柑橘の香りが漂
薄暗い回廊――ヴィラ・ディ・カリゴラを貫く長い回廊は、重く冷たい沈黙に支配されていた。壁に飾られた数々の絵画の中の人々の視線が私に向けられ、地獄へ足を踏み入れたこの身を冷笑しているように思える。足首はアンクレットとは思えない太さの黄金の足枷が、歩を進めるごとにその重い存在感を伝えてきていた。ダンテの命令により鎖こそ外されてはいるものの、右足首を締め付ける黄金の足枷は、私の皮膚にその支配の証を深く刻み込んでいる。絹のストッキングと、鮮烈な緋色のドレス『ヴェスティート・ロッソ』の豊かな裾に隠されたソレは、歩くたびに私の自由を否定する魂の鎖の残響を脳裏に響かせる。「……怯えることはない、リリー」耳元にかけられた突き刺さるような低い声が、私のうなじを震わせた。ダンテは私の腰を抱き寄せて支えるようにして歩き、その体温で私を外界の空気から遮断していた。彼の掌からは、先ほどモニター越しに一人の老人の命を無慈悲に奪い去ったばかりとは思えないほどの熱が伝わってくる。私は応えず、ただ前方に見える重厚な黒檀の扉を見つめていた。唇を噛み締めると、まだそこにはあのスープの忌まわしくも安らぐような後味が微かに残っていた。扉の両脇に立つ、彫刻のように動かない守衛たちが、主の到来を察して両開きの扉を押し開いた。回廊とは打って変わって、眩しい光に包まれた華やかな世界。そこは『サラ・ディ・バンケット』――テスタ・ネーラの宴を司る広間だった。 視界に飛び込んできたのは、無数のクリスタル・シャンデリアが放つ暴力的なまでの光の礫と、それに照らし出された数十人の男たちの、こちらを値踏みし、射貫くような視線の嵐。テスタ・ネーラの有力者たちが、長く重厚な長方形のテーブルの左右に座していた。広間に充満しているのは、高価な葉巻の葉が焼ける匂いと、熟成されたワインの芳香。そして、その奥に潜む、暴力に慣れきった者たちが放つ特有の血生臭さだ。私たちが足を踏み入れた瞬間、それまで場を騒がせていた談笑は凍り付いたように静まり、ひりつく緊張感が室内を支配した。「諸君、待たせてしまって申し訳ない」ダンテの声が広間の静寂を破った。大して大きくもない声だったのに、その声は部屋の隅々まで響き渡ったのか、部屋の端々に立つ護衛の者たちは、緊張して身を引き締めた様子だった。彼は私を連れたまま、カポターヴォラと呼ば
翌日、目覚めた時から、ヴィラ・ディ・カリゴラの空気は静かな嵐の到来を予感させるような、肌を刺す緊張感に包まれていた。――いったいなにが……?そう思ったものの質問しようにもダンテは朝から姿を見せず、質問してもなにひとつ応えない人形のようなメイドしかおらず、私は訝しんだ気持ちのまま時を過ごしていた。黄昏時、私の部屋に数人の無言のメイドたちが現れ、続いてダンテが姿をみせた。彼は昨日とは趣を変え、完璧に着こなしたスリーピースのタキシードを纏っている。その佇まいは、血塗られたマフィアのボスというよりは、むしろ領地を統べる冷徹な貴公子のようだった。「着替えさせろ。そうだな……足枷を残したまま鎖は外してやれ。客人の目に触れぬよう、足枷は完璧に隠すことを忘れるな」ダンテが拒絶を許さない口調で命令を下すと、メイドたちが一斉に私を取り囲み、機械的な手つきで身支度を始めた。私の自由を奪っている鎖は外されたものの、右足首に嵌められた黄金の足枷から解放されることはなかった。それは長い絹のストッキングと、幾重にも重なるドレスの裾の暗がりに、冷たく潜まされた。