Mag-log in俺――瀬川理人(せがわ りひと)は、裏社会を仕切る久世美月(くぜ みづき)が、自分の想い人を守るために選んだ身代わりだった。 結婚して3年目、俺は8度目となる美月の敵対者による拉致を受けた。 美月は部下を連れて助けに来たが、交渉が始まって5分もしないうちに、彼女の想い人の相沢航(あいざわ わたる)から電話がかかってきた。 「美月さん、罰ゲームで、ここにいる女の人とキスしなきゃいけなくなったんだ。でも、初めてのキスは美月さんにあげたい。こっちに来てくれない?」 美月がためらいもなく立ち去った瞬間、刃物が俺の腹部に突き刺さり、血が噴き出した。 彼女の部下は、これまでの7回と同じように金で話をつけ、俺を病院へ運んだ。 救急車の中では、航が一人前になる日まで俺が生きていられるか、誰かが面白半分に賭けていた。 皆がどっと笑うなか、泣いていたのは俺だけだった。 裏社会の女帝を救うという任務は失敗し、俺は間もなくシステムに消去される。 美月、俺はその日まで生きられない。
view more美月は、俺がまた離れていくことを恐れるように、息もつかず言葉を続けた。かつての冷酷さを失ったその目を見つめ、俺は困惑しながら尋ねた。「俺を愛していなかっただろう。嫌っていたし、死ねばいいと思っていた。それなのに、どうして帰ってほしいんだ?航がまた危険な目に遭って、代わりに傷つく人間が必要になったのか?」俺の問いに、美月は苦しげに顔をゆがめた。「違う……理人がいなくなってから、すべて航が仕組んでいたと知ったの。私は毎回、すぐに助けに行くよう部下へ命じていた。でも航は、理人を死なせるため、わざと2時間遅れさせていた……でも、もう安心して。航は始末した。二度とあなたを傷つけることはない!」かつて美月が航へ注いでいた愛情を思い出し、笑いが込み上げそうになった。彼女にとって愛とは、これほど簡単に切り捨てられるものだったのか。「美月、俺を愛してるのか?」「理人、愛してる。気づくのが遅すぎた……お願い。もう一度だけ機会をちょうだい。一緒に帰って、償わせて。理人なしでは生きられない……私を愛しているなんて知らなかった。知っていれば、もっと早く自分の気持ちに気づけたかもしれない……」俺は静かに笑った。「確かに、昔は君を愛していた。航の身代わりになることを受け入れるほど愛していた。任務を果たしても、あの世界を離れず、一生そばにいたいと思ったこともある。でも、君はその愛を踏みにじり、俺を殺した。だから、俺は君を憎んでる」月明かりの下、美月の目が赤く潤み、言葉とともに涙がこぼれ落ちた。「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」俺は立ち上がり、後悔に沈むその顔を見下ろした。「美月。結婚していた3年間、俺は航の身代わりとして、十数回は刃物で傷つけられた。全身に無傷の場所など残っていない。君が、存在しない祖母のために払った治療費は、それで十分返したはずだ。君の謝罪を受け入れるつもりはない。もう、新しい生活を邪魔しないでくれ。これ以上つきまとうなら、一生憎む」真奈が駆け寄ってきた。「奏太、まだ終わらないの?」「もう終わった」真奈の手を引き、その場を離れた。十数メートル歩いたところで振り返ると、美月はまだ同じ場所に立ち、こちらを見つめていた。さらに少し歩いたところで、その姿は消えた。システムが言った。「彼
「ですが、あの世界を選んだのは私です。埋め合わせをさせてください」システムは少し間を置いてから続けた。「あなたが消去されたあと、久世美月は正気を失いました」俺は言葉を失った。「最後の1時間で、彼女はあなたが自分を愛していたことに気づきました。その罪悪感が、記憶にかけられた制限を打ち破ったのです。誰もがあなたを忘れましたが、久世美月だけはあなたの存在を覚えています。今も世界中を捜し回っています。彼女の暴走によって、あの世界は急速に崩壊しています。あなたが戻らなければ、世界そのものが消滅します。戻りますか?」ぼんやりしていると、真奈が目の前で手を振った。「何を考えてるの?お腹がすいたから、食事に付き合って」我に返り、真奈にうなずいた。同時に、心の中で答えた。「戻らない。あの世界じゃ、誰にも優しくされたことがなかった。戻りたいと思える理由も、待っていてほしい人もいない」システムは数秒黙ったあと、笑った。「分かりました」真奈は俺を海辺へ連れ出し、海風に吹かれながら一緒にバーベキューをした。夜8時になっても浜辺には多くの人がいた。少し離れた場所で学生たちが悲しい歌を歌っていた。しばらく聞いているうちに、俺も口ずさんだ。「その歌、好きなの?」「いや、何となく歌っただけ」「てっきり、元カノと別れたときに歌っていたのかと思った。ずいぶん慣れてるから」真奈は何でもないことのように言ったが、その指はひどく震えていた。俺は笑った。「元カノはいない」「本当?」真奈は見るからに嬉しそうな顔をした。「だったら、私が……」「理人!」突然、聞き覚えのある声が響き、全身が強ばった。声の主を捜す間もなく、誰かの手が俺の腕をつかんだ。「やっぱり生きていたのね!私と帰るわよ!」俺は、見違えるほど痩せ細った美月を見て、思わず息をのんだ。「どうして、ここに……」「誰よ、あんた!奏太を放して!」真奈が美月を突き放し、俺はようやく我に返った。そうだ。俺はもう理人ではない。今の俺は、青木奏太(あおき そうた)だ。「真奈さん、俺はこの人を知らない。行こう」「分かった。行こう」歩き出してすぐ、美月が真奈に殴りかかり、その拳が額を捉えた。「私の夫に触らないで!」真
