LOGIN「聖女としても妃としても、もう必要ない」――異世界に召喚されたミオは、戦えない役立たず聖女と蔑まれ、婚約者の王太子に捨てられた。雪原へ追放された彼女が助けたのは、傷ついた小さな黒竜。ところが翌朝、その正体が世界最強と恐れられる呪われた竜王カエルだと判明する。ミオの料理だけが彼の失われた味覚と眠りを取り戻すと知ったカエルは、いきなり一年限定の契約結婚を申し込んできて――!? 不器用すぎる竜王との甘くて賑やかな新婚生活、かわいい魔物たちとの出会い、各国を巡る冒険、そして食卓から世界を変えていく、追放聖女の愛され異世界恋愛ファンタジー!
View More「ミオ・アイザワ。今日この場をもって、君との婚約を破棄する。それと同時に、王国聖女としての任も解く。君には明朝までに王宮を去ってもらう」
王太子アドリアンがそう告げたとき、ミオは最初、その言葉が自分に向けられたものだとは思えなかった。
王宮の大広間には百人を超える貴族が集められており、天井から吊るされた幾つもの魔石灯が昼間のような明るさを作り出している。いつもなら楽団が優雅な曲を奏で、色鮮やかなドレスに身を包んだ令嬢たちが笑い声を交わしているはずなのに、今夜ばかりは奇妙なほど静かだった。
誰もが知っていたのだろう。
知らされていなかったのは、婚約を破棄される当人であるミオだけだったらしい。
「……申し訳ありません、殿下。少し、聞き取れなかったようです。今日は北部から届いた避難民名簿の確認を朝までしていたもので、寝不足なのかもしれません。もう一度、おっしゃっていただけますか」
自分でも情けないことを言っていると思った。
けれど、そうでも言わなければ立っていられなかった。
三年間、この世界で覚えた礼儀作法どおりに背筋を伸ばし、両手を腹の前で重ねたまま、ミオは壇上に立つアドリアンを見上げた。
彼は美しい男だった。
柔らかな金色の髪に青い瞳、整った鼻筋、王族らしい華やかさを持ちながら、騎士として鍛えているため体格もよい。ミオが三年前、このエルディア王国へ召喚されたとき、突然知らない世界へ放り出され、言葉すらまともに理解できずに泣いていた彼女へ最初に手を差し伸べてくれたのもアドリアンだった。
『大丈夫だ。君はこの国が守る』
あのときは、その言葉だけでどれほど救われただろう。
だからこそ、今の彼が何を言っているのか、耳が理解することを拒んでいた。
アドリアンはわずかに眉を寄せた。
「ならば、もう一度言おう。君との婚約は破棄する。そして聖女としての地位も返上してもらう。今後、君が王家の名を用いて活動することも認めない」
今度は聞き間違えようがなかった。
大広間のどこかで、小さく息を呑む音がした。
驚いたのではない。
誰かがようやく始まったと期待したような、そんな音だった。
ミオは唇を結び、何度か息を整えてから尋ねた。
「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか。婚約については殿下のお気持ちもありますから、私だけでどうこう言えるものではありません。ですが、聖女としての任まで解かれる理由については、聞かせていただきたいです。明日も西街区の施療院へ行く予定がありますし、南部へ送る薬草の確認も終わっていません。北部の村には防寒具が足りていませんから、王宮倉庫の予備を回していただくよう申請書も出しています。途中で投げ出すわけにはいきません」
言い終えたところで、アドリアンの横に立つ少女が困ったように眉尻を下げた。
淡い銀髪に、春の空を思わせる薄青色の瞳。年齢はミオより二つほど下だろうか。白地に金糸を施した聖女服はまだ新しく、袖の部分には一度も洗われていない布特有の張りが残っている。
二週間前、この世界へ新たに召喚された少女だった。
名前はリリア・ウェストン。
こちらの世界へ来たときから言葉が通じ、しかも初日に聖堂の石像を白い炎で包み込んで見せたという、誰の目にも分かりやすい「奇跡」を持つ少女である。
「ミオ様……ごめんなさい。私、本当にこんなことになるなんて思っていなかったんです。アドリアン様にも、何度もミオ様を追い出すようなことはしないでくださいってお願いしたんです。でも、私の力のほうが国を守るためには必要だって、皆様がおっしゃって……」
「リリア、君が謝る必要はない」
