INICIAR SESIÓN「……何をしているんだ?」
ある日の午前中、シュリが家の奥で作業をしていると、ベッドの上に腰掛けていたドゥーエがそう聞いてきた。シュリは手を休めることなく、彼の疑問へと答える。 「これ? 今朝、薬草がたくさん採れたから乾かすための準備をしてるの」 そう言いながら、シュリは手早く薬草を紐で束ねていく。ほう、とドゥーエは立ち上がり、シュリのそばに近寄ってくると、興味深そうに彼女の手元を覗き込む。 「手慣れているんだな」 まあね、とシュリは得意げに口の端を釣り上げる。その間も彼女の手は動き続ける。 「もう何年もやってるからね。小さいころだって、お父さんやお母さんがこうやって作業してるの手伝ったりしてたし」 ドゥーエもやってみる、とシュリが聞くと、ドゥーエは首を横に振った。腰まである彼の長い黒髪が、首の動きに合わせてさらさらと揺れ動く。 「俺には違いが全然わからないから遠慮しておく。俺からしたらどれも草、草、草だ」 「草って」 ドゥーエの言い方がおかしくて、シュリは小さく吹き出した。 彼の傷が癒えるまでのほんの短い間とはいえ、こうして言葉を交わし、何でもないことで笑い合える相手がいることが嬉しかった。どこにでもあるようなそんなささやかなことが、シュリには新鮮で楽しかった。ドゥーエが”人喰い”であることも理解していたし、何が目的で彼が自分の元に居続けているのかもわからなかったが、それでも構わなかった。 (人間よりも”人喰い”のドゥーエのほうがよっぽど人間らしいなんて皮肉だよね) 両親が死んでから、ノルスの親戚の家で暮らしていたときのことを思い返しながら、シュリはそんなことを考えた。ドゥーエだって、いつ自分に牙を剥くかわかったものではないが、それでも陰口を叩いたり石を投げつけたりしてくるような陰湿な嫌がらせをしてこないだけ、シュリにとってはかなりましだった。 「さて、と」 シュリは薬草をすべて仕分けて束ね終えると立ち上がった。壁際の戸棚から長いロープを取り出し、シュリが手近にあった木箱の上に登ろうとしていると、脇から長く筋ばった手が伸びてきてロープをひったくった。 「これをそこの柱に結べばいいのか?」 程よく低い、心地の良いドゥーエの声がシュリの背後から響いた。シュリは木箱に片足を乗せたままの状態で、ドゥーエを振り返ると、 「うん。それで、逆側を向こうの柱に結んで欲しいんだけど、お願いできる?」 任せろ、とドゥーエはロープを片手に背伸びをする。ロープを結えようと腕を上に伸ばしたとき、「っつ!」肩の傷が痛んだのか、たたらを踏み、ドゥーエの体が傾ぐ。 「わっ、わああああっ!!」 自分の方へとドゥーエの体が倒れてきて、シュリは咄嗟に彼の体を支えようと手を伸ばす。彼を連れ帰ってきたときとは異なり、完全に油断していたこともあって、痩せ型とはいえ男一人分の体重を支えることは能(あた)わず、シュリを巻き込んでドゥーエの体は床へと倒れ込む。シュリは衝撃を覚悟して、黒い目を閉じる。 ごん、と重い打撃音が室内に響いた。しかし、覚悟していた痛みがシュリを襲う様子はない。シュリは恐る恐る瞼を開く。 「え……?」 シュリの体はドゥーエの右腕によって抱き込まれ、彼が下敷きになる形で守られていた。 「シュリ、無事か?」 間近でドゥーエの暗赤色の視線がシュリへと向けられた。その目はシュリのことを案じているのか、物憂げだ。 「あ、あたしは、大丈夫……」 シュリは自分の声が上ずるのを感じた。そうか、と言ったドゥーエの吐息混じりの安堵の声が、愛撫するように聴覚の奥深くまで入り込んでくる。 「ごめん、すぐにどくね。怪我してるのにこんなことさせちゃってごめん」 「気にするな。やるといったのは俺だ。それよりもシュリに怪我がなくてよかった」 少し空気を含んだ低い声に耳元で囁かれ、シュリは自分の中で心がとくんと音を立てるのを聞いた。シュリはドゥーエの怪我に障らないように気をつけながら、彼の腕を振り解く。彼の温もりが遠ざかっていくことをなぜかシュリは残念に思った。 (ドゥーエは”人喰い”だけど、いい人なんだ。