LOGIN春から夏へ、季節が移る頃。茜は出産を迎えた。胎児の向きが悪く、自然分娩は難しかった。それでも江藤家は、自然分娩で産んでこそ子どもは幸せになり、嫁ぎ先の商売も栄えるのだと言い張った。茜の母は、商売をしている修吾なら、そうした縁起を気にするはずだと頑なに信じていた。自然分娩で無事に産めさえすれば、修吾も結婚を先延ばしにはしない。そう思い込んでいた。茜の母は、とうとう拝み屋まで呼んできて、茜にお祓いを受けさせた。そんな迷信じみたことに効果があるのか、私にはわからない。ただ、祈祷師が鈴を振るたび、頭に異様な痛みが走った。祈祷師は、茜に穢れたものが取り憑いているせいで難産になったのだと言った。誓って言うけれど、私は一度だって茜に悪意を抱いたことなんてない。それなのに、どうして私が罰を受けるの?私はその場に崩れ落ち、身を引き裂かれるような痛みに耐えた。少し離れたところで、修吾は煙草を吸っていた。何も言わない。上着の裾をつかみ、やめさせてと頼みたかった。けれど私の指はすり抜け、声も届かない。私がいちばん弱っていたそのとき、私が贈った古いブレスレットが、修吾の手首で切れた。水晶の珠が乾いた音を立て、床一面に散らばった。修吾は呆然とそれを見つめていた。だが、突然立ち上がると警察に通報した。危険な祈祷をしている詐欺まがいの男だと訴えると、駆けつけた警察が祈祷師を連れていった。結局、茜は帝王切開を選び、母子ともにどうにか一命を取り留めた。だが大量出血が続き、輸血が必要になった。修吾は茜の年老いた両親を見て、ため息をつくと立ち上がった。「僕も茜と同じA型です。僕の血が使えるか、まず検査してください」看護師はほっとしたように息をついた。だが次の瞬間、何かに気づいて足を止めた。「A型とおっしゃいましたか?赤ちゃんの実のお父様ですか?」修吾は質問の意図がわからない様子だったが、それでもうなずいた。看護師が何か言いかけると、そばにいた別の看護師が腕を引いた。「では、まず検査をお願いします。ご協力ありがとうございます」私はようやく身体を起こした。ふたりのやり取りを聞いていると、どこか引っかかった。私はこっそり、看護師たちのあとを追った。修吾が近くにいるおかげで、私はその周囲ならある程度自由に動ける。
茜と修吾の言い争いは、もう二人の問題だ。母は眉をひそめ、家政婦に二人を送り出すよう頼んだ。母は私のアルバムを手放そうとせず、ぎゅっと抱えていた。目元は赤かったけれど、その表情には、どこか肩の荷が下りたような安堵もにじんでいた。私は思わず微笑んだ。(お母さん。もう、新しい人生を始めていいんだよ)そよ風が私の髪を揺らし、幼い頃に作った風鈴を鳴らした。まさか母が、この風鈴までここへ持ってきていたなんて。母はぼんやりと風鈴を見つめた。「陽菜?陽菜?ここにいるの?」私は必死で風鈴を揺らそうとし、息を吹きかけた。ここにいると伝えたかった。でも、風鈴はぴくりとも動かなかった。代わりに、さっきの風がまた部屋へ吹き込んだ。風鈴がもう一度、涼やかな音を立てた。母は笑った。笑いながら、泣いていた。「陽菜、心配しないで。お母さんはちゃんと元気にしてる。ただ、少しだけあなたに会いたいの。あなたもどうか元気でいてね。生まれ変わっても、また家族になろうね」私はうなずき、背を向けた。私に残った最後の未練は、やはり修吾に関わるものらしい。魂は彼の行く先に引かれ、自由には動けなかった。私は修吾について車に乗り、後部座席に座った。やがて、修吾と茜の果てしない言い争いが始まった。「茜!あの頃、君に言ったはずだ。僕は君を好きじゃない。それでも君がしつこくつきまとってきたんだろう!海外まで追ってきた君が、酔っていた僕に陽菜のふりをして近づき、関係を持った。あんなふうに騙されなければ、君の思いどおりになどならなかった!必要な金は渡す。だから、もう僕につきまとわないでくれないか?」それでも茜は引き下がらなかった。「修吾、私だって陽菜と同じ頃にあなたと出会ったのよ!陽菜があなたを好きになるのはよくて、どうして私は駄目なの?陽菜が持っていたものなら、私だって全部持ってる。それどころか、水瀬家の会社はもう売られたけど、私の両親の会社はまだ残ってる。私のほうがお金もあるし、あなたの力にもなれる!それなのに、どうしていつまでも陽菜にこだわるの?」修吾はハンドルを握りしめた。車はまだ動き出していない。怒りに任せ、車内を強く蹴った。「茜。君は目的のためなら手段を選ばない。だから僕は君が嫌いなんだ。陽菜と結婚する前から、君は彼