アドリアンがすぐに彼女を庇った。
そのあまりにも自然な動作を見て、ミオの胸の奥に鈍い痛みが走った。
ああ、この二人は、もうそういう関係なのだ。
そんなことさえ、ミオは今になって理解した。
「今回の決定は、私と国王陛下、そして神殿の合意によるものだ。リリアの能力は魔物を直接浄化し、広範囲に結界を展開することができる。それに比べ、君の《聖卓》は……」
アドリアンはそこで一度言葉を止めた。
言いづらそうにしたのではない。
どう表現すれば穏当になるのか、ほんの少しだけ考えたようだった。
「残念ながら、戦時において有効とは言い難い」
その言葉を合図にしたように、大広間のあちこちから小さな囁きが生まれた。
「当然でしょう。食事を作るだけの聖女など聞いたこともない」
「三年間も王宮に置いていたこと自体が慈悲深すぎたのよ」
「王太子妃になれば、一生王家の税金で養うことになるところだった」
聞こえている。
聞こえないふりをしていただけで、こういう言葉は以前から何度も聞いてきた。
ミオの神聖能力、《聖卓》。
彼女が作った料理を人々が同じ食卓で口にすると、しばらくの間、争いが起きにくくなる。毒や軽い呪いが弱まり、敵意を持つ者同士でも不思議と会話ができるようになる。
最初にその能力が現れたとき、ミオ自身は素晴らしい力だと思った。
争っている人を仲直りさせられるなら、それはきっと誰かの役に立つ。
けれど神殿の司祭たちが期待していたのは、魔物の軍勢を一撃で焼き払う光だった。
国王が求めていたのは、大軍を守る巨大な結界だった。
そして王太子が欲しかったのは、民衆が分かりやすく崇拝できる奇跡だった。
料理を食べれば喧嘩をしなくなる。
そんな力は、彼らの求める「聖女らしさ」には入っていなかった。
「戦時に有効ではないというお話なら、三年前から分かっていたことではありませんか」
ミオは努めて穏やかに言った。
声が震えないようにするだけで精一杯だった。
「それでも国は、私に聖女として働くよう命じました。私は治癒魔法が使えない代わりに薬草について学びましたし、聖堂の厨房を借りて貧民街への炊き出しも始めました。東部の獣人族との小競り合いが起きたときには、捕虜と騎士を同じ席につかせて交渉しました。その結果、三つの村を焼かずに済みましたよね。北部の避難民についても、私の力があれば食事中だけは争いが起きませんから、配給所の混乱を抑えられると――」
「そういうところだ、ミオ」
アドリアンの口調が少しだけ強くなった。
ミオは言葉を止めた。
「君はいつも、自分がやった細かい仕事を並べる。炊き出しをした、薬草を運んだ、帳簿を整理した、捕虜と話した。だが、それは聖女でなくともできることだろう。君でなければならない理由がない」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた気がした。
怒りではなかった。
悲しみとも少し違う。
三年間、ずっと見ないようにしていた答えを、突然目の前に突きつけられたような感覚だった。
「……そうですか」
ミオはそれだけ答えた。
本当は言いたいことが山ほどあった。
薬草の知識を覚えるために、眠る時間を削って古い医学書を読んだ。
厨房の料理人に頭を下げて余った食材を譲ってもらい、貧民街へ運ぶための荷車を自分で探した。
東部の獣人族との交渉では、双方が剣を抜いたまま睨み合う部屋でスープを作り、誰より先に一口飲んで毒がないことを証明した。
「聖女でなくてもできること」なら、なぜ誰もやらなかったのだろう。
そう言いたかった。
けれど口にすれば、自分のしてきたことを褒めてほしいと訴えているようで、それがひどく惨めに思えた。
「それに」
アドリアンは少し声音を落とした。
「婚約についても、私は以前から無理があると考えていた」
今度こそ、ミオは顔を上げた。
仕事の否定には耐えられた。
能力を役立たずと呼ばれることにも、慣れていた。
けれど、それを言われるとさすがに平静ではいられなかった。
「以前から、とは……いつ頃からでしょうか」
「正確な時期を答える必要があるのか?」
「私にはあります。私は三年間、殿下の婚約者として生きてきましたから」
大広間が、先ほどよりさらに静かになった。
ミオ自身、こんなことを聞くつもりはなかった。
もっと大人らしく、笑って「承知しました」と答えればよかったのかもしれない。