今だってあたしのことなんて庇わなくてよかったのに、こうやって守ってくれたし、あたしに怪我がないかを真っ先に気にしてくれた。やっぱり、ドゥーエは、あたしの知ってる”人喰い”とは違う) そう思いながら、シュリは立ち上がる。そして、ドゥーエに手を貸して床から起き上がらせる。 「ドゥーエは大丈夫? どこ打った?」 「背中は打ったが、一応受け身は取ったから問題ない」 「問題なくないでしょ。一応診るから、背中見せて」 シュリはすぐそばの戸棚から湿布薬を取り出す。互いに互いを気遣いあっている今の状況は何だか不思議だが、嫌な感じはしなかった。 (ドゥーエは……あの女と同じ”人喰い”なんだよね。なのに……あたし、ドゥーエのことは……) 嫌いじゃない。その事実がすとんとシュリの胸の裡(うち)にすとんと着地した。 ただ憎むばかりだった”人喰い”という種にそんな感情を抱いている自分を少し意外に思いながらも、シュリはドゥーエのシャツの背を捲る。彼女は薄くなりかけた数多の痣に混ざった真新しい紫色の内出血を見つけた。やはり、自分を守るためにこんな傷を拵えてしまうお人好しの”人喰い”を嫌いにはなれない気がした。 シュリは紫色に腫れ上がった傷に湿布薬をあてがう。彼がここにいるのは傷が良くなるまでという話だったが、いつまで彼とここで過ごしていられるのだろうとシュリは思った。 開け放った窓から入り込んできたばたばたと金風がカーテンを揺らしている。湿布のハーブの匂いが風に舞い上がり、すうっとした爽やかな香りで室内を満たしていった。◆◆◆
まだ秋だというのに、全身が芯まで凍えるような夜だった。底冷えする部屋の中、眠れずにいたシュリはバイアスチェック柄のブランケットの中で小さく身体を縮こまらせて、赤く悴んだ手に息を吐きかける。
「……眠れないのか?」 暗い部屋の中でドゥーエの低い声が響いた。その声からはシュリのことを案じているような色が感じられた。 「うん……まあね。ドゥーエはあたしのことなんて気にしないで寝てて」 シュリが苦笑混じりにそう答えると、ベッドの上のドゥーエが身を起こす気配がした。ばさり、とドゥーエはシーツをめくってみせると、 「今夜は殊更に冷える。床ではなく、ベッドで寝たらどうだ」 ドゥーエの申し出は魅力的だった。しかし、シュリはううん、と首を横に張る。 「いいよ。怪我人をベッドから追い出すわけにもいかないし。いつも通り、あたしは床で寝る」 「変な意地を張っていると風邪を引くぞ」 ドゥーエの言うことは一理ある。しかし、だからといって、ドゥーエをベッドから追い出す気にはなれなかった。どうしたものかとシュリが頭を悩ませていると、 「なら、こうしよう。俺もシュリもベッドで寝る。シュリは小柄だし、俺が少し奥に詰めれば充分寝られるだろう?」 「それは、そうだけど……」 シュリは躊躇した。”人喰い”と一つのベッドで共寝するなど、喰ってくれと言っているようなものだ。ドゥーエは普段はシュリを喰おうとする素振りなど微塵も見せないが、目と鼻の先に獲物が無防備に眠っているともなれば、さすがに生きてシュリが朝を迎えられるとは思えない。 「どうした? もしかして、俺が何かするとでも思っているのか?」 「……っ!」 「心配するな。お前が嫌がるなら、同じベッドに寝ているからといって、無理やり迫って犯すような真似はしない」 「ちょっ……犯す、って……!」 思っていたよりも斜め上のドゥーエの発言にシュリは顔を口をぱくぱくさせた。ドゥーエの美しい顔が自分に迫ってくる様を、ドゥーエの引き締まった身体が自分に覆い被さってくる様を思わず想像して、シュリは顔を真っ赤にした。 「さ、最っ低……! 変態!」 「そういうことを心配していたのではないのか?」 「っ……違っ……!」 ドゥーエはよくわからないとでも言いたげな顔をしながら、 「……それで、どうする?」 「……っ、あたしもベッドで寝る! それでいいんでしょ!」 シュリは厚手のブランケットの中から這い出ると、躊躇いがちにベッドの中へと入り込む。寝返りを打てばベッドから落ちてしまいそうな位置で横になるシュリに、ドゥーエは苦笑すると、 「もう少しこちらに来たらどうだ? 