母は怒りをにじませて茜を見据え、ついに私がずっと胸にしまっていた問いを代わりにぶつけた。「それなら、あなたはどうなの?うちの陽菜が修吾さんと結婚したあとも、何度も二人の仲に割り込もうとしていたんじゃない?」茜は一瞬言葉に詰まったが、すぐに言い返した。「私と陽菜は、同じ頃に修吾と出会ったの。私だって修吾を好きになる権利はあったでしょ。最後に誰が選ばれるかなんて、最初から分かるわけないじゃない」あまりに恥知らずな言い分に、母は怒りを通り越して笑った。私も同じだった。茜と修吾が陰で連絡を取り合っていたことには、薄々気づいていた。それでも、私は茜を親友だと思っていた。だから二人のやり取りに下心があるのではないかと疑ったことなど、一度もなかった。茜を悲しませたくなくて、病気になってからは私のほうから連絡を絶った。茜が修吾と一緒に海外へ渡るのを見て、私はむしろほっとしていた。まさか、こんな人だったなんて。母はもう茜を相手にせず、修吾へ向き直ると、古びた名刺を一枚差し出した。名刺に記された名前と電話番号は、私と一緒に「浮気」を演じた相手役のものだった。私はちゃんとした芸能事務所を通して、彼に芝居を頼んだ。プロとして仕事を請け負う、身元の確かな人だった。察しのいい修吾は、名刺に書かれた内容を見ただけですべてを悟ったようだった。「どうしてだ。どうして陽菜は僕に隠したんだ?本当のことを話してくれていたら、絶対に見捨てたりしなかった!」それまでこらえていた涙が、修吾の頬を次々と伝った。母は修吾をひと目見ただけだった。その嘆きに心を動かされた様子はない。「あなたのお母さんよ。修吾さんの足を引っ張るなと言って、陽菜に離婚を迫ったの。でなければ、今のあなたはなかったでしょうね。今のあなたを、何とお呼びすればいいのかしら。加賀谷社長、とでも?」修吾は唇を開いては閉じた。言葉がひとつも出てこない。長い沈黙の末に、やっと一言だけ絞り出した。「違う……母さんが、そんなことを……」その言葉に力はなく、声は次第に小さくなっていった。茜は名刺を見つめながら、どうしてもこれが事実だと信じようとしなかった。「おばさん。そんな古びた名刺を一枚持ち出して、あのときのことは嘘だったなんて言えば、ごまかせると思ってる
修吾は目を見開き、母を見つめた。「どういう意味ですか?」茜は信じられない様子だった。修吾とほぼ同じ時期に海外へ留学してから、私とは連絡を断っていた。茜にしてみれば、私はきっと幸せに暮らしているはずだったのだろう。「おばさん、陽菜が修吾を裏切ったことなんて、大学の同級生なら誰だって知っています。陽菜をかばいたいからって、そんな大げさな作り話をしなくてもいいじゃないですか」母は茜に目をやった。冷え切った視線だった。修吾はなおも茜をかばおうとしたが、もう言葉にする勇気はなかった。修吾は、不吉な予感が当たったような顔をした。それでも、なお信じまいとしていた。修吾の指先は震えていた。母を起こそうと手を伸ばしたが、母はまた容赦なくその手を払いのけた。真実を口にした瞬間、母は一気に老け込んだように見えた。私との約束を守りたい。でも、私の無念を思えば黙ってもいられない。母は目の前の二人を見つめていた。それまで気丈に振る舞っていたその顔に、ふと途方に暮れたような色が浮かんだ。私が死んだと認めることは、母にとって、自分で傷口をえぐり直すことにほかならなかった。できることなら、誰よりも私との約束を守りたかったはずだ。私がまだそばにいて、ただ遊ぶのが好きで家に帰りたがらないだけなのだと、そう思っていたかった。せめて、そんな希望くらい抱いていたかったよね。母は長いこと口を閉ざしていた。やがて家政婦が駆けつけ、母を支え起こしながら、かかりつけ医に電話をかけた。修吾は青ざめた顔で、呆然とあとについていった。そのままおとなしく、かかりつけ医が来て診察を終えるまで待ち続けた。茜も、もう何も言えなかった。けれど、その表情には、悔しさと恨みがにじんでいた。茜。昔の私は、いいものが手に入るたび、必ずあなたにも分けてあげた。なのに、あなたは私にこんな仕打ちをするの?かかりつけ医の説明を聞きながら、修吾は言われたことを一つずつ書き留めた。ただ、その手は震えていた。すべてを知る時が迫っている。その緊張感に押し潰されまいとするように、修吾は必死で平静を装っていた。かかりつけ医が帰ると、修吾はついに堪えきれなくなった。「お義母さん、すみません。でも、陽菜がいったいどこへ行ったのか、教えてください」修吾は母