けれどできなかった。
三年前、アドリアンに「君を守る」と言われた夜のことを覚えている。
こちらの世界には醤油も味噌もなく、慣れない食事が喉を通らなかったミオのために、厨房へ頼んで薄味のスープを用意してくれたことも覚えている。
王宮の庭で言葉の勉強をしていたとき、ミオが「月」という単語を間違えるたびに笑わず何度も教えてくれたことも覚えている。
あれも全部、王太子としての義務だったのだろうか。
「ミオ」
アドリアンは少し困った顔になった。
その表情が、かえって腹立たしかった。
「君は善良な女性だと思っている。努力もしていた。それは否定しない。ただ、私は君と話していても……何というか、心が休まらないんだ」
「心が、休まらない」
「君はいつも仕事の話をしているだろう。次の炊き出しはどうする、薬草が足りない、孤児院の屋根を直す必要がある、誰それの村に冬支度が必要だ。食事を共にしていても帳簿を持ってくる。私の誕生日でさえ、贈り物の前に難民救済費の署名を求めてきた」
「……あれは、殿下が三週間も書類をご覧にならなかったからです」
思わず返してしまった。
大広間のどこかから、小さな笑い声が漏れた。
アドリアンの頬がわずかに引きつる。
「そういうところだと言っているんだ」
「ですが、署名をいただかなければ冬用の毛布を購入できませんでした」
「今は毛布の話をしているんじゃない!」
初めてアドリアンが声を荒らげた。
リリアが驚いて彼の腕に触れた。
「アドリアン様、落ち着いてください。ミオ様も、きっと混乱していらっしゃるんです」
「……すまない、リリア」
まただ。
彼女に触れられただけで、アドリアンの表情が柔らかくなる。
ミオはそれを見ながら、妙なところで納得してしまった。
自分といると心が休まらないという言葉は、たぶん嘘ではない。
ミオはずっと焦っていた。
聖女なのに戦えない。
異世界から呼ばれたのに期待された役目を果たせない。
だったら、せめて別のことで役に立たなければならない。
そう思って、何でも引き受けた。
助けてと言われれば夜中でも起きた。
誰かに頼まれれば断れなかった。
アドリアンと二人きりで食事をしている時間でさえ、何もしていない自分が怖くて仕事の話をした。
それが婚約者にとって心休まらないことだったのなら、少なくともその部分については、彼だけを責めることもできないのかもしれない。
だからこそ、余計に腹が立った。
「でしたら、そう言ってくださればよかったではありませんか」
アドリアンが黙った。
「私は殿下が、私と食事をしていると疲れることも、仕事の話ばかりされるのが嫌なことも知りませんでした。言われていませんから。私は人の気持ちを読む魔法なんて使えませんし、残念ながら聖女だからといって何でも分かるわけではありません。三年間のどこかで一度でも、『今日は仕事の話をせずに二人で食べよう』と言ってくださっていたら、私だって少しくらいは努力できたと思います」
「それは……」
「もちろん、それでもうまくいかなかったかもしれません。でも、何も言わずに我慢して、別の方を好きになったあとで、大勢の前で『以前から無理だった』と初めて聞かされるのは、さすがに少し卑怯ではありませんか」
言ってしまった。
王太子に「卑怯」と。
周囲の貴族たちが一斉にざわついた。
けれど不思議と、後悔はなかった。
アドリアンの顔には怒りと困惑が入り混じっていた。
「私とリリアのことを誤解しているようだが――」
「誤解なら、私の婚約が続いている間に彼女の腰へ手を回すのはやめたほうがよろしいと思います」
アドリアンが弾かれたように手を離した。
リリアが真っ赤になる。
ミオはその様子を見て、少しだけ意地悪な満足を覚えた。
そんな自分を、今夜くらいは許してもいいだろうと思った。
三年間、「聖女らしく」と自分を押し殺してきたのだから。
「分かった」
アドリアンは低い声で言った。
「私の伝え方が悪かったことは認めよう。だが、決定は変わらない。リリアは君よりはるかに強い聖力を持っている。王太子妃としても、聖女としても、彼女のほうがこの国に相応しい」
「分かりました。婚約破棄については受け入れます」
ミオがそう答えると、広間に安堵したような空気が広がった。
面倒な女がようやく折れた。
そんな雰囲気だった。