別に何もしない」 「うん……」 そういうことじゃないんだけどな、と思いながらシュリはほんの少しドゥーエに身体を近づける。近くに感じるドゥーエの体温は温かく、ムスクと古本の混ざったような匂いがした。 ドゥーエの赤い瞳と視線が絡み合った。ほのかな熱と艶を帯びて潤ったその目からシュリはなぜか視線を逸らせなかった。 小さく聞こえるドゥーエの息の音が悩ましげににシュリの耳朶(じだ)を打つ。何かを憂うような表情を浮かべた白皙の美貌はひどく蠱惑的だ。容赦なく浴びせられる無意識の官能の暴力に、腹の奥を蠢き始めたものを封じ込めるようにシュリはぎゅっと強く脚を閉じた。 とくん、とくん、と互いの心臓の音がやけに大きく聞こえる気がした。ぴんと張り詰めた空気は今にも崩れてしまいそうになりながら、かろうじて均衡を保っていた。どちらかがほんの少し動けば、この状況を堰き止めているものが砂礫の城のように崩れ去ってしまう、そんな危うさがあった。 羞恥と怯えが入り混じったシュリの目がドゥーエを見ていた。ずきり、と心臓の拍動に合わせて、身体の内側にかすかな疼痛が走る。自分の本能がシュリの肉体を欲しているのだとドゥーエは思った。 (嗚呼……欲しい。――”喰いたい”) ふいにドゥーエは自分を見る少女の顔をめちゃくちゃに歪めてやりたいような欲求に駆られた。ドゥーエは荒々しくシュリへと手を伸ばす。 「ドゥーエ……?」 戸惑うようにシュリが彼の名前を呼んだ。何でもない、とかぶりを振ると、ドゥーエはシュリの髪をごまかすようにかき混ぜた。シュリは不満げに頬を膨らませながら、 「……嘘つき。何もしないって言ったのに」 「……このくらい、何かしたうちには入らない」 まったく、とシュリは呆れたようにため息をつく。シュリは寝返りを打って、ドゥーエに背を向けると、 「あたし、もう寝るから。絶対、変なことしないでよ? ……おやすみ」 「おやすみ」 自分を突き動かしたのは食欲だったのか、はたまた情欲だったのか。そんなことを考えながら、ドゥーエはシュリのぱさついた短い髪を撫で続けた。彼女の寝息が聞こえ始めるまで、ドゥーエはずっとそうしていた。 ドゥーエは名残惜しく思いながらシュリの髪から手を離し、彼女へ背を向けると瞼を閉じる。 おやすみ、ともう一度小さく呟くと、ドゥーエは闇の彼方から打ち寄せてきた眠りの波に己の意識を預けた。ざく、ざくと森の奥へと向かって、深雪の上に一人分の足跡が刻まれていく。獣たちの大半が冬の眠りについてしまっていることもあり、時折どこかで雪の落ちる音がする以外はひどく静かだった。 氷の花がきらきらと光るハギの茂みを抜け、見覚えのあるハゼノキの前まで来ると、ドゥーエは足を止めた。この場所は、かつて八年前にシュリが”人喰い”に両親を喰われたという場所だった。 彼女の遺体をあのままにしておくのは、あまりに忍びなかった。シュリがこの世を去った後、ドゥーエは自身の身体を少し休めると、彼女を弔うために最後の力を振り絞ってここを訪れた。この場所を選んだのは、彼女が一人で寂しくないようにと思ってのことだった。 ドゥーエは大切に腕に抱きかかえていた少女の亡骸を、葉が散ったあとのハゼノキの根本へとそっと横たえた。以前にシュリが両親へと手向けた白いアスターの花束が、水分を失ってからからに乾燥した姿を雪の下から覗かせていた。 ドゥーエは着ていた黒い外套を脱ぐと、雪の上で眠る少女の細い身体へと掛けてやった。矢で射られた彼の肩の傷には、止血のためにシュリの作ったハンカチが申し訳程度に巻かれている。彼女の亡骸の横に腰を下ろすと、ドゥーエは細く骨ばった手で愛おしげに彼女の短い黒髪を撫でた。「シュリ……」 愛しい人の名前が、吐き出された息と一緒に冬の沈黙の中へと溶ける。傍らの少女が返事をすることはなく、森の中に満ちる静寂が彼女はもうこの世にはいないのだという現実を痛いほどドゥーエに突きつけていた。 人間の風習では故人の亡骸を土の下に埋葬するのだということはドゥーエも知識として知っていたが、そんなことはできそうになかった。