電話の相手は、舌打ちをしてから通話を切った。胸の内で轟音が響き、何かが一気に崩れ落ちたようだった。そういうことだったんだ。そうだよね。修吾はもう私に未練がないと示さなければ、茜を安心させられない。唇をゆがめ、私はその場にしゃがみ込んだ。ふいに、雨が降ってきたような気がした。雫がぽつり、ぽつりと地面へ落ちる。顔を上げて、ようやく気づいた。修吾が涙をぬぐっていた。その声は、ひどく押し殺されていた。「陽菜、いったいどこに隠れてるんだ?ずっと捜してたんだぞ」とっさに立ち上がり、涙をぬぐおうとした。けれど、またしても自分がただの魂にすぎないと思い知らされた。私ならここにいるよ。そこまで必死に私を捜して、この結婚式にはどうしても私が必要なの?ため息をついた。母の住所を知った修吾は、迷うことなく車を走らせた。私も諦めて助手席に座った。昔、彼が車で実家まで送ってくれたときのように。あの頃の車は、今ほど高級でも大きくもなかった。それでも、当時の修吾が私のために精いっぱい背伸びして買ってくれた車だった。修吾は毎日のように言っていた。「陽菜、僕がもっと稼いで、もっといい暮らしをさせてあげるからな!いつかもっといい車を買って、陽菜には今よりずっと快適に乗ってもらうからな」私はいつも、わざと口答えした。「いい車で思いきり走りたいのは、修吾のほうでしょ!」すると彼は、へへっと笑う。「だって、奥様専属の運転手役を思う存分楽しみたいからね」その頃を思い出しながら、私は彼の耳元でそっと囁いた。(修吾、本当にもっといい車に乗れるようになったんだね。嬉しいよ)修吾がふいに耳を触ったので、私はびくっとして、慌てて座席に戻った。やがて修吾は母の家へ着いた。そこには、真新しい一軒家が建っていた。思い出の詰まった場所にいるのがつらくて、母はここを選んで引っ越したのだ。思い出したくないと口では言っても、母の涙が止まることはなかった。目の縁がちくちくと痛んだ。母もずいぶん痩せていた。目元からはかつての穏やかさが消え、表情も険しくなっていた。インターホンの映像に修吾が映ると、母は頑として会おうとしなかった。それでも修吾は帰ろうとしない。どうやら最初から、長期戦のつもりだったらしい。修吾はテン
茜は妊娠していた。ふくらんだお腹を見つめていると、身体の芯が冷えていくようだった。修吾が幸せな家庭を築いたという現実なら、ちゃんと受け入れられると思っていた。でも、その相手が茜だということだけは、どうしても受け入れられなかった。しかも茜は、ありもしない話まででっち上げていた。私は恨めしい気持ちで修吾のあとについて回った。まさか、信じたんじゃないでしょうね?(修吾!少しは頭を働かせてよ!私がそんなことするわけないでしょう?)修吾には私の焦りなど聞こえない。仕事がひと段落すると、彼は高級SUVを走らせ、私が昔暮らしていた家へ向かった。その家は、とうに誰も住まなくなっていた。母は私の死と向き合えず、かといって貸し出す気にもなれず、ずっと空き家のままにしていた。室内には埃が分厚く積もっている。修吾は古びた玄関の前に立ち、途方に暮れた子供のようだった。人が通るたびに呼び止めては尋ねた。「すみません、水瀬陽菜(みなせ ひな)を知りませんか?以前ここに住んでいたんです」「さあねえ。年を取ると物忘れがひどくてね。この家なら、ずっと前から誰も住んでいないんじゃないかい」何人にも聞いて回ったが、誰も覚えていないと言った。もう5年だ。わざわざ私のことを覚えている人なんていない。まして、今このマンションに住んでいるのは年配の人ばかりだ。手がかりを失った修吾は、管理会社を訪ね、母の今の電話番号が分からないか聞くしかなかった。前の番号はとっくにつながらなくなっていた。電話番号を手に入れた修吾が、宝物でも見つけたような顔をするものだから、思わず吹き出してしまった。修吾、やっぱり私のことが気になってるんじゃない。茜の前ではあんな強がりを言ってたくせに。修吾は電話を強く握りしめ、ひどく緊張していた。やがて通話がつながると――「お義母さ……おばさん、ご無沙汰しています。覚えていらっしゃいますか?加賀谷修吾です。陽菜に直接会って、話したいことがあるんです……」受話器の向こうで、母は長いこと黙っていた。聞いている私まで緊張してくる。私と母は、絶対に口を滑らせないと約束していた。予想どおり、母は彼を拒んだ。「陽菜は今、幸せに暮らしています。もうあの子に関わらないでください」そう言うと、母は修吾の返事も待た