「ですが、もう一つ確認させてください。聖女としての任を解くということは、私は今後、一人の一般人として王都で暮らしてよいという意味でしょうか。幸い、多少の貯金はあります。仕事についても、食堂か施療院で働かせてもらえるところを探します」
これで終わる。
そう思っていた。
婚約者も聖女という立場も失うのは怖い。
けれど、この三年間で知り合った人もいる。
貧民街の食堂には、ミオが行くと「今日こそ俺のスープのほうがうまいって認めさせる」と張り切る老料理人がいる。
孤児院には、ミオを見るたびに腕へしがみついてくる子供たちがいる。
施療院にも、薬草の扱いを教えてくれた看護師たちがいる。
聖女でなくなったとしても、王都に残れるなら、人生をやり直せるかもしれない。
しかしアドリアンは、目を逸らした。
その仕草だけで、ミオには嫌な予感がした。
「それについてだが……君には王都を出てもらう」
「王都を?」
「正確には、エルディア王国から退去してもらう」
今度ばかりは、ミオも言葉を失った。
「……どうしてですか」
「二人の聖女が国内に存在すれば、民が混乱する」
「私はもう聖女を名乗りません。それでいいのでしょう?」
「君が名乗らなくても、三年間、君を聖女として信じてきた者がいる。実際、既に一部の平民からは、君を解任することに反対する声が上がっているそうだ」
「それは、私が煽ったわけではありません」
「分かっている。しかし、君の意思とは関係なく政治的な火種になり得る。リリアが正式な聖女として民衆に受け入れられるまで、君には国外にいてもらうのが一番穏当だと判断された」
一番穏当。
誰にとってだろう。
「期間は、どれくらいですか」
ミオが尋ねると、アドリアンはすぐには答えなかった。
その沈黙で、ほとんど分かってしまった。
「……期限は設けられていない」
ミオは、しばらくアドリアンの顔を見ていた。
怒るべきなのだろう。
泣いてもいいのかもしれない。
けれど、あまりにも急に全部を奪われたせいで、感情が追いついてこなかった。
「つまり、それは国外退去ではなく、追放というのではありませんか」
アドリアンの顔が苦しげに歪んだ。
「そういう言い方をする必要はない」
「では、どういう言い方なら正しいのでしょう。帰る世界もなく、この国以外に知り合いもいない私へ、期限を決めず国外へ出ろとおっしゃっているんですよね」
「金貨は支給する。護衛も国境までは付ける」
「国境の向こうは、北方荒野ですよね」
「最寄りの都市まで街道がある」
「冬の北方街道は、雪で閉ざされることもご存じですよね」
「ミオ!」
またアドリアンが声を荒らげた。
だが今度は、ミオは怯まなかった。
むしろ妙に冷静だった。
「すみません。確認したかっただけです。私の聞き間違いで、実は南の友好国へ馬車で送ってくださるのかもしれないと思ったので」
「……北の国境から出てもらう。南の諸国には既に新聖女リリアの就任を知らせている。君がそちらへ行けば外交上の誤解を招く恐れがある」
なるほど。
つまり追い出すなら、魔物の多い北へ行けということだ。
ミオはゆっくり息を吐いた。
「分かりました」
「ミオ様」
リリアが不安そうな声を上げた。
「私、本当にこんなつもりじゃなくて……もしよければ、アドリアン様にもう一度お願いしてみます。せめて王都から出るだけで済むように――」
「リリア」
ミオは彼女の言葉を遮った。
できるだけ優しく言ったつもりだった。
「あなたが悪いとは思っていません。少なくとも、今日ここで初めて会話をした私には、あなたがどんな人なのか判断できませんから」
「……え?」
「二週間前から王宮にいらっしゃいましたけれど、私たち、まともにお話ししたことはありませんよね。それなのにあなたが私を嫌っていると決めつけるのも失礼ですし、善良な方だと決めつけるのも違うと思います。ですから、謝らなくて大丈夫です。ただし」
ミオは一度言葉を切り、まっすぐ彼女を見た。
「今後、聖女として困っている人を助けるなら、自分が謝れば済むことと、謝っても済まないことの違いだけは覚えておいたほうがいいと思います」
リリアの顔がこわばった。
「私は……」
「私がこれから北へ追放されることを、あなたが謝ってくれても何も変わりません。だったら、どうか私のために泣くより、この国に残る人たちのために力を使ってください。私はもう、あなたの仕事を手伝えませんから」