まだ生きているのが不思議なくらいに衰弱しきった今のドゥーエには、人間一人を埋めるための穴を掘るだけの力など残されていなかったし、何より冷たい土の下に彼女を埋めてしまえば今度こそ彼女と永遠の別れになってしまいそうな気がした。 だからといって、彼女が最期に望んだように、彼女を喰らい、生き延びるような真似は出来そうにもなかった。本能はそれを激しく渇望していたが、死に瀕してなお、心がそれを拒み続けていた。「どうするか……」 花でもあればよかったな、とドゥーエはぼんやりと思う。彼女にはどんな花が似合うだろうか。どんな花を贈れば、彼女は喜んでくれるだろうか。 しかし、雪
シュリの待つ家まであともう少し、というところでドゥーエはよろめき、倒れた。視界がぐるぐると回っていて気分が悪いし、もう一体どこが痛いのかわからなかった。 清冽な白色が視界に映る。腫れ上がった頬に触れる、溶融と凍結を繰り返して固くなった粗目雪の冷たさに、少しずつ思考が冷静になってくる。 (何をやっているんだ、俺は……) 彼女のことを思ってノルスに医者を呼びに向かった。しかし、結果はこの体たらくだ。医者も連れてこれず、こんなふうにぼろぼろになっただけで何もできなかった。俺は駄目だな、とドゥーエは自嘲で口元を歪める。 身体に力が入らなかった。元々”断食”の飢えによってひどく衰弱しているのを押してノルスに向かったのだ。そんな状態であのように一方的な暴行を受けた上でここまで帰ってこられたのは最早奇跡だといっても過言ではない。痣の出来た口の端を血の筋がつっと伝って、顎を流れ落ちていく。 ドゥーエは口元の血を拭うものはないかと、ぼろぼろになった外套のポケットを探った。「……ん?」外套のものとは異なる柔らかな布地が指先に触れ、ドゥーエは緩慢な動きでそれを引っ張り出した。 (あ……) 紺地に白と赤のバイアスボーダーが走った布地。赤いポインセチアの刺繍。丁寧に心を込めて作られたそれは、いつだったかシュリが縫っていたハンカチだった。 (俺は……どうして何もできないんだ) ドゥーエはぐしゃりと手の中のハンカチを無力感とともに握りしめた。 銀華を纏った木々の間から冴え冴えとした光が降り注いでいる。夜空に浮かんだ氷輪は南西へと傾き始めていて、もう夜も遅いことをドゥーエに知らせていた。 シュリはまだ待っていてくれているだろうか。そう思いながら、ドゥーエはずっしりと倦怠感で重い手足を動かし、雪の上を這って進み始めた。今の彼にはもう立って歩くだけの力は残っていなかった。 全身を雪まみれにしてどうにか家まで帰り着くと、ドゥーエはウォールナットの引手に手を伸ばし、どうにか扉を押し開ける。扉の隙間にぼろぼろになった痩躯を押し込み、ドゥーエは部屋の中へと転がり込んだ。 「ドゥーエ……?」 気配に気づいたのか、ベッドの上のシュリが彼の名前を呼んだ。ぜえぜえと苦しげな吐息にかき消されそうなか細く小さな声だった。 「来て」 ドゥーエは床を這って、ベッドへと
一体何時間経ったのだろう。そう思いながら、ドゥーエは重い瞼を押し上げた。見慣れた小屋の中の景色が網膜に像を結んでいくとともに、全身を絶え間なく苛む痛苦の輪郭が鮮明さを取り戻していく。 叫びだしたくなるほどに激しい全身の痛みと不快感と夜通し格闘したあと、日が昇るころになって眠気が訪れたことは覚えている。どうやらそのまま、シュリが眠るベッドに寄りかかって眠ってしまったらしかった。 今は何時だろう、とドゥーエは窓へと視線を向ける。淡い色の日差しの角度から、今は恐らく昼すぎだろうと彼はあたりをつけた。彼自身もひどく衰弱していることもあり、長く眠ってしまったようだった。 (そうだ……シュリ……!) はっとして、ドゥーエは背後のベッドに縋り付くようにして、眠る少女の顔を覗き込む。 「え……」 シュリの顔は血の気を失い、唇が青紫色に変色していた。眠っているのか、意識はないようだったが、浅く早い呼吸の合間を縫うようにして、時折痰の絡んだような湿った咳を漏らしている。 ドゥーエはシュリの額へと手を伸ばすと、表情を強張らせた。