これじゃ、はしたなくスカートをたくし上げでもしない限り、足枷の存在が他人に知られることはないだろう。彼が私に宛がったのは、昨日の純白とはあまりに対照的な、鮮烈な緋色のドレス――ヴェスティート・ロッソだった。鏡の中に映る私は、自らの鮮血で全身を染め上げたかのような、痛々しくも妖艶な姿をしていた。「……似合っているな」返事をする代わりに私は鏡越しにダンテを射抜くように睨んだけど、彼は気にした様子もなく、私にゆっくりと近づき、背後から私の髪を掬い上げた。そのひんやりとした指先が、剥き出しになった首筋に触れる。革手袋越しではない、彼の素肌の指先の冷たさが伝わってくる。だが、その瞬間に私の心臓を跳ねさせたのは、恐怖だけではなかった。至近距離になった彼の身体から、昨日感じた白檀の香りの奥に、微かに別の芳香を感じ取った。それは、爽やかで、けれどどこか胸を締め付けてくる懐かしさを感じる香り。そう、柑橘系の香りだ。どこかで嗅いだことのある香り……。私の記憶の奥底にある香りだった。だが、なぜそんな古い記憶とダンテがつながるのか?彼の手首についた傷痕……。そして、この微かな柑橘系の香り……。私は過去に、ダンテに会っている。
「う、うん……」意識に霞がかかったように、視界がぼやけていた。ゆっくりと意識が戻ってくると、今度は割れるような頭痛がこめかみを突き、思考の断片をかき乱す。「くっ……。ここは……」見知らぬ暗い天蓋に覆われたベッドに調度品のおかれた部屋。ゆっくりと辺りを見回すと、天蓋から滴り落ちるように垂れ下がる最高級の絹の飾りが、柔らかな陰影を描き出している。部屋の隅々には、かつてヴァレンティーノ家が没落の道を辿る前ですら目にしたことがないほど、贅の限りを尽くしたアンティークの調度品が整然と並んでいた。寝かされていたベッドのシーツも肌触りがよく、清潔さが感じられた。落ち着いた大人の部屋……と言ったらいいんだろうか?ただ、鉛のような重苦しい沈黙が部屋のすべてを支配しており、せっかくの調度品が醸し出す雰囲気のすべてを台無しにしている気がしてならない。頭痛を堪えながら上半身を起こすと、ふわりと鼻腔をくすぐったのは、高貴な白檀と古い紙が混ざり合った、静謐でいてどこか威圧的な香りだった。そうした中で一番異質なものは、私の身体から微かに漂う赤錆びた鉄の匂い。血の匂いだ……。それだけで、あの大聖堂での惨劇が現実だったと思い起こさせる。「……夢では、なかったのね」心を落ち着かせるために漏らした声は掠れていた。さらに身体を動かそうとした瞬間、右の足首に覚えのない不快な重みと耳障りな金属音を感じた。引きずられるような違和感に、私は頭痛を忘れ、震える手で掛け布団を跳ね除けた。その刹那、視界に飛び込んできたのは、私の細い足首を無慈悲に締め付ける、鈍く光る黄金の足枷とそれをつなぐ鉄の鎖だった。昨日までの私を縛っていたのは、一族を救うための「生贄」という目に見えない契約の鎖だった。だが、今この肌を蝕んでいるのは、冷たく硬質な、物理的な支配の象徴の鉄の鎖だ。鎖の端は大理石の床を蛇のように這い、光の届かない部屋の奥深くに吸い込まれていた。ただ、どこかに繋がれて固定されていることくらい想像がつく。指先でその冷徹な金属に触れると、指から伝わる温度の低さが、これが決して覚めることのない悪夢であることを冷酷に突きつけてきた。全身から血の気が引いていくのが分かる。「そうだ……私は、ダンテに囚われたんだ……」ダンテは「お前は今日から、俺の檻の中で過ごすんだ。一生、出られない檻の中で」