それだけ言うと、ミオはアドリアンへ向き直った。
「明朝までに王宮を出ればよいとのことでしたね」
「ああ」
「分かりました。では、もう下がってもよろしいでしょうか。荷造りがありますので」
本当ならもっと何か言うべきだったのかもしれない。
三年間、ありがとうございました。
殿下の幸せを願っています。
そんな綺麗な言葉を残せれば、物語の聖女らしく見えただろう。
けれど今のミオには無理だった。
アドリアンの幸せなど、とても願えない。
不幸になれとまでは思わないが、少しくらい靴の中へ小石が入ればいいとは思う。
それも一日だけではなく、毎朝違う靴へ入ればいい。
そんな程度の呪いなら、神様だって見逃してくれるだろう。
ミオは誰にも頭を下げず、大広間を出た。
扉が閉じる直前、背後から再びざわめきが聞こえたが、振り返らなかった。
王宮で与えられていた自室へ戻ると、侍女のマリアが待っていた。
四十代半ばの小柄な女性で、ミオが召喚された直後から身の回りの世話をしてくれていた人だ。
彼女はミオの顔を見た瞬間、何が起きたのか理解したらしい。
「……本当なのですか」
「どこまで聞きました?」
「婚約破棄と、聖女様の交代があるとは聞きました。でも、国外へ追い出すなんて話は今さっきまで……そんなの、いくらなんでも急すぎます。明日の朝までだなんて、荷物だって、手続きだって」
「マリア、泣かないでください。私もまだ泣いていないのに、先に泣かれると順番を取られたみたいで困ります」
冗談のつもりだった。
けれどマリアは余計に泣いた。
「そんなことを言っている場合ですか。あなた様は、本当に昔からそうです。つらいときほど妙なことを言って誤魔化して、周りには平気な顔をなさる。三年前も、初めて王宮へ来た夜、一人で泣いていたでしょう。私が部屋へ入ったら、『これはホームシックという正常な反応です』なんて、わけの分からないことをおっしゃって」
「……よく覚えていますね」
「忘れるものですか」
その声を聞いた途端、ミオの目の奥が熱くなった。
大広間では耐えられた。
アドリアンの前でも、リリアの前でも、知らない貴族たちの前でも泣かなかった。
なのに、見慣れた部屋と、見慣れたマリアの顔を見ただけで、急に現実になってしまった。
「私、ここから出るんですね」
口にした声が、少し震えた。
マリアは何も言わず、ミオを抱きしめた。
こちらの世界に来てから、誰かにこうして抱きしめられたのは初めてだったかもしれない。
「嫌です」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
子供のようだと思った。
けれど止められなかった。
「私、帰るところなんてないんです。日本にも戻れないし、この世界で知っている場所なんてここしかないのに。王太子妃になれなくてもいいです。聖女じゃなくてもいい。食堂で皿洗いでも何でもしますから、王都に残りたいです。マリアや、孤児院の子たちや、施療院のみんなに会えなくなるのは……嫌です」
「ええ」
マリアは背中を撫でてくれた。
「嫌で当然ですよ」
「でも、殿下のことを嫌いになりきれない自分も嫌なんです。あんなことを言われたのに、昔優しくしてくれたことばかり思い出してしまって。たぶん私、ずっと好きだったんだと思います。恋愛として好きだったのか、助けてもらったから縋っていただけなのか、自分でも分からないんですけど……そんなの、今さらどうでもいいのに」
「人の気持ちは、今日婚約を破棄されたから明日から嫌いになれ、というほど便利にはできていませんよ」
「面倒ですね」
「面倒なんです。人間ですから」
ミオは泣きながら笑った。
しばらくそうしてから、マリアと二人で荷物をまとめ始めた。
驚くほど少なかった。
三年間暮らした部屋なのに、持っていけるものは旅行鞄二つに収まってしまった。
衣服。
薬草の本。
料理の覚え書き。
小さな包丁。
日本から召喚されたときに着ていた服。
そしてアドリアンから最初の誕生日にもらった銀の髪飾り。
最後のそれを手にしたとき、ミオはしばらく迷った。
捨てようか。
置いていこうか。
けれど結局、鞄の底へ入れた。
「未練がましいですかね」
「別にいいでしょう。それを捨てたからといって、三年間が消えるわけでもありません」
「マリアって、時々すごく容赦ないことを言いますよね」
「あなた様が変なところで格好をつけるからです」
夜明け前、王宮の裏門には一台の小さな馬車が用意されていた。
見送りはマリア一人だった。
アドリアンは来なかった。
来てほしかったのかと自分に問いかけてみたが、答えは出なかった。
来たら来たで腹が立っただろうし、来なければ来ないで少し寂しい。
人間の感情というものは、本当に面倒だった。
「聖女様」
マリアが言った。
ミオは首を振った。
「もう聖女じゃありません。ミオでいいです」
「では、ミオ様。どうか、生きてください」
「そんな大げさな」
「北は寒いんです。魔物だって多い。知らない土地へ行けば、あなたが聖女だったことなんて誰も知りません。だからこそ、もう誰かの役に立とうとしすぎないでください。お腹が空いたら自分が先に食べる。寒かったら自分の毛布を人に渡さない。困っている人を見ても、一人で全部背負おうとしない。約束してください」
「……努力します」
「約束してください」
「はい。約束します」
ミオはマリアを抱きしめた。
今度は、自分からだった。
「ありがとうございました。三年間、本当に」
「こちらこそ」
馬車が動き出す。
窓の向こうで、マリアがいつまでも手を振っていた。
王宮が遠ざかり、王都の城壁が見えなくなっても、ミオは振り返っていた。
三年分の人生が、少しずつ小さくなっていく。
泣かないつもりだったのに、結局また泣いた。
そして、その日の夕方。
ミオは北方国境の関所で、馬車から降ろされた。
「ここから先は護衛対象外となります」
騎士は申し訳なさそうに言った。
目の前には、白い世界が広がっていた。
街道があるとアドリアンは言っていた。
確かに道らしきものはある。
ただし、半分以上が雪に埋もれている。
「最寄りの町まで、どのくらいですか」
「天候が良ければ徒歩で二日ほどです」
「この天候は、良いほうですか?」
騎士は空を見上げた。
灰色の雲から、細かな雪が降り始めている。
「……急いだほうがよろしいかと」
「ですよね」
ミオは笑うしかなかった。
支給された金貨。
保存食。
毛布。
簡易テント。
最低限の装備はある。
王家も、さすがにその場で死ねとまでは思っていないらしい。
それだけでもありがたいと思うべきなのだろう。
関所の門が閉まる音を背中で聞きながら、ミオは雪道を歩き始めた。
寒かった。
こちらへ来て三年。
こんなに孤独だと思ったことはなかった。
日本へ帰りたい。
母の作った味噌汁が飲みたい。
コンビニのおにぎりでもいい。
温かい風呂に入りたい。
マリアの小言が聞きたい。
そんなことばかり考えた。
「……だめだ」
ミオは自分の頬を軽く叩いた。
「生きるって約束したんだから」
声に出すと、少しだけましになった。
一歩ずつ進めばいい。
町へ着いたら仕事を探す。
料理ならできる。
薬草も多少は分かる。
聖女でなくても生きていける。
むしろ、誰にも「聖女らしく」と言われない人生が始まるのだと思えば、悪いことばかりでもない。
そう自分に言い聞かせながら、どれくらい歩いただろう。
日が落ち始めた頃、雪は急に強くなった。
視界が白く染まり、街道の境目すら見えなくなる。
ミオは慌てて風を避けられる場所を探した。
「これは……さすがに、まずいかも」
少し先に岩場が見える。
そこまで行けば、テントを張れるかもしれない。
荷物を引きずりながら近づいたときだった。
「……ん?」
風の音に混じって、何か聞こえた。
小さな音。
鳴き声のような。
ミオは足を止めた。
マリアとの約束が頭をよぎる。
困っているものを見ても、何でも背負わない。
その通りだ。
今の自分には、人を助ける余裕などない。
「聞こえなかったことにしよう」
そう呟いて二歩進んだ。
また聞こえた。
今度は、はっきりと。
「キュゥ……」
ミオは目を閉じた。
「……そういう鳴き方は、ずるいでしょう」
自分でも呆れながら、音のした方向へ戻った。
雪の積もった岩陰を覗き込む。
最初は、黒い石が落ちているのかと思った。
けれど動いた。
手のひらより少し大きい程度の、小さな黒い生き物。
硬そうな鱗。
小さな翼。
細長い尾。
頭には二本の角が生え、金色の瞳が薄く開いている。
竜だった。
ミオにも、それくらいは分かった。
「……あなた、ドラゴンですよね」
黒い子竜は答えなかった。
当たり前だ。
代わりに弱々しく身じろぎし、また小さく鳴いた。
片方の翼に傷がある。
鱗の隙間から血も滲んでいた。
しかも腹が空いているのか、ミオの腰に下げた保存食の袋へ視線を向けている。
「いやいやいや、待ってください。竜って魔物ですよね。しかも私、たった今、人間の国から追放されたばかりなんです。ここで魔物を拾うほど人生に余裕ありませんからね」
子竜は、じっとミオを見た。
金色の瞳が、少しだけ細くなる。
「そんな顔をしても駄目です」
「キュゥ……」
「だから、その声も駄目ですって」
ミオは頭を抱えた。
そして数秒後。
「……一晩だけですからね」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。
黒い子竜を抱き上げる。
驚くほど冷たかった。
「うわ、冷たい。あなた、これ本当に危ないじゃないですか。もう少し早く鳴いてくださいよ。私が通り過ぎたらどうするつもりだったんですか」
文句を言いながら、自分の外套の中へ入れる。
子竜は抵抗しなかった。
それどころか、ミオの胸元へ顔を埋めるように丸くなった。
「……かわいい」
思わず漏れた。
すぐに咳払いする。
「いえ、今のは聞かなかったことにしてください。魔物をかわいいと思ったなんて王国の神官に知られたら、追放されたあとでも説教されそうですから」
当然、子竜は何も答えない。
けれど外套の中で、小さな尾が一度だけミオの腕へ巻きついた。
雪はますます強くなっていた。
追放された聖女ミオはまだ知らなかった。
このとき拾った小さな黒竜が、人間たちから「血塗れの竜王」と恐れられ、二百年間誰にも心を許さなかった魔物大陸の王であることを。
そして、腹を空かせた彼のためにこれから作る一杯のスープが、自分の人生だけではなく、この世界そのものの運命を変えることになるなど、そのときのミオには知る由もなかった。
第112話 店を一日まるごと任せたら、私の知らない新メニューが増えていました『ミオの食卓』を一日まるごと店員たちへ任せることになったのは、ミオ自身が言い出したことだった。西方獣人連邦で、自分がいなくても市場の人々が話し合いを続けられる仕組みを見てきた。王都へ戻ってからも、エナたちだけで昼営業を終えられた日があった。店主が不在でも店が壊れないことは、すでに頭では分かっている。だから次は、中途半端に厨房へ顔を出したり、閉店前だけ帳簿を確認したりするのではなく、本当に朝から晩まで店へ行かない日を作ってみようと決めた。決めたのだが。「やっぱり、開店前だけ顔を出したほうがよくないですか?」朝食の席でそう言った瞬間、向かいに座っていたカエルがパンを置いた。「昨日は行かないと言った」「言いました。でも、仕込みの最終確認だけなら仕事を取り上げることにはならないでしょうし、新しい仕入れ先から届く豆の状態も気になります。あと、マルタさんのお子さんの熱は下がったとは聞いてますけど、本人が無理して出てきてないか確認したいし」「それを店へ行くと言う」「十分だけです」「昨日もその話をした」「昨日は十五分って言いました」「今日は短くしただけ」「短くしたんだから進歩でしょう?」「違うと思う」妙に真面目な顔で否定され、ミオは口を閉じた。カエルは以前なら、店へ行かせないために命令するか、もっと露骨に不機嫌になったかもしれない。今はそうではなく、ただ昨日の約束を一つずつ確認してくる。「ミオが決めたんだろう。今日は店を任せるって」「はい」「なら、任せる」「分かってます。でも、任せるのと、何も確認しないのは少し違う気がして」「エナから朝の連絡は来た」
第111話 竜王から届いた最初の手紙は、同じ城の中からでした翌朝、ミオの部屋へ届いた一通の手紙は、差出人の名前を見る前から、誰が書いたものなのか何となく分かった。理由は単純で、封筒の表に書かれた「ミオへ」という文字が、妙に大きかったからだ。王城で使われる公文書なら、宛名はもっと整然としている。ルシアンから届いた私信も、字そのものは軽快だったが、少なくとも封筒の中央に収まっていた。ところが今回のものは、書き慣れていない人が「これくらい大きく書けば間違えないだろう」と判断したらしく、封筒の半分近くを使って堂々と名前が書かれている。朝食前にそれを持ってきた侍女のリュナは、平静な顔を保とうとしていたが、口元がわずかに震えていた。「こちら、カエル陛下よりお預かりしております」「……同じ城にいるのに?」「はい」「カエル、今どこにいるんです?」「東棟の執務室で、朝の報告を受けておられます」「じゃあ、ここまで歩いても十分もかからないですよね」「おそらく」リュナはそこで一度言葉を切り、少しだけ視線を下げた。「ただ、昨夜からかなり真剣に書いておられましたので、受け取って差し上げたほうがよいかと」その言い方に、ミオは封筒とリュナを交互に見た。「昨夜から?」「私は直接見ておりませんが、執務室へ紙を追加で運んだ者が三人おります」「そんなに何を書いたんですか」「最初に用意した便箋を何度も破棄されたそうです」嫌な予感がした。長文の愛の告白が十枚くらい入っているのではないか。それなら、昨夜「どうでもいいことを書けばいい」と言った意味がほとんどない。ミオは少し緊張しながら封を切った。中には便箋が三枚入っていた。
第110話 銀狼王から届いた最初の友達の手紙には、愚痴しか書いてありませんでした地下遺跡の三度目の調査を終えてから二日後、ミオは朝から『ミオの食卓』の厨房に立っていた。正面扉の向こうに何があるのかは気になっていたし、「ここより先、名を持ち込むな」と読める可能性がある碑文についても、頭から完全に追い出せたわけではない。それでも、ザラたちの解析が進むまでは再調査を行わないと決めた以上、ミオにできることは待つことだった。以前なら、待っている時間ほど苦手なものはなかった。自分が動いていないと、何か大事なものを取りこぼしている気がしたからだ。けれど今は、煮込み鍋から立ち上る湯気を見ながら、待つことも一つの選択だと思えるようになっていた。「ミオさん、塩これくらいでいいですか?」厨房の反対側からノアに呼ばれ、ミオは小皿へ取られたスープを味見する。「うん、これで大丈夫です。ただ、今日の根菜は少し甘いから、最後に黒胡椒をほんの少し増やしてもいいかも」「分かりました」「でも全部入れる前に、一杯分だけ試してくださいね」「はい」そこへ、パン籠を運んでいたロッドが口を挟んだ。「昨日のミオさんだったら、自分で全部調整してませんでした?」「昨日っていうほど前じゃないでしょう」「最近、成長の速度が速いから」「またそれ言う」「便利なんですよ」「人を成長観察日記みたいに扱わないでください」ロッドが笑う。エナも客席側から顔を出して、「でも今日はちゃんと任せてますね」と追い打ちをかけてきた。「はいはい。褒めても何も出ませんよ」「褒めてるんじゃなく確認です」「それ、カエルと同じ言い方です」「陛下、最近よく言ってますから」
第109話 私は、怖いからこそ「今日はここまで」と言いました二度目の地下調査から四日後、ザラから「奥へ進める可能性がある」と連絡が入った。あのときミオだけに聞こえた声については、その後も研究院で解析が続けられていたが、意味のある言語として再現することはできなかった。現場へ残した簡易記録器にも、それらしい音声は記録されていない。だからといって、ミオの聞き間違いと片づけることもできず、ザラは「外部音声ではなく、魔力に対する知覚反応だった可能性が少し上がっただけ」と慎重な言い方を崩さなかった。一方、問題の石壁については、前回確認した長方形の継ぎ目が、単なる装飾ではない可能性が高まっていた。「壁そのものが扉になってる?」三度目の調査前会議で、ミオが図面を見ながら尋ねると、ザラは頷いた。「たぶん。ただし、普通の扉みたいに押したり引いたりするものではないわね。壁の端に細い魔力導線らしきものが走ってる。今はほとんど死んでるけど、完全には消えてない」「封印ですか?」アルクが答える。「封印の可能性もありますが、単なる開閉機構かもしれません。古い建築物の場合、『外から入れないようにするもの』と『普段閉じておくための仕組み』は区別して考えたほうがいいでしょう」「開けたら何か出るかもしれない扉と、倉庫の戸では全然違いますからね」「そういうことです」カエルは資料を黙って見ていたが、しばらくしてから口を開いた。「今日は開ける?」その問いに、ザラは少しだけ間を置いた。「開ける可能性はある。ただし、そこまで行って周辺測定に異常がなく、扉に明確な警告術式や封印反応がなければ、という条件つき」「誰が決める?」「私とフィア。あと、森側のセフィアが反対したら中止」「ミオは?」カエルの視線がこちらへ向く。ミオは少しだけ考