美月は荒い息を繰り返した。この3年間、理人が拉致されるたび、確かに自分は真っ先に駆けつけていた。だが、そのたびに航のために立ち去っていた。理人は8度も、助けが来ない2時間を耐え抜いた。そのたびに、どれほど傷つき、どれほど失望したのだろう。「美月さん、本当に悪かった。俺を見捨てないでくれ。こんなことをしたのは本当に初めてだ。今まで誰も傷つけたことなんてない……」航は取り乱して美月の脚にしがみつき、涙ながらに許しを乞うた。だが、美月の脳裏に浮かんだのは、頑なな態度の奥に諦めをにじませていた理人の顔だった。結婚したばかりのころ、理人はよく笑っていた。目にも光があった。料理を作り、その日にあったことを話し、一緒に本を読もうと美月を誘ってきた。だが、美月の心には航しかいなかった。何度も「私の時間を無駄にしないで」と理人を責め、冷たく突き放した。「あんたは航の身代わりにすぎない。私まで手に入ると思わないで」いつから、理人は料理を作らなくなったのだろう。おそらく、初めて拉致されたときだ。美月が現れるまで必死に耐え続けたのに、航から電話が来た途端、目の前で立ち去られた。あれ以来、理人は笑わなくなった。瞳に宿っていた光も、二度と戻らなかった。「あるわ」美月はかすれた声で言った。「あんたは理人を死なせた」航は涙に濡れた顔を上げた。「誰?俺、そんな人は知らない……」美月の目から、次第に焦点が失われていった。長い沈黙の末、自分の頬を強く叩いた。「私よ。あの人を死なせたのは、私」航がなおも泣きすがるなか、美月は電話をかけながら外へ向かった。「何人か来て。航を始末して。残りは全員、ある男を捜しに行って。瀬川理人。写真は……ない。とにかく捜して!」それからわずか数日で、あの世界は何もかもが狂ったように混乱していった。一方、俺のいる世界では、何もかもが順調だった。この世界で目を覚ましたとき、システムは何度も俺へ謝った。「前の世界はあまりに血なまぐさすぎました。任務に失敗したのは、あなたのせいではありません。今回の任務は簡単です。悪役が道を踏み外さないよう導けば、成功となります」システムが言う任務とは、悪役の教師になることだと思っていた。ところが実際に任されたのは、悪役の家で家
美月は激しく動揺し、次の瞬間、その場から駆け出した。スマホからは、理人に関する情報がすべて消えていた。電話番号も、すでに使われていなかった。婚姻届受理証明書も、あの写真も消えていた。まるで初めから存在しなかったかのように。最後に理人を見た場所の周辺にある防犯カメラを調べたが、映像に二人の姿は一度も映っていなかった。以前、理人を拉致したことのある敵を問いただしても、誰一人としてその名を聞いたことがないと言った。美月は取りつかれたように、思い当たる場所を片っ端から回った。以前なら決して近づかなかった警察署にまで足を運んだが、返ってくる答えはどこでも同じだった。「瀬川理人?聞いたことがありません」「申し訳ありませんが、戸籍にもその名は登録されていません」一昼夜捜し続けた末、美月は初めて理人と会った大学の門前に座り込んだ。教務課の職員も、瀬川理人という学生は在籍したことがないと答えた。理人は、人々の記憶からもこの世からも、跡形もなく消えていた。美月だけが、理人と過ごした記憶をすべて残していた。だが、そのどれもが、理人を傷つけた記憶ばかりだった。「いったい、どういうことなの。おかしいのは私の記憶?本当に、あの人は初めから存在しなかったの……」力なく家へ戻ると、居間に見知らぬ男が座っていた。部下から電話があり、航の身代わりとして連れてきた男だと説明された。「姉貴、昨日言われてすぐ探しました。ちょうど、ある大学に条件の合う男がいたんです。大丈夫です。素直な男ですから、これからは航さんの安全を心配しなくて済みますよ」男は美月に淡い笑みを向けた。それは3年前、理人が大学前のカフェで見せた笑顔によく似ていた。あのとき、理人はこう言った。「久世さん、祖母の治療費を払ってくださり、ありがとうございます。そのお返しとして、相沢さんの身代わりになります」だが3年後の今、治療費として1億円を払ったはずの祖母の痕跡も、すべて消えていた。美月は何も言わず、心身ともに疲れ果てたまま2階へ上がった。寝室の前を通りかかったとき、航の声が聞こえた。扉越しに聞こえるその声に、いつもの朗らかさはなかった。むき出しの憎悪と悪意がにじんでいた。「一番執念深い敵を探して、その男の住所を送れ。美月さんが助けに行く前に俺へ知らせろ