昨夜までずっとずるずると続いていた微熱は嘘のように引いていた。 しかし、それだけではなかった。ドゥーエが触れた彼女の肌からは、不自然なほど熱が感じられなかった。命の気配がひどく希薄になっているのだとドゥーエは思った。 ドゥーエは毛布の端から覗くシュリの右手を握った。血色を失った指先は紫色に染まっていた。 (駄目だ……これ以上はもう、見ていられない……) こんなこと、シュリは望んでいない。もしかしたら、このことによって、シュリに恨まれたり、憎まれたりするかもしれない。 それでも構わないとドゥーエは思った。彼女を死の淵からすくい上げられるなら、彼女にどう思われたとしてもいいと思った。 ふいに、すっと背筋を何かが駆け上ってくるような感覚があった。物凄く大きな何か――彼自身の”生”の衝動だった。どうしてこんなときに、と思う間もなく、圧倒的な欲望に意識が塗り潰されていく。弱りきった彼女は格好の獲物だと、”喰って”しまえば楽になれると頭の中でもう一人の自分が囁く声がする。 (呑まれるな……!) ドゥーエの赤い目がぎらぎらと異様な光を帯びていく。身体の中で暴れまわる激しい衝動に視界が霞む。 (このままでは抗いきれなくなる
森を覆う雪が深まり、日を追うごとにシュリは弱っていった。ぱんぱんに腫れた腕の傷口は皮膚がぶよぶよと柔らかくなって黒ずみ、滲出液(しんしゆつえき)には膿だけでなく血が混ざるようになっていた。傷口を起点に赤い水疱が彼女の二の腕に広がっていき、死臭にも近い、腐った肉の匂いが漂うようになっていた。 左腕の壊死の進行とともに、次第にシュリは眠っている時間が増えていった。定まらない意識の中で、心細げにドゥーエの名を呼ぶことも多かった。次の朝、目を覚ませば、シュリはもう息をしていないのではないかとドゥーエは毎日朝を迎えるのが不安で仕方がなかった。 シュリが弱っていく一方、ドゥーエもまた弱っていった。常に全身が刃物で刺し貫かれているような痛みに苛まれ、目の奥にまで及ぶ激しい頭痛や胃を抉り出してしまいたくなるような吐き気、指一本動かすのも辛いほどの倦怠感に襲われ続けていた。目の前の少女を喰ってしまえば、楽になれるとわかっていたが、ドゥーエは決してそうはしなかった。シュリの腕を”喰った”あの日に立てた『もう人を”喰わない”』という誓いを破りたくはなかった。 本能に自分が塗りつぶされてしまいそうになる度に、ドゥーエは自分の舌を噛み、手のひらに爪を突き立てて耐えていた。シュリとドゥーエは、助かる術がないわけではないというのに、二人とも互いを想い合うあまり、その選択肢を躊躇うことなく切り捨ててしまっていた。 ベッドに横たわるシュリの胸が苦しそうに浅く上下動を繰り返していた。汗で張り付いた彼女の黒髪をドゥーエはそっと撫でる。今この瞬間も、急速に迫りくる死の気配に抗うように命を燃やしている彼女が痛ましくてならなかった。 「……大丈夫か?」 ドゥーエが声をかけると、シュリは巣穴にこもる小動物のように毛布の中から顔を覗かせた。よほど身体が辛いのか、シュリは目を涙で潤ませながら小さく頷くと、 「ドゥーエ……ごめんね」 「なぜ、シュリが謝るんだ」 「だって……あたし、ドゥーエにひどいお願いしかしてない。ドゥーエが今、そんなふうに苦しそうな顔をしているのは、ドゥーエが人間を殺すのを見たくない、ってあたしが言ったからでしょ? だから、ドゥーエは誰かを食べれば楽になれるはずなのに、あたしを食べることもなければ、ここを離れることもできないでいる。あのときのあたしの言葉が、呪いみた
それから数日が過ぎたが、シュリの容態は一向に改善されてはいなかった。初日の夜の熱こそ今は微熱となってはいたが、腕の傷口は痛々しく腫れ上がり、薄膜の向こうからは膿混じりの透明な液体が滲み出していた。 朝食にドゥーエが四苦八苦しながら作ってくれた半分炭化した麦粥を彼に食べさせてもらった後、シュリは左腕の傷口の処置をしていた。シュリは良好とはいえない経過を辿っている傷口を観察しながら、冷静に所見を述べていく。 「うーん……これは悪い菌が入っちゃったかな。あたしみたいな素人の処置じゃさすがに無理があったかも」 「……大丈夫なのか?」 ドゥーエは不安げに顔を曇らせながら、抗菌成分の入った軟膏を掬ったへらをシュリへと手渡した。 「どうだろ。何にしても今は安静にして様子を見るしかないかな」 そんな顔しないでよ、とシュリは苦笑しながら、真っ赤に腫れ上がった傷口へとシュリは手早く軟膏を塗っていく。 「ドゥーエ、次、包帯取ってくれる?」 ああ、とドゥーエはシュリに言われた通り、ベッドの上に転がっていた包帯を手渡した。シュリは器用に包帯の端を口で咥えて引き出し、先端を失った二の腕へとあてがうと、 「ドゥーエ、そこの包帯の端、押さえてくれる?」 シュリは包帯の巻き始めを顎で押さえながらそう言った。ドゥーエは包帯へと手を伸ばし、端を押さえてやりながら、 「俺が巻こうか?」 「いいよ。ドゥーエ、あんまり得意じゃないでしょ? 昨日巻いてもらったとき、びっくりするくらいゆるゆるだったもん」 「……」 そう言われてドゥーエは沈黙する。昨日、ドゥーエが見様見真似でシュリの腕の包帯を変えてやったところ、あまりに出来がひどすぎて、結局、シュリが自分で巻き直すことになったのはまだ記憶に新しい。それを考えると、ドゥーエは自分がやるとは強く言えなかった。 シュリは慣れた手付きで左腕へと包帯を巻いていく。包帯の残りが少なくなると、シュリは端を口で加えて細く引き裂いた。 「ドゥーエ、手、離していいから、包帯の端を結んでくれる?」 ああ、と頷くとドゥーエは細く割いた包帯の先端の片方をぐるりとシュリの二の腕に沿って巻きつける。こわごわと壊れ物に触れるようにそっと、裂いた包帯の両端を結ぼうとしていると、 「ああもう、ドゥーエ。そんなんじゃほどけてきちゃうってば。あた
その夜、シュリは高い熱を出した。片腕を切り落としたことを思えば、無理もないことだった。 「寒い……」 ベッドの中でシュリは身震いをする。少し前から悪寒が止まらないし、体がだるくて仕方がなかった。 どれ、とドゥーエはシュリの額に自分の額を近づける。ドゥーエの涼やかな美貌が近づいてくる。憂いの色が濃い赤い双眸には、しっとりとした色気が揺れている。すぐ近くで聞こえるかすかな息遣いが、衣擦れや長い髪の揺れる音が、やけに生々しく淫靡に聞こえる。迫りくる甘やかな予感に、シュリは思わず目を閉じた。 「……どうした?」 「べ、別にっ」 またキスされるのかと思ったなどとは恥ずかしくて言えなかった。ふむ、と至近距離でドゥーエは目に面白がるような光を浮かべる。ぺろりと舌で唇の端を舐める仕草がやたらと婀娜っぽい。 「何か、期待したか?」 「……っ!」 思考を見透かされ、シュリは絶句した。ドゥーエはふっと柔らかく微笑むと、 「今は熱があるからな。熱が下がったらいくらでもしてやるから、今はきちんと休んでくれ」 今はこれで我慢してくれ、とドゥーエは少しぱさついたシュリの髪にキスを落とすと、顔を上げた。恋人じみたやりとりが恥ずかしくて仕方ないのに、彼のきれいな顔が離れていってしまうことをシュリは少し名残惜しく思った。まだもう少しこうしていたかったような気がするし、”その先”にあるものを知りたかったような気がした。 「もう他に毛布はないのか?」 ドゥーエはシーツの上から重ねたローズブラウンの毛布へと目をやりながら、そう聞いた。シュリは照れと熱で真っ赤な顔を小動物のようにちらりと覗かせると、 「裏の納屋にもう一枚あったはず。ずっとしまい込んだままで干してないから、かなり埃っぽいと思うけど」 「取ってきてやる」 ないよりはマシだろう、とドゥーエは踵を返す。ありがと、とその背を見送ろうとしたシュリは、ふと思い出したことがあってドゥーエを呼び止めた。 「納屋に軽石がいくつかあったはずだからそれも持ってきてくれる?」 シュリの頼みにドゥーエは怪訝そうに振り返ると、 「構わないが……軽石など何に使うんだ?」 「軽石を暖炉で温めて、ベッドの中に入れるんだ。そしたら、何時間かあったかいから」 「なるほど」 疑問が解けると、ドゥーエは再び踵